目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第1章 ノンナの生活 第02話-淫婦の娘

「ごきげんよう、ふしだらな女の娘」


 夜も更けた頃、ノンナの部屋の扉が静かに開いた。

 離れの小屋に冷気が流れ込み、薄い仕事着の上から容赦なく肌を刺す。


 ノンナがこのフォートハイト伯爵家に来たのは、生後1年のときだった。

 侍女のゴードは、そのときのことを、まるで厄介な荷物でも扱ったかのように話す。


 それから16年、一度も本邸の居室に住んだことはない。

 父の実子でありながら、屋敷の影に追いやられた婚外子……それがノンナだった。


「あの日は禍々しい天気だった。天が呪うような空模様。呪われた赤子がこの家に来たせいで、きっと……」


 そんなふうに、ゴードはいつも忌ま忌ましげに振り返る。

 それ以来、屋敷で起きるすべての不幸は、ノンナのせいにされた。


 扉の前に立っていたのは、毛皮のコートをまとった継母・伯爵夫人エリゼーヌ。

 高貴な容貌に、冷ややかな蔑みと憎悪が宿る。


 ノンナは無言でひざまずいた。


「ごきげんうるわしくあられますことを、お喜び申しあげます」


 石床の冷たさが膝を刺す。それでも顔色は変えない。

 表情のゆらぎひとつが、罰を呼ぶ。


「お前の優しい姉リリアーヌに、反抗的な目を向けたそうね」


 ――寒空の朝、桶の水を頭から浴びせてくる姉に、尊敬の眼差しはなかなか難しい。


「申し訳ございません。罰を賜りますよう、お願い申しあげます」


 感情を抜いた声。それが正解だった。

 反論すれば、罰は倍になる。


「その後、机の準備も遅れたそうね。髪も乱れていたとか。側近の務めくらい、きちんと果たしなさい」


 ――水浸しの髪は、乾かすのに時間がかかる。走ったけれど、少し遅くなった。


「リリアーヌがどれほど恥をかいたか、考えたことがある?」


 始業には間に合っていた。けれど……そんなことは言わない。

 ここでは、正しさに意味はない。


「申し訳ございません」


 見下ろす視線は、まるで汚れた靴底でも見るかのようだった。


「さらに、エドワール様にも生意気な口を利いたそうね」


 ――心当たりは、ひとつだけ。あれのこと?


 昨日、エドワールはリリアーヌの腰にいやらしく手を回しながら、ノンナにこう言った。


「お前もどうだ? 少しは訓練しておくか」


 ノンナが眉をひそめた。それだけで、彼は不愉快そうに顔を歪めた。

 それを「睨まれた」とでも言いつけたのだろう。


 下劣さを見抜かれることを、何よりも恐れているのは……エドワール自身だ。


 ――辛いことはたくさんある。

 でも、最もおぞましい真実……

それは、貴族登録上、私があの蛇のような男の「妻」とされていることだ。


 ***


 ノンナの暮らしは、季節を問わず絶望に満ちていた。


 冬は凍え、夏は血が煮える。しもやけも、熱中症も、もはや慣れっこだ。

 気候も、人間も、仕事も……すべてが容赦なく牙を剥く。


 ノンナは静かに頭を垂れた。


 エリゼーヌの目配せに、侍女のゴードが無言で前に出る。

 懐から取り出されたのは、お馴染みの革製の鞭だ。


 空気を裂く音が響き、背に鋭い痛みが走る。肩がわずかに震えた。

 ノンナは、表情を整える。


 ――ほんの少し、苦悶をにじませる。多すぎても、足りなくてもいけない。


 5度の鞭打ちが終わり、ゴードが退くと、ノンナは密かに息をついた。

 「いつも通り」だった。


 けれど、その「いつも通り」が、日々少しずつ心を削っていく。


 エリゼーヌは艶然と笑い、冷ややかに口を開く。


「お前は淫婦……お前の母が、私にどれほどの苦しみを与えたか、知らないでしょうね。淫婦は淫らに病み、死んだ。醜く愚かな娘……お前を残して」


 その声は異様なまでに落ち着いていて、ノンナの心を、じわじわと蝕んだ。


 この話は、物心ついてから毎日のように繰り返されてきた。

 ノンナは聞き流す術を身につけている。数字を頭の中で並べながら。


  ――365日×かける15年で5475回。閏年を加えて5479回。いらっしゃらない日もあるから、5000回くらいかしら。


「お前の母は、正妻である私を陥れ、ドナルド様を誘惑したのよ。でも、ドナルド様の愛は本物だった。淫婦を追い払い、私とリリアーヌの幸福をようやく成就させたの」


 ――成就。


 ひざまずいたまま、ノンナはその言葉を咀嚼する。


 踏みにじられる自分の日々が、継母にとっては「愛の成就」だという。

 それを、どうしてあんなにも美しい物語のように語れるのか。


 エリゼーヌが指を伸ばした瞬間、ノンナの内に冷たい何かがせり上がる。


 ――まただ。


 闇のような魔力が、エリゼーヌの指先から放たれる。

 「災い」と呼ばれるノンナの力を吸い取る術。


 身体の奥から、熱と魔力が奪われていく。

 四肢に痺れるような痛みが走り、足元がぐらつく。それでも、ノンナは耐えた。


 ***


 けれど、今日は違った。


 昼過ぎから、なぜか不思議な「余裕」のようなものがあった。

 それが今、魔力を吸われる最中に、根こそぎ消えていく。


 吸収が終わり、いつもならそのまま立ち去るはずのエリゼーヌが、じっとノンナを見下ろしていた。

 その瞳に、探るような光が宿る。


 ……それだけではなかった。


 ほんのわずか怯えが、あった。


 おそらく本人も気づいていない。けれどノンナにはわかる。

 吸収の最中、エリゼーヌは「異質な何か」を感じたのだ。

 それはたぶん、あの「余裕」だ。


 ノンナ自身の中にも、感覚の変化があった。

 吸い取られていたはずの力が、一瞬、逆流しかけたような感触。

 視界が揺らぎ、床に残った影の輪郭が、かすかに滲んだ。


「お前の母は泥棒よ。私とリリアーヌから幸福を奪った。そっくりな娘であるお前も、災いに満ちている。この家に尽くし、償わせてやることに感謝しなさい」


 にじむ憎しみ……けれど、そこには確かに「揺らぎ」があった。


 ノンナはふと顔を上げる。冷たい瞳に気づき、すぐにうつむいた。

 だがその瞬間、確信のような予感が胸に残る。


 ――いまの視線。あれは、ただの怒りではない。


 エリゼーヌの完璧な支配。その奥に、揺らぎがある。

 それは、妙に……滑稽だった。


 ノンナは笑いそうになりながら、いつものように、無表情を保った。


 ***


 エリゼーヌは目配せをし、部屋を出ていった。護衛が静かに続く。


 残された侍女のゴードが、無言のままノンナの顔を乱暴につかんだ。冷えた指が頬に食い込む。

 口を無理やりこじ開けられ、甘ったるい液体が喉に流し込まれる。

 それは薬だ。

 ……ノンナにいつも通りの屈辱を与えるための薬なのだ。


 けれど空腹の身体には、その甘さがほんのわずかに、救いのように感じられてしまう。


 飲み下したことを確認すると、ゴードは冷たく笑った。その軽蔑をこめた顔から、ノンナは思わず目をそらす。


 扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。


 ノンナはゆっくりと立ち上がり、外の水場へ向かった。


 凍てつく夜の空気が、肌を容赦なく刺す。月の光が、彼女の細い影を長く伸ばしていた。


 ――償い。


 あの言葉だけが、胸にしつこく残る。


 本当に、あれは正しいのだろうか?


 昼間、確かに感じたあの「余裕」。

 今はもう失われたと思っていたその感覚が、心の奥にかすかに残っている気がした。


 それは、自分を支えてくれるような……懐かしい、でも知らない力。


 ふと、誰かに見守られているような感覚が胸をよぎる。


 音はない。姿もない。でも、確かに「何か」が自分に触れたような、不思議な余韻だけが残っていた。


 ――あれは、なんだったの……?


 ノンナはそっと息を吐いた。


 その小さな違和感は、まだ言葉にならない。けれど、それは確かに、「抗い」の目覚めだった。


 ノンナは……何かを得たのかもしれない。


 ――抗えるようになった?

 これは私の力? それとも、誰かが――。


 答えは出ない。ただ、心に残る火種は、まだ消えていなかった。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?