セオドアは、苦いものを噛み締めるような顔で、妹エリゼーヌを見つめている。
その眼差しに宿っていたのは、信じてきたものを裏切られた男の絶望だった。
それを見たリリアーヌの胃がキュッと痛んだ。
「エリゼーヌ。言い分は聞こう。ただその前に、ドナルド様との婚姻に関して、なぜこれほど不自然な点が多いのか。説明してもらおう」
その声は静かだった。だが、抑えた怒りがはっきりと滲んでいた。
エリゼーヌは一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐに冷ややかな笑みを浮かべた。
「兄上には関係のないことよ。ドナルド様は……私だけのもの。真実の愛で結ばれた私を、ドナルド様が必要としてくださったの」
そう言い放つ口調には冷たさがあった。
一瞥もくれず、指を優美に継子に向ける。
「アレ……淫婦の子が、すべてを壊そうとしているのよ。アレは、災いに満たされた器にすぎない。私がアレを封じ、分け与え、導くのが当然だったのよ」
セオドアは淡々と次の問いを投げかける。
「私はリリアーヌが生まれた後に帰国した。そのとき、同じ年頃のノンナ嬢の存在は一切知らされていなかった。なぜだ?」
エリゼーヌはかすかに口角を上げる。
「お分かりでしょう? アレは爵位を失った家の娘が産み落とした『呪われた子』。表に出す必要はなかったのよ」
声をひそめて続ける。
「内々に籍だけ加えておけば、十分だったわ。私とドナルド様の幸せのためには……存在そのものを、伏せるべきだった」
その言葉に、リリアーヌの胸の奥に冷たいものが走る。
母の口ぶりには、ノンナを人間として扱う気配すらない。
――おじ上なら、私と違って、ノンナを虐めたりはしなかった。母上は、それを知っていた。だから、隠したのだ。
セオドアは目を伏せた。何かを飲み込むように、顔をゆがめた。
やがて顔を上げると、まっすぐ妹を見据え、押し殺した声で言った。
「初めてドナルド様に会ったとき、引っ込み思案な方かと思った……だが今なら分かる。あれは、自分の意志で生きている顔ではない。何かに縛られている」
「何が言いたいの、兄上」
エリゼーヌの声が低くなる。かすかに震えていた。
セオドアが強い声で言う。
「魔法を使ったんだな。ドナルド様の心を、無理やり自分に向けさせた」
沈黙が場を支配した。
リリアーヌは思わず息を呑み、母の横顔を見つめた。
エリゼーヌは目を伏せたまま、何も答えなかった。
否定の一言すら、なかった。
しばらくして、セオドアがゆっくりと話しはじめる。
「私は妹がどれだけ努力してきたかを知っている。母上に叱られながらも、一生懸命だった。子どものころのエリゼーヌは……
その声には、かすかな哀惜があった。
「叱られて泣いている妹を、男爵家のバラ園に誘った。兄妹でお茶会をしたな」
その思い出話を聞きながら、エリゼーヌが素朴な笑みを浮かべる。小さくうなずく。
「『魔法、作法……どちらももっと上を目指します』って……小さな貴婦人は、胸を張っていた。私は今でも、あの姿を鮮やかに覚えている」
セオドアの声がわずかに揺れる。
だがすぐに、顔を引き締め、マクシムの方へ向き直った。
「マクシム卿……再配分魔法は、精神支配を可能にするのですか?」
マクシムは一拍の間をおいて、静かにうなずいた。
「はい。王家が禁術とした理由のひとつが、それです。感情領域に干渉し、他者の意志をねじ曲げる効果が確認されています」
リリアーヌの背中に冷たいものが這い上がる。
――そんな魔法で奪われた力を、私は……当然のように受け取っていた。
セオドアは重くうなずき、静かに言った。
「徹底的な調査が必要ですね。妹が何をしてきたのか……すべて、明らかにしなくては」
そのとき、エリゼーヌが顔を上げた。
唇にうっすらと笑みを浮かべる。その笑顔には、確信が満ちていた。
「明らかにしても、困ることなんて何もないわ」
まるで子どもに語りかけるように、楽しげに言葉を紡いだ。
「そう……私はリリアーヌに、アレの災いを再配分した」
セオドアが息を呑む。
エリゼーヌはリリアーヌを誇らしげに見つめた。
「災いは、使いこなせば力になる。リリアーヌは、それを示してくれた」
エリゼーヌは今度はドナルドを見つめた。
熱を帯びたまなざしを向ける。
「ドナルド様の心も同じ。私が導いたの。再配分魔法が正しい幸せをもたらしたのよ」
ひと息おいて、エリゼーヌは首を
「それの、どこがいけないの?」
リリアーヌは、母の声を聞きながら……息をするのを忘れていた。
エリゼーヌの言葉には、揺るぎない確信があった。
けれどその奥には、音も風も通さない、大理石の床のような静けさが横たわっていた。
静けさの上に、虚無の箱庭が広がっていた。
果てしなく、底知れず、何もかもが沈んでいく。
リリアーヌも、気づけばその箱庭にいた。
思考も、感情も、じわりじわりと沈んでいく。
箱庭の中央に、美しく着飾ったエリゼーヌが立っていた。
気品と誇りを身にまとい、一切の無駄なく演出された立ち姿。
周囲を包むのは、彼女が自ら織った金糸の幻想。
それは、自分ひとりが輝くための、祝福と支配の舞台。
感情を抜かれた人形たちが、笑顔を貼りつけ、決められた台詞をなぞっていく。
舞台の中央に立つのはただひとり。
エリゼーヌだけが、演出家であり、主役だった。