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2 やさしい音、はじめての笑顔

 朝の光が、ゆっくりとレース越しに差し込んでくる。

 カーテンの影が揺れ、部屋の空気に穏やかな香りが広がった。


 私のそばには、いつも決まった人たちがいる。

 整った制服に、柔らかな手付きの侍女たち。言葉の意味はまだわからないけれど、所作や声色から、優しさが伝わってくる。


「おはようございます、シオン様」

「今朝はご機嫌ですね。ふふ……また笑っていらっしゃる」


 意味は理解できなくても、その響きだけで安心できる。

 差し出された指を、小さな手でぎゅっと握ると、あたたかな笑い声が返ってきた。

 私も、つられるように小さな音を漏らす。


「あー……ん、ふ……うぅ……」


 まだ言葉にも歌にもなれない、ほんの小さな声。

 それでも、それが誰かの笑顔を引き出すと知るだけで、心がふわりと軽くなる。



 その日、母が珍しく朝から部屋を訪れた。

 金色の髪を美しく編み上げた、優雅で温かな人――アリエッタ母様。

 普段は離れた場所で過ごしているけれど、私にとっては“光”のような存在だった。


 その腕に抱かれると、世界の音が少しだけ優しくなる。

 ゆっくりと語りかけられる声。額に触れる指先の温もり。

 それらが、柔らかな安らぎとなって胸の奥まで沁みわたった。


「シオン、いい子にしていたのね。……お兄さまから、贈り物よ」



 そっと差し出されたのは、ぬいぐるみだった。

 ふわふわで、うさぎの耳がぴょこんと立っている。

 抱きしめた瞬間、息がゆるんだ。

 やわらかくて、あたたかくて、まるで「だいじょうぶ」と語りかけてくるような安心感があった。

 布越しに伝わる温もりが、胸の奥のやわらかな部分にそっと触れてくる。


 私は、その子の顔をのぞき込んだ。

 丸い目、ふわふわの毛並み、優しげな雰囲気……見ていると、どうしても思い出す人がいた。


(……ルナちゃん)


 心の中で、自然とその名前が浮かんだ。まだ言葉もうまく話せないのに、その名だけは、なぜかすぐに出てきた。

 まるで、前の世界から一緒に来てくれたような、不思議な安心感。

 それは、かつて夢に見た“輝き”の名。今は小さな手の中で、私を包んでくれるぬくもりになっている。


(ルナちゃん……これからは、あなたがそばにいてくれるんだね)


 ぬいぐるみ――ルナちゃん――をもう一度、胸元に抱きしめた。

 そのあたたかさが、心の奥にまでしみこんでいった。


 指先が少し震える。この感覚を、どこかで知っている気がした。

 昔、病室のベッドで握っていた小さなマスコット――名前も、色も思い出せないけれど、あのときも、きっとこんなふうに落ち着いていた。


 「お兄さま」――その呼び名も、もう知っている。

 まだ会話らしい会話は交わしていないけれど、たびたび部屋に訪れては、私の頭を優しく撫でてくれた。

 静かな笑顔と、落ち着いた声と、長い指先。全部、なんとなく覚えている。


(ありがとう、って……言いたいな)


 言葉にはできない想いが、心の中で静かにふくらんでいく。

 その気持ちが溢れたとき、私は――



 その時、私は笑った。

 表情が緩んだり、喉を鳴らすように笑ったことは、これまでにもあった。

 けれど、この笑顔にははっきりとした理由があった。

 「ありがとう」を伝えたい、という気持ちが、そのまま形になった気がした。


「……今の、聞こえました?」

「笑いましたね……でも、なんだか……違います。いつもより、ずっと優しい笑顔でした」


 侍女たちの穏やかな声が耳に届く。

 母がそっと私を抱き寄せて、頬にやさしく唇を寄せた。


「ありがとう、シオン。あなたの笑顔は……とても素敵よ」


 その言葉に、心の奥がじんわりと熱を帯びた。

 これはきっと、前の世界でも、こんな風に人と心が通い合う瞬間があったはず――

 そんな記憶の欠片が、淡く滲む。



 日が落ち、部屋に灯されたランプの明かりが、天蓋のカーテン越しにやわらかく揺れている。

 赤ん坊の私には、まだ昼と夜の区別は曖昧で、でもなんとなく、この時間帯の音は静かで落ち着いていて好きだった。


 扉がそっと開く音がして、誰かが入ってくる足音がする。

 それは、聞き慣れた重みのある足取り。侍女でもなく、母でもなく、もうひとつ、どこか違う音。


 兄――リートだった。


 彼は決まって、私が眠りにつく少し前にやってくる。

 何も言わず、ただ私のそばに座り、少しだけ離れた位置から、静かにこちらを見つめてくれる。


 最初は誰なのかわからなかった。でも、毎晩のように通ってくるうちに、私は彼の気配を覚えた。


(……お兄さま)


 その存在は、まるで“月”のようだった。

 母が“太陽”なら、兄は静かに寄り添ってくれる“月”。

 声を荒らげることはなく、優しく、それでいてどこか寂しげな背中。


 彼はたいてい、本を持っていた。

 読み聞かせるでもなく、自分のために開いている本。

 でも、ページをめくる音が、私には子守唄のように聞こえていた。


 時折、彼の視線がこちらに向く。

 そして、小さく微笑むのだ。

 その笑顔が――なぜか少しだけ切なくて、それでもあたたかくて、私は自然と手を伸ばしていた。


「……シオン」


 その夜、初めて彼が言葉にした。

 私の名前を、そっと呼んだ。


 意味はわからなかったけれど、胸の奥がじんと熱くなった。

 声の響きが、波紋のように広がって、私の小さな世界をやさしく包んだ。


(……だいすき)


 まだ口にできない想い。

 けれど、彼が帰ろうと立ち上がるたびに、私はそれを伝えたくなって、両手を伸ばしていた。


 小さな手が、彼の指に触れると、その温度が心まで伝わってくる気がした。



 ぬいぐるみ――ルナちゃん――は、今日も私のそばにいた。

 兄がくれたその贈り物は、今や私の一部のようだった。


 ぎゅっと抱きしめるたびに、あの時の気持ちがよみがえる。

 胸の奥のやわらかい部分が、じんわりと温かくなる。


(……ありがとう、お兄さま)


 言葉にならない思いを、私はぬいぐるみに託していた。

 ルナちゃんを抱きしめることが、兄への“ありがとう”になると、どこかで信じていた。



 ある夜、ふと目を開けると、兄がまだ部屋にいた。

 彼は椅子にもたれ、居眠りしていた。

 本は開かれたままで、ページの端がかすかに揺れている。


 私は、そっと手を伸ばした。

 指が触れたのは、兄の袖口。


 その瞬間、彼のまぶたがわずかに動いた。


「……起こしてしまったか?」


 彼の声は低くて、でもどこまでもやさしい。

 私は、ほんの小さく、音にならない声を漏らした。


 「あ……」


 その小さな音に、兄は微笑んだ。


「……あいさつか? それとも……何か、話したいのか?」


 私はわからないなりに、また「あ……」と返した。


 それだけで、兄は「ふ」と笑った。

 その笑顔を見て、私の胸はふわっと温かくなった。


(きっと、通じたんだ)


 ほんの少しでも。

 この気持ちが、ちゃんと兄に届いた気がした。



 眠りにつく前、私はそっと目を閉じた。

 ぬいぐるみを胸に抱き、今日という一日を、静かに思い返す。


 母のぬくもり。

 侍女たちのやさしい声。

 そして、兄の静かなまなざし。


 ――それから、もうひとつ。


 まだうまく認識できていないけれど、私には「お姉さま」もいるらしい。

 侍女がそっと囁いてくれた名前――リリカ。

 ふわふわとした長い髪、ほんの少し高めの声。

 私のそばに座って、そっと手を添えてくれた日もあったような……そんな記憶のかけらが、淡く胸に残っている。


(……お姉さま……)


 まだ言葉を交わしたことはないけれど、私を見つめるその瞳が、とてもやさしかったことだけは覚えている。

 あのとき、そっと微笑んでくれた顔が、なぜか懐かしくて――とても、好きだと思った。


 私の世界は、まだとても小さい。

 けれど、その小さな世界の中に、少しずつあたたかな光が増えていく。

 母の光。兄の光。そして、お姉さまの光も、きっとその一つになるのだろう。


(わたしは、しあわせだ)


 言葉も歩く力もまだないけれど、それでも胸いっぱいに満ちているものがある。


 それはきっと、“ありがとう”と“だいすき”の気持ち。

 まだ誰にも伝えられないけれど、いつかきっと、ちゃんと届けたい。


 そう願いながら、私は静かに、まどろみの中へと沈んでいった。



 次の日の朝、私は少しだけ早く目を覚ました。

 窓の外はまだ青く、鳥のさえずりがかすかに聞こえている。

 部屋の中は静かで、私とぬいぐるみ――ルナちゃん――だけが、そっと息をしていた。


 手を伸ばして、耳を撫でる。ふわふわの感触が、指先に伝わる。

 このやわらかな時間が、私はとても好きだった。


 やがて、扉が小さく開いた。


「おはようございます、シオン様。……まぁ、もう起きていらっしゃったのですね」


 やってきたのは、いつもの侍女の一人。落ち着いた動作で窓辺のカーテンを引き、室内に朝の光を導き入れてくれる。

 差し込む光がルナちゃんの毛並みにきらりと映えて、まるでそのぬいぐるみが微笑んだように見えた。


 私は、思わずくすりと笑った。


「……ふふ、今日はいつにも増してご機嫌ですね」


 笑顔を向けてくれるその声に、私の胸も自然とあたたかくなる。

 この世界には、たくさんの音がある。人の声、風の音、カーテンの揺れるさざめき、ぬいぐるみを抱きしめたときの心の鼓動――


 けれど、そのひとつひとつが、私にとっては“はじめて”で、“やさしい音”だった。



 その日の昼下がり、久しぶりに父のクラヴィスが部屋を訪れた。

 彼は常に凛としていて、仕事に追われる毎日を送っているけれど、私の様子を気にかけているのがわかる。

 ただ、どこか不器用で、どう接すればいいのか悩んでいるような、そんな雰囲気を持っていた。


「……シオン。調子はどうだ」


 言葉はぶっきらぼうだったけれど、その声の奥には、静かなやさしさがあった。


 私は、ぬいぐるみをぎゅっと抱いて、じっと彼を見上げた。

 父の手が、少しだけ躊躇いがちに私の頭へと伸びる。

 その大きくて硬い手が、そっと髪を撫でると、胸の奥がじんと熱くなった。


「……そうか。元気そうで、なによりだ」


 それだけ言って、彼は少し照れたように視線を逸らした。


 私は小さく「あ……」と声を漏らす。

 それが精一杯の、私なりの“ありがとう”だった。


 彼はその声に目を細め、ほんの少しだけ――本当にわずかに、笑った。



 夜がくると、私は決まってルナちゃんを胸に抱き、天蓋越しの星を眺める。


 誰かが優しく語りかけてくれるような気がする。

 兄の静かな視線。母の温もり。父の大きな手。侍女たちのやさしいささやき。


 ――たくさんの音に包まれて、私は生きている。


 まだ言葉は話せない。

 歌も、歩くことも、何ひとつうまくできない。

 けれど、それでも。


 この胸に宿る思いだけは、確かにある。


(いつか、この声が“うた”になったら……)


 そんな小さな願いが、夜空へと浮かんでいった。


◇ ◇ ◇


 こうして私は、やさしい音に囲まれながら、少しずつ世界を知っていった。


 まだ何者でもない、ことばを持たない“私”。

 でも、笑ってくれる人がいて、名前を呼んでくれる人がいて、そばに寄り添ってくれる温もりがある。


 それだけで、今はじゅうぶんだった。


 いつか――この胸の奥で響いているこの気持ちを、“歌”にできる日がくるなら。


 そのときこそ、本当の「私」として、生きていける気がするから。

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