侯爵令嬢マイラ・グランシェルがこの世に生を受けたのは、王都の北西に広がる広大な領地を治めるグランシェル侯爵家。その家名が示す通り、グランシェル家は代々、国王に忠誠を誓いながら王家の政治と軍事を支えてきた名門である。マイラの父、デゼル・グランシェル侯爵は誠実かつ厳格な人柄で知られ、同時に芸術や学問への理解も深く、領地経営ではいつも新しい取り組みを意欲的に推し進める人物として高い評価を得ていた。
そのため、侯爵令嬢として生まれたマイラは幼い頃から何不自由なく、しかし甘やかされることもなく、厳しい教育のもとに育てられてきた。礼儀作法や文学、社交界での立ち振る舞いはもちろんのこと、経営学や歴史、そして魔法理論にいたるまで多岐にわたる分野を学んできた。その結果、美しい容姿はもちろんのこと、高い知性と観察眼を兼ね備えた女性へと成長し、社交界では「氷の美姫」として知られるようになる。
だが実際のところ、マイラの内心は「氷」と呼ばれるほど冷ややかなものではなかった。ただ、自分の感情を表に出すのが苦手であり、相手によってはそっけなく見える態度が目立つせいで、そう呼ばれてしまうだけなのだ。彼女自身もその評判を否定するようなことを進んで行う性格ではないので、いつしか「クールで完璧な侯爵令嬢」というイメージが確立されてしまっていた。
そんなマイラは十六の歳を迎えたころ、第二王子ラウル・エストレイドから婚約を申し込まれた。王位継承権を持つ王子との縁談は、貴族社会でも非常に名誉ある話だった。グランシェル侯爵家が古くから王家に仕えてきたとはいえ、王子との縁組は別格の一大事である。これによってマイラは将来、王族に準ずる立場になることが内定し、一層注目を浴びることとなった。
ラウル王子は当時まだ十八歳。第一王子の兄が優秀だったこともあり、王家の序列としては「継承候補のひとり」といった程度だったが、それでも王族であることに変わりはない。整った容姿と柔らかな物腰から、貴族の令嬢たちの間でも非常に人気があった。婚約の報せを聞いたとき、マイラは心の中で「こんなに順調でいいのかしら」と戸惑ったほどだ。
それでもラウルは、表面上は常にマイラを気遣う態度を見せていた。マイラもまた、王族の婚約者という立場から周囲が期待する「完璧な令嬢」の役を演じ続けるうち、感情を率直にぶつける機会を失っていったのだろう。結果として互いの内面に踏み込むことのない、どこか形式的な関係が続いたまま、三年余りの月日が流れたのである。
そして迎えた、マイラ十九歳の冬。王宮にて盛大に催された舞踏会が、すべての転機となった。
この舞踏会は元来、王族主催の恒例行事であり、各地の貴族や大商家の人々が華麗な衣装に身を包み、王宮の大広間に集う一大イベントだ。そこには、普段は公の場に出ない女性や、地方の領主の息子・娘たちも多く訪れる。社交界におけるネットワークを広げる絶好の機会でもあるため、特に若い貴族令嬢や令息たちはこぞって参加する場でもあった。
マイラはいつものように白を基調としたドレスを選んだ。純白のレースが幾重にも重なり、胸元には宝石が繊細にあしらわれている。金色がかった栗色の髪を夜会巻きにまとめ、首筋を上品に見せる形で装い、さらに侯爵家の紋章をあしらった髪飾りをさりげなく添える。化粧も控えめながら、もともとの整った顔立ちを引き立てる程度にとどめ、全体として清廉さと上品さを強調していた。
周囲の令嬢たちはため息混じりにその姿を見やり、「さすが氷の美姫」と口々に囁き合う。マイラは彼女たちの視線を受け止めながらも、慣れた様子で自分の立場を全うしようとしていた。
ところが、その日のラウル王子はどこか様子が違っていた。普段ならば彼は笑顔を絶やさず、婚約者であるマイラにも軽やかに声をかけ、手を取ってエスコートしてくれる。しかし、その日は遠巻きにマイラを眺めているだけで、なかなか近寄ってこようとはしない。
不審に思ったマイラは、舞踏会が始まって間もなく、王子の侍従から「ラウル殿下が個別にお話をしたいそうです」という連絡を受けた。大広間の隅にある小部屋で待っているらしい、と告げられたので、マイラはすぐにその場を離れ、彼のもとに向かうことにした。
王宮の大広間から少し外れた場所にある応接室。マイラが扉を開けると、そこには青い衣装をまとったラウルの姿があった。明るい光を放つシャンデリアの下、いつになく深刻な表情で立っている王子を見て、マイラは胸騒ぎを覚える。
「マイラ、来てくれてありがとう」
ラウルはそう言って微笑んだが、それはどこか乾いた笑みだった。彼の背後には、あまり見慣れない少女が立っている。マイラから見れば十七、十八歳ほどの、はつらつとした印象の娘。贅沢なドレスではないが、よく見ると質素な中にも丁寧に仕立てられた服を身につけている。おそらくは平民の出自なのだろう、とマイラは察した。
(どうして王子のそばに平民の娘が……?)
不思議に思いつつも、マイラはラウルに向かって優雅に一礼した。
「殿下、私に何かご用でしょうか。わざわざ応接室まで呼び出すなんて、いったい……」
マイラが言いかけたところで、ラウルは静かに右手を上げて制した。そして、一呼吸置いてから言葉を続ける。
「マイラ……君には、本当に申し訳なく思っている」
その口調は、どこか決意を秘めたものだった。次に何を言われるのかを悟ったかのように、マイラの心臓は不自然に高鳴り始める。
「僕は……今日をもって、君との婚約を解消したい」
静寂が訪れた。いや、舞踏会の喧騒は遠くから聞こえているはずなのに、この部屋の中だけが凍りついたように息苦しい。マイラは自分の耳を疑った。
「……今、なんとおっしゃいました?」
もう一度、自分の聞き間違いではないのかと問い返す。しかし、ラウルの表情は真剣そのもので、撤回する意思がないことを示している。
「繰り返すよ。君との婚約を、ここで破棄したいんだ」
それは動かしようのない真実なのだと、マイラは理解した。王子がそれほどまでに明確な意志を持って告げるということは、既に王宮内でもある程度の根回しが進んでいる可能性が高い。
「理由を……聞かせていただけますか?」
マイラは努めて冷静に言葉を紡ぐ。感情を爆発させることなく、まずは真意を確かめようとするのは、彼女が幼い頃から叩き込まれた『貴族の矜持』のなせる業だ。
すると、ラウルは一歩横に退き、先ほどから控えていた少女をそっと招き寄せた。彼女は気まずそうに視線を落としながらも、ラウルの衣の裾をぎゅっと握りしめている。
「彼女の名はリリア。平民の家の出身だが、僕は……彼女を愛してしまった。最初はほんの同情だったかもしれない。だけど、時間を共に過ごすうちに、僕にとって彼女がかけがえのない存在になっていたんだ」
ラウルはリリアを守るように肩を抱き寄せる。その光景に、マイラの胸が軋むような痛みを覚える。
「なるほど。平民の娘と……殿下が」
言葉がうまく続かない。マイラ自身、貴族と平民の恋愛がご法度だなどと思っているわけではない。だが、国王の一族であるラウルが公然と「平民との恋愛」を選び、しかもそれを理由に正式な婚約者を捨てるとなれば、話はまるで別だ。
マイラは必死に自分の心を落ち着けようとした。だが、冷たい感情と熱い感情がせめぎ合い、うまく声が出ない。そんなマイラの様子に気づいてか、ラウルはさらに言葉を重ねる。
「マイラ、君は素晴らしい女性だ。美しく、聡明で、どんな場でも冷静さを失わない。その生き方は、多くの貴族令嬢のお手本となるだろう。……でも、僕は君といるとき、息苦しさを感じてしまうんだ。僕がどんなに話しかけても、君の本当の感情が見えない。君も僕に合わせているだけで、心が通い合っていないように感じてしまった」
マイラは何か言い返そうとしたが、喉元に言葉が引っかかる。「あなたが私の内面を覗こうとしなかっただけでは?」と言いたい気持ちもある。だが、それを言葉にして何になるのかもわからない。
「もちろん、これは僕の勝手な言い分だ。グランシェル侯爵家には多大な迷惑をかけることを承知のうえで、私は君との婚約を破棄したい。そしてリリアと共に生きていきたい。……本当に勝手だとは思うけど、どうか理解してほしい」
ラウルの言葉を聞く限り、彼がどれほど真摯にこの決断を下したかは察することができる。けれど、それでもマイラからしてみればこの仕打ちはあまりに一方的だ。
部屋に張り詰めた空気の中、しばらく沈黙が続く。リリアは伏し目がちに、ラウルの肩に寄り添って震えているように見える。
「……わかりました」
マイラは短くそう答えた。今ここで取り乱しても、ラウルが考えを翻すことはないだろうし、なにより貴族としての矜持がそれを許さない。長い沈黙を破って、彼女は凛とした声を響かせる。
「私個人の思いはさておき、婚約破棄という重大な問題です。殿下のお気持ちに偽りがないなら、正式な手続きを踏んでいただきたい。……そう、父と王家の間での交渉になるでしょう。私からは何も申すことはありません」
それはあまりに淡白な返答だった。リリアも驚いた様子でマイラの顔を見やる。何か激昂されたり、涙を浮かべられたりするのではないかと予想していたのだろう。
しかし、マイラはただ静かな瞳でラウルを見つめるだけ。胸の内には怒りと悲しみが混在しているが、それを押し殺して気丈に振る舞っていた。
ラウルもさすがに躊躇するように一度口をつぐんだが、やがて意を決したように深く頭を下げた。
「……ありがとう。マイラ、君には申し訳ないことをしたが、これが僕の選んだ道だ。父王や母后にもきちんと話を通す。正式に王家として婚約破棄を申し出ることになるだろう」
そう言ってラウルは、リリアの手を取って部屋を出て行った。彼は最後まで振り返らず、その背中はすでに次の未来へ向けた覚悟を映し出しているように見えた。
残されたマイラは、両手をぎゅっと握りしめ、唇を噛みしめた。それでも涙は出ない。自分でも不思議なほどに冷静だ。しかし、体の奥底では熱い何かが渦巻いているのを確かに感じる。
「……馬鹿にして」
か細い声が、誰もいない部屋に響く。それは紛れもなくマイラの本心の一端であり、その言葉には怒りと悔しさが滲んでいた。
そのまましばらく茫然としていたマイラだったが、いつまでもここで立ちすくんでいるわけにはいかない。彼女は意を決して部屋を出て、再び大広間へと足を運んだ。
舞踏会の喧騒は相変わらず盛り上がっている。誰もが華やかな服装に身を包み、ワインと音楽と歓談に興じている。あちらこちらでダンスを楽しむ貴族令嬢や令息たちの姿が見える。先ほどまでのやり取りが嘘のように、まるで別世界のようだ。
マイラはまるで仮面をかぶるように微笑みを作り、淡々と周囲の挨拶を受け流す。彼女が婚約破棄を告げられたなどとは、まだ誰も知る由もないからだ。一部の者たちがラウルとリリアの姿に気付き、「あんな平民の娘を侍らせているなんて」と噂しているのは耳に入ったが、まさかその娘のために婚約破棄を切り出したとは想像もついていないだろう。
それでも、ふとした瞬間にラウルと目が合う。ラウルは視線を逸らすようにしてリリアの方を向き、抱き寄せて笑っている。もしかすると、マイラの視線に気づいてはいるのかもしれないが、あえて視線を合わせようとしないのだろう。
(本当に、どこまでも勝手な人……)
その後、マイラは舞踏会の終盤まで、その場を離れることなく過ごした。途中で友人の伯爵令嬢セレナ・フォルトが「少し疲れているようだけど、大丈夫?」と心配して声をかけてくれたが、マイラは「ええ、大丈夫よ。少し頭が痛いだけ」と言ってやり過ごす。
セレナはそれ以上問い詰めるようなことはせず、「ゆっくり休んでね」とだけ言って去っていった。マイラの態度や表情から、今は深く追及しないほうがいいと察したのだろう。その思いやりが痛いほど胸にしみた。
舞踏会が終わると、王宮の正門前にはそれぞれの馬車が待ち構えていた。マイラは自分の馬車に乗り込むなり、深いため息をつく。普段は決して感情を表に出さない彼女が、こうしてあからさまに疲労を示すのは珍しいことだ。御者には「急いで帰らなくて結構よ。ゆっくりで」とだけ伝え、あとは馬車の奥へと身を沈めた。
煌びやかな舞踏会ドレスを身にまとったまま、マイラは額に手を当てて目を閉じる。頭の中で繰り返し、先ほどのやり取りがリフレインする。
(私は、何がいけなかったんだろう)
ラウルが言ったこと……「君といると息苦しさを感じる」──それが正直、ショックだった。マイラは自分なりに婚約者としての務めを果たそうとしてきたはずだ。派手な感情表現が得意ではないが、それでもラウルを敬意を持って接し、時に助力もしてきた。
だが、その結果が「息苦しさ」とは。一方で、リリアという平民の娘には安らぎを感じる、とラウルは言っていた。
(私には、そんなに人を遠ざけるようなところがあるの……? 知らなかった、気づかなかった)
そう思うと、今更ながら自分自身が情けなく思えてくる。けれど、もしそうだとしても、だからといってこんな形で突然婚約を破棄される理由にはならない。ラウルの行動はあまりにも一方的で、マイラを軽んじているとしか思えない。
やがて、馬車はグランシェル侯爵家の屋敷の門をくぐる。王都の中心から少し離れた高台にあるその屋敷は、美しい庭園と堂々とした建築様式で知られ、夜ともなれば特に幻想的な雰囲気を醸し出す。
だが、今日はその光景を眺める余裕もない。マイラが馬車を降りると、召使いがすぐに近づいてきて「お帰りなさいませ、お嬢様。今夜の舞踏会はいかがでしたか?」と声をかける。いつもならば笑みを浮かべて「盛況だったわ」などと応じるところだが、今日はとてもそんな気になれない。
「……少し疲れたわ。部屋に戻るから、後は呼ばれるまで来なくていいわよ」
冷たさを含んだ声でそう告げると、召使いは驚いたように目を見開きながらも、すぐに「承知しました」と頭を下げる。マイラの態度に戸惑った様子だったが、深くは詮索しなかった。
部屋に戻ると、マイラはドレスを脱ぎ捨て、着替えの用意をしてくれていた侍女にも「自分でやるから下がって」と言って一人きりになる。鏡の前に立ち、先ほどの夜会巻きをほどいてみると、鬱屈した思いが少しだけ和らいだ気がする。
髪を下ろして、簡単にブラッシングをしてから、寝間着に袖を通す。いつもなら侍女の手を借りるのだが、今日は誰とも話したくなかった。
マイラは大きな窓辺に置かれた椅子に腰かけ、夜の庭を見下ろした。月明かりに照らされた庭園は静寂に包まれ、まるで世界に自分しかいないかのような孤独感を覚える。
(本当は……泣きたいのかもしれない。だけど、涙が出てこない)
自分でも驚くほど、心の奥は冷め切っている。ラウルに対しての怒りや憎しみよりも、そこには虚無感が広がっていた。何年もかけて築いてきたはずの関係が、あまりにあっけなく終わってしまったことへの喪失感。それと同時に、まだうまく言葉にできない「自分にも落ち度があったのかもしれない」という罪悪感のようなものも、胸にくすぶっている。
しばらくして、扉の外からノックの音が響いた。
「マイラ、いるか?」
聞き覚えのある男の声だ。マイラの父、デゼル・グランシェル侯爵である。娘が深夜に帰宅したことを知って、どうやら様子を見にきたらしい。
マイラは少し迷ったが、「どうぞ」とだけ返事をする。すると父は重厚な扉を開け、一人で部屋に入ってきた。侯爵はすでに寝間着に近い軽装だったが、表情は気遣うように心配そうだ。
「やはりまだ起きていたか。……今日の舞踏会、何かあったな?」
核心をつく問いかけに、マイラは言葉に詰まる。それでも嘘はつけない。彼女は短く深呼吸し、視線を落としたまま答えた。
「ラウル殿下から……婚約破棄を告げられました」
侯爵は一瞬だけ目を見開き、それから低く息を吐く。怒りを抑え込んでいるのがわかる。もともとデゼル侯爵は理性的でありながらも、家族や部下に対してはとても温かい心を持った人物だ。愛娘がこんな仕打ちを受ければ、黙ってはいられないだろう。
「なんだと……? 理由はなんだと言っている」
マイラは淡々と経緯を説明した。ラウルが平民の娘リリアを愛していること、彼女と共に生きるために婚約を解消したいと告げられたこと。そして、近く正式に王家を通じて婚約破棄の手続きを進めると言われたこと。
侯爵は終始無言で聞いていたが、やがて厳かな声音で口を開いた。
「なるほど、あの愚か者め。平民との恋愛自体を否定はせんが、王子という立場を忘れ、自分勝手に婚約を破棄するなど、許される行為ではない。ましてや私の大切な娘を傷つけて……黙ってはおれん」
「お父様……」
マイラが顔を上げると、侯爵の瞳には激しい怒りが宿っていた。だが、それは娘を思うがゆえの怒りだとすぐにわかった。
「王家がどう言おうと、わがグランシェル侯爵家が正式に結んだ婚約を破棄するというのだ。相応の代償を払わせる。……ラウル殿下が平民の娘に執着するなら、それもよかろう。だが、その結果が国王や母后にどう影響するか、わかっているのか?」
侯爵の言葉には、一家の長としての責任感と威厳がにじみ出ている。マイラはその気迫に押されそうになりながらも、ふと疑問を感じた。この件に関して、自分はどうしたいのだろうか?
「お父様。……私は、もうあの方との縁は必要ないと思っています」
それがマイラの偽らざる本音だった。自分の存在を「息苦しい」と言い放ち、平民の娘との恋に溺れるような相手を、今さらどうして想うことができようか。どんなにショックだったとしても、その決断を翻してまで縋りつきたいとは思えない。
父はその言葉を聞いてやや表情を和らげたように見える。
「そうか。ならば、お前の望む通りに事を進めよう。……もっとも、向こうが正式に申し出るというのなら、我々としても黙って飲むわけにはいかない。グランシェル家の名誉を傷つけるのであれば、それ相応の処置を求めねばならん」
その言葉に、マイラは少し迷いながらもうなずいた。王家に対して賠償金を要求するなど、普通の貴族では考えられないことだ。だが、グランシェル侯爵家ほどの大貴族であれば、可能性はある。
「明日、私が王宮に出向き、国王陛下と話をする。……マイラ、お前はもう休め。今は疲れているだろう」
「……はい、ありがとうございます、お父様」
侯爵は娘の肩にそっと手を置き、励ますように軽く叩いてから部屋を出て行った。その大きな背中を見送りながら、マイラの心には少しだけ安堵が広がる。婚約破棄を突然言い渡されても、こうして家族が自分を守ってくれるのだ、と。
けれど、その安堵が大きく広がることはなかった。ラウルの言葉が、そして自分でも気づけなかった感情の壁が、どうしても頭から離れない。彼女は椅子から立ち上がり、ベッドへと向かった。今はとにかく休息をとり、心を落ち着かせたい。今夜は長い一日だったのだから。
翌朝、マイラが目を覚ますと、朝食の前に父がすでに王宮へ向かったと聞かされる。母は幼い頃に他界しているため、現在、屋敷には父と娘の二人暮らしだ。あとは使用人や侍従が数多く働いているが、家族らしい家族は父しかいない。
「お嬢様、体調はいかがですか? 顔色が少し優れないようですが……」
侍女のアニスが心配そうに尋ねてくる。マイラは「大丈夫」と短く返すだけにした。昨夜の出来事を知っているのかどうかはわからないが、今日の侍女はいつもより気遣いが細やかだ。
朝食はほとんど喉を通らなかった。それでも何も食べないわけにはいかないと、パンとスープを少しだけ口にする。侯爵家の当主が不在の中、マイラはこれからのことを考えようと執務室へと足を運んだ。
そこでは使用人が整理をしていた書簡の数々が山積みになっており、領地の経営や各種行事の準備、取引先の商人とのやり取りなど、多岐にわたる仕事が待ち受けていた。マイラは本来、こうした事務的な業務をすべて任されているわけではないが、父を手伝うかたちで一部を担当することは珍しくなかった。
今はむしろ、そのような雑務に没頭するほうが気が紛れるかもしれない。マイラはそう思い、書類に目を通しながら必要な指示を使用人に与えていく。やがて仕事がひと段落した頃、控えていた侍従が慌ただしい足取りで部屋にやってきた。
「お嬢様、今しがた速報が入りました。第二王子殿下が、王宮の執務室で国王陛下に正式に『婚約破棄の申し出』を提出されたとのことです。あわせて、平民の娘リリアとの結婚を希望しておられるとも……」
やはり、ラウルは待ったなしで行動を起こしたらしい。マイラはまぶたを軽く閉じ、感情が揺れそうになるのを抑える。
「そう……。父はどう動くおつもりかしら」
「ただ今、侯爵様が王宮で国王陛下や宰相閣下とお話をしているところかと。詳細はまだわかりかねますが、王宮内は少々騒然としているようです」
侍従の報告を聞いたマイラは、苦々しい思いで唇を噛んだ。王家にとってもこれは小さくないスキャンダルだ。第二王子という立場にありながら平民との恋愛を選び、かつ正式に婚約していた侯爵令嬢を振り捨てるなど、王族の身勝手さを世界に晒すようなもの。国王陛下がどこまで許容するのか、あるいはラウル自身がどんな代償を支払うのか。
それでも、マイラは既に自分の意志を決めている。ラウルと続けるつもりはない。一方で、グランシェル家の立場を守るためにも、正式な婚約破棄となるならば、相応の賠償や条件を取りつけなければならない。
その日、マイラは業務を続けながらも、ずっと落ち着かない気持ちのまま過ごすことになる。昼を過ぎても父は戻らず、王宮からの使者も来ない。午後になって、ようやくセレナが屋敷を訪れ、マイラに声をかけてきた。
「マイラ、ちょっと話してもいい?」
セレナ・フォルトは伯爵令嬢で、幼い頃からマイラと親しい間柄にある。昨夜の舞踏会でもマイラの様子を心配してくれた友人だ。その彼女が、わざわざ馬車を走らせてここまで来たのだから、何か話を聞きつけているのだろう。
「どうぞ。ちょうど休憩をとろうと思っていたところよ」
マイラは執務室を抜け、奥の小さなサロンへと案内する。そこは客間ほど正式な場所ではなく、友人や家族とくつろぐためのプライベートな空間だ。彼女がソファを勧めると、セレナは心配そうな顔で腰を下ろした。
「やっぱり……本当だったのね。ラウル殿下が婚約破棄を申し出たって噂が、王宮で飛び交っているわ。あなたがどんなに辛い思いをしているかと思うと、いてもたってもいられなくて」
セレナの言葉には真っ直ぐな友情が込められている。マイラは初めて「辛い」とはっきり言われ、胸が熱くなるのを感じた。
「ありがとう、セレナ。……でも、私は不思議とあまり泣くことができないの。婚約破棄を告げられた瞬間はショックだったけど、今はただ虚しいだけで」
「そう……」
セレナはマイラの手を握りしめる。しばらく言葉が出ないようで、そのまま沈黙が降りた。しかし、やがて意を決したようにセレナが口を開く。
「ねえ、マイラ。あなたはどうしたいの? ラウル殿下が戻ってきて『やっぱり君が必要だ』なんて言ってきたら、それを受け入れる気はあるの?」
直球の問いかけだった。マイラは短く息を飲む。
「受け入れたくはないわ。……ラウル殿下は平民の娘リリアと一緒になりたいとまで言い切ったの。私には息苦しさしか感じないとも言われた。そんな相手に、今さらどんな感情を向ければいいの?」
答えながら、マイラは自分の本心がはっきりしていることに気づく。ラウルをもう一度好きになれるかと問われたら、答えは「ノー」だ。
「そうよね。……あなたはあなただし、あなたが自分らしくいられないような相手とは、一緒にいても幸せになれないわ。私はそう思う。いろいろ大変なことになるだろうけど、あなたは必ず新しい幸せを見つけられるはずよ」
「セレナ……」
友人の言葉に、マイラはようやく少しだけ微笑む。彼女の胸の奥にある閉塞感が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
その後も二人はしばらく談笑し、マイラはセレナに対して昨夜の出来事の詳細を話した。セレナは憤慨しながらも、「あなたにとってはいい転機かもしれない」と励ましてくれる。確かに、今までマイラは「王子の婚約者」という立場に甘んじ、積極的に自分の未来を切り開こうとしなかった部分があるかもしれない。
セレナが帰った後、マイラは少しだけ気持ちを切り替え、また執務室へと戻った。だが、夕刻になっても父の帰りはなく、王宮からも連絡がないままだ。
そこへ、再び屋敷の外が慌ただしくなったのは、ちょうど日が沈む頃だった。玄関で応対していた侍従が血相を変えてマイラを呼びに来る。
「お嬢様、大変です。侯爵様が、王宮からお戻りになりましたが……とてもお怒りのご様子で」
「お父様が?」
マイラはすぐに立ち上がり、玄関に向かった。すると、そこには激昂した面持ちのデゼル侯爵の姿があった。すぐに一礼する使用人たちに構わず、侯爵はマイラの姿を認めると駆け寄ってくる。
「マイラ、話がある。書斎へ来なさい」
短い言葉の中にも押し殺した怒りが滲んでいる。マイラは緊張を覚えつつ、後に続いた。書斎の扉を閉めると、侯爵はマイラに向き直り、深い溜息をつく。
「どうやら、ラウル殿下は本気で平民の娘と結婚すると言い張っているようだ。国王陛下も困惑していたが、王家としても事を荒立てたくないらしい。……その結果、私に『最低限の補償金』を提示してきた」
「最低限、ですか……。具体的にはどの程度を?」
マイラの問いに、侯爵は苦々しげに首を振る。
「グランシェル侯爵家にとっては雀の涙だよ。あんなものを提示して、はいそうですかと受け入れるわけにはいかない。そもそも、王族が正式に婚約をしていた貴族令嬢を一方的に捨てるなど前代未聞だ。私は断固として抗議したが、宰相と国王陛下は『ラウルは次期国王ではないし、これ以上騒ぎを大きくしたくない』という態度だった」
つまり、王家の姿勢としては、ラウルの行動を半ば容認する方向に傾いているのだろう。第二王子であるラウルには、もともと大きな期待がかけられていなかった。第一王子がすでに王位継承の有力候補であるため、次弟であるラウルの行動を無理に抑え込んで国王家のイメージを損なうよりも、穏便に片付けたいという思惑が見える。
「……なるほど。それで、お父様はどうなさるおつもりですか?」
マイラは恐る恐る尋ねる。すると侯爵は険しい表情のまま、「まずは時間をかけて交渉を続ける」と言い切った。
「こんな屈辱を、我が家は甘受しない。ラウル殿下が平民を選ぶのは自由だろうが、その代わりグランシェル侯爵家の名誉を踏みにじった責は免れない。私は王家に対し、より強い補償と公式の謝罪を要求するつもりだ」
「……わかりました」
マイラは静かにうなずく。心の中では、もうラウルのことなどどうでもいいという思いが渦巻いていた。むしろ問題は、グランシェル家がこれまで築き上げてきた名声をどう守るかだ。王子の婚約者という立場に期待を寄せていた人々も多いし、それを裏切られた形になれば、家の威信が揺らぐ恐れもある。
「お前はもう何も心配するな。ラウル殿下のような男に執着する必要はない。近いうちに改めて社交界に出る機会があるだろう。その時に、今回の真相を堂々と示せばよい。お前は被害者なのだからな」
「はい……。ありがとうございます、お父様」
父の力強い言葉を聞いて、マイラは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。婚約破棄によるショックは残っているが、自分は一人きりではない。そして何より、王子という存在に縛られていた時間から解放されたのだ──そう考えると、不思議なほどに気持ちが軽くなる気がする。
書斎を出た後、マイラはもう一度サロンに立ち寄って、窓の外を見やる。冬の気配を帯びた冷たい風が庭の木々を揺らし、夜には雪でも降りそうな雲行きだ。
(ラウル殿下……あなたは、私のことなど眼中になかったのでしょう。それでも、これは終わりじゃない。私は私の道を歩むわ。あなたに捨てられたからこそ、私はもっと強くなれるはず)
マイラの瞳には今、小さな炎のような決意が宿っている。「氷の美姫」と呼ばれた彼女の内部には、確かに熱い感情が芽生え始めていた。それは、ずっと押さえつけてきた自分らしさを解放するための、最初の一歩なのかもしれない。
このとき、彼女はまだ知らない。ラウル王子が選んだ平民の娘リリアとの恋が、この先どれほど大きな波紋を呼び、結果としてラウル自身がどれだけの後悔を味わうことになるのかを。そして、マイラが自分の力で未来を切り開き、幸せを掴み取るまでの壮大な逆転劇が、今まさに始まろうとしていることを──。