ノンナはそのとき初めて、誰に言われたわけでもなく、無意識に精霊眼を発動させてしまった。
魔力を奪われなくなって、魔力量は十分。しかし、自分の魔力を使いこなす余裕はなかった。
心身の疲れがようやく癒え、気が緩んだその隙に、唐突に精霊眼が発動したのだ。
たとえ弟でも、正当な理由なく他人の記憶に触れてしまったことに、ノンナは愕然とした。
浮かび上がったのは、異国風の穏やかな室内。手入れの行き届いた家具、美しい刺繍布。
そして幼いサンディに「手加減はしないよ」とまっすぐ告げる研究者と、その傍らで静かに微笑む上品な女性。
ノンナの目に、涙があふれた。
「ど、どうしたの、大丈夫?」
サンディが慌てて声をかける。ノンナは顔を両手で覆い、かすれた声で答えた。
「……ごめんなさい。サンディとご両親の記憶が見えてしまって……。許可もなく……本当にごめんなさい」
マクシムがしばらく黙って考え込んでから、静かに言った。
「……無意識でも発動するのか。それは負担が大きいな。制御できる魔導具を検討しよう」
一方、サンディは柔らかく笑った。
「ノンナの負担になるのは分かる。でも正直……僕も、その記憶、見てみたいな」
涙をぬぐったノンナは手を差し出し、サンディと手を繋いで再び投影を試みた。
映像はすぐに浮かび、サンディは子どものように歓声を上げた。
「わあ……懐かしい。父さんと母さんだ!」
「ありがとう、ノンナ」と言って、サンディはこぼれるように泣き出した。
ノンナは彼を見つめ、そっと涙をぬぐった。
互いの涙が、失われた日々とこれからをつなげてくれるようだった。
それからふたりは、時おりドンネステ家の記憶を一緒に見るようになった。
ある日の映像では、刺繍を習うサンディに「サンディの相棒になる精霊眼の持ち主が縫い物好きだったら、一緒に縫うのも楽しいわね」と「母さん」が笑っていた。
その一言から、「母さん直伝の刺繍教室」が始まった。
ノンナにとって縫い物は、ただの雑用にすぎなかった。
だがサンディと一緒に針を進めるうち、手仕事の時間が心をほぐしていく。
――会ったことはないけれど、あの「父さん」と「母さん」は、私にとっても育ての親のよう。
そんな想いが、ノンナの胸に芽生えた。
***
その後、マクシムとサンディは魔術騎士団と相談し、ノンナの力の扱い方について方針を定めた。
ノンナとサンディは国王の許可を得て、正式にソフォスアクシ公爵家の預かりとなった。
強大な力が誤って使われぬよう、魔術騎士団内には「精霊眼研究会」が設立された。
「基本は我が家で守る。ただ、我が家が誤った判断をしないよう、騎士団の各分野の達人と連携する」
そう語るマクシムに、ノンナは心から安堵した。
彼の提案により、無意識での発動を防ぐための制御魔導具が検討され、研究会の助言と共に導入が決まった。
***
ノンナと、ドスピランス伯爵の次男エドワールとの「婚約」は、ノンナが正式にアウレスピリア子爵位を継いだのを機に、破棄された。
きっかけは、ソフォスアクシ公爵家による独自の調査だった。
ドスピランス伯爵は、災害復興を意図的に怠り、収賄と謀略によって隣接領を簒奪していた。
その証拠をまとめたソフォスアクシ公爵が国王に直接報告した。
国王はのドスピランス伯爵の領地取得が無効であると宣言し、ノンナに対して過去の判断を謝罪。
彼女の血統を正式に認め、断罪に貢献した功績も加味して、ノンナを正統なアウレスピリア子爵として任命した。
新生アウレスピリア子爵家はソフォスアクシ公爵家の寄子として再出発し、ノンナは代官との定期会合を通じて統治を学びはじめた。
当然のこととして、エドワールとの政略結婚も白紙に戻された。
婚姻は形式にすぎず、法的な支障もなかった。
一方で、ドスピランス伯爵は……最後まで足掻いた。
精霊眼の力で利益を得ることをもくろみ、婚姻の継続を何度も訴え出たのだ。
だが、そのたびに公爵家が毅然とした態度で退けた。
最終的に観念した伯爵は、失意の中、エドワールの兄に爵位を譲って領地に引っ込んだ。
その醜態は社交界の笑い種となり、「精霊眼クレクレ伯爵家」とあだ名されて、陰口の的となった。
ノンナは、その一連の流れを冷静に受け止めていた。
ただ一言、「リリアーヌ嬢同様、今後は一切関わりたくないです」と、マクシムたちに静かに伝えた。
エリゼーヌの企みに加担し、自分を苦しめたドスピランス家に恨みはある。
だが、復讐を続けることに、もう意味は感じていなかった。
物心ついてから積み重ねられた痛みが消えたわけではない。
けれど、その痛みに引きずられない選択を、ノンナはできるようになった。
――彼らは、彼らなりの責任を背負って、領民の幸せを実現するよう生きていけばいい。私は、私の道を行く。
かつては、他人の手の中で生きるしかなかった自分が、今は、自分の名を持ち、領地を持ち、人々と向き合っている。
――誰かの幸せを、ただ願いたいと思えるようになった。
それが、ノンナが選び取った自由のひとつだった。
***
研究会設立のころ、マクシムは2組のイヤーカフをノンナとサンディに手渡した。
「この魔導具をつければ、ノンナ嬢とサンディの判断で制御を外せる」
サンディはノンナとしばらくそれを試したあと、尋ねた。
「これ、マクシム様もつけないんですか?」
マクシムは一瞬ぎょっとし、「いや、それは……立ち入りすぎだろう」と口ごもる。
マクシムらしい反応だった。けれど、ためらいの奥に熱があることも、ノンナには分かった。
「姉を僕と一緒に守ってください。近くにいてください。弟として、お願いします」
サンディの真っ直ぐな言葉に、マクシムはノンナを見た。
ノンナは、そっとうなずいた。
「わかった。これからも、全力で守る」
その言葉が、ノンナの胸に静かに染み込んだ。
温かくて、柔らかくて、頬がふわりと熱を帯びる。
マクシムは、ノンナの初恋だった。
初めて念話でつながったとき、その冷静さと優しさに、どれだけ救われたか分からない。
一緒にいるだけで、嬉しかった。
――ずっと一緒にいたい。マクシム様が、元気で、ちゃんと良い仕事ができるように、そばにいたい。
彼の仕草や表情には、ときどき、同じ想いがにじんでいるように感じることがあった。
たとえば、研究会の要請で精霊眼を使いすぎ、魔力切れで倒れた日。
「無理をしすぎだ」
苛立つでもなく、静かに叱ったその声に、はっきりと心配が滲んでいた。
支える手。覗き込むまなざし。そのどれもが、ノンナの心を揺らす。
「彼女に負担をかけすぎるな。この力が、ただ使われるもので終わらぬように……ともに考えていこう」
マクシムは研究会の仲間にそう告げた。
ノンナを支えるその手のぬくもりが、胸の奥で小さく灯をともした。
でも……。
期待して、裏切られるのが怖い。
教育も愛情もろくに与えられず育ったノンナにとって、マクシムは遠い存在でもあった。
今は女子爵とはいえ、将来の公爵であるマクシムとは、大きな身分差がある。
想いを知られたら、彼の態度が変わってしまうかもしれない。
想いがかなっても、重荷になってしまうかもしれない。
その恐れは、どうしても消えなかった。
それでも……。
マクシムは初めて会ったときから、ノンナがただ復讐を果たすためでなく、もっと意味のある未来を切り拓けると信じてくれていた。
そしてその信頼を、継母の断罪が終わった今も、変わらず示してくれていた。
***
断罪の夜会からおよそ1か月後。
ノンナとサンディは、マクシムと共にフォートハイト伯爵家を訪れた。
ドナルド・フォートハイト伯爵が爵位を返上し、サンディが正式に後継者となる手続きを行うためだ。
――あの夜、精霊眼に照らされた真実のもと、母ユリアを愛し、想いを継ぐ者たちが、いまここに集おうとしている。