「ごきげんよう、ふしだらな女の娘」
夜も更けた頃、ノンナの部屋の扉が静かに開いた。
離れの小屋に冷気が流れ込み、薄い仕事着の上から容赦なく肌を刺す。
ノンナがこのフォートハイト伯爵家に来たのは、生後1年のときだった。
侍女のゴードは、そのときのことを、まるで厄介な荷物でも扱ったかのように話す。
それから16年、一度も本邸の居室に住んだことはない。
父の実子でありながら、屋敷の影に追いやられた婚外子……それがノンナだった。
「あの日は禍々しい天気だった。天が呪うような空模様。呪われた赤子がこの家に来たせいで、きっと……」
そんなふうに、ゴードはいつも忌ま忌ましげに振り返る。
それ以来、屋敷で起きるすべての不幸は、ノンナのせいにされた。
扉の前に立っていたのは、毛皮のコートをまとった継母・伯爵夫人エリゼーヌ。
高貴な容貌に、冷ややかな蔑みと憎悪が宿る。
ノンナは無言でひざまずいた。
「ごきげんうるわしくあられますことを、お喜び申しあげます」
石床の冷たさが膝を刺す。それでも顔色は変えない。
表情のゆらぎひとつが、罰を呼ぶ。
「お前の優しい姉リリアーヌに、反抗的な目を向けたそうね」
――寒空の朝、桶の水を頭から浴びせてくる姉に、尊敬の眼差しはなかなか難しい。
「申し訳ございません。罰を賜りますよう、お願い申しあげます」
感情を抜いた声。それが正解だった。
反論すれば、罰は倍になる。
「その後、机の準備も遅れたそうね。髪も乱れていたとか。側近の務めくらい、きちんと果たしなさい」
――水浸しの髪は、乾かすのに時間がかかる。走ったけれど、少し遅くなった。
「リリアーヌがどれほど恥をかいたか、考えたことがある?」
始業には間に合っていた。けれど……そんなことは言わない。
ここでは、正しさに意味はない。
「申し訳ございません」
見下ろす視線は、まるで汚れた靴底でも見るかのようだった。
「さらに、エドワール様にも生意気な口を利いたそうね」
――心当たりは、ひとつだけ。あれのこと?
昨日、エドワールはリリアーヌの腰にいやらしく手を回しながら、ノンナにこう言った。
「お前もどうだ? 少しは訓練しておくか」
ノンナが眉をひそめた。それだけで、彼は不愉快そうに顔を歪めた。
それを「睨まれた」とでも言いつけたのだろう。
下劣さを見抜かれることを、何よりも恐れているのは……エドワール自身だ。
――辛いことはたくさんある。
でも、最もおぞましい真実……
それは、貴族登録上、私があの蛇のような男の「妻」とされていることだ。
***
ノンナの暮らしは、季節を問わず絶望に満ちていた。
冬は凍え、夏は血が煮える。しもやけも、熱中症も、もはや慣れっこだ。
気候も、人間も、仕事も……すべてが容赦なく牙を剥く。
ノンナは静かに頭を垂れた。
エリゼーヌの目配せに、侍女のゴードが無言で前に出る。
懐から取り出されたのは、お馴染みの革製の鞭だ。
空気を裂く音が響き、背に鋭い痛みが走る。肩がわずかに震えた。
ノンナは、表情を整える。
――ほんの少し、苦悶をにじませる。多すぎても、足りなくてもいけない。
5度の鞭打ちが終わり、ゴードが退くと、ノンナは密かに息をついた。
「いつも通り」だった。
けれど、その「いつも通り」が、日々少しずつ心を削っていく。
エリゼーヌは艶然と笑い、冷ややかに口を開く。
「お前は淫婦……お前の母が、私にどれほどの苦しみを与えたか、知らないでしょうね。淫婦は淫らに病み、死んだ。醜く愚かな娘……お前を残して」
その声は異様なまでに落ち着いていて、ノンナの心を、じわじわと蝕んだ。
この話は、物心ついてから毎日のように繰り返されてきた。
ノンナは聞き流す術を身につけている。数字を頭の中で並べながら。
――365日
「お前の母は、正妻である私を陥れ、ドナルド様を誘惑したのよ。でも、ドナルド様の愛は本物だった。淫婦を追い払い、私とリリアーヌの幸福をようやく成就させたの」
――成就。
ひざまずいたまま、ノンナはその言葉を咀嚼する。
踏みにじられる自分の日々が、継母にとっては「愛の成就」だという。
それを、どうしてあんなにも美しい物語のように語れるのか。
エリゼーヌが指を伸ばした瞬間、ノンナの内に冷たい何かがせり上がる。
――まただ。
闇のような魔力が、エリゼーヌの指先から放たれる。
「災い」と呼ばれるノンナの力を吸い取る術。
身体の奥から、熱と魔力が奪われていく。
四肢に痺れるような痛みが走り、足元がぐらつく。それでも、ノンナは耐えた。
***
けれど、今日は違った。
昼過ぎから、なぜか不思議な「余裕」のようなものがあった。
それが今、魔力を吸われる最中に、根こそぎ消えていく。
吸収が終わり、いつもならそのまま立ち去るはずのエリゼーヌが、じっとノンナを見下ろしていた。
その瞳に、探るような光が宿る。
……それだけではなかった。
ほんのわずか怯えが、あった。
おそらく本人も気づいていない。けれどノンナにはわかる。
吸収の最中、エリゼーヌは「異質な何か」を感じたのだ。
それはたぶん、あの「余裕」だ。
ノンナ自身の中にも、感覚の変化があった。
吸い取られていたはずの力が、一瞬、逆流しかけたような感触。
視界が揺らぎ、床に残った影の輪郭が、かすかに滲んだ。
「お前の母は泥棒よ。私とリリアーヌから幸福を奪った。そっくりな娘であるお前も、災いに満ちている。この家に尽くし、償わせてやることに感謝しなさい」
にじむ憎しみ……けれど、そこには確かに「揺らぎ」があった。
ノンナはふと顔を上げる。冷たい瞳に気づき、すぐにうつむいた。
だがその瞬間、確信のような予感が胸に残る。
――いまの視線。あれは、ただの怒りではない。
エリゼーヌの完璧な支配。その奥に、揺らぎがある。
それは、妙に……滑稽だった。
ノンナは笑いそうになりながら、いつものように、無表情を保った。
***
エリゼーヌは目配せをし、部屋を出ていった。護衛が静かに続く。
残された侍女のゴードが、無言のままノンナの顔を乱暴につかんだ。冷えた指が頬に食い込む。
口を無理やりこじ開けられ、甘ったるい液体が喉に流し込まれる。
それは薬だ。
……ノンナにいつも通りの屈辱を与えるための薬なのだ。
けれど空腹の身体には、その甘さがほんのわずかに、救いのように感じられてしまう。
飲み下したことを確認すると、ゴードは冷たく笑った。その軽蔑をこめた顔から、ノンナは思わず目をそらす。
扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。
ノンナはゆっくりと立ち上がり、外の水場へ向かった。
凍てつく夜の空気が、肌を容赦なく刺す。月の光が、彼女の細い影を長く伸ばしていた。
――償い。
あの言葉だけが、胸にしつこく残る。
本当に、あれは正しいのだろうか?
昼間、確かに感じたあの「余裕」。
今はもう失われたと思っていたその感覚が、心の奥にかすかに残っている気がした。
それは、自分を支えてくれるような……懐かしい、でも知らない力。
ふと、誰かに見守られているような感覚が胸をよぎる。
音はない。姿もない。でも、確かに「何か」が自分に触れたような、不思議な余韻だけが残っていた。
――あれは、なんだったの……?
ノンナはそっと息を吐いた。
その小さな違和感は、まだ言葉にならない。けれど、それは確かに、「抗い」の目覚めだった。
ノンナは……何かを得たのかもしれない。
――抗えるようになった?
これは私の力? それとも、誰かが――。
答えは出ない。ただ、心に残る火種は、まだ消えていなかった。