朝の光が、ゆっくりとレース越しに差し込んでくる。
カーテンの影が揺れ、部屋の空気に穏やかな香りが広がった。
私のそばには、いつも決まった人たちがいる。
整った制服に、柔らかな手付きの侍女たち。言葉の意味はまだわからないけれど、所作や声色から、優しさが伝わってくる。
「おはようございます、シオン様」
「今朝はご機嫌ですね。ふふ……また笑っていらっしゃる」
意味は理解できなくても、その響きだけで安心できる。
差し出された指を、小さな手でぎゅっと握ると、あたたかな笑い声が返ってきた。
私も、つられるように小さな音を漏らす。
「あー……ん、ふ……うぅ……」
まだ言葉にも歌にもなれない、ほんの小さな声。
それでも、それが誰かの笑顔を引き出すと知るだけで、心がふわりと軽くなる。
◇
その日、母が珍しく朝から部屋を訪れた。
金色の髪を美しく編み上げた、優雅で温かな人――アリエッタ母様。
普段は離れた場所で過ごしているけれど、私にとっては“光”のような存在だった。
その腕に抱かれると、世界の音が少しだけ優しくなる。
ゆっくりと語りかけられる声。額に触れる指先の温もり。
それらが、柔らかな安らぎとなって胸の奥まで沁みわたった。
「シオン、いい子にしていたのね。……お兄さまから、贈り物よ」
◇
そっと差し出されたのは、ぬいぐるみだった。
ふわふわで、うさぎの耳がぴょこんと立っている。
抱きしめた瞬間、息がゆるんだ。
やわらかくて、あたたかくて、まるで「だいじょうぶ」と語りかけてくるような安心感があった。
布越しに伝わる温もりが、胸の奥のやわらかな部分にそっと触れてくる。
私は、その子の顔をのぞき込んだ。
丸い目、ふわふわの毛並み、優しげな雰囲気……見ていると、どうしても思い出す人がいた。
(……ルナちゃん)
心の中で、自然とその名前が浮かんだ。まだ言葉もうまく話せないのに、その名だけは、なぜかすぐに出てきた。
まるで、前の世界から一緒に来てくれたような、不思議な安心感。
それは、かつて夢に見た“輝き”の名。今は小さな手の中で、私を包んでくれるぬくもりになっている。
(ルナちゃん……これからは、あなたがそばにいてくれるんだね)
ぬいぐるみ――ルナちゃん――をもう一度、胸元に抱きしめた。
そのあたたかさが、心の奥にまでしみこんでいった。
指先が少し震える。この感覚を、どこかで知っている気がした。
昔、病室のベッドで握っていた小さなマスコット――名前も、色も思い出せないけれど、あのときも、きっとこんなふうに落ち着いていた。
「お兄さま」――その呼び名も、もう知っている。
まだ会話らしい会話は交わしていないけれど、たびたび部屋に訪れては、私の頭を優しく撫でてくれた。
静かな笑顔と、落ち着いた声と、長い指先。全部、なんとなく覚えている。
(ありがとう、って……言いたいな)
言葉にはできない想いが、心の中で静かにふくらんでいく。
その気持ちが溢れたとき、私は――
◇
その時、私は笑った。
表情が緩んだり、喉を鳴らすように笑ったことは、これまでにもあった。
けれど、この笑顔にははっきりとした理由があった。
「ありがとう」を伝えたい、という気持ちが、そのまま形になった気がした。
「……今の、聞こえました?」
「笑いましたね……でも、なんだか……違います。いつもより、ずっと優しい笑顔でした」
侍女たちの穏やかな声が耳に届く。
母がそっと私を抱き寄せて、頬にやさしく唇を寄せた。
「ありがとう、シオン。あなたの笑顔は……とても素敵よ」
その言葉に、心の奥がじんわりと熱を帯びた。
これはきっと、前の世界でも、こんな風に人と心が通い合う瞬間があったはず――
そんな記憶の欠片が、淡く滲む。
◇
日が落ち、部屋に灯されたランプの明かりが、天蓋のカーテン越しにやわらかく揺れている。
赤ん坊の私には、まだ昼と夜の区別は曖昧で、でもなんとなく、この時間帯の音は静かで落ち着いていて好きだった。
扉がそっと開く音がして、誰かが入ってくる足音がする。
それは、聞き慣れた重みのある足取り。侍女でもなく、母でもなく、もうひとつ、どこか違う音。
兄――リートだった。
彼は決まって、私が眠りにつく少し前にやってくる。
何も言わず、ただ私のそばに座り、少しだけ離れた位置から、静かにこちらを見つめてくれる。
最初は誰なのかわからなかった。でも、毎晩のように通ってくるうちに、私は彼の気配を覚えた。
(……お兄さま)
その存在は、まるで“月”のようだった。
母が“太陽”なら、兄は静かに寄り添ってくれる“月”。
声を荒らげることはなく、優しく、それでいてどこか寂しげな背中。
彼はたいてい、本を持っていた。
読み聞かせるでもなく、自分のために開いている本。
でも、ページをめくる音が、私には子守唄のように聞こえていた。
時折、彼の視線がこちらに向く。
そして、小さく微笑むのだ。
その笑顔が――なぜか少しだけ切なくて、それでもあたたかくて、私は自然と手を伸ばしていた。
「……シオン」
その夜、初めて彼が言葉にした。
私の名前を、そっと呼んだ。
意味はわからなかったけれど、胸の奥がじんと熱くなった。
声の響きが、波紋のように広がって、私の小さな世界をやさしく包んだ。
(……だいすき)
まだ口にできない想い。
けれど、彼が帰ろうと立ち上がるたびに、私はそれを伝えたくなって、両手を伸ばしていた。
小さな手が、彼の指に触れると、その温度が心まで伝わってくる気がした。
◇
ぬいぐるみ――ルナちゃん――は、今日も私のそばにいた。
兄がくれたその贈り物は、今や私の一部のようだった。
ぎゅっと抱きしめるたびに、あの時の気持ちがよみがえる。
胸の奥のやわらかい部分が、じんわりと温かくなる。
(……ありがとう、お兄さま)
言葉にならない思いを、私はぬいぐるみに託していた。
ルナちゃんを抱きしめることが、兄への“ありがとう”になると、どこかで信じていた。
◇
ある夜、ふと目を開けると、兄がまだ部屋にいた。
彼は椅子にもたれ、居眠りしていた。
本は開かれたままで、ページの端がかすかに揺れている。
私は、そっと手を伸ばした。
指が触れたのは、兄の袖口。
その瞬間、彼のまぶたがわずかに動いた。
「……起こしてしまったか?」
彼の声は低くて、でもどこまでもやさしい。
私は、ほんの小さく、音にならない声を漏らした。
「あ……」
その小さな音に、兄は微笑んだ。
「……あいさつか? それとも……何か、話したいのか?」
私はわからないなりに、また「あ……」と返した。
それだけで、兄は「ふ」と笑った。
その笑顔を見て、私の胸はふわっと温かくなった。
(きっと、通じたんだ)
ほんの少しでも。
この気持ちが、ちゃんと兄に届いた気がした。
◇
眠りにつく前、私はそっと目を閉じた。
ぬいぐるみを胸に抱き、今日という一日を、静かに思い返す。
母のぬくもり。
侍女たちのやさしい声。
そして、兄の静かなまなざし。
――それから、もうひとつ。
まだうまく認識できていないけれど、私には「お姉さま」もいるらしい。
侍女がそっと囁いてくれた名前――リリカ。
ふわふわとした長い髪、ほんの少し高めの声。
私のそばに座って、そっと手を添えてくれた日もあったような……そんな記憶のかけらが、淡く胸に残っている。
(……お姉さま……)
まだ言葉を交わしたことはないけれど、私を見つめるその瞳が、とてもやさしかったことだけは覚えている。
あのとき、そっと微笑んでくれた顔が、なぜか懐かしくて――とても、好きだと思った。
私の世界は、まだとても小さい。
けれど、その小さな世界の中に、少しずつあたたかな光が増えていく。
母の光。兄の光。そして、お姉さまの光も、きっとその一つになるのだろう。
(わたしは、しあわせだ)
言葉も歩く力もまだないけれど、それでも胸いっぱいに満ちているものがある。
それはきっと、“ありがとう”と“だいすき”の気持ち。
まだ誰にも伝えられないけれど、いつかきっと、ちゃんと届けたい。
そう願いながら、私は静かに、まどろみの中へと沈んでいった。
◇
次の日の朝、私は少しだけ早く目を覚ました。
窓の外はまだ青く、鳥のさえずりがかすかに聞こえている。
部屋の中は静かで、私とぬいぐるみ――ルナちゃん――だけが、そっと息をしていた。
手を伸ばして、耳を撫でる。ふわふわの感触が、指先に伝わる。
このやわらかな時間が、私はとても好きだった。
やがて、扉が小さく開いた。
「おはようございます、シオン様。……まぁ、もう起きていらっしゃったのですね」
やってきたのは、いつもの侍女の一人。落ち着いた動作で窓辺のカーテンを引き、室内に朝の光を導き入れてくれる。
差し込む光がルナちゃんの毛並みにきらりと映えて、まるでそのぬいぐるみが微笑んだように見えた。
私は、思わずくすりと笑った。
「……ふふ、今日はいつにも増してご機嫌ですね」
笑顔を向けてくれるその声に、私の胸も自然とあたたかくなる。
この世界には、たくさんの音がある。人の声、風の音、カーテンの揺れるさざめき、ぬいぐるみを抱きしめたときの心の鼓動――
けれど、そのひとつひとつが、私にとっては“はじめて”で、“やさしい音”だった。
◇
その日の昼下がり、久しぶりに父のクラヴィスが部屋を訪れた。
彼は常に凛としていて、仕事に追われる毎日を送っているけれど、私の様子を気にかけているのがわかる。
ただ、どこか不器用で、どう接すればいいのか悩んでいるような、そんな雰囲気を持っていた。
「……シオン。調子はどうだ」
言葉はぶっきらぼうだったけれど、その声の奥には、静かなやさしさがあった。
私は、ぬいぐるみをぎゅっと抱いて、じっと彼を見上げた。
父の手が、少しだけ躊躇いがちに私の頭へと伸びる。
その大きくて硬い手が、そっと髪を撫でると、胸の奥がじんと熱くなった。
「……そうか。元気そうで、なによりだ」
それだけ言って、彼は少し照れたように視線を逸らした。
私は小さく「あ……」と声を漏らす。
それが精一杯の、私なりの“ありがとう”だった。
彼はその声に目を細め、ほんの少しだけ――本当にわずかに、笑った。
◇
夜がくると、私は決まってルナちゃんを胸に抱き、天蓋越しの星を眺める。
誰かが優しく語りかけてくれるような気がする。
兄の静かな視線。母の温もり。父の大きな手。侍女たちのやさしいささやき。
――たくさんの音に包まれて、私は生きている。
まだ言葉は話せない。
歌も、歩くことも、何ひとつうまくできない。
けれど、それでも。
この胸に宿る思いだけは、確かにある。
(いつか、この声が“うた”になったら……)
そんな小さな願いが、夜空へと浮かんでいった。
◇ ◇ ◇
こうして私は、やさしい音に囲まれながら、少しずつ世界を知っていった。
まだ何者でもない、ことばを持たない“私”。
でも、笑ってくれる人がいて、名前を呼んでくれる人がいて、そばに寄り添ってくれる温もりがある。
それだけで、今はじゅうぶんだった。
いつか――この胸の奥で響いているこの気持ちを、“歌”にできる日がくるなら。
そのときこそ、本当の「私」として、生きていける気がするから。