消え入りそうな午後の陽が、白いカーテンを透かして差し込んでいた。
天宮詩音(あまみやしおん)は、病室のベッドの上で静かに目を閉じていた。
点滴の機械が規則正しい音を刻み、隣のモニターには小さく波打つ緑の線が映し出されている。
彼女の指先には、一冊の雑誌が挟まれていた。
その表紙には、今をときめくトップアイドル「七瀬ルナ」の笑顔が大きく写っていた。
(ルナちゃん……今日も、輝いてるな……)
ページをめくる力も、もうほとんど残っていなかった。
それでも詩音は、彼女の写真を見るだけで、少しだけ呼吸が楽になる気がした。
歌う姿、踊る笑顔、まっすぐな瞳――
どれもが、自分には手が届かないもの。
でも、だからこそ、夢だった。
「いつか……わたしも……誰かを……笑顔に、できたら……」
それは、誰にも聞こえない、かすかな独り言。
彼女の胸に宿っていた夢は、幼い頃からずっと変わらなかった。
現実は厳しかった。生まれつきの心臓病で、満足に外へ出ることもできず、
ステージに立つことを夢見ていたけれど、外へ出ることすら難しくて。
マイクを握ることも、ただの憧れのまま、叶わなかった。
学校にも通えず、家族と病院だけが世界のすべてだった。
それでも、七瀬ルナの歌が、いつもそばにあった。
(ありがとう、ルナちゃん……)
目を閉じた視界に、星のように瞬く彼女の笑顔が浮かんだ。
その瞬間だった。
胸の奥に、強い痛みが走る。
呼吸が乱れ、視界が揺れた。
母の呼ぶ声が遠くで響いた気がした。
でも、もう声は出なかった。
視界の奥、光の向こうで――七瀬ルナが笑っていた。
(――ありがとう)
そして、天宮詩音の命は、静かに途切れた。
だがそれは、終わりではなかった。
(……ここは……どこ……?)
意識は、深い水底のような闇の中を漂っていた。
けれど、その先に、柔らかな光と音があった。
遠くから聴こえてくる声。風のように撫でる手。誰かが名前を呼ぶような気配。
その全てが、あたたかくて――懐かしかった。
やがて、意識は再びゆっくりと浮かび上がっていく。
新たな命の胎動とともに。
◇
「――産声が……ない!?」
その夜、王都セレナリア。エルステリア侯爵家の屋敷には、緊迫した空気が満ちていた。
侯爵夫人アリエッタの出産は、予想を超えて難航していた。
もともと細身で、あまり丈夫とは言えない体だった。
陣痛は長引き、出血は多く、医療魔法と癒しの祈りを重ねてもなお、回復の兆しは見えなかった。
産声がない。
赤子も、母も、どちらも危うい状態だった。
「心拍が弱まっています!」
「癒しの魔力が――届きません!」
助産師たちの叫びと、神官の祈りが重なり合う。
しかし、時間だけが過ぎていく中で、奇跡のような瞬間が訪れた。
――かすかな、音。
誰の声ともつかない、小さな“揺らぎ”のような音が、空間を満たした。
部屋の空気が変わった。
同時に、赤子がわずかに息を吸い、目を開いた。
白銀の髪が、ランプの光に照らされてふわりと輝いた。
「生きている……! この子、生きてます!」
その叫びに、部屋中がどよめいた。
クラヴィス・エルステリアは、信じられないものを見るような眼差しで、娘を抱き上げた。
だがその髪は、彼にも、アリエッタにも似ていなかった。
まるで月の光をそのまま編み込んだような、透ける白銀の髪。
「……こんな髪色、見たことがない……」
アリエッタは、虚ろな目で娘の髪に触れた。
「あなた……ほんとうに、私たちの……?」
誰にも似ていない。けれど、それでも確かに、この腕の中にいる命。
アリエッタの目から、ひとすじの涙がこぼれた。
「……シオン……。あなたの名前は、シオンよ」
朝の静けさに、そっと響く旋律のように。どんな嵐の夜にも、消えずに残る音の名。
それが、この世界に生まれ落ちた、シオンのはじまりだった。
◇
娘の髪を初めて見たとき、クラヴィス・エルステリアは言葉を失った。
白銀――それは、この世界のどの貴族の血筋にも見られぬ色だった。
自らは炎属性、妻のアリエッタは風属性。
いずれも濃い金や深い栗色の髪を持ち、子どもたちもそれに倣っていた。
だが、この娘――シオンだけは違った。
ふわりと光を弾くその髪は、夜空に降る霜のようで、まるで“異界”の色だった。
「……属性による変異か?」
クラヴィスは書斎に篭り、古文書や魔導書をひもといた。
属性と髪色の関係、魔力の偏りによる発現例、異種族との混血の記録――
だが、どれだけ調べても、“白銀”の髪色が記録された例は見つからなかった。
「見たことがない。記録にも、伝承にも、ない……」
貴族社会において“異質”であることは、時として排除の対象となる。
しかも、娘が生まれたときの“あの音”――詠唱でも術式でもない、感応のような気配。
何か、根本から違っている気がしてならなかった。
(まさか、“世界そのもの”がこの子に反応したとでも……?)
そんな思考に至り、クラヴィスは身震いした。
異能とは、奇跡であると同時に、呪いでもある。
あまりに特異な力は、時として恐怖の対象となり、祭り上げられるか、封じられるか――
(だが、この子をそのどちらにもさせてはならない)
「アリエッタ……」
寝台の脇に座り、眠る妻の手を取る。
「……この子のことは、誰にも知らせるわけにはいかない」
その言葉に、アリエッタは目を細め、微笑みながらうなずいた。
「ええ。私もそう思っていたところよ」
母親の目には、畏れではなく、優しい決意があった。
「たとえ誰にも理解されなくても……私たちは、この子の味方でいましょう」
◇
クラヴィスは、屋敷内の侍女、医師、神官すべてに“沈黙の誓約”を施した。
これは上級貴族だけが用いる、記憶と口封じの魔法契約である。
絵師を呼ぶことも、肖像を描かせることもなく、外部の者には決して娘を見せなかった。
ただ一つ願ったのは――
「この子が、“色”で裁かれることのない未来を」
◇
日が昇り、侯爵家の庭に光が差し込む頃。
赤子は、ふわりと目を開けた。
その瞳は、深い紫――まるで星のかけらを閉じ込めたような光を宿していた。
母の腕の中で、彼女は静かに息をしていた。
◇
意識の底から、微かな光が滲み出していた。
あたたかく、やわらかく、まるで羽毛に包まれているような感覚。
重たいまぶたの裏で、いくつかの記憶のかけらが、ゆらゆらと浮かんでは消えていった。
(……ここは、どこ……?)
問いかけに答える声はなかった。
けれど、周囲に広がる空気はやさしくて、懐かしくて、不思議と怖くはなかった。
(……わたしは……だれ?)
問いの輪郭が、やがて“感覚”として心に残った。
白い天井。心電図の赤い線。母の涙。誰かの手のぬくもり。
そして――テレビに映る、笑顔。
(ルナちゃん……)
その名前だけは、なぜか忘れなかった。
光の中で微笑むその人は、歌っていた。踊っていた。輝いていた。
他の記憶は、まだぼんやりとしていて、霞がかかったように曖昧だった。
けれど――ルナちゃんだけは、どうしても忘れられなかった。
手を伸ばしても届かない。けれど、それでも、ずっと見つめていた。
その“想い”だけが、今の自分を包んでいる。
◇
ふと、遠くから声が聴こえた。
それは、知らない言葉。
でも、不思議と意味は分からなくても、感情は伝わってきた。
「……ありがとう」
「ようこそ」
「よく、がんばったね」
そんな響きが、波のように心に触れてくる。
誰かが泣いていて、誰かが笑っていた。
生まれてきたばかりの“私”を、やさしく包みこむ音たち。
(生きてる……の?)
それは夢だったのか、現実なのか――
けれど、確かに自分はここにいて、誰かがそばにいてくれる気がした。
この命がもう一度始まったことを、まだ何も知らないこの体は、ただ静かに受け入れていた。
◇ ◇ ◇
それからの毎日は、音と光の連なりだった。
誰かが話す声。布の擦れる音。揺れるカーテンの影。
ひとつひとつが新しく、けれどどこか懐かしい。
眠って、泣いて、抱き上げられて、また眠る。
世界はまだ小さく、言葉も持たない。
でも、それでも心の奥には、確かに何かが宿っていた。
(わたしは……また、生きてる)
もしも、“歌える未来”があるのなら――
◇ ◇ ◇
日々の境界はあいまいだった。眠って、泣いて、抱き上げられて、また眠る。
世界は柔らかく、温かく、ミルクの香りと心地よい布の感触に包まれていた。
けれど、ときどき思う。
この小さな手、この動かない体――私は赤ちゃんなんだ、と。
(……夢、じゃないよね)
鏡に映った、自分の姿を見たことがある。
ふにゃりとした頬に、銀色の髪、深い紫の瞳。
赤ん坊の姿をした“私”が、そこにいた。
◇ ◇ ◇
生まれてから数ヶ月。
まだ言葉は話せないし、もちろん歩くこともできない。
でも――ときどき、声が漏れる。
まだ歌とも呼べない、小さな、小さな音。
言葉にならない、意味のない、でも心の奥から自然にあふれてくる旋律のかけら。
「あー……ん、ふ……うぅ……」
それはただの赤ん坊の声かもしれない。
でも、そのたびに誰かが微笑んでくれた。
姉が笑い、兄が頭を撫でてくれ、母が頬に口づけをくれる。
(なんでだろう……なんで、こんなに……うれしいのかな)
声を出すたび、胸の奥にほんのりとした光が灯るような気がする。
あたたかくて、安心して、心がふわっと軽くなる。
そうして今日も、小さな声で、意味のない音を口にする。
言葉にならなくても、それだけで幸せだった。
◇
目を閉じると、わずかな光と音と匂いが浮かび上がってくる。
遠くで誰かが話している声、ふわりと漂う香水のような香り、衣擦れの音。
それらがすべて混ざり合って、毎日が新しい発見に満ちていた。
たとえば、耳のすぐそばで奏でられる子守唄のような声。
そのリズムに合わせて、私の胸がほんの少しだけ高鳴る。
懐かしいようでいて、この世界のものではない気もして……それが、少しだけ怖くて、でも嬉しかった。
ときどき、不意に脳裏に浮かぶ映像がある。
知らない街並み。白い校舎の中庭。制服姿の少女たちが笑い合っていた記憶。
それが夢なのか、前の世界の記憶なのか、私にはまだ分からなかった。
でも、その光景はどこかやさしく、まぶしくて、なぜだか涙が出そうになる。
この小さな手で、いつかまた――あの場所に近づけるのだろうか。
まだ声にならない想いを胸に、私はそっと、未来を夢見ていた。
⸻
夜、静かな部屋の天蓋の隙間から、星の光がこぼれていた。
小さな手でぬいぐるみを握りながら、私はそっと目を閉じる。
(もう一度、生きられるなら。
もう一度、夢を見ていいなら――)
その夢が、まだ名前も形も持たなくても、
きっとこの声が、どこかに届くと信じて。
そして、やがて誰かを笑顔にできたなら。
そのときこそ、私は本当に「私」になれる気がした。
◇
こうして私は、シオン・エルステリアとして、
まだ言葉も知らない新しい世界で、そっと息を始めた。