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第29話-怨嗟と許し(リリアーヌ視点)【残酷な表現あり】

 フォートハイト伯爵ドナルドは、十数年ぶりに公の場で声を発した。

 それは意味をなさない、「ぐぉおおお」という声だった。


 ずっと無表情にたたずんでいたドナルドは、突然、動き出す。

 セオドアを押しのけ、エリゼーヌへと突進した。


 顔には、抑えきれない怒りの色がはっきりと浮かんでいた。


 リリアーヌは、父の笑顔以外の表情を初めて見た。

 そのことに気づいた瞬間、全身から血の引くような恐怖が背筋を駆け上がった。


 そして、父は母の首を両手で締め上げた。


「悪魔……! 許せない……! ユリアを……子どもたちを……返せっ!」


 マクシムと護衛たちがすぐさま駆け寄り、ドナルドを引き剥がす。


 ソフォスアクシ公爵が即座に鎮静魔法を放った。

 光が走り、ドナルドの体がビクリと震える。

 その瞬間、ドナルドの脚から力が抜け、崩れ落ちそうになる。


 公爵がすかさず支え、ぐったりとした身体を椅子へと導く。

 ドナルドは、もはや自分の足で立てる状態ではなかった。


 椅子に沈み込むように座ったドナルドの顔は、ぐしゃぐしゃだった。

 涙と鼻水で濡れた頬が、呼吸に合わせてかすかに震えている。


「助産師を……呼びに行ったんだ……なのに……どうして……!」


 かすれた声が絞り出される。


「私が……殺す。あの女を……ユリアと、子どもたちの……敵を……!」


 いつもは静かな父が、抑えきれない怒りと悲しみを初めて露わにした。

 その声は、リリアーヌの胸を鋭く貫いた。


 公爵が静かに肩に手を置き、言った。


「気持ちは分かる。だが、裁くのは法だ。魔術騎士団と王家に委ねてほしい」


 ドナルドは黙ってうなずき、肩を震わせながら泣き続けた。


 一方、エリゼーヌは咳き込みながらも、すがるように夫を見ていた。

 引き離されたふたりの間に、もはや交わる視線はなかった。


 ――父上と母上が寄り添うことは、もうない。


 リリアーヌは、そう確信した。


 ノンナとサンディは静かに座っている。マクシムがふたりのそばに立ち、見守っていた。


 セオドアはしばらく呆然としていた。

 やがて責任を思い出したように息を整える。

 マクシムに視線を送り、無言で許可を得る。

 そして、ノンナへと向き直った。


「ノンナ嬢……申し訳ありませんでした」


 その声は、いつになく重く沈んでいた。


「義理の姪であるあなたに、もっと早く気づくべきだった。私が見逃さなければ、妹はここまで堕ちなかったかもしれない」


 セオドアの目に涙が浮かんでいた。ハンカチで荒く鼻をかみ、顔を上げてノンナを見据える。


「あなたの母君を死に追いやり、父君の感情を奪い、御兄弟もしくは御姉妹の命まで……。すべては子爵家当主である私の責任です。本当に申し訳ない。どんな罰でも受けます」


 部屋は静まり返った。


 ノンナはしばらく沈黙のまま、まっすぐ彼を見ていた。そして静かに口を開く。


「謝罪を受け入れます。そして……弟です」


 サンディが続けた。


「対の目が宿る右目を抉られた私を、拾い育ててくれた父がいました。その友であるソフォスアクシ公爵閣下もお助けくださいました。そのおかげで、姉と再会できました」


 リリアーヌはその言葉に動揺しながらも、父の方を見た。


 すすり泣く父の姿。

 怒りに圧倒され、涙に沈むその背中が、リリアーヌの胸に重くのしかかった。


 ――きっと私が彼の娘だから、わかる。


 ドナルドが椅子からずるりと落ちかける。意識を失ったようだ。

 医療用魔導具を取り出した護衛が駆け寄り、診察する。


「ずっと偽りの感情を再配分された精神が、突然湧き上がった自然な感情に耐えられなくなっているようです」


 その説明に、公爵がうなずく。


 エリゼーヌは、すでに猿ぐつわを付けられていた。


 セオドアはじっとサンディを見つめ、震える声で言った。


「生きていてくれたのか……。罪がひとつ減った。立派に育ってくれて、本当にありがとうございます」


 サンディは、曖昧ながらも穏やかに微笑んだ。

 その笑みが、場に一筋の光をもたらした。


 公爵が命じる。


「被疑者フォートハイト伯爵夫人と関係者を王宮牢へ送れ」


 リリアーヌはセオドアに促され、黙って従った。

「事情聴取にはきちんと応じるように」と言われ、うなずいた。

 口調は厳しかったが、表情に少しだけ、かつての「優しいおじ上」が戻っていた。


 ノンナとサンディを見た。ふたりは、リリアーヌに視線を向けなかった。

 まるで、存在しないかのように。


 ――美しい弟と妹。私にはない才能を持つふたり。


 その事実が、胸の奥に小さな痛みを残した。


 ――私はきっと、遠くから見るだけの存在になるのだろう。


 その予感は、やがて現実となる。


 ***


 事件は、これで終わるはずだった。


 だが、完璧と思われた警備計画の隙を突く者がいた。


 護送中、外気がねじれた。転移魔法がその場を切り裂くように放たれる。

 使い手は、ただの侍女であるはずのゴードだった。


「エリゼーヌ様……あなたを牢に送るなんて、絶対に許せませんっ!」


 叫びにマクシムが反応した。

 瞬時に空間の魔力の流れを読み取り、杖を構える。


 次の瞬間、ゴードの身体が破裂した。

 赤黒い閃光が、悲鳴のように空間を裂いた。


 ***


 ボエアリス侯爵家の令嬢オーロラが、長女エリゼーヌに伝授した禁術は、再配分魔法のみではなかった。

 ゴードの身には、主の死に殉じるための禁術……自爆の術式が、あらかじめ刻まれていた。

 そのことをリリアーヌが知るのは、ずっと後になる。


 ***


 轟音。熱風。目を焼く光と、足元を揺さぶる衝撃。


 だが……展開された結界が、爆風の直撃を食い止めた。

 結界の防壁が軋む音。

 リリアーヌの頬をかすめた風は焦げ臭かったが、ほんのわずかだった。


 結界の中、視界を奪う煙の奥から、かすかなうめきが響いた。


 倒れていたのは、エリゼーヌだった。

 焼け焦げた衣服、皮膚に広がる火傷。

 指先が痙攣しながらも、生への執着のようにわずかに動く。


 そばにいて、救護にあたる護衛たちは、魔導防具に守られ無事だった。

 騎士たちは無言で消火に走る。煙と血の匂いの中、息を吐く音が聞こえる。


 エリゼーヌは、なおも、生きていた。

 見捨てられたユリアとは違い、エリゼーヌを告発した者たちは彼女を助けるため全力を尽くす。その皮肉がリリアーヌの心を切り裂くようだった


 忠実な侍女が願った「死」は叶わず、エリゼーヌは現実に縛られたままだった。


 一方、ゴードの遺体は爆心地に散っていた。

 のちに、ボエアリス侯爵家で高度な魔法を学んでいたことが判明する。この時点では魔術騎士団はその事実を把握していなかった。


 煙が漂い、冷たい風が灰と瓦礫がれきを揺らす。


 うめくような息が、エリゼーヌの口から漏れた。


 マクシムが周囲を見渡す。

 重傷者がエリゼーヌのみであることを確認し、命じた。


「状況を即座に確認。被疑者は必ず現状のまま牢へ送れ。これ以上の混乱は許されない」


  騎士たちが即応し、厳戒態勢が敷かれた。


「……これ以上、彼女を危険に晒すわけにはいかない」


 小さくつぶやいたマクシムの声を、リリアーヌは漏れ聞いた。

 表情は冷静だったが、その胸に重くのしかかっている責任と焦燥は隠しきれていなかった。

 リリアーヌはそっと目を閉じた。ただ静かに、マクシムたちの仕事が順調に進むよう、胸の内で祈った。


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