目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第17話 千歳、カニの犠牲を知る。

そろばん塾は連日大繁盛だった。


「……で、これが“繰り上がり”という仕組みです」


千歳が丁寧にそろばんを弾くたび、周囲から「おおっ」「なんと!」と驚きの声が上がった。


前田家の家臣たちが板の間に正座し、まるで書院造の寺子屋のように真剣な眼差しを向けている。


「これはすごいぞ……まさか算用の術に、これほどの奥義が隠されておったとは……!」


利家が目を輝かせながら、そろばんを撫でている。


「して、この“割り算”とは……!」


「それはまた明日のお楽しみ、ということで」


千歳がにっこり笑うと、利家はまるで子供のように頷いた。


「うむ、是非に学ばねば。そなたたち、明日も商いを開け。前田家が保護しよう!」


「ありがとうございますっ!」


千歳は深々と頭を下げた。



「というわけで、そろばんは全部売れました!」


クロエが胸を張る。送ってくれないことが判明したので利家に制作に強い家臣たちを紹介され、大量生産に成功していた。


「売上、見込みで一両八分。うち、手数料を引いて──」


「それよりそういえばカニ丸がいないんだけど!!」


千歳が叫んだ。


「……あっ」


リィナが顔をそらす。


「まさかとは思うけど」


クロエがじと目で。「あの時商材を送ってもらう代わりに、何か“引き換え”に?」


「神の力が交換制だからのぅ」


「まさかの!カニ丸が生け贄!?!?」


「生け贄というか、旅に出たというか……大丈夫じゃ。元いた世界におるから」


大丈夫だろうか。突然カニを送っても。



その時──


「……そういえば今って何年の何月なのです?」


佳苗がぽつりとつぶやいた。


「え?」


一同が振り返る。


「いや、ちょっと気になって。月日さえわかれば、たぶん……」


利家が不思議そうに言う。「天正十年、五月……二十日じゃが?」


佳苗の顔が、一瞬で青ざめた。


「うそ……あと、十日で……本能寺の変……」


「……えっ!?」


「このままじゃ、織田信長が暗殺されて明智光秀が謀反して、豊臣秀吉が台頭してきて、柴田勝家ともめて、たぶんこの城にも戦火が来るのです!!」


「えええええ!?」


「早く、帰るのです! 帰れるうちに帰るのです!」


「というかどうしてそんなに詳しいの?」


とクロエ。


佳苗が胸を張った。


「わたくし、『信長の野望・革新』で全勢力クリア済みのガチマニアですっ!」


「ううっ、せっかく売上伸びてきたのに……!」


「死ぬよりマシなのです!」


「いやそうだけどさぁああ……!」


千歳の声が会議室に響いた。だが誰も否定できなかった。


もめながら帰り支度をする一同。最後に、千歳が利家に近づいた。


「お世話になったお礼です」


そう言って、ポケットから取り出したのは──


「これ、現代の妙薬。“バファリン”っていいます。頭痛とかに効くので、戦の前にぜひ」


利家が目を丸くして受け取る。


「これほどの珍薬を……よいのか?」


「利家さん、良い人だったんで」


利家が感動したように、そっとそれを懐にしまう。


「よき縁であった。いつかまた、商いを共にしようぞ」


「はい! そろばんとバファリン、また持ってきます!」


こうして、ピコリーナ・カンパニーの短い戦国ビジネス旅は幕を下ろした──。



「ただいまァァァァァア!!!」


千歳の魂の叫びとともに、廃ビルの一角が眩い光に包まれた──。


……パチッ。


「あ……蛍光灯、また切れた」


照明が死んだだけだった。


……パチッ。


「あ……蛍光灯、また切れた」


リィナが天を仰いで呟いた。


「帰っても闇なのか、我らは」


札幌、午後三時。戦国の泥と灰をまとった一同は、照明の切れた廃ビルに佇んでいた。


「はぁ……命だけは、助かったのです」


「かに丸は!? かに丸はどこ!?」


「……え? そういえば……」


一同、辺りを見回す。


だが、そこにいたのは“カニの甲羅だけ”だった。


「えっ、えっ……?」


「お、おい……まさか……」


──【かに丸:食用として召喚されていた】──


レミットがぼそりと呟いた。


「あのとき“肉のようで肉でないものを”と……ヨモツ様が……」


「そ、そんなぁぁあああ!!!」


「ヨモツ様に戦国時代に売れる物をって聞かれたので算盤を。そしたらカニが送られてきたとか」


「そ、そんなぁぁあああ!!!」


千歳は崩れ落ち、リィナは天を仰いだ。


「信仰の代償……それが、カニとは……!」


「信仰でもなんでもないんだけどな!?」


そんな空気のなか、妙に浮かれた声が響く。


「次のために埴輪算盤を、大量生産だぁぁ」


「ハイ! 師匠!」


──ピコリーナ社、そろばん在庫:45個。


「売れないだろコレ!!!」


千歳は盛大につっこんでいた。


一方、佳苗はスマホのWikipediaを見て、


「利家様、算盤を愛用してバファリンで長生きしてるのです。これって。まさかなのです」


と独り言を言って、そっと画面を閉じたのであった。







天正十年六月。


本能寺の変──それは歴史の奔流に刻まれる、大きな転換点だった。


織田信長の死、明智光秀の討伐。


それでも世界は止まることなく、ただ前へと進み続ける。


加賀の隅にて──


前田利家は、書院の一隅で独り、静かにため息をついた。


「……まったく。あやつら、風のごとく去っていったな」


彼の懐には、今も大切に保管されている二つの宝があった。


一つは、木製の珠が並ぶ奇妙な道具──“そろばん”。


一つは、銀の小箱に収められた妙薬──“バファリン”。


「たかが数珠玉、されど数珠玉……。この道具一つで、兵糧の計算がどれほど楽になったことか」


利家はそっと、そろばんの珠を一つ弾いた。

コトン……その音は、まるで静かに時を刻む鼓動のようだった。


「そしてこの妙薬……頭痛が消えるばかりか、心がすうっと澄む。まるで“優しさ”でできているようじゃ……」


そう、それは千歳が言っていた。

「その薬の半分は優しさでできています」と。


利家は微笑み、両の手で二つの宝をそっと懐に仕舞った。


「……わしの目が黒いうちは、この宝を守らねばな。いつか、戦の世が終わり、商いの世が来たときのために」


遠く、軍鼓の音がまた聞こえる。


新たな戦の気配が、再び城下を覆っていた。


「さて、行くか。まだ世は乱れておる……が、その先に“そろばんと妙薬”が役立つ未来があると信じよう」


利家は立ち上がり、振り返らずに歩き出す。

その背には、“未来”という名の風が、確かに吹いていた。


それは、異界より訪れた商人たちの、ささやかな置き土産だった。


後に人々は語る。


「加賀百万石の礎には、謎のそろばんと、頭痛に効く魔薬があった」と──。


……そしてその影で、ひとりの少女はそっとスマホを見つめていた。


「利家様……バファリンの優しさで長生きしてるのです。すごいのです……」


ピコリーナ・カンパニーの社員、篠宮佳苗。

彼女はそっと画面を閉じ、小さく呟いた。


「またいつかお会いしとうございます」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?