朝の冷気が、薄い夜着の上から容赦なく肌を貫く。
粗末な寝床にはわずかな温もりがあったが、一歩外に出た瞬間、寒気が全身を締めつける。
17年間、この小屋で過ごしてきた。それでも寒さは……つらかった。
窓を開けると、夜の名残がまだ空に残っていた。東の空のにじむ光に、星々が静かに溶けていく気配があった。
ノンナはかじかんだ指先をすりあわせながら、仕事着に袖を通す。
誰よりも早く起きる。それが、彼女に与えられた務めだった。
裏口から抜け、屋敷の奥……使用人たちが顔を背ける、汚れ物の山が集められた部屋へと足を運ぶ。
ノンナが「洗濯部屋」と呼ぶその一室は、照明の魔導具をつけても暗く、湿気に蝕まれた臭いが染みついている。
扉を開けると、リリアーヌやエリゼーヌのドレス、使用済みのシーツ、台所の布巾が雑然と山積みになっていた。
その中に、父・フォートハイト伯爵ドナルドの衣服は一着もない。
伯爵は屋敷にいるはずだ。なのに、ノンナは一度たりとも顔を見たことがなかった。
――母の娘である私を、きっと伯爵は近づけたくないのね。
ノンナは黙々と作業を始めた。汚れ物を仕分けし、水の量を見積もる。
洗濯設備はあるが、水は汲んでくるよう命じられている。
天秤棒に空の桶をかけ、庭の井戸へ向かう。
この仕事を命じられた日のことは、よく覚えている。
「エリゼーヌ様を苦しめた淫婦の娘が、これくらいで償えるなら感謝なさいな」
ゴードの冷笑と共に告げられたその言葉は、今でも耳に焼きついている。
幼いころ、ノンナは使用人たちのささやきを偶然耳にしたことがある。
「伯爵閣下はお気の毒だったらしいわ」
「でも正妻を選ばれたのよね……」
それが何を意味していたのか、当時は分からなかった。けれど、その断片的な言葉が、胸の奥にずっと引っかかっている。
この屋敷では、規律を乱すと、消される。
そのときひそひそと噂話をしていたメイドたちも、ほどなくして姿を見せなくなった。
別の、似た思い出がある。
洗濯物を手渡したときの、あるメイドのひとこと。
「丁寧に畳むのね」
それだけの言葉だった。だが、その声にはほんのわずかに、優しさがにじんでいた。
翌日、そのメイドは解雇された。そしてノンナは、鞭打たれた。
それ以来、誰もノンナに声をかけようとはしない。
形式的に「ノンナ様」と呼ばれても、視線には冷たい軽蔑が宿っている。
「ノンナ様、まだ洗濯中ですか?」
声は、外からかけられた。声の主は中へ入ってこない。
この部屋にあるのは、湿気、汚れ、カビの臭い、そして……ノンナ自身。
「はい。敷布をあと1枚絞ったら、干しに行きます」
「またノロノロして……ほんと、賢そうな顔してるのに全然役立たず。ゴミ処理までこっちがやるのは勘弁してほしいです」
「はい、かしこまりました。申し訳ありません」
ノンナは静かに応じ、手を動かし続ける。
外にいたのは、2歳年下の下級メイドだった。この屋敷で、立場として最も下に位置づけられているのが、「ノンナ様」だという現実を、彼女の態度は如実に物語っていた。
――役に立つって、つまり……。先回りして、奴隷のように振る舞うこと。
喉の奥で、自嘲の笑みがかすれた。
冷えた指先で、ノンナは濡れた布をぎゅっと絞る。
空気はまだ凍てつくように冷たい。
けれど、ノンナの心の奥には、昨日から灯ったわずかな熱が、確かに残っていた。
――私の母は、本当に悪い人だったの?
――なぜ私は、伯爵の娘なのに、すべてを奪われているの?
問いには答えがない。いつもなら、考える前に諦めていた。けれど、今日は違う。
熱が心にとどまり続けている。
昨日、リリアーヌにかけられた冷水の感触を思い出し、体がぶるっと震えた。
また同じ仕打ちを受けないように、今日は昨日よりも早く起きた。誰よりも早く、洗濯場に立った。
洗濯物の束を胸に抱え、ノンナは物干し場へ向かう。
朝の風が、冷たく吹きすさんでいた。
それでも、昨日ノンナの胸の奥に灯った火種は……まだ、消えていなかった。