ノンナがフォートハイト伯爵家から脱出したのは、夜会の1週間前。
ソフォスアクシ家からの招待状が、フォートハイト家に届いた日のことだった。
***
数日前から、マクシムが転移魔法を使って訪ねてきて、準備を進めていた。
転移場所は洗濯部屋を指定した。
「臭くて……申し訳ありません」
「魔術騎士は嗅覚調節の魔術を習う。問題ない」
平然とした声に、ノンナはわずかに肩の力を抜いた。
「討伐で臭い魔獣も多いとか?」
「そう。逆に感覚を研ぎ澄ませば、魔力の痕跡も嗅ぎ分けられる。たとえば、隣国の学者ドンネステ博士はその感覚で捨てられた赤子を救った」
マクシムは淡々と語りながら、ふとノンナを見た。
「その赤子は『対の目』の力を持っていた。精霊眼を補佐する特別な存在だ。ノンナ嬢と同い年だよ」
「……精霊眼とは、私の持つ災いと呼ばれている力ですね。フォートハイト伯爵令嬢リリアーヌ様が使っている」
マクシムは「精霊眼は災いではないよ」ときっぱりと言った。
「けれど、フォートハイト嬢が使う精霊眼は魔力の流れが歪んでいた。対の目を持つ者に観察させたが、何も感じなかったそうだ。ノンナ嬢の場合は違った。強い反応があった」
ノンナは小さく安堵した。あの傲慢な異母姉が「対の目」に認められたら、気分が悪かっただろう。
「血縁のある対の目……そうした例も記録にある」
マクシムの言葉に、ノンナの胸がざわついた。
――家族……?
その響きが胸に温かく満ち、思わずつぶやいた。
「私の……家族」
「知りたいか?」
「はい」
ノンナは即答した。
マクシムはうなずき、ノンナの髪に手を伸ばした。
「少しだけ髪を。毛根は不要。痛みもない」
くすんだ泥色の髪を見つめ、彼は眉を寄せた。
「……雑で下手な染色魔法だ。髪が傷んでる」
「伯爵夫人の趣味です。私を傷つける方法なら、手段を選びません」
マクシムは無言でノンナの髪を数本切り取り、袋にしまう。
「……つらかったな」
不意打ちの言葉に、ノンナは息を飲んだ。
マクシムの目は真剣だった。視線を逸らし、頬が熱くなるのを感じる。
「慣れてますから」
「慣れることが正しいとは限らない。あなたはここにいるべき人じゃない。
ノンナは唇を噛み、しばらくためらった末、決意を口にした。
「……脱出の手配、よろしくお願いします」
声はわずかに震えていた。
マクシムは立ち去り際にぼやいた。
「染色がひどいな……これじゃ親族判定が難しい」
「毛根がついていた方がいいですか?」
「それじゃ、ノンナ嬢が痛いだろう」
――優しい人だな。
マクシムは別れの挨拶をして、すぐ洗濯部屋から消えた。
ノンナは深く息を吐き、洗濯物を手早く片付け始めた。
マクシムから教わった「抑え」を外すと、魔力の流れが一気に軽くなり、動きがキビキビする。
この部屋は臭いし、誰も寄りつかない。怪しまれる心配はなさそうだ。
――うまくいく。ここを抜け出せば、自由になれる。
その未来は、すぐそこにある。