王宮での舞踏会の翌朝、そしてグランシェル侯爵デゼルが「ラウル王子からの婚約破棄」の正式通達を受けてから二日目――。
マイラ・グランシェルは、少し落ち着きを取り戻した心持ちで自室の窓辺に立っていた。窓の外には冬枯れの庭が広がり、先日まで赤や黄色に色づいていた木々も今はその葉をほとんど落としている。空気の冷たさは増すばかりだが、彼女の心には妙な高揚感があった。
もちろん、突然の婚約破棄がもたらしたショックはまだ完全には消えていない。けれど、逆にその出来事が、今まで身を置いてきた「王子の婚約者」という窮屈な籠(かご)から自分を解放してくれたようにも感じられたのだ。長い間、王族という特別な存在の隣に立つべく振る舞い、自らの本心を押し込めることが当たり前になっていた。あの夜、ラウルから「平民との恋愛を選ぶための婚約破棄」を告げられたときはさすがに混乱したが、今になってみれば、もしかするとそれは自分の人生を切り開くための“始まり”だったのではないか、という気すらしている。
──もっとも、現在グランシェル侯爵家と王家との間では、婚約破棄に関する補償問題や謝罪の有無などをめぐって話し合いが続いていた。デゼル侯爵は「形式的な金銭だけでは済ませない」と強く主張し、国王や宰相と激しい応酬を繰り返しているらしい。ラウル王子が第二王子であるとはいえ、王族が正式に結んでいた婚約を一方的に破棄するのだ。しかも、お相手は平民の少女。その衝撃の大きさは、王宮内部でも計り知れない。
国王としては大事にしたくない気持ちもあるだろう。第一王子にはすでに正式な婚約者がおり、近い将来には即位が見込まれているため、もはや次男であるラウルの行動を必要以上に制止するつもりはないらしい。王宮の噂によれば、「ラウルが国を出ていくのなら、むしろそれで波風が立たなくて済むのでは」とさえ言われているとか。
マイラは窓辺で息をつきながら、そんな情勢を思い巡らせる。彼女はすでにラウルを取り戻す気など微塵もないが、グランシェル家の名誉を守るためにも、父の奮闘が実ることを静かに祈っていた。自分は娘として何ができるだろうか。あるいは、同じように苦しんでいるであろう家人たちのために、何か役立てることはないだろうか。
そんなことを考えていると、ドアの外から控えめなノックの音がした。
「マイラお嬢様、よろしいでしょうか?」
侍女のアニスの声だ。マイラは椅子から立ち上がり、「どうぞ」と答える。アニスは緊張した面持ちで部屋へ入り、恭しく頭を下げた。
「今、応接間に伯爵令嬢セレナ様がお越しです。お嬢様にぜひお会いしたいとのことで……」
「セレナが? ありがとう、すぐに行くわ」
アニスが来客を告げてくれたことに、マイラの心は少し弾む。幼い頃からの親友であり、婚約破棄の知らせを知ってからも何かと気にかけてくれる心優しい友である。セレナが訪れるなら、きっと気遣いの言葉をくれるに違いないし、もしかすると新しい情報を持ってきてくれるかもしれない。
マイラはドアを閉め、少し身だしなみを整えてから廊下を進む。屋敷の奥にある応接間に入ると、すでにセレナ・フォルトが暖炉のそばで暖を取りながら待っていた。薔薇色のドレスを身にまとい、外出用のコートを椅子にかけたばかりなのか、柔らかな髪にはまだ寒気の中を移動してきた名残が見える。
「マイラ!」
セレナはマイラの姿を認めるとすぐに立ち上がり、駆け寄ってきた。いつもは落ち着いた態度が多いセレナにしては、かなり慌てた様子だ。
「久しぶりね、セレナ。そんなに焦ってどうしたの?」
「焦っているというか……聞いて。実は、ある噂を耳にしたの。ラウル殿下がリリアって娘と近いうちに“婚儀”を挙げるつもりらしいわ。早ければ年明けにもって」
その言葉を聞いて、マイラは少しだけ眉を動かした。ラウルが“平民の少女との結婚”を本気で進めていることは、もう驚きではない。しかし、こんなにも早く式の話が持ち上がるというのは少々予想外だった。国王や宰相が彼の結婚を完全に容認しているわけでもないだろうに、一体どういう段取りなのか。
「そう……。年明けには……。正直、私にはあまり関係のない話だけれど」
マイラが静かに呟くと、セレナは深刻そうに続ける。
「ええ、そうなんだけど……でも、そのせいで王宮内ではさらに混乱が広がっているそうなの。第一王子閣下や他の公爵家、侯爵家の人々が『あんな身勝手な婚姻を王家の恥として認めるわけにはいかない』と噂していて。中には“ラウル殿下を追放すべき”なんて過激な意見を言う貴族もいるとか……」
「追放、ね……。王家の体面を考えれば、確かにそういう声が出てきてもおかしくない。だけど、そこまでしなくてもいいんじゃないかしら。私たちが何か口を挟むことでもないわ」
マイラとしては、もはやラウルの行動に振り回されるのは真っ平だ。それよりも、自分がこれからどんな人生を歩むのかに意識を向けたい。
そんなマイラの心情を察したのか、セレナは表情をやや緩め、話題を切り替えるように言葉を続けた。
「それで、もう一つ大事なことがあるの。先日グランシェル侯爵家が提示していた“補償”の件について、国王陛下がどのように対処するか、近々正式にアナウンスが出るらしいわ。たぶん、ここ数日のうちに何か動きがあると思う。……おじさま(デゼル侯爵)がどれだけ上手に交渉してくれたか気になるところだけれど、あなたはどう動くつもり?」
「私が動く、というのは具体的に何を指しているの?」
「例えば、もし王家から満足のいく補償を提示されなかった場合、あなたはどうするのかな、と。おじさまがどれほど強硬に出るとしても、国王陛下だって王国の政治を乱したくないでしょう? 曖昧な金額を出されて、はいそれで終わり、なんてことにならないか心配で……」
セレナは真剣な眼差しでマイラを見つめる。マイラは彼女の思いやりを感じながら、しばし考え込んだ。正直、自分がどう行動するかはあまり深く考えていなかった。これまでの人生で大きな決断は常に父が下してきたし、マイラは“王子の婚約者”として王族の方針に従う形をとってきたからだ。
しかし、今やマイラは王子の婚約者でもなければ、どこかの家に嫁ぐ予定もない。完全にひとりの貴族令嬢として、あるいは将来的には「グランシェル侯爵家の後継候補」として、もっと主体的に動く必要があるかもしれない。
「私にできることがあるとすれば……そうね。もしかすると、私の力で家の財政や事業をさらに伸ばしておくことで、王家からの甘い誘いをはねのける“後ろ盾”を作っておくことかもしれない。……父は侯爵家の発展に力を注いでくれているけど、私も積極的に協力したいわ」
マイラがそう答えると、セレナの表情がパッと明るくなる。
「それよ! 実は私、知り合いの商家の人からこんな話を聞いていたの。グランシェル家が最近、地方の特産品や工業分野で新しい取引先を探しているって。……あなた、そういうことを本格的に始める気があるなら、私がその人を紹介してあげてもいいわ」
「紹介してくれるの?」
「ええ。でも、本当にやる気があるなら、ね。あなたは自分で新しい事業をまとめたり、経営を監督したりする自信がある?」
セレナの問いに、マイラは少し考え込む。王族としての婚約期間、彼女は礼儀作法や外交的な振る舞いは身につけたものの、実務に関してはあまり深く携わってこなかった。だが、一方で父の元で領地経営の断片を見聞きしてきた経験もある。幼少期から多岐にわたる学問を学んできたし、実際にそれを活かす場面も少なくなかった。
なにより、今のマイラには「前へ進みたい」という強い意志がある。ラウルの一件を通じて痛感した、自分自身をもっと表に出して行動する必要性。たとえ失敗しても、自分の足で立ち上がる覚悟。それは、これまでのマイラにはなかった大きな原動力となっていた。
「そうね……正直、今までこうした実務を全て父に任せっきりだった部分があるけど、挑戦してみたい。やると決めたからには中途半端にはしないつもりよ」
そう答えるマイラの声は、どこか力強さを帯びていた。
セレナは嬉しそうに微笑み、そのままマイラに「知り合い」の話を詳しく説明し始める。彼女が紹介してくれるというのは、王都に本拠地を置く実業家の一人で、ルシアン・ベルナールという名の青年だという。まだ二十代後半ながら、地方都市や隣国との交易で大きな成功を収めており、最近は貴族社会とも積極的に繋がりを持とうとしているらしい。
「ルシアンさんは、とても物腰が柔らかくて話しやすい方よ。お父上は男爵家の出身だけれど、自分自身は“実業家”の道を選んであまり貴族の身分にこだわっていないみたい。大商会を立ち上げて、異国から珍しい商品を運んだり、国内の特産品を高値で売ったりして財を成しているの。人脈も広くて、彼が動くだけで商売の相場が変わるなんて噂もあるくらいよ」
「へえ……なんだかすごい人のようね。でも、どうしてセレナがそんな人と知り合いなの?」
「父が昔からベルナール家と個人的な付き合いがあったのよ。男爵家としてのベルナール家とフォルト伯爵家は、領地こそ近くないけど、王宮で会うたびに親交を深めてきたみたい。ルシアンさんが小さい頃から何度か顔を合わせているわ。……私より年上だけど、とても話しやすくて良い人よ」
セレナの話を聞いていると、マイラの中で興味が湧いてきた。どうやら新しい事業を起こすのに協力してもらえるだけでなく、ビジネスに関する様々なノウハウを教わることができそうだ。彼女は、次に王都へ行く用事があれば、ぜひルシアンに会ってみたいと感じる。
「ありがとう、セレナ。その方に会える機会があれば、是非紹介していただけると嬉しいわ。……私も、いずれ父の助けにならなければいけないし、いつまでも“王子に捨てられた哀れな令嬢”なんて噂されるのは御免だから」
マイラがそう微笑むと、セレナも満足げにうなずく。
「いいわね。あなたが本気でそう思うなら、私は全力で応援する。……おじさまにも、あなたの意欲を伝えてあげて。きっと喜ばれると思うわ」
そうして二人は意気込みを語り合い、その日はしばらくお茶と菓子を楽しみながら友人同士の何気ない会話を交わした。セレナから伝えられた新情報と、新たな挑戦への機会――それらはマイラの心に小さな灯火をともす。もはや彼女は、ラウルという存在に足を引っ張られることなく、前を向いて歩き始めているのだ。
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その夜、グランシェル侯爵家の夕食の場。マイラと父デゼルは、長いテーブルを挟んで対面に座っていた。執事や侍女たちがそれぞれ給仕を務め、美しく盛り付けられた料理が次々と並べられていく。もともと侯爵家の食事は豪華だが、最近のマイラはあまり食が進まず、少しずつしか口にしなかった。
もっとも、この日のマイラは思いのほか食欲が湧いていた。セレナとの会話で気持ちが前向きになったせいだろうか。彼女はスープを一口すすりながら、今日あった出来事を父に報告する。
「……というわけで、セレナが紹介してくれるという実業家ルシアン・ベルナールという方に、一度お会いしてみようと思うんです。グランシェル家の事業拡大において、お力になっていただけるかもしれません」
マイラがそう切り出すと、デゼル侯爵は眉を少し動かしながら頷いた。
「ベルナール……聞いたことがある名だ。確か、男爵家の血筋だが、実業家としてはかなりのやり手だと聞く。優秀な部下を多く抱え、地方の商会や工房との繋がりが広いらしいな」
「はい。私も詳しくは知らないのですが、セレナいわく信頼できる方のようです。……お父様、私にそのような取引をまとめる権限を与えていただけませんか? もちろん、最終的にはお父様にご判断いただきますが」
その提案に、デゼルはやや驚いた様子だった。娘がここまで積極的に「実務」に関わろうとするのは初めてのことかもしれない。マイラの成長を感じる一方で、まだ心配もあるのだろう。しばし沈黙してから、彼は静かに口を開く。
「……お前が本気でそう思うなら、私としては大いに歓迎する。いずれにせよ、お前には将来、グランシェル家を支えてもらわねばならないからな。これまで王家の婚約者として多少の制約はあったが、今となってはお前も自由に動ける立場だ。失敗を恐れず、思い切りやってみるといい」
「ありがとうございます、お父様。……私、やってみます。今度こそ自分で何かを決めて、自分で行動してみたいんです」
マイラの瞳には確かな意志が宿っていた。それを見て、デゼル侯爵も微笑ましげに娘を見つめる。婚約破棄という試練が、マイラを新たな段階へ押し上げているのだと感じるのだろう。
夕食の席は、その後も王家との交渉についてなどの話題で続いた。王宮はラウル王子の平民との婚姻に関して、ひとまず形式的な容認を示したものの、グランシェル家への具体的な補償についてはまだ結論を出せずにいるという。国王は「できるだけ穏便に済ませたい」と望んでいるが、デゼルは「名誉を守るためにも、金銭だけではない形での誠意を示すべきだ」と譲らない状況だ。
「今はまだ交渉の段階だが、ラウル殿下の件がこれ以上拗(こじ)れるようなら、彼は本当に国外追放に等しい扱いを受けることになるかもしれない。……まあ、こればかりは王家内の問題でもあるからな。私としては最低限、グランシェル家の立場を貶めない条件を勝ち取れればよい」
そう語るデゼルの言葉を聞きながら、マイラは複雑な思いを抱える。ラウルが選んだ道なのだから仕方がない。だが、王家の中で四面楚歌(しめんそか)に陥りつつある彼の姿を想像すると、どこか痛ましさを感じないわけでもなかった。
しかし、それ以上に大事なのは自分自身の未来だ。彼女は夕食を終えた後、執務室へと移動し、明日からの準備に取りかかる。セレナが紹介してくれるというルシアンに会うには、まず相手との面談の日時を決めなければならないし、グランシェル家として具体的にどういう案件を提示できるのか整理する必要もある。
そんな風に書類に目を通しているうちに、気づけば夜も更けていた。侍女が「お嬢様、お疲れでしょう。今日はこれくらいになさっては?」と声をかけてきたが、マイラは「もう少しだけ」と答えた。目が少し疲れてきた頃、ようやく区切りがついたので、明日以降の行動計画をノートにまとめて部屋を出る。
──暗い廊下を進みながら、マイラは自分の中に生まれた新しいエネルギーを感じていた。ラウル王子との縁が絶たれた今、自分を縛るものは何もない。たとえ辛い経験だったとしても、これを機に自分なりの人生を切り開こう。そう強く心に誓いつつ、マイラは部屋へと戻り、その夜は深い眠りについた。
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数日後。マイラはセレナの手配で、ルシアン・ベルナールと初めての面会を果たすことになった。場所は王都の中心部、貴族街と商業街のちょうど境目に位置する「ベルナール商会」の本部ビルである。
外観は石造りの堂々とした建物で、貴族の館ほどではないが、一介の商人が構える事務所としてはかなり立派だった。周囲にも倉庫や馬車の停留所があり、常に大勢の使用人や従業員が慌ただしく出入りしている。この辺りは高級店が立ち並ぶ区画でもあり、貴族もよく訪れることから治安も比較的良好だ。
マイラは屋敷から馬車で乗り付け、セレナと合流してからビルの入口へと足を運んだ。すると、すぐに案内係らしき人が二人を出迎える。
「本日はようこそ、グランシェル侯爵令嬢、そしてフォルト伯爵令嬢。私、ルシアン様の秘書を務めますロイと申します。どうぞこちらへ」
長身で穏やかな顔立ちの青年が深々とお辞儀をし、二人をビルの中へと導いていく。
廊下を抜けて三階に上がると、そこには応接室がいくつも並んでいた。柔らかな絨毯が敷き詰められ、壁には高級感のある装飾が施されている。一般的な商会の事務所とは思えないほど上品な空間だ。
「まるで貴族のサロンみたい……」
セレナが小声でそうつぶやくのを聞いて、マイラも同意見だった。実際、ルシアンが貴族社会を意識してこのような内装にしているのだとしたら、そのセンスはなかなかのものだろう。ロイは応接室のひとつを開けて二人を通し、
「少々お待ちください。ルシアン様がすぐに参りますので」
と告げて部屋を出て行った。
綺麗に整頓された応接室には、大きめのソファとテーブルが配置され、両側に緩やかな曲線を描く肘掛け椅子が置かれている。テーブルの上には香り高い紅茶と焼き菓子が並べられ、すでに来客を歓待する準備が整っていた。
マイラはセレナと向かい合うように腰を下ろし、一度小さく息をつく。ここに来るまで多少の緊張はあったが、部屋の雰囲気やセレナの存在のおかげで、それも幾分か和らいでいる。
そうこうしているうちに、扉がノックされ、秘書のロイが再び姿を見せる。後ろには紺色のスーツに身を包んだ、すらりとした男性が続いていた。端正な顔立ちに落ち着いた雰囲気をまとい、年齢は二十代後半くらいだろうか。これが噂のルシアン・ベルナールなのだと、マイラはすぐに察した。
「初めまして、ルシアン・ベルナールと申します。本日はお忙しい中、わざわざお越しいただきありがとうございます」
彼は柔らかな笑みを浮かべながら、マイラとセレナの前で恭しく一礼する。貴族の正式な儀礼ほど堅苦しくはないが、礼儀正しさが感じられる所作だった。
「グランシェル侯爵令嬢のマイラ・グランシェルと申します。こちらこそ、お時間を作っていただき感謝いたします」
マイラが自己紹介すると、セレナも「あらためてフォルト伯爵令嬢のセレナ・フォルトです。ご無沙汰しています」と軽く会釈する。ルシアンはにこやかに目を細め、
「セレナ様からは時々お噂を伺っておりましたが、お会いするのは随分と久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
と声をかける。どうやら二人はやはり顔見知りのようだ。
一通りの挨拶が済むと、ルシアンは秘書のロイに目配せし、彼はさっと給仕用のワゴンを持ってくる。入れたての紅茶の良い香りが部屋に満ち、カップがマイラとセレナの前に丁寧に置かれた。
「では、お茶をいただきながら……早速ですが、本日のご要件を伺ってもよろしいですか?」
ルシアンがテーブル越しに姿勢を正して問いかける。マイラは喉を一度潤してから、事前に考えていた話題を切り出す。
「はい。まずは、私たちグランシェル侯爵家が今後進めたいと考えている事業について、ルシアン様のように広い人脈や経験をお持ちの方にアドバイスを頂戴したく参りました。詳細はまだ大まかですが、いくつか興味を持っていただけそうな案件があります」
その言葉を受け、ルシアンは穏やかに微笑みながらうなずく。
「存じておりますよ。グランシェル侯爵家はもともと北西の領地を中心に、豊かな農産物や牧畜品を扱っているとか。かつては金属鉱山も所有していたと聞きました。どのように新たな価値を生み出すお考えなのか、ぜひお聞かせいただきたいですね」
まるで事前にしっかり調べてあったかのような知識量だ。マイラは内心感心すると同時に、説得力を持った提案をしなくてはと気を引き締める。
「……お恥ずかしながら、私自身はまだ勉強中の身ですので、粗削りな点もあるかと思いますが、お付き合いいただけると助かります」
それからマイラは、父デゼルの方針と自分自身の考えを整理してきたメモを見せながら説明を始める。グランシェル侯爵家の領地には、四季折々の特産品や質の良い家畜が育つ環境があるものの、主な販売ルートは国内向けに限られ、販路の拡大が課題だった。そこで、国境を超えた交易や都市部の大規模商業との連携を視野に入れ、さらなる収益拡大を狙いたいというわけである。
もともと領地には鉱山もあったが、採算が合わず休眠状態。しかし実際にはまだ鉄鉱石や少量の希少金属が取れる見込みがあり、適切な投資や技術を導入すれば再度の採掘が可能になるかもしれない。また、山間部には優れた木材資源もある。それらをどう活用するかを検討している最中なのだ。
マイラの話を丁寧に聞いていたルシアンは、ときおり感心したように「ほう」と小さく声を上げながら耳を傾ける。説明を終えたところで、彼はカップを置いて微笑む。
「私の正直な感想を言わせていただけるなら、かなり有望な案件だと思います。王都周辺には人口が増加している地域も多く、特産品を供給する需要は高まっている。それに加えて、隣国との取引はここ数年で急速に拡大しており、今がまさに好機とも言えるでしょう。……私で力になれることがあれば、ぜひ協力させていただきたいですね」
その好意的な回答に、マイラの胸は高鳴った。ルシアンという人物は、単なる実業家ではなく、しっかりと先を読む目を持ち、人との縁を大切にする姿勢が感じられる。
「ありがとうございます。もちろん、具体的な契約や投資については父の判断も仰がなければなりませんが、もしルシアン様にお力添えをいただけるなら心強いです」
マイラが頭を下げると、ルシアンは手を軽く振って遠慮するような仕草を見せる。
「いえいえ、お礼を言うのはまだ早い。私はビジネスで動く以上、利益を得たいという思いがあります。そちらにも相応の利益を提供しつつ、こちらも正当な報酬を得る。その関係が築けるなら、ぜひ積極的に進めていきたいと思いますよ」
そうして二人は、セレナも交えながら具体的な可能性を議論していった。侯爵家が新たに投じられる予算や人材の有無、ルシアン側が持っている商会ネットワークの範囲、物流ルートの確保など、細かな部分まで話が及ぶ。いつしか時間はあっという間に過ぎ、気づけば窓の外は夕暮れに染まり始めていた。
「今日は大まかな方針をすり合わせただけですが、今後はより詳細な計画を練りましょう。……よろしければ、改めて私からグランシェル侯爵様にお会いする機会を頂戴してもいいですか?」
ルシアンがそう申し出ると、マイラは嬉しそうに微笑んで、「はい、ぜひお願いします」と答えた。セレナも「良い話が進みそうでよかったわ」と満足そうである。
応接室を出てロビーへ向かう途中、ルシアンはマイラに少し距離を詰めて話しかけてきた。セレナは後ろで談笑しているロイと何やら楽しげに会話している。
「……マイラ様。突然の質問で失礼かもしれませんが、実は私も王宮の最近の騒動について、少し気にしていることがありまして」
「騒動……ラウル殿下の婚約破棄のことですか?」
マイラが問い返すと、ルシアンは申し訳なさそうに首を縦に振る。
「はい。貴族や商人の間でも、グランシェル侯爵家の令嬢が一方的に捨てられたと……正直、物騒な噂が広まっています。私としては、それが影響して侯爵家が事業に乗り出すのを渋るような展開にならないか気にかけていたのです。ですが、今日お話を聞いて、マイラ様がとても前向きで意欲的だとわかって安心しました」
マイラは、ルシアンがそこまで配慮してくれることに驚きと感謝を覚える。
「お気遣いありがとうございます。確かに、今回の婚約破棄が家の名誉を傷つけた部分もあるでしょう。けれど、だからと言って私たちは立ち止まっているわけにはいきません。父も、私も、“新しい道を切り開く”と決めたんです」
その言葉に、ルシアンは柔らかな笑みを返す。
「素晴らしい決意ですね。……何かありましたら、いつでも遠慮なくご相談ください。私も私なりに、できる限り力を尽くしたいと思っていますので」
そう言う彼の目には真摯な光が宿っている。マイラはその視線を受け止め、かすかに頬を染めながらも静かに微笑んだ。
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一方その頃、王宮では新たな議題が持ち上がっていた。それはラウル王子とリリアの“婚儀”をどう扱うかという問題である。
国王や宰相は「結婚式の費用や式場は王家として提供しない」「式自体は静かに執り行い、国民への公表は最小限に」という条件での“折衷案”を検討していた。つまり、第二王子が“平民の娘”を娶(めと)ることは王家の公式行事として大々的には認めないが、強引に止めることもしない、という曖昧な立場をとろうとしているわけだ。
しかし、これに対してラウルは猛反発していた。自分は愛するリリアとの結婚を堂々と祝福してほしいのであり、隠れるように形だけの式を行うなどごめんだ、と主張している。だが、リリアを王家に迎え入れるとなれば、当然貴族や他国からの反発も強く、王家の権威が損なわれる恐れがある。国王としてはこれ以上厄介な問題を抱えたくないというのが本音だ。
さらに、グランシェル侯爵家との婚約破棄の補償交渉もまだ決着していない。一部の高官たちは、「ラウルを早々に領地なり国外なりへ送り出してしまうべきだ。後は第一王子がしっかり王位を継げばいい」とさえ囁いている始末。
こうした動きを知るラウルは、日に日に苛立ちを募らせていた。リリアが平民であるという出自だけで、なぜこんなにも反対され、冷遇されねばならないのか。彼は王子であるという立場を利用して、何としてでも彼女を正妻として迎え入れたい。
一方、リリア自身もまた、王宮という華やかな場所で感じる重圧と貴族たちの蔑視に苦しんでいた。ラウルは「大丈夫だ、必ず守るから」と優しく励ますが、現実はそう甘くはない。王宮の中には、彼女を“王子の愛人”程度にしか見ない者もいれば、面と向かって嫌味を言う貴婦人も少なくなかった。
「……リリア、気にするな。僕が必ず、お前を立派な王子妃にしてみせるから」
夜の回廊で、ラウルはそう言ってリリアの肩を抱き寄せた。けれどリリアはしょんぼりと俯き、弱々しい声で応じる。
「殿下……ごめんなさい。私、皆さんから白い目で見られるのが怖いんです。『あんな平民女が王家に入るなんて』って……」
「僕が言っただろう? そんな連中の言葉は気にしなくていい。愛があれば、身分なんて関係ないさ」
自信に満ちた口調で言うラウルだが、その裏では自分自身への焦りが膨らんでいる。本当に、このまま王家が結婚を認めてくれなければどうしよう。グランシェル侯爵家との婚約破棄は強行したが、その代償として自分の立場はますます悪くなっている。第一王子や周囲の大貴族が固める体制にあって、自分は“邪魔者”扱いされつつあるのだ。
(どうして、こんなにも上手くいかないんだ……。マイラとの婚約は、僕にとって束縛でしかなかった。だからこそリリアを選んだのに、なぜ誰も僕たちを祝福してくれない……?)
ラウルは心の中で苛立ちを募らせる。彼が選んだ道とはいえ、王宮という世界で平民の娘を妻に迎えるというのはあまりにも困難が多かった。それでも彼は、自分の愛が真実であるならば、いつかは周囲が折れてくれるはずだと信じている。いや、そう信じなければやっていられないのだろう。
しかし、事態はラウルが望む方向には動きそうにない。国王も宰相も、もはや彼を将来の中心人物とは考えていない。第一王子が優秀である以上、ラウルの存在を政治的に利用する必要性は少ない。ならばいっそ邪魔をしない形で放置するか、穏便に国外へ送り出すか。それが王家にとっての最善策とさえ思われていた。
こうして、ラウルは誰にも認められない孤独な戦いへと突き進んでいく。リリアを王家に迎えることに固執すればするほど、周囲の反発と冷遇は強まる一方だ。それを跳ね除けるだけの政治力も人望も、今のラウルにはない。グランシェル侯爵家という強力な後ろ盾を自ら手放した代償は、想像以上に重くのしかかりつつあった。
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一方その頃、マイラはルシアンとの話し合いを重ね、徐々に具体的な事業計画を形にしていた。週に一度ほどのペースでベルナール商会を訪れ、商材の選定や取引の条件などを煮詰めている。父デゼルも「マイラがここまで動くとは」と驚きつつも、彼女の行動を後押ししてくれるため、計画は着実に進行していた。
ルシアンに紹介された各種工房や地方商会とのやり取りを通じて、マイラは生き生きとした表情を見せる。偶然にも、「グランシェル家の侯爵令嬢が婚約を破棄された」という噂を聞きつけた人々が、同情や興味を示す場面もあるが、マイラは丁寧な態度でそれをいなしつつ、事業の重要性を説いて協力を仰いだ。
「私個人の事情はどうあれ、グランシェル領の発展は皆様の協力なくして実現できません。どうか、一緒に新しい商機を作り出していきませんか?」
そう呼びかける彼女の姿は、かつての“冷たい貴族令嬢”のイメージとは少し違っていた。情熱と誠意を感じさせる口調に、多くの商人や職人たちが興味を示し、前向きに検討する意思を示してくれるのである。
そして、もう一つ。このプロセスの中で、マイラの心にもまた、少しずつ変化が芽生え始める。ルシアンという青年は、単に有能なビジネスマンというだけでなく、物腰が柔らかく、相手の立場を常に思いやろうとする人物だ。外見も端正で、時折見せる穏やかな笑顔は、ふとした瞬間にマイラの胸をときめかせる。
──ラウルとの婚約期間、マイラは「好き」という感情を意識してこなかった。王族との結婚は義務でもあり、周囲から期待されるものであって、自分の意思をはさむ余地はほとんどなかったからだ。そんな彼女にとって、ルシアンのように対等に会話をして、共に一つの目標を追いかける相手は新鮮だった。
もっとも、マイラはまだその気持ちを恋愛感情とハッキリ自覚しているわけではない。ラウルに振り回され、失意を味わったばかりだし、自分自身の将来を切り開くことに集中したいと思っている。けれど、ルシアンと話しているときの自分は、これまでとは違う心の動きを感じるのだ。
そうして忙しく動き回るうちに、季節は年末へと差しかかってきた。王都の冬は厳しい寒さが続くが、街中は年の瀬の祝祭に向けて活気づき、商人たちは行き交う客に向けて「一年の締めくくりだよ!」とばかりに商品を売り込んでいる。
マイラもまた、ルシアンとの打ち合わせが終わった後、セレナや使用人を連れて市街地を見て回ることが増えた。以前は舞踏会やお茶会が中心だった社交界の習慣をこなしながらも、今は商業の視点で街を見ることで新たな発見が多い。
例えば、年末年始にかけて需要が高まる食材や日用品。あるいは人々が欲しがっている装飾品やファッションの傾向。マイラはそうした情報を丹念に拾いながら、次なるビジネスチャンスを模索していた。「私、こんなに商売のことを考えるようになるなんて思ってもみなかった」と笑い合う姿に、セレナも「でも楽しそうよ」と目を細める。
だが、そんな中でも、ラウル王子とリリアに関する噂は絶えず耳に入ってくる。二人の婚儀が年明け早々に挙行される予定だという話もあれば、王家がそれを黙殺しているという話もある。ひどい噂になると、「リリアが王宮でいじめられている」「ラウル殿下が焦って無理を言っている」など、耳を塞ぎたくなるようなゴシップすら流れていた。
マイラはそれらの噂に感情を大きく揺さぶられることはなくなっていたが、わずかに胸がチクリと痛むこともある。自分を捨てた相手とはいえ、ラウルは昔から一応の紳士的態度を見せていた。彼がそこまで無様な姿をさらしていると想像すると、かつての婚約者として多少の気まずさを感じるのも仕方ない。
しかし、マイラはそれを深く考え込むことを避けるようにしていた。自分にはもう関係のないこと――そう言い聞かせながら、今はグランシェル家と領地のために尽力する時期なのだと自分を鼓舞し続ける。
そんなある日のこと。マイラがベルナール商会での打ち合わせを終え、夕暮れ時に屋敷へ戻ろうとしたところ、門の前で何やら騒ぎが起こっていた。何人かの衛兵らしき姿が見えるが、どうも様子がおかしい。近づいてよく見ると、そこにいたのは――
「ラウル……殿下?」
なんと、ラウル王子がグランシェル侯爵家の門前に立ち、衛兵に制止されているのだ。彼は疲れ切った表情で、マイラを見るなり手を伸ばしてくる。
「マイラ……っ! よかった、やっと会えた。頼む、僕の話を聞いてくれ」
その姿は、かつての余裕と気品を漂わせていた王子の面影など皆無だった。衣服も乱れ、目には焦燥の色が宿っている。驚いたマイラは、駆け寄る彼に対して咄嗟に身構えた。衛兵たちが「お嬢様、危険です」と周りを囲むように警戒する。
「ラウル殿下、なぜここにいらっしゃるのです? もう私たちに関係があるとは思えませんが……」
マイラの静かな問いかけに、ラウルは苦しげに唇を噛む。
「頼む……王宮で僕の立場がどんどん悪くなるんだ。リリアは貴族たちから酷い仕打ちを受けている。……マイラ、君は優しい人だ。昔から僕を見放したりしなかったじゃないか。今だけでいい、助けてくれないか……」
助けてくれ、とはどういうことなのか。婚約を破棄された当の相手に、今さら何を望むのか。マイラの胸中には複雑な感情が渦巻くが、あえて冷静に言葉を選ぶ。
「申し訳ありませんが、あなたが今置かれている状況は、あなた自身が選んだ結果ではありませんか? それを私にどうしろとおっしゃるのです? 私は、もう侯爵令嬢としてあなたの婚約者ではない。お力になることなど、ありませんわ」
ラウルの顔が苦悶に歪む。彼は取り乱しそうになるのを必死で抑えながら、必死の形相で訴え続ける。
「そんな……! 僕は確かに君を傷つけた。でも、あの時は……愛のない婚約に耐えられなかったんだ。リリアといるときは心が安らいだんだよ。でも、今は……何もかもが噛み合わない。もうどうしていいかわからないんだ……」
そのあまりにも身勝手な懇願に、マイラは強い怒りを覚えると同時に、哀れさも感じた。ラウルは自分の意思で平民との恋愛を選んだのに、それを突き通すだけの覚悟も持ち合わせていなかったのか。
周囲では、衛兵が「お嬢様、館の中へお入りください。殿下をこれ以上お引き止めするのは危険です」と促している。ラウルが激昂して何をするか分からない、と判断しているのだろう。
「ラウル殿下、これ以上私に何かを求めても無駄です。あなたとあなたの愛するお方が歩む道は、私とは関係がありません。……さようなら。どうか、あなた自身の問題はあなたの責任で解決なさいませ」
マイラはそう言い放ち、踵を返す。ラウルが「待ってくれ……!」と叫びかけるが、衛兵たちが慌ててその体を押さえ込み、マイラの前に立ちふさがる。
かつては王宮でそこそこ尊重されていた第二王子が、今や侯爵家の門前で門前払いを食らい、強引に追い返される始末。まさに没落の兆しを象徴するような光景だった。
マイラの胸の内に浮かぶのは、ただ「もう、私を巻き込まないで」という切実な思い。哀れみや同情を感じないわけではないが、同時に「ざまあみろ」と言いたくなるほどの痛快さもわずかにあった。
彼女は屋敷の扉をくぐりながら、ひそかに息を吐き出す。衛兵たちの叫びや、ラウルの嘆願する声が遠くで聞こえる中、マイラは心の中で呟く。
(私にはもう、守るべきものがある。あなたに注ぐ情けや同情は残っていない。私は私の道を、たくましく歩んでいくわ――)