こんにちは、天宮詩音です。
このお話は、少しだけ不思議で、少しだけ切ない、けれどとても大切な思い出。
もしも歌が奇跡を起こせるのなら――その“奇跡”の始まりは、きっとこの日でした。
いつかどこかで、あなたの心にも、この小さなステージの灯りが届きますように。
そして願わくば、私たちの歌が、あなたの胸にやさしく響きますように。
それでは、どうぞ。
* * *
七瀬ルナ――私は、そう呼ばれている。
十七歳。トップアイドルとして、日々を駆け抜けている。
毎日が忙しくて、目まぐるしくて、気づけば朝から晩までステージとレッスンと取材に追われている。
だけど、それがいやだと思ったことは一度もない。
私はこの世界が好き。
歌うことも、踊ることも、みんなの笑顔も――全部、大切に思ってる。
……でも、あの手紙が届いた日から、少しだけ、景色が変わった。
それは、ファンレターでも、応援メッセージでもなかった。
一通の、願いのような手紙。
そして、それが私と「天宮詩音」という名前の女の子を、つなげるきっかけになった。
最初にその手紙を見つけたのは、マネージャーさんだった。
普段なら、事務所に届いたファンレターはスタッフがまとめて目を通して、時間のあるときに私に渡してくれる。だから、彼女がわざわざ直接見せてきた時点で、ただの「よくある手紙」じゃないんだってわかった。
「ルナ、どうしても見てほしい手紙があるの」
そう言って差し出された封筒は、少しだけ折れた角と、丁寧な手書きの文字が印象的だった。
差出人は、ある女の子のお母さん。その子の名前は、天宮詩音(あまみや しおん)ちゃん。
手紙には、詩音ちゃんがずっと病気で入院していること。
そして、彼女が私のことを大好きで、毎日のように動画を見ながら、まねをして口ずさんでくれていることが、つづられていた。
歌うのは、ほんの少し――でも、その時間が何よりの楽しみで、彼女にとって特別なひとときだったのだと。
お母さんの言葉は静かで、でもどこか切実で……最後の一文には、こんな願いが書かれていた。
「どうか、最期に娘に会っていただけませんか」
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥がきゅっとつかまれたような気がした。
たくさんの人に支えられて、私は今ここにいる。
その中のひとり、たったひとりの“願い”に、私は応えたかった。
スケジュールを調整してもらって、病院へ向かったのは、その日の夕方のことだった。
病院は夕暮れの静けさに包まれていた。
ロビーの窓から差し込む橙色の光が、白い床に長い影を落としていて、どこか現実じゃない場所に迷い込んだような、不思議な感覚があった。
案内された病室の前で、私は小さく深呼吸をした。
扉をノックする手が、ほんの少し震えていた。
「……失礼します」
そう言って扉を開けた瞬間、時が止まったように感じた。
そこにいたのは、小さなベッドに横たわる一人の女の子。
名前は、天宮詩音――お母さんの手紙にあったその名を、私はすぐに心の中で呼んだ。
でも彼女の目は閉じられたままで、痩せた肩が静かに上下しているだけだった。
心のどこかで、間に合わなかったのかもしれないと理解していた。だけど、私はその事実を受け入れたくなくて……。
「……詩音ちゃん」
そっと、彼女の名前を呼んだ。
でも返事はなかった。まるで、私の声が届いていないみたいに、病室にはただ機械の音だけが響いていた。
それでも、私は歌うことにした。
声が届かなくても、心のどこかで感じてくれるかもしれない。
歌だけは、誰よりも大切にしてきたものだから。
「……聴いててね。私の、ぜんぶ」
私は目を閉じて、音も伴奏もない中で、ゆっくりと歌い始めた。
それは、彼女が一番好きだと言ってくれていた、あの曲。
言葉のひとつひとつに祈りを込めて。
願いのように、想いのように。
届いて、どうか――そう願いながら。
すると……不意に、病室の空気が変わった。
歌声が終わるか終わらないかのうちに、ふわりと、七色の光が舞い上がったのだ。
まるでステージのスポットライトのような、でも、それよりももっと柔らかくて、あたたかくて――
気がついたときには、私はもう、そこにはいなかった。
目を開けた瞬間、私は息をのんだ。
そこには、あの病室の冷たい空気も、機械の音もなかった。
見渡すかぎり、やわらかな光に満ちた世界。
空は淡い金色に染まり、地面には星屑のような粒が舞っている。
風も、水も、音さえも……すべてが、優しい。
「……ここは、どこ……?」
私は自分の手を見つめた。
病院にいたときの衣装のままだけど、周囲の空気がまるで夢の中みたいで、現実味がなかった。
けれど、次の瞬間――
「ルナちゃん……?」
背中越しに聞こえた声に、心臓が跳ねた。
振り向くと、そこには――
「……詩音、ちゃん……?」
間違いない。病室で見た、あの女の子。
だけど、今ここにいる詩音ちゃんは、あのときとはまるで違っていた。
顔色は血の気を取り戻し、髪はふんわりと揺れていて、何よりその瞳が、しっかりと私を見つめていた。
「なんで……私の名前、知ってるの……?」
不思議そうに首をかしげる詩音ちゃん。
私は思わず近づいて、彼女の手を取ってしまいそうになるのを、ぎりぎりで止めた。
「……ごめんね、驚かせちゃったよね。私……ルナっていいます。七瀬ルナ。……もしかして、知ってる?」
すると、詩音ちゃんは目をぱちくりさせたあと、はにかむように笑って言った。
「うん。テレビでずっと見てた。歌、すごく素敵だった」
その言葉に、胸がきゅっとした。
だけど……彼女はまだ何も覚えていない。
病室で出会ったことも、歌を聴いていたことも。
さっきの出来事は、私にしかわからない“記憶”――でも、それでいいと思った。
だって今、こうして目の前に笑ってくれていることが、なによりの奇跡なのだから。
「ねえ、ルナちゃん。ここって……どこだろうね?」
詩音ちゃんの問いかけに、私はゆっくりと首を振った。
「わからない。でも、なんだか……すごく、やさしい場所だよね」
風が、ふたりの間をやわらかく通り抜けていく。
それはまるで、「この時間を大切にして」とそっと背中を押してくれるような、あたたかな風だった。
やがて、ふたりで歩き出す。
どこかへ向かうわけでもなく、ただ一緒に、この不思議な世界を見てまわりながら。
そして少しずつ、心が通いはじめていく――。
日差しのような光が降りそそぐこの場所で、私たちは毎日、少しずつ言葉を交わすようになった。
詩音ちゃんはとても素直で、でも芯の強い子だった。
最初はおそるおそる話していたのに、気づけば目を輝かせて、私の話を楽しそうに聞いてくれる。
アイドルってどんな世界?
どうして歌を歌うの?
ステージって、どんな気持ち?
私は、できるだけたくさんのことを伝えた。
夢の話も、不安の話も。
舞台の裏で泣いたこともあるし、自分の存在に迷ったことだってある。
それでも、ステージに立って、光を浴びて、誰かの「笑顔」に出会えた瞬間――全部が報われた気がするって。
詩音ちゃんは黙ってうなずいたあと、ぽつりと、言った。
「私……ほんとは、歌ってみたかったんだ」
その目が、まっすぐ私を見ていた。
「病気だったから、声を出すのも苦しくて。家族以外の人に、何かを届けるなんて無理って思ってた。
でもね……アイドルって、すごいなって思ったの。ルナちゃんみたいに、遠くにいても、知らない人でも、心が届く気がするの。……魔法、みたいだなって」
その言葉に、私の中で何かが、じんわりとあたたかくなった。
「……じゃあ、やってみる?」
「えっ?」
「一緒に。歌を練習してみよう。ここならきっと、大丈夫」
詩音ちゃんは目を見開いたあと、そっと笑った。
「……うん。やってみたい!」
そこからの日々は、私にとっても、かけがえのない時間になった。
手を取り合って、歌のフレーズをくちずさむ。
最初は小さな声だった詩音ちゃんの歌が、少しずつ、のびやかになっていく。
声の芯が強くなって、まるで心の奥からあふれてくるような、優しくてまっすぐな音になっていった。
ときどき、詩音ちゃんの声が光をまとっているように感じたのは……きっと、気のせいじゃなかった。
――魔法みたい。
彼女が言ったその言葉が、今は現実になりつつあった。
ふたりだけの、小さなステージ。
ここでしかない、この時間だけの、特別な歌。
私は気づいていた。
この歌には、たしかに“力”がある。
そしてその中心にいるのは――紛れもなく、天宮詩音という、ひとりの少女だった。
この世界には、時間というものが存在していないように思えた。
朝も夜もない、ただ光に満ちた穏やかな空間。
だからこそ、ほんのわずかな変化にも、すぐに気づいてしまう。
ある日、詩音ちゃんの歌声が空に響いたとき――
その光に、かすかな揺らぎが生まれた。
それは風のようでもあり、水面の波紋のようでもあり。
けれど、どこか懐かしさをはらんだその震えが、私の胸をざわつかせた。
「……ルナちゃん、なんか変だよね、最近」
詩音ちゃんも気づいていたらしい。
でもその声は、どこか覚悟を決めたような、穏やかな響きだった。
私は答えられなかった。
だけど、きっと彼女の言葉は正しい。
ほんの少しずつ、この世界の光が揺らぎ始めている。
奇跡のような時間が、静かに終わりへと近づいているのだと――そう、胸の奥で感じていた。
私は、詩音ちゃんを見つめた。
この笑顔を忘れたくないと、心から願いながら。
「ねえ……また、会えるよね?」
その瞳が、そっと揺れていた。
でも、その奥にはまっすぐな意志があった。
「今度は、ちゃんとステージに立てるように頑張る。
アイドルになって、ルナちゃんに“会いに行く”から……!」
私は――笑った。
涙がこぼれても、もうかまわなかった。
この子が心の底から願っていることを、私は知っている。
そして、きっと、いつかまた巡り会えると信じていた。
「待ってるよ。きっと、どこかで。また会おうね」
ふたりの手がそっと触れ合い、強く握り合った――その瞬間。
まばゆい光が、すっと私たちのあいだに差し込んだ。
温かくて、でもどこか切ない、別れの光だった。
私は、まぶたの奥で、その光に手を伸ばして――
――目を覚ました。
あの病室。
あの静寂。
ベッドの上に眠る、詩音ちゃん。
彼女はもう動かない。
けれど、私の心には確かに、あの世界の記憶と、彼女の笑顔が残っていた。
「神さま……どうかこの子が、もしもう一度生まれてくるのなら。
今度こそ、夢を叶えさせてあげてください――」
◇ ◇ ◇
あれから――どれくらいの時が過ぎたのかは、うまく思い出せない。
季節はめぐり、いくつものステージを重ねても、私は変わらず歌い続けている。
どれほど高くまで登っても――忘れることなんてできない。
あの光の中で交わした約束。
あの子の笑顔、あの子の声。
「また、会おうね」
どれほど華やかな舞台に立っていても、心の奥には、ずっと埋まらない“何か”があった。
私はずっと、心のどこかで探していたのかもしれない。
そして――それは、思いがけない形で訪れた。
ある日、事務所の後輩アイドルのオーディションを見学していたとき。
ステージに現れた、ひとりの少女。
まだあどけなさを残した顔立ち。
けれど、その瞳はまっすぐに未来を見ていた。
「名前は……詩音です」
小さなざわめきに紛れて、その前に口にした苗字は、はっきりとは聞こえなかった。
けれど、“詩音”という音だけが、まるで光のように胸の奥にふわりと届いた。
私は息を呑んだ。
記憶の底で、やわらかな光が胸の奥で波紋のように広がっていった
そして、彼女が歌い出したとき――
空気が、変わった。
言葉では説明できない。
でも確かに、何かがそこにあった。
心に触れるような、あたたかな光。
あの世界で、私が聞いた、あの歌のように。
私はただ、その場に立ち尽くしていた。
涙がこぼれそうになるのを、ぐっとこらえて。
歌い終えた彼女が、少し照れたように笑ったとき――
私は、そっと微笑んだ。
何も言わず、ただ、その笑顔を見つめながら。
歌が導いた奇跡、ふたりだけのステージ 完