魔術大学学長が、博士号授与のためガウンをまとったノンナに微笑みかけている。
重厚で良く響く声での呼びかけに、ノンナは一拍遅れて反応した。
――いけない。これが、いまの私の名前。
ノンナという名前は、かつて継母が選んだ。侮蔑のこもった名前だった。
それでも、その名の由来には、なぜか愛着がある。蔑みの名だったはずなのに、不思議と誇りすら感じている。
両親がくれた名前は、ミドルネームとして添えた。
奪われ、封じられた日々を越え、仲間と共に取り戻した。今の自分はその名と共にある。
そしてもうひとつ、新たな名前も手に入れた。
生涯の伴侶と共に名乗る、誇りある姓だ。
ふたつの名と、ひとつの姓。
どれも大切なのに、全体の響きはまだ、心の深いところに馴染みきらない。
きっとそれは、傷ついた過去が、まだ輝く未来をまっすぐに見つめることを、少しだけ邪魔しているからだ。
――ダメね。もっと、いまの私を信じてあげなきゃ。
拍手が鳴り止まぬ中、博士号授与のため、学長の待つ壇上へと歩を進める。
堂々としたその姿に、かつて彼女が泥と恐怖にまみれていた少女だったと気づく者はいないだろう。
――私は……抗うことを許されない贖罪義務の奴隷だった。でも、いまは違う。
かつてノンナは、すべてを継母によって奪われた奴隷のような存在だった。
名前、力、家族、誇り……すべては許されなかった。
異母妹の影に控えて仕えた。
生まれながらの力は、「災い」として封じられた。
感謝を強いられ、嘲笑と暴力の中で、飢餓感に苛まれる日々が続いた。
けれど17歳のとき、ノンナの封じられた力……精霊眼は開花した。
精霊眼とは、魔法能力である。
技術を磨くことで、過去の痕跡が残る場所から、過去に起きた出来事の痕跡を、「視覚」として読み取れる。
ノンナの揺るぎない知性は、継母の虐待の中でも決して揺らぐことはなかった。
その聡明さは慎重に選んだ言葉の奥に隠れていた。
その慎重さは、彼女を傷つける言葉や沈黙から守る、静かな鎧となっていた。
継母から自由になったノンナは歴史的な研究成果を上げた。
精霊眼の活用により、魔術体系に新たな理論を築き上げたのだ。
壇上から視線を向けた先には、ノンナを「見つけた人」、そして、ノンナと「共に歩む人」の姿がある。
彼らの優しい眼差し。揺るがぬ信頼。
***
すべての始まりは、17歳の、凍てつく冬の日だった。
――あの夜、私は初めて、自分の意志で抗う可能性に気づいた。
そして、翌日。ノンナは「見つけられた」。
それからのノンナは、巧妙な支配に対して慎重かつ確実に動き始めた。
意志と知恵を武器にして、信頼する者たちと共に進んだ。
名を取り戻し、偽りを暴き、すべての因果を断ち切る物語は、あの夜、静かに始まった。