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第28話-素敵な家族を始めましょう(リリアーヌ視点)

 エリゼーヌの目が光る。さらに狂気じみた熱が宿った。

 誇らしげに説明する声は広間中によく通る。


「魔法と感情は違うのよ。精霊眼の魔力なら再配分できる。でも、感情は……移すとこうなるの」


 エリゼーヌはドナルドを指差した。社交的な笑みを浮かべる夫を見て、満足げに微笑む。


 ドナルドは、たくましい肉体と麗しい細面の顔立ちのバランスがとれ、健康そうに見えた。だが、その瞳は空虚だった。

 エリゼーヌに向けた笑みは、整いすぎていて、不自然さが際立つ。


 マクシムが眉をひそめ、気遣わしそうにノンナを見た。

 ノンナは大丈夫と伝えるように軽く口角を上げた。

 マクシムは表情を和らげ、軽くうなずく。


 そのあと、マクシム、ノンナ、サンディが無言のままドナルドを見つめる。

 その視線に、リリアーヌは息を飲んだ。

 ――あれは、魔法の犠牲者を検分する、研究者たちの目だ。


「感情が枯れたのよ。何も感じない。でも、いいの。愛しい人は私のそはにいる。ねえ、ドナルド様」


 エリゼーヌはドナルドの目をじっと見つめる。


「エリゼーヌ、愛しい妻」


 オルゴールが鳴るような、よく響く声で言う。再び、反射的な笑みが浮かぶ。


 そこには……感情がなかった。


 エリゼーヌは、うっとりと酔いしれるような笑みを浮かべた。


「それで十分」


 セオドアがため息をつく。

 握りしめた拳がわずかに震えていた。


「……ドナルド様がこうなったのは、エリゼーヌが……」

「ええ、私よ」


 エリゼーヌは、誇らしげに微笑んだ。


「感情を奪うときは、迷いもあったわ。でも、ドナルド様がふしだらな女に揺れたから、決心できた。迷いなんて不要。私のものにすればいいだけよ」


 エリゼーヌは高らかに笑った。

 場の空気が、また一段と重くなる。


 セオドアは視線をそらし、沈黙したまま呼吸を整えようとしていた。

 リリアーヌには、おじのその姿がたまらなく痛々しく映った。


「淫婦の末路が聞きたいの?」


 エリゼーヌは肩をすくめ、あざけるように笑った。


「まあ、話してあげてもいいわ。ドナルド様の居場所が分かった日、私はすぐに駆けつけた。ドナルド様は扉から飛び出してきて、『呼んでくる』って言ったの。誰を呼ぶ気だったのかしらね」


 リリアーヌの胸に、冷たいものが落ちた。


 ――まさか……?

 しかし、母がそのとき犯した罪をリリアーヌは予感していた。

 塞がる喉が苦しい。


「私は迷わず再配付魔法をかけた。ドナルド様が誤ってユリアに向けていた愛を、すべて奪った。感情が乱れていたから、成功は簡単だった」


 エリゼーヌは楽しげだった。


「ドナルド様を連れ帰るのは護衛に任せた。ゴードと私がそのあとすべてを整えた」


 エリゼーヌは爽やかに微笑んだ。


「伯爵邸で意識を取り戻したドナルド様は、私を『愛しい妻』と呼んでくれたわ」

「……さっきのように?」

「ええ、いつも同じように呼んでくれる。私が再配分した、深い愛をこめてね」


 エリゼーヌの顔に、優しい笑みが浮かぶ。

 その慈しみの不気味さに、リリアーヌはぞっとするような寒気を覚えた。


「その後はずっと夫婦として暮らしたわ。毎晩、再配分魔法と媚薬を使った。でも……媚薬はもう効かなかった」


 エリゼーヌは一瞬だけ眉をひそめたが、再び朗らかに言った。


「それでもドナルド様は微笑んでくれた。それだけで、私は十分報われたの」


 リリアーヌは背筋を強ばらせた。


 ――こんなことが、母上の愛だったなんて……。


 セオドアはうつむき、かすかに震えていた。

 リリアーヌは、その背に孤独と絶望を見た気がした。


 一方、ノンナとサンディは黙ったままエリゼーヌに視線を向けている。

 怒り、悲しみ、軽蔑――そのすべてが、リリアーヌの胸にも突き刺さる。


 ――私も、母上と一緒に……ノンナを追い詰めた。


 寒空の庭で水をかけて、笑っていた自分。

 リリアーヌは、その記憶を思い出すだけで、喉がさらに狭くなるうような恥を覚えた。


「ユリア嬢は……どうなったんだ」


 セオドアの問いに、エリゼーヌは薄く笑った。


「淫婦の末路がそんなに知りたいの? あの女は、双子を産んで出血多量で死んだわ。存在する価値がないことを、自分で証明したのね」


 使用人の失敗を優しく諭すときの伯爵夫人の顔。


「私はとても安産だったのに……本当に、どうしようもない女。出産すら生き延びられないなんて、滑稽ね」


 静寂が落ちた。


「……双子?」


 セオドアの声が低く響く。その動揺が、リリアーヌの胸まで伝わってきた。


「そう。アレ……淫婦の娘は精霊眼の能力を持っていたから、残したの」


 セオドアがノンナを見た。

 リリアーヌはおじの目に、妹の罪を防げなかった後悔と、償いきれない過去への痛みを感じた。


 だが、エリゼーヌは朗らかなまま続ける。


「もうひとりは……淫婦と共に逝かせた。ふたりで育つと、余計なことをしがちでしょ? だから、無力にして処分したわ。ねえ、ゴード?」


 エリゼーヌは楽しげに辺りを見回す。

 しかし、侍女ゴードはすでに拘束され、別の場所に移されていた。


 広間が、息をひそめたように静まりかえる。


 次の瞬間、セオドアの手が動いた。

 その平手が、容赦なく振り抜かれる。


 鋭い音が、広間を裂いた。


 エリゼーヌの頬が赤く染まる。

 無言のまま兄をにらみ返す。

 その目の奥には、怒りか、あるいは、リリアーヌには理解できない、別のもの……邪気が潜んでいた。


 リリアーヌは息を止めた。

 ずっと崩れ続けていたフォートハイト家の幻想が、またひとつ、取り返しのつかないかたちで崩壊した。


 そのとき。

 野太い咆哮が、部屋の空気を揺さぶった。


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