夜空に輝く星々が、まるで祝福の光のように王都グランディアを照らしていた。城の中央にそびえる大広間では、絢爛豪華な舞踏会が開催されていた。シャンデリアの光が水晶のようにきらめき、楽団の奏でる優雅な旋律が会場を満たす。貴族たちのドレスとタキシードが色とりどりに揺れ、笑い声とグラスの触れ合う音が響き合っていた。
その中心に、誰もが目を奪われる一人の男性が立っていた。アレクサンドル・グランディア、王国の第一王子であり、国中の貴婦人が恋い焦がれる存在だ。金色の髪は月光のように柔らかく輝き、深緑の瞳はまるで森の奥深くを思わせる。整った顔立ちに、優雅でありながら威厳を漂わせる立ち振る舞い。彼が微笑むだけで、会場にいた女性たちの頬は自然と赤らんだ。
「アレクサンドル様、なんてお美しいのでしょう……」
「まるで神話の英雄のようだわ……」
貴婦人たちの囁きが、風のように会場を駆け巡る。しかし、アレクサンドルの視線はただ一点に向けられていた。広間の片隅、控えめに佇む一人の女性――フレデリカ・サディア公爵令嬢。彼女こそが、アレクサンドルが婚約者に指名した相手だった。
フレデリカは、まるで絵画から抜け出したような美しさを持っていた。銀色の髪はゆるやかなウェーブを描き、肩に流れるたびに光を反射する。淡い水色のドレスが彼女の華奢な体を包み、清楚でありながら高貴な雰囲気を漂わせていた。彼女の瞳は、まるで湖の底のような静かな青で、見る者を穏やかに引き込む力があった。物静かで上品、しかしどこか近寄りがたい気品をまとった彼女は、まさに「理想の貴婦人」と呼ぶにふさわしい存在だった。
二人が初めて出会ったのは、半年前の春の謁見式だった。アレクサンドルが王位継承者として正式に認められたその日、フレデリカは父であるサディア公爵とともに王宮を訪れていた。彼女の控えめな微笑みと、言葉少なながらも知性を感じさせる会話に、アレクサンドルは心を奪われた。そして数々の令嬢たちの中から、彼女を選んだのだ。
「フレデリカ様、お手をいただけますか?」
アレクサンドルが優雅に手を差し出すと、フレデリカは一瞬だけ目を伏せ、柔らかく微笑んだ。
「喜んで、アレクサンドル様。」
二人が舞踏場の中央に進み出ると、会場は一瞬静まり返った。楽団が新たな曲を奏で始め、二人は軽やかなステップで踊り始めた。その姿は、まるで童話の中の王子とプリンセスそのものだった。貴族たちは息をのんで見つめ、感嘆の声が漏れる。
「なんて素晴らしいカップルなの!」
「まるで運命で結ばれているようだわ……」
だが、誰もが知らなかった。この完璧に見える二人には、誰にも明かせない秘密があった。
フレデリカの心は、実はアレクサンドルへの愛だけで満たされているわけではなかった。彼女は幼い頃から、家族の名誉と責任を背負い、サディア公爵家の一員として完璧であることを求められてきた。彼女の物静かな態度は、感情を押し殺すための仮面だった。心の奥底では、自由を求める小さな炎がくすぶっていた。
一方、アレクサンドルもまた、王子としての重圧に悩まされていた。国中の期待を一身に背負い、完璧な王となることを求められる日々。彼がフレデリカを選んだ理由は、彼女の美しさや気品だけではなかった。彼女の瞳の奥に、どこか自分と同じ「閉じ込められた魂」を見たからだ。
舞踏会の夜、音楽が最高潮に達する中、アレクサンドルはフレデリカの手を握りながら、そっと囁いた。
「フレデリカ、この舞踏会が終わった後、少し話をしませんか? 二人だけで。」
フレデリカの瞳が一瞬揺れた。彼女は微笑みを崩さず、静かに頷いた。
「はい、アレクサンドル様。どのようなお話を?」
「私たちの未来についてです。」
その言葉に、フレデリカの心はかすかに波立った。未来――それは、彼女にとって喜びであると同時に、恐れでもあった。彼女はサディア家の令嬢として、アレクサンドルの婚約者として、完璧な役割を演じ続けることができるのか? それとも、心の奥に隠した本当の自分を、いつか彼に明かしてしまうのか?
舞踏会が終わり、客たちが帰路につく中、二人は王宮の庭園へと足を踏み入れた。月明かりの下、静かな噴水の音が響く。そこには、誰もいない。ただ二人だけ。
「フレデリカ、率直に言います。」アレクサンドルは真剣な眼差しで彼女を見つめた。「私はあなたを選んだ理由を、きちんと伝えたい。あなたはただの婚約者ではない。私の……いや、私たちの運命を変える存在だと信じています。」
フレデリカは息をのんだ。彼女の仮面の下で、感情が揺れ動く。
「アレクサンドル様、それは……どういう意味でしょうか?」
彼は一歩近づき、彼女の手を握った。その手は温かく、しかしどこか切実だった。
「私は王として、完璧であることを求められてきました。でも、本当の私は、もっと自由で、もっと人間らしい何かを見つけたい。あなたも、そうではありませんか? 心の奥に、誰にも見せない本当の自分を隠している。」
フレデリカの心臓が激しく鼓動した。彼の言葉は、彼女の心の奥底に隠していた秘密を暴くかのようだった。彼女は目を伏せ、唇を噛んだ。
「アレクサンドル様……私は、ただの公爵令嬢です。あなたの期待に応えるため、完璧でいることが私の務めです。」
「いいえ、フレデリカ。」彼は優しく、しかし力強く言った。「私は完璧な公爵令嬢を求めたのではありません。私は、あなたを求めたのです。仮面の下の、本当のあなたを。」
その言葉に、フレデリカの瞳に涙が浮かんだ。彼女は初めて、誰かに心の奥を見透かされた気がした。だが、同時に恐怖も感じていた。本当の自分を見せることは、サディア家の名誉を裏切ることになるかもしれない。
月明かりの下、二人の間に沈黙が流れた。噴水の水音だけが、静かに夜を彩る。
この夜が、二人の運命を大きく変えることになる――そんな予感が、フレデリカの胸に広がっていた。