「支配人。ご相談があるのですが」
昼下がりの社長室に、ノックの音と共に声が響いた。
社長兼支配人の千歳は、書類に目を通す手を止めて顔を上げる。
「田辺さん? どうかしたの?」
田辺誠一。五十八歳。元・隣のブラック企業で営業課長をしていたが、その会社がまるっと潰れた直後、ピコリーナ・カンパニーに拾われた男だ。
現在はグループ傘下の「ホテル・ステラ」でフロントマネージャーを務めている。
物腰柔らかで、まじめな常識人。言ってしまえば、ピコリーナ社内では貴重な“普通の人”。
「ええ。ちょっと……お客様の件で」
「クレーム?」
「いえ、むしろその逆でして。ちょっと変わったお客様なんですが」
千歳は首をかしげる。
「うちの従業員が“ちょっと変わってる”のは慣れてるけど、お客様まで?」
「実は──もう十日も連泊されてるお客様がいまして」
「ほう」
「部屋から一歩も出ず、一番安いシングルルームにこもりきり。食事は一日一食、しかも頼まれるのは……カップ麺だけなんです」
「でも、お金は?」
「……ええ。前金で一ヶ月分、きっちり」
「じゃあ、いいじゃない。健康はちょっと心配だけど、個人の自由だし」
「そうなんですが……その……たまに部屋から叫び声が聞こえるんです」
「叫び声?」
「“ああ、神よ! 何故私に降臨しないのだ!”って……」
「……それはまた、なんというか……メンヘラ感あるわね……」
「支配人、神とか悪魔とか、お好きでしょう? 得意分野そうですし」
「いや別に好きで選んでるわけじゃないから。勝手に来るだけだから」
千歳がため息をついた瞬間、社長室の窓の外にふわりと金の光が漂った。
「……で、降臨してほしいとか申しておるらしいな?」
神々しい光とともに、白いドレスを纏い、ふわりと浮かびながら現れたのは──
「リィナ……女神、登場しないでよ、そういう感じで」
「我が導かぬことには、世界の均衡が──」
「その辺の中年男性の部屋から神よ!って叫ばれたくらいで来るんじゃない!」
「主の声が強すぎたのじゃ」
「嘘だな?」
「嘘じゃ。暇だったのじゃ」
軽くて浮かれた女神・リィナは、部屋の中をふわふわと旋回しながら言う。
「で? 会ってみるの?」
「ふむ……その者に会うか会わぬか、それは我の気分──まぁ、面白そうじゃし会ってやるか」
「動機、軽いな……」
リィナはゆるりと回転しながら、「異常に強い神の気配を感じたから来た」とか適当なことを言っているが、暇つぶしに決まっている。
だが、事態はこの“暇つぶし”を境に、大きく転がり始めるのだった──
部屋番号は「213」。
その扉の前で、女神リィナは浮いていた。
「ぬぅ……神を呼びつけるとは、どんな身の程知らずかと思えば」
「勝手に来たのリィナでしょ」
千歳はぼそりと突っ込むが、聞いていないようだ。
「まぁよい。神は慈悲深く、民の声に耳を傾けるもの。扉の向こうの主よ、我が姿を見よ!」
「ちょっと、ノックくらい──」
ドアノブを回す前に、扉はガチャリと開いた。
中から出てきたのは、顔に深いクマを刻んだ中年男。髪は短く刈り込まれ、肌は浅黒く、目つきは鋭い。かつて地元で名を馳せた、伝説の特攻隊長──らしい。
「来てくれたか! 俺の前に……本当に、降臨してくれたのかっ!」
「お、おう」
千歳は一歩引いた。
圧がすごい。呼吸も重い。というか近い。
「俺は! 恋愛小説家になりたいんだッ!」
「えっ?」
千歳とリィナがそろって聞き返す。
「……顔と体つきに、全然向いてない」
「やっぱりそう思いますよねぇ!? あ、いや……でも、俺、どうしても……!」
その男──辻倫太郎(つじ りんたろう)、42歳。
元・暴走族総長、のちに特攻隊長を務めた熱血硬派。現在、無職。母親と同居中。
思い立ったのは一ヶ月前のこと。
「もう俺、タイマンとかしたくねぇな……」
ある日そうつぶやいて、部屋でスマホを眺めていたとき。おすすめ動画で出てきたのが、「恋愛小説家の1日」だった。
「……これだ。俺も、こんな風に、静かに誰かを想いながら文章を綴りてぇ」
その瞬間、辻倫太郎は決意した。
俺、恋愛小説家になるわ。
当然、周囲は止めた。というか笑った。というか殴られた(母親に)。
だが、辻は止まらなかった。
地元の人間に見られるのは恥ずかしい。だから自宅を離れ、話題になっていた「色んな意味で有名のホテル」に缶詰状態で挑戦することにした。
「で、進捗は?」
「いや、それが……ゼロ」
「ゼロ?」
「書いてねぇ」
「書いてないんかい!!」
千歳が即ツッコミを入れる。真顔でノータイム。
「いや、書こうとしたんだけどさ、どうにもアイディアが出ねぇ。そもそも恋愛したことねぇし、どういう気持ちで書けばいいのかも……わかんなくてよ……」
「なら、なんで恋愛小説なんか目指したの」
「……なんか、かっこいいから」
「動機が完全に中二病だな」
すると、ふわりと宙に浮かんでいたリィナが、辻の顔をまじまじと見つめて言った。
「主の願いは、理解した。だが──その面で恋愛を語るには、相当の腕が必要じゃな。出直して参れ」
「そこをなんとかぁぁぁ! 俺に愛の物語を書くチャンスを! アイディアを!」
「我は神ぞ? そもそも恋愛したことなどないし、妄想力にも限界が──」
「妄想力?」
「お?」
「妄想って、必要なんですか?」
「恋愛においては必須じゃ。すべては、己の脳内に紡がれる幻想から始まる」
千歳がじと目でリィナを見た。
「……あなた、それっぽいこと言ってるけど、現実逃避と妄想ばっかりしてるから、力失ったんじゃないの?」
「ぐっ……!」
それでもリィナはぷいっと横を向き、空中をひと回り。
「まぁ、どうしてもと言うならば──千歳。あれじゃ。ほら、あるじゃろ。例のアレ」
「……ああ、もう。出たわね」
千歳はデスクの引き出しから、一枚の紙を取り出した。
異次元求人票。どんな職種でも、異世界に投げ込めば、それっぽい人材がやってくる、という不思議な媒体。
「じゃあ、もう知らないからね? 恋愛小説の“編集者”ってことで、募集するよ。臨時で!」
千歳が求人票を空中にポイッと投げると、紙は光に包まれ、パシュッと音を立てて消えた。
そして数秒後──
ボンッ!
空間がぐにゃりと歪み、地面に何かが落ちた。
カタツムリだった。
「……なにこれ。アニメみたいな、でっかいカタツムリ……?」
「ワイこそが編集者歴三百年。恋愛小説家をうんびゃく人育ててきた、異次元の編集者・カタツムリである! で、まさかと思うがこいつが作家とは言わないだろうな! 無理だからな!」
辻が思わず叫んだ。
「両生類にまでバカにされてたまるかぁぁあああ!!」
「編集者・カタツムリ」──その名の通り、でっかい殻を背負ったアニメ調のカタツムリは、部屋の床にぬるっと這い出した。
目玉がにゅるりと伸びて、辻倫太郎を観察する。
「ふむ。よーく見ると、見た目はゴツいが、根性だけは評価する。恋愛小説家としての資質は――ゼロじゃな」
「いきなり言うか普通!?」
「だが、ゼロであればこそ、伸びしろしかない。ワイが鍛えた作家どもも、最初はみんなポンコツだった。寝ぼけて書いたラブレターで火事を起こしたヤツもいた。だがそいつは今や、五千部売れている」
「えっ……微妙……」
「静かにせぇ! 五千部は五千人の恋人を生んだんや!」
「そんな物理的に言わないでください」
カタツムリは胸(たぶん)を張った。
「倫太郎、お前に必要なのは“愛の妄想力”や!」
「妄想力……?」
「そう! 恋愛とは、頭の中で一億回繰り返す失恋から生まれる神話! 百万人と出会って、脳内で付き合って、フラれて、また立ち上がる! それを文字にするんや!」
「ちょっと怖いこと言ってない?」
リィナが小声で呟くが、カタツムリは構わず続けた。
「というわけで、お前には“妄想トレーニング”を受けてもらう!」
「で、でも俺、妄想とか得意じゃねぇし……」
「それならワイが補助してやる!」
カタツムリの触角がぐにゅりと伸びる。
「えっ、何!? やだ! ちょっと待っ――」
ズガァァァァンッ!!!
世界がひっくり返った。
* * *
──辻が目を覚ますと、そこは真っ白な空間だった。
見渡す限りの純白。天井も壁も床もない。ただ、そこに立つ“彼女”だけが、現実の色を持っていた。
「……はじめまして、先輩♡」
「だれ!?」
「私は“脳内妄想シミュレーター”ですっ。あなたが理想とするヒロイン像を、勝手に補完して具現化しました♡」
「勝手にすんな!」
「さ、では今日のテーマは“出会い頭の恋”です! 主人公・辻倫太郎は、通学中に女子高生とぶつかって……」
「俺おっさんだぞ!? 職質されるやつやん!」
「いえ、今のあなたは脳内17歳設定ですっ」
「マジかよ!!」
勢いよくぶつかる二人、散らばる教科書、そして
「あっ……ご、ごめんなさいっ」
ヒロインが慌てて拾い始めるノートの上に、二人の手が触れ合い――
「すまねぇ、指が汚れてる。バイクいじった帰りで……」
「いえ……むしろ、かっこいいと思います……♡」
「こっっ恥ずかしい!!!!!」
* * *
──現実世界──ピコリーナホテル・ステラ213号室。
ベッドの上で痙攣する辻倫太郎。
「……ああ、俺、いま妄想で女子高生と恋に落ちてる……!」
「なにしてるの、あの人……」
千歳が遠巻きに見守るなか、カタツムリ編集者が満足げにうなずいた。
「よし。ようやく“脳内恋愛レベル”が1に上がったな」
「……なんか、もっとヤバい方向にいってない?」
「神よ、これは一体……?」
リィナが、ふるふると震えながら言う。
「人間というものは……常に、想像と現実の狭間で、悶え、叫び、それでも前に進むのだ……」
「わからぬ!」
* * *
そして2ヶ月後。
喫茶ピコリーナ。佳苗がコーヒーを淹れているカウンターで、珍しく真面目に本を読んでいた。
「え? なに読んでるの?」
千歳が聞くと、佳苗は小さく答える。
「これなのです……“愛と鉄拳とマッチョ魂”……っていう小説なのです」
「恋愛小説なの、それ?」
「作者の名前、“辻倫太郎”なのです」
「まさか……あの……?」
「恋愛小説って聞いたのに、全員マッチョで、しかもヒロインがマッチョ娘だけで、最終的に“娘をくれ”って言ったら“ならば俺を倒せ”って親父が出てきて、バトルものになったのです」
「……恋愛どこいった」
「でも、なんか、熱かったのです。むしろ恋って、こういう熱さなのかもって……ちょっと思ったのです」
千歳はふと、窓の外を見やった。
サインもらってたほうがよかったのかな?