札幌──冬。
空を覆う灰色の雲が、ビルの谷間で冷たい雪をまき散らす。
白い吐息をひとつ、男が吐いた。
鉄の門が、音もなく閉じる。
男──エリオス=ライトロード。
かつて“勇者”と呼ばれた者は、長い拘留期間を経て、この世界に再び放たれた。
「……終わったな」
彼は振り返らなかった。
この世界に来てから、まともなことなど何一つなかった。
言葉は通じず、文化は異なり、魔法は無効。
そして初めて食べたプリンに魅了され、空腹に負けて──手を出した。
逮捕。拘留。再教育。この世界の理解講座。労働体験。
そして、仮釈放。
「だが……終わってなどいない」
夜、夢の中で聞こえた。
禍々しき魔王の声。
──《封印は、間もなく解ける》
「そうか……ここだったのか」
彼の足は、自然とあるビルへと向かっていた。
札幌駅前。
再開発の目印として放置された、古びたビル。
『近々建て直します!』という貼り紙。
だが、勇者の目はごまかせない。
「この気配……この濁った魔のうねり……魔王、間違いない。いる」
彼は真っすぐにその扉を見据える。
かつてのような仲間はいない。
信頼も、民の声援も、もう届かない。
だが、彼にはまだ使命がある。
「行くぞ……この命にかけて」
ジャケットを整え、髪を撫で、口元を引き結ぶ。
エリオス=ライトロード。
この世界に生きる者として、再び運命を歩むのだ。
そして──
ギュイィィィィン……(音だけ威圧的な自動ドア)
「いらっしゃいませぇ……あっっ!!?」
受付カウンターでお茶を飲んでいたレミットが、まるで幽霊でも見たような顔になる。
彼女は──かつて彼を逮捕した“あの”巫女である。
「お前はッ!!あの時の黒きオーラの巫女ッ!!」
「ち、違いますっ!その話はもう、あの、あの……更生済みですからぁあああ!!」
レミット、テンパりすぎて机の下に隠れる。
背後の棚がカタカタ鳴って、観葉植物が倒れた。
「貴様……なぜこの場所に……! あ、違う、そうじゃない。お前が問題じゃない」
エリオスは額に手を当てて、目を閉じた。
「このビルだ……この中に……魔王がいる!!」
ガララッ。
奥の扉が開く。
「レミット、また観葉植物倒したの~? あー……ってあれ?」
スーツ姿のOL──千歳が顔を出す。
「え、あのプリンの人じゃん」
「違う!今は“買って”る!買ったのだ!」
「えらいねー」
千歳は書類の束をテーブルに置き、受付簿をめくる。
「来訪理由は?」
「魔王討伐だ」
「なるほどね。でも今、勤務中なんで静かにお願いしまーす」
「貴様、正気か?魔王がこの中に──」
「千歳。我は良いことを思いついたぞ! このビルに温泉を作るのじゃ」
奥から風呂桶を持った銀髪の女──リィナが乱入。
「勇者!そなた、また逮捕されたいのか!?神は記憶しておるぞ!?あの『プリン返せ』と全国ネットで泣き叫んだ姿を!」
「違う!!今はもう立ち直ったッッ!」
「ならば静かにせい!ここは職場じゃ!」
「くっ……なぜ魔王が、なぜ魔の者どもが、オフィスで働いているんだ……!?!?」
レミット(机の下)「それ、わたしも最初ビックリしたのですぅ……」
千歳「はい、業務に支障をきたしてますので、魔王討伐は予約制でお願いしまーす」
「予約……?」
「最短で木曜の午後2時、魔王対応の枠あいてます」
「……だがその間に何かあったら……」
リィナ「その場合は社内LINEで報告が流れる。神も監視しておる。たぶん」
千歳「あと、当日応接室対応するけど社員証ない人は立ち入り禁止なんで、はいこれ通行証~。当日のみ使えるから注意してね」
「……討伐に通行証……応接室」
エリオスは一歩、後ずさる。
「やはり……この世界は狂っている……」
千歳「こっちは普通に働いてるだけなんだけどね」
勇者は静かに頭を下げた。
「……お世話になりました」
そして背を向け、敷地から出た。
彼の使命は、変わらない。
だが、この世界では“手続き”が必要なのだ。
「フッ……予約だと……必ず戻ってくるぞ……魔王」
通行証のプリントには、「ピコリーナ・カンパニー 見学者・エリオス様」の文字と笑顔のイラストが描かれていた──