佳苗は困っていた。
……とても、ものすごく困っていたのです。
「どうして、なのです……」
愛用のサンダルが、ついに壊れてしまった。
右足の鼻緒が、ぷつんと音を立てて今世を去ったのだ。
代わりの靴はあるにはあるけど、朝の雨に濡れてしまい、まだびしょびしょである。
「私の靴でよければ、貸すよ?」
救世主は意外なところから現れた。そう、千歳である。
「ありがとうなのですっ!!」
佳苗は満面の笑みで靴を受け取ると、クロエと一緒に近所の靴屋へ。
新しいサンダルを買って、ついでにパフェも食べて――
「今日は最高なのです~♪」
と、ご機嫌で会社の10階(通称:自宅)に戻る途中。
やってしまったのです。
「……やっちゃったね」
クロエの表情が少し引いている。
なぜなら佳苗は、通称“地雷”を踏んだのである。
靴底にべったりと、未確認生命体がこびりついている。
「やばいのです!ウンコなのですッ!」
千歳の靴に……ウンコを……踏んでしまったのです。
佳苗は絶望した。
「……洗って返すのです」
必死に洗った。何度も洗った。
だが。
ぷーん。
どこからともなく、におうのです。たぶん幻臭です。いや現実です。
◆
「ごめんなさいなのですううぅぅ!!」
佳苗は涙ながらに、社長室(会社3階)へと向かった。
その頃、社長室では。
「この依頼、けっこう難しいなぁ……誰に頼もうかな」
千歳はPCの前で唸っていた。クライアントからの要望は――
『七夕祭りのイベントで、織姫と彦星の寸劇をやってほしい』
という、なんともアレな案件である。
「女神と魔王でいっか。片方ずつ神と悪でバランス取れるし」
安直極まりないキャスティングを思いつき、千歳はスマホでLINEをポチポチ。
『七夕の織姫と彦星の寸劇、やってくれる?』
送信。
(いがみ合わなきゃいいけど……)
そんな時、コンコンとノックの音。
「入っていいのです?」
「ああ、どうぞー」
入ってきたのは佳苗。なにやらもじもじしている。
(ああ、なるほど。織姫役、やりたいのか。じゃあ彦星はセラスあたりにしよっか)
千歳はわかってるよ、10年以来の付き合いだもんね。と笑顔を見せる。
その笑顔に、佳苗はぞっとした。
こういうときの千歳の“わかってるよ”みたいな笑顔は、だいたい何もわかってないのです。
「……あのですね。千歳。わたし……カミングアウトしなくちゃいけないのです!!」
ちっぽけな勇気を振り絞って、佳苗は叫んだ。
◆
その頃、社長室の前。
ノック寸前の女神リィナが、ぴたりと手を止めた。
「カミングアウト……? 佳苗が?」
「どうしたリィナ。余はまだトイレ掃除中だ。とっとと断って仕事に戻りたいのだが」
魔王が後ろからぼそぼそ言っている。
「待つのじゃ魔王。これは……ただごとではない。佳苗が、ついに己の正体を明かすつもりなのじゃ……!」
「まさか……!」
「そのまさかじゃ。彼女が破壊神であることを、千歳に告げる気なのじゃ!」
魔王の表情がこわばる。
「それはヤバいのではないか? なんか……最終回みたいな空気出てこない?」
「魔王。メタ発言は控えるのじゃ。仮に完結しても、外伝や番外編としてちょいちょい続ければよい!」
「おぬしもメタいぞ、女神!」
「話を戻せ。問題は、千歳が佳苗が破壊神と知った時、どうするかじゃ」
「……あいつ、たぶん言うよな。『じゃあなんか破壊してみて』って」
「で、佳苗が『では地球を壊すのです!』とか無邪気に言い出して……」
「世界が終わるのじゃな」
リィナと魔王は静かにうなずいた。
つまり。
「今この瞬間、世界は存続の危機にあるのじゃ!!」
「止めなければ!」
リィナと魔王が力を合わせて社長室のドアを開けたのだった。
「どうしたの2人とも」
唖然とする千歳。
「待て佳苗。また早い! まだ我は早いと思うのじゃ!」
「今この瞬間、世界は存続の危機にあるのじゃ!!」
「止めなければっ!!」
女神リィナと魔王が力を合わせて、勢いよく社長室のドアを――
バァァァン!
「どうしたの二人とも」
唖然とするのは千歳。
カフェオレ片手に、完全に油断した顔である。
「待つのじゃ佳苗! 世の中には……言ってよいことと、悪いことがあるのじゃ!!」
リィナが全力で佳苗の前に立ちはだかった。
「確かに……確かに、ウンコを踏んだなんて言ったら……」
佳苗はリィナの目をまっすぐに見つめながら、神妙な表情でうなずく。
「千歳はショックで寝込んでしまうかもしれないのです……!」
「……え? ウンコ?」
魔王の眉がぴくりと跳ねた。
「佳苗よ……確かに親友に真実を伝えたい気持ちは理解できる」
リィナの目が潤む。
「だが……その後の関係はどうなる? 今と同じままだと……言い切れるか?」
「うぅ……親友を……失いたくないのです……」
佳苗、完全にリィナの勘違いに便乗しながら涙目。
3人で話し合いをいまいち聞き取れない千歳がふと口を開く。
「……あー、リィナ。神の加護とか言って勝手に買ってきた謎の籠、部屋の隅にずっとあったやつ。邪魔だったから捨てといたから。」
「千歳ぇぇぇ!! なんてことをするのじゃ!! あれは! あれは清めの結界じゃったのにぃぃ!」
「あと魔王。あんたのその変なマント。今後社内で**着用禁止ね。**後ろ歩くとき、邪魔くさいのよ」
「千歳ぇぇぇぇえええ!! それは魔王としての! 魔王としてのアイデンティティの最後の砦だったのにぃ!!」
リィナと魔王、そろって意気消沈。
部屋の隅でしょんぼり体育座りしている女神と魔王。なかなかにシュール。
そんな中、千歳はふっと微笑んで、佳苗に向き直った。
「とまぁ、佳苗。言いたいことがあるなら、言っていいのよ?」
「……え?」
「私はずっと佳苗の親友だから!」
――その言葉に、佳苗の胸がじんと熱くなる。
「ありがとうなのです……! それなら、気兼ねなく言えるのです……!」
「……うん。で、なに?」
「千歳の靴でウンコ踏みました!!」
「……は?」
「はい! 思いっきり! べっちゃりと! 洗いましたが、めっちゃ匂うのです!」
千歳、コーヒーを吹いた。
「よりにもよって私の靴!? ていうかそれ、言わない方が良かったやつじゃない!?!?」
「……でも、言ってよかったのです!」
「おい!!」
リィナと魔王は社長室の隅でボソッとつぶやいた。
「……世界、壊れなかったのじゃ……」
「というか、壊すほどでもなかったのだな……ウンコ……」
――ピコリーナ・カンパニーの世界は、今日もギリギリで守られたのであった。