翌朝、香織は鏡の前で何度も服を選び直した
カジュアル過ぎず、でも気取り過ぎない服装
最終的に選んだのは、白いブラウスとデニムのスカート
高校時代によく着ていたような組み合わせだった
「お出かけ?」
母親が朝食の準備をしながら聞いてきた
「うん、ちょっと」
「もしかして、男の人?」
母親の勘の良さに、香織は苦笑した
「ただの同級生よ」
「そう、気をつけて行ってらっしゃい」
駅前に着くと、俊介が既に待っていた
カジュアルなシャツとジーンズ姿の彼は、学生時代を思い出させた
「おはよう」
「おはよう」
2人は俊介の車に乗り込んだ
レンタカーだという青い車は、清潔で新しかった
「懐かしいな、このルート」
俊介が運転しながら言った
「覚えてる?初めて2人で海に行った日」
「覚えてるわ、あなたの自転車の後ろに乗って」
「そうそう、途中で雨に降られて」
「バス停で雨宿りしたわね」
2人は同時に笑った
思い出は、まるで昨日のことのように鮮明だった
車窓から見える景色は、少しずつ変化していった
住宅街から田園風景へ、そして海岸線へ。潮の香りが強くなってくる
「変わったね、車の趣味」
香織が言った
「昔はスポーツカーが欲しいって言ってた」
「歳かな・・・今は実用性重視」
「私も変わったわ、昔は海が大好きだったのに、東京にいる間は一度も行かなかった」
「どうして?」
香織は少し迷ってから答えた
「きっと・・・あなたを思い出すから」
俊介の手がハンドルを握る力を少し強めた
「俺も、海は避けてた」
「そうなの?」
「ああ・・・湘南に住んでたこともあったけど、海には近づかなかった」
2人は顔を見合わせて、苦笑した
海に着くと、平日の午前中ということもあり、人影はまばらだった
梅雨の晴れ間で、空は高く澄んでいた
波は穏やかで、遠くに漁船が見える
「変わらないな、ここは」
俊介が深呼吸をした
「ああ、でも・・・」
香織が指差した先には、新しい防波堤ができていた
「津波対策かな」
「そうみたい、震災の後、色々変わったのよ」
2人は砂浜を歩き始めた・・・
素足になって、波打ち際を歩く
冷たい海水が足に触れる度に、記憶が蘇ってくる
「あの頃は、未来なんて簡単に描けると思ってた」
俊介が呟いた
「東京に行けば成功できる、幸せになれるって信じてた・・・でも現実は・・・」
「どうだったの?」
「最初は必死だった、大学、就職、そして起業・・・がむしゃらに働いた・・・でも、ふと気づいたら、周りには誰もいなかった」
俊介は立ち止まり、水平線を見つめた
「成功はした・・・会社も軌道に乗った・・・でも、それが本当に欲しかったものかは分からない」
「私も同じよ」
香織は波打ち際に座り込んだ、俊介も隣に座る
「結婚すれば幸せになれると思ってた・・・理想の生活が手に入ると思ってた・・・きれいな家、優しい夫、幸せな家庭・・・」
香織は膝を抱えた
「でも、いつの間にかお互いが他人みたいになって・・・会話もなくなって・・・最後は浮気されて・・・」
「香織・・・」
「情けないでしょう?35歳にもなって、また実家に戻ってきて」
「そんなことはない」
俊介が香織の手を取った
その温もりに、香織の心が激しく揺れた
10年前と同じ感触
いや、もっと深い何かを感じた
「もし、あの時別れていなかったら・・・」
「俊介君・・・」
二人の顔が近づいていく・・・お互いの吐息が感じられる距離・・・唇が触れそうになったとき、香織の携帯が鳴った
現実に引き戻された香織は、慌てて携帯を取り出した
画面には「修二」の文字
「ごめん、ちょっと」
香織は少し離れて電話に出た
「もしもし」
「香織?今大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ」
「今夜、飲まないか?昔のメンバー何人か集まるんだ」
香織は俊介を見た
彼は海を見つめて、何か考え込んでいるようだった
「今夜は・・・」
「無理にとは言わない、でも、みんな香織に会いたがってる」
修二の優しい声に、香織は罪悪感を覚えた
彼は何も悪くない
むしろ、親切にしてくれている
なのに自分は、元カレと海にいる
「分かった、行くわ」
「本当?良かった。7時に『海猫』で」
電話を切ると、俊介が振り返った
「修二か」
「うん・・・今夜、同級生で集まるみたい」
「そうか」
俊介の声には複雑な感情が込められていた
「あいつ、昔から香織のこと好きだったんだ」
「え?」
「知らなかった?バレバレだったけど」
俊介は苦笑した
「でも俺は親友の気持ちを知りながら、香織と付き合った」
「それは・・・」
「いいんだ・・・若かったから、でも今思えば、あいつには悪いことをした」
2人は黙って海を見つめた
波の音だけが響いていた
カモメが鳴きながら飛んでいく
「なあ、香織」
しばらくして俊介が口を開いた
「俺たち、どうしてこうなったんだろう」
「分からない・・・」
「あの時、俺が東京に行かなければ」
「それは違う」
香織は首を振った
「あなたには夢があった、それを応援したのは私」
「でも、君を1人にした」
「私だって、すぐに追いかけることもできたのに、しなかった」
香織は立ち上がった
「お互いに、まだ子供だったのよ」
帰りの車の中、2人はほとんど会話をしなかった
でも、それは気まずい沈黙ではなく、お互いの心の内を整理するような時間だった
駅前で別れる時、俊介が言った
「また会える?」
「どうかしら・・・」
「香織、俺は・・・」
「今は何も言わないで」
香織は俊介の言葉を遮った
「お互いに、考える時間が必要よ」
俊介は頷いた
そして、車を発進させた
香織は俊介の車が見えなくなるまで、その場に立っていた