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第27話-バラ園の兄妹(リリアーヌ視点)

 セオドアは、苦いものを噛み締めるような顔で、妹エリゼーヌを見つめている。

 その眼差しに宿っていたのは、信じてきたものを裏切られた男の絶望だった。

 それを見たリリアーヌの胃がキュッと痛んだ。


「エリゼーヌ。言い分は聞こう。ただその前に、ドナルド様との婚姻に関して、なぜこれほど不自然な点が多いのか。説明してもらおう」


 その声は静かだった。だが、抑えた怒りがはっきりと滲んでいた。


 エリゼーヌは一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐに冷ややかな笑みを浮かべた。


「兄上には関係のないことよ。ドナルド様は……私だけのもの。真実の愛で結ばれた私を、ドナルド様が必要としてくださったの」


 そう言い放つ口調には冷たさがあった。

 一瞥もくれず、指を優美に継子に向ける。


「アレ……淫婦の子が、すべてを壊そうとしているのよ。アレは、災いに満たされた器にすぎない。私がアレを封じ、分け与え、導くのが当然だったのよ」


 セオドアは淡々と次の問いを投げかける。


「私はリリアーヌが生まれた後に帰国した。そのとき、同じ年頃のノンナ嬢の存在は一切知らされていなかった。なぜだ?」


 エリゼーヌはかすかに口角を上げる。


「お分かりでしょう? アレは爵位を失った家の娘が産み落とした『呪われた子』。表に出す必要はなかったのよ」


 声をひそめて続ける。


「内々に籍だけ加えておけば、十分だったわ。私とドナルド様の幸せのためには……存在そのものを、伏せるべきだった」


 その言葉に、リリアーヌの胸の奥に冷たいものが走る。

 母の口ぶりには、ノンナを人間として扱う気配すらない。


 ――おじ上なら、私と違って、ノンナを虐めたりはしなかった。母上は、それを知っていた。だから、隠したのだ。


 セオドアは目を伏せた。何かを飲み込むように、顔をゆがめた。

 やがて顔を上げると、まっすぐ妹を見据え、押し殺した声で言った。


「初めてドナルド様に会ったとき、引っ込み思案な方かと思った……だが今なら分かる。あれは、自分の意志で生きている顔ではない。何かに縛られている」

「何が言いたいの、兄上」


 エリゼーヌの声が低くなる。かすかに震えていた。

 セオドアが強い声で言う。


「魔法を使ったんだな。ドナルド様の心を、無理やり自分に向けさせた」


 沈黙が場を支配した。

 リリアーヌは思わず息を呑み、母の横顔を見つめた。


 エリゼーヌは目を伏せたまま、何も答えなかった。

 否定の一言すら、なかった。


 しばらくして、セオドアがゆっくりと話しはじめる。


「私は妹がどれだけ努力してきたかを知っている。母上に叱られながらも、一生懸命だった。子どものころのエリゼーヌは……健気けなげだった」


 その声には、かすかな哀惜があった。


「叱られて泣いている妹を、男爵家のバラ園に誘った。兄妹でお茶会をしたな」


 その思い出話を聞きながら、エリゼーヌが素朴な笑みを浮かべる。小さくうなずく。


「『魔法、作法……どちらももっと上を目指します』って……小さな貴婦人は、胸を張っていた。私は今でも、あの姿を鮮やかに覚えている」


 セオドアの声がわずかに揺れる。

 だがすぐに、顔を引き締め、マクシムの方へ向き直った。


「マクシム卿……再配分魔法は、精神支配を可能にするのですか?」


 マクシムは一拍の間をおいて、静かにうなずいた。


「はい。王家が禁術とした理由のひとつが、それです。感情領域に干渉し、他者の意志をねじ曲げる効果が確認されています」


 リリアーヌの背中に冷たいものが這い上がる。

 ――そんな魔法で奪われた力を、私は……当然のように受け取っていた。


 セオドアは重くうなずき、静かに言った。


「徹底的な調査が必要ですね。妹が何をしてきたのか……すべて、明らかにしなくては」


 そのとき、エリゼーヌが顔を上げた。

 唇にうっすらと笑みを浮かべる。その笑顔には、確信が満ちていた。


「明らかにしても、困ることなんて何もないわ」


 まるで子どもに語りかけるように、楽しげに言葉を紡いだ。


「そう……私はリリアーヌに、アレの災いを再配分した」


 セオドアが息を呑む。


 エリゼーヌはリリアーヌを誇らしげに見つめた。


「災いは、使いこなせば力になる。リリアーヌは、それを示してくれた」


 エリゼーヌは今度はドナルドを見つめた。

 熱を帯びたまなざしを向ける。


「ドナルド様の心も同じ。私が導いたの。再配分魔法が正しい幸せをもたらしたのよ」


 ひと息おいて、エリゼーヌは首をかしげた。


「それの、どこがいけないの?」


 リリアーヌは、母の声を聞きながら……息をするのを忘れていた。


 エリゼーヌの言葉には、揺るぎない確信があった。

 けれどその奥には、音も風も通さない、大理石の床のような静けさが横たわっていた。

 静けさの上に、虚無の箱庭が広がっていた。

 果てしなく、底知れず、何もかもが沈んでいく。


 リリアーヌも、気づけばその箱庭にいた。

 思考も、感情も、じわりじわりと沈んでいく。


 箱庭の中央に、美しく着飾ったエリゼーヌが立っていた。

 気品と誇りを身にまとい、一切の無駄なく演出された立ち姿。

 周囲を包むのは、彼女が自ら織った金糸の幻想。

 それは、自分ひとりが輝くための、祝福と支配の舞台。


 感情を抜かれた人形たちが、笑顔を貼りつけ、決められた台詞をなぞっていく。

 舞台の中央に立つのはただひとり。

 エリゼーヌだけが、演出家であり、主役だった。



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