「ねぇ、リィナ。ずっと気になってたんだけどさ」
午後三時。オフィス街のカフェからはコーヒーの香りが漂い、いつもの喧騒を一瞬忘れさせる時間帯。
そんな中、札幌駅前の廃ビル――ピコリーナ・カンパニー本社――の社長室の絨毯には、不思議と紅茶の甘い香りが満ちていた。」
「戸籍ってどうなってるの? 異世界組のさ。リィナとか、キリとか、ヨモツとか……」
問うたのは、会社の社長・千歳。スーツの裾に埃がついているのは、もう日常茶飯事だ。
千歳はため息をつきながらカップを置く。
「ん? あぁ、それか」
社長室と呼ぶにはあまりにもボロい空間で、異様に優雅なティーセットを構えていたのは、当社自称神──リィナ。
ティーポットから金色の紅茶を注ぎつつ、骨董級のティーカップを持ち上げる。
「異世界組は神のおかげで、住民登録も手続きも自動的になっておる」
「神便利すぎない?」
「ちなみに社会保険、厚生年金、住民票、印鑑登録、ついでに図書館カードも揃っておるぞ」
「図書館カード……? それって地味に一番すごくない?」
千歳が眉をひそめると、リィナはくすりと微笑んだ。
「まぁ、どうやってかは……神のみぞ知る、ということにしておこう」
「ずるい」
千歳が紅茶をひと口。リィナの髪が少し乱れているのは、たぶん寝ぐせ。というか、今日ずっと寝てた。
「で、リィナ。税金、納めてるの?」
「ん? あぁ、それか」
リィナは優雅にティーカップを傾け、少し鼻を鳴らした。
「我は神ぞ? 税など、祀られる側が納める道理があるまい」
「即答だね!?」
千歳は呆れ顔で腕を組む。
「納税してないなら、神っていうより不法滞在の外国人だよ……?」
声に出してしまった自分に、千歳も少し戸惑う。
リィナは眉をひそめ、普段の威厳がどこか揺らいだ。
「ち、違う! それは語弊がある!」
「病気になったらどうするの? 三割負担じゃなかったら破産するってば」
「む……」
リィナが目をそらした。
千歳の察しが発動する。
「……痛いんだ?」
「歯が、な。ずきずき、ずーん、と来るのじゃ……」
「歯ぁ、あるの?」
千歳が半笑いで聞くと、リィナはちょっと誇らしげに八重歯を見せた。
「一部の信者には好評なのじゃ」
「その信者、今どこにいるの……?」戸惑いながら訊く千歳。
「今は……バミューダ三角に封印されておる」
リィナは謎めいた口調で言ったが、その表情はどこか寂しげだった。
「いやどこだよ」
「というわけで、千歳よ。歯医者を呼ぶのじゃ」
「そんな召喚するみたいなノリで言われても……」
と、言いつつ。千歳はちゃっかり異世界求人ポータルにアクセスする。
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【異世界求人ポータル・新着】
募集職種:歯科医師(急募)
勤務地:札幌・ピコリーナビル
報酬:埴輪20体(月額)+魔除け札(希望者)
福利厚生:女神の加護あり(痛みが3割減)
勤務時間:歯が治るまで
備考:ピコリーナホテル・ステラで滞在
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応募者:ゼロ。
「……先端医療って異世界じゃ無理なんだな」
「千歳よ。我、しばらく真面目に働くから、歯医者代を貸してくれんかの?」
「神からたかられる社長って、どんな職種なんだろうね……」
そして数日後。二人は近所の歯科医院の前に立っていた。
「ここ、口コミ★4.6だったから。信頼できるよ」
「人の星の数で神の歯を診られると思うなよ?」
「じゃあ帰って?」
「行く! 行くから!」
待合室に入った瞬間、リィナは雑誌棚に興味津々。
「……おぉ、『歯科経営最前線』とな? ふむふむ……保険点数制度とはの……」
「え、それ読むの? 神、経営に興味あんの?」
「社内に歯科を置く構想もあるゆえな。保険証さえあれば……」
「保険証、やっぱないの?」
「ない。祈ればもらえると思っていた」
受付の女性が優しく声をかけてくる。
「初診ですね? 保険証かマイナンバーはございますか?」
「神なので、ない」
「では十割負担になりますが……」
「なにゆえこの国は神を課金制で扱うのじゃ」
「医療はそういうものです」
バシッ。
千歳の手刀が神の後頭部に決まった。
「保険証作ってから来なさい!」
「ぐはっ……」
受付で渡された問診票を手に取り、リィナはさらさらと書き込む。
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問診票
氏名:リィナ=フェルナル
性別:女
生年月日:西暦−1975年(神暦表記)
住所:北海道札幌市ピコリーナ・カンパニー
妊娠経験:なし
既往歴:首から下が一度消滅(再生済)
服用中の薬:神気強化ハーブティー
アレルギー:現代常識
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受付嬢は静かにペンを置いた。
「……お大事にどうぞ」
診察室に入ると、若い歯科医が笑顔で迎える。
「では、お口を開けてください」
「あーん……」
「……光ってる!? 奥歯が、発光して……しかも動いてる!?」
「太古に封印した魔王の怨念がまだ残っておるのじゃろうな」
「それ、うちじゃ無理です!」
「千歳よ、なんとかせい!」
「だから、保険証作ってきなってば!」
次はレントゲン室。
「はい、この機械で映しまーす……」
バチバチッ!!
「映らない!? こんなの初めて……!」
「きっと魔力干渉じゃな。ならば……祈りでなんとか──」
「だめです! レントゲンは祈っても動かないんです!」
「仕方ないのう、そなたに神の力を少し授ける。これでなんとかせぃ」
リィナは神の力を発動する。
「おぉ、これは! 身体が整ってくる!」
「そうじゃろう? この力はサウナに1分入った時と同じ効果が得られるのじゃ!」
意味ないじゃん。とは、言わなかった。
そこからが、戦いだった。
光る奥歯。微妙に喋る詰め物。時折発動する神気バリア。それらすべてを乗り越え、歯科医の額には汗が滲む。
「……ふぅ、終わりました」
「我が歯、平穏なり……感謝いたす」
「お会計お願いしまーす」
受付に戻ったリィナに、容赦ない宣告が下される。
「十割負担で……22,800円です」
「なぬぅっ!?」
「千歳よ……」
「はいはい。あとで返してね。1年ローンで」
帰り道。リィナはどこか晴れやかだった。
「いやはや……歯とは、世界を変える存在じゃの」
リィナはぽつりと呟きながら、自分の鏡に映る笑顔をじっと見つめていた。
「普通の人間も、そう思ってるよ」
千歳は苦笑いしながらも、その微妙な変化を見逃さなかった。
「次は……保険証を手に入れるべきか」
「いよいよ人間っぽくなってきたね」
「千歳よ。我、年金の免除制度についても相談したいのじゃが……」
「……まずは役所行って来いよ!!」
千歳の鋭いツッコミにリィナはしゅんと肩を落としたが、どこか嬉しそうに微笑んでいた。