石造りの地下室に重々しい足音が響いたのは、メリッサとアーサーが囚われてからちょうど一週間が過ぎようという夜だった。見張りの兵士が扉を開け放ち、低い声で命じる。
「王太子殿下がお見えだ。礼を尽くせ」
メリッサの胸はドクンドクンと脈打ち、喉が痛いほど渇いている。かつての婚約者でありながら、自分を偽者として追放し、今また疫病という名目で呼び戻した――王太子エドモンド・アシュフォード。彼が目の前に現れることへの恐れと怒り、悲しみと戸惑いが、ぐるぐると渦を巻いているのだ。
アーサーは黙ってメリッサの隣に立ち、薄暗い灯りの下で剣の柄に手をかけた。もちろん、牢内では武装を奪われているが、もしも彼女に危害が及べば何とかして食い止めるつもりだ。
やがて、廊下の奥から数人の従者を従えた一人の青年が歩み寄ってくる。長身で青みがかった銀髪を持ち、端正な顔立ち――間違いなく王太子エドモンド。その背後には、豪奢な礼服に身を包んだ宮廷官たちが続く。
王太子は止まると、メリッサを見下ろすように視線を落とした。
「……久しいな、メリッサ」
その声は、以前と同じ低く澄んだものでありながら、かつて恋人同士だったころの優しさはまるで感じられない。メリッサの胸には、裏切られた日の記憶が焼きついていて、身体がこわばる。
「エドモンド……様」
しぼり出すような声でメリッサは答える。いま彼のことを“様”と呼ぶしかない立場が、自分が追放された現実を改めて突きつけてきた。王太子はわずかに目を伏せ、ため息をつくように言葉を続ける。
「お前をこうして地下に閉じ込めておくのは、本意ではなかった。しかし、状況が状況だ。もしお前が本当に疫病を治せるのであれば、すぐにでも上へ案内するつもりだった。……だが、どうやら思ったほどの成果が出ていないそうだな」
メリッサの喉から、ひとりでに苦い笑いが漏れそうになる。“本意ではなかった”――? では、どうしてこんな扱いを受けているのか。まるで獣を扱うように、力を試され、食事や休息すらまともに与えられないまま。
アーサーがエドモンドに一歩詰め寄る。兵士が警戒態勢を取るが、彼は構わず低く問いかけた。
「だったら、とっととメリッサを王都の病人たちのところへ連れて行き、自由に治療させてやればいいだろう。いまのやり方では、ただ彼女の体力と魔力を消耗させるだけだ」
エドモンドは冷たい瞳をアーサーに向け、口の端をわずかに歪める。
「……お前はたしか、“漆黒の剣”と呼ばれていた元騎士だな。なぜメリッサに肩入れする? お前こそ王都を捨てた裏切り者の身――いや、似たようなものかもしれないがな」
その言葉にアーサーの目が険しく光る。かつて仲間を失い、騎士団を去った経緯を、“裏切り”などと軽々しく言われる筋合いはない。しかし、ここで怒りに任せて剣を振るえば、メリッサを守るどころか自ら命を落としてしまうだろう。アーサーは唇を噛み、ぐっとこらえる。
代わりにメリッサが口を開いた。
「エドモンド様……私を呼び戻したのは、疫病で苦しむ人々を救いたいから、そうだったはずですよね? ならばもう、これ以上私を閉じ込める必要はありません。もし“私が偽物でない”と思うなら、少しでも早く街へ出て、実際に治療をさせてください」
勇気を振り絞ってそう告げるメリッサの瞳は、かつて王都で聖女として人々を救い続けた頃のまま、揺るぎない決意を宿している。エドモンドは一瞬、かつての思い出が胸をかすめたのか、わずかに顔を曇らせた。しかし、その表情はすぐに冷たく引き締まり、彼は短く息を吐く。
「残念だが、現段階では“お前が本物かどうか”まだ確信が持てない。カタリナが研究している“聖女の儀式”でもう少し検証が必要だ。……お前の言動や行動に嘘がなければ、いずれ自由にさせてやる。今はそれまで待て」
メリッサは気づく。エドモンドの言葉の端々に、“彼自身の迷い”が透けて見えるような気がした。王太子といえど、完全にカタリナや神殿の意向に振り回されているのではないか――そんな推測が脳裏をよぎる。しかし、だからといって、いま彼に同情できるわけではない。なぜなら、結局は彼自身が「メリッサを偽物と断じて追放する」決定を下した張本人だからだ。
「――わかりました」
メリッサは小さく息を吐き、力ない声で返事をする。ここで抗っても状況が好転するとは思えない。いずれ“聖女の儀式”とやらにかこつけて、さらなる試験や拘束が行われるのだろう。
それでも、ほんの少しだけ、王太子の表情の奥にある迷いを感じ取ったメリッサは、最後にかすかな願いを込めて問いかける。
「……どうか、一つだけお聞かせください。今の王都の疫病の被害は、どれほど深刻なのですか? 本当に街で多くの人が苦しんでいるのなら、私をこんな場所で拘束しておく意味はないでしょう?」
エドモンドはしばらく黙り込み、周囲にいる官僚や従者たちをちらりと見た。彼らも言いにくそうに視線をそらす。
「正直、被害は甚大だ。カタリナの治癒でも、全員を救えるわけではない。だが、これもまた国の方針……」
そう言いかけて、エドモンドは歯切れ悪く言葉を濁し、踵を返して去って行った。兵士たちも後に続き、また重厚な扉が音を立てて閉まる。
「国の方針……?」
メリッサは呆然とつぶやく。多くの人が苦しむ現状を見ながらも、“方針”とやらを理由に、人を救う手段を放置しているのはなぜなのか。アーサーも腕組みをして眉間に皺を寄せていた。
「どうやら、王都の内部で複雑な権力争いが起きているようだな。エドモンド自身が追放を決断したとはいえ、いまはカタリナに主導権を握られているのかもしれん……」
その可能性は十分にある。カタリナが「新聖女」として国中から崇拝を受け、王太子をも取り込んでいるとすれば、エドモンドは彼女の意向を無視できない立場にあるのかもしれない。もちろん、自業自得と言えばそれまでだが――。
(それにしても、このままでは私の力はどんどん消耗させられ、人々を救うどころか、ただ捨て駒として使い潰されるだけ……)
メリッサは唇を噛む。辺境の村で培った決意を、こんなところでへし折られるわけにはいかない。それに、今はアーサーが傍にいる。彼女を見つめるその瞳は、何とかしてこの状況を打開しようという強い意志を宿している。
――そう、この王都を覆う闇を、どうにかして晴らさねばならない。そして、一人でも多くの病人を救いたい。何より、カタリナの“聖女”の正体を暴かねば、メリッサの真実は永遠に踏みにじられたままだろう。
1. 不可解な儀式と呪縛の檻
それからさらに数日、メリッサにはまともな休息も食事も与えられないまま、“儀式”と称される怪しげな魔法的実験に繰り返し付き合わされることとなった。地下神殿の奥にある円形の部屋で、彼女はカタリナと神官たちに取り囲まれ、強制的に魔力の流出を測定されたり、聖印を当てられたりと、正体不明の検証を受け続ける。
部屋の中央には黒ずんだ石の祭壇が置かれ、その周囲に奇怪な文様が刻まれている。カタリナは銀髪を揺らしながら、「さあ、もっと光を放ってみせて」と楽しげに指図する。メリッサが治癒の魔法を試みようとするたび、頭痛と吐き気が襲い、まともに力を発揮できない。
「どうしたの? あなた、“本物”ならもっと強い癒しの輝きを放てるんじゃなくて? これでは本当に“偽物”と言われても仕方ないわねえ……」
カタリナの舌打ち混じりの嘲笑が、メリッサの鼓膜に突き刺さる。
神官たちは記録用の板を持ち、「数値はこれまでと同じか……」「何ら進展が見られないな」などと書き付けている。まるでメリッサの治癒魔法をデータ化し、“使える武器”として分析しているかのようだった。
(こんな扱い……まるで物品か家畜のよう。しかも私の魔力はどんどん消耗していくばかり。何とか抜け出す術を見つけなければ……!)
だが、いかにアーサーが警戒を怠らないようにしていても、神殿の地下は厳重な警備が敷かれ、迂闊に動けば彼ごと捕らえられてしまう。強硬策は得策ではない。それでも、メリッサは心を折らずに耐え続け、ほんのわずかでも周囲の状況を伺い、隙を探すようにしていた。
そしてある夜――メリッサは奇妙な光景を目にすることになる。
“儀式”を終え、自室へ戻されようとする廊下の途中、ふとドアの隙間から低い呟き声が漏れ聞こえたのだ。周囲の神官が手薄なタイミングを見計らい、彼女は慎重に足を止める。
「――疫病がここまで広がるとは、まさか思わなかった。すでに王都の貴族層にも死者が出ている。このままではカタリナ様の評価にも傷が……」
「ですが、殿下はカタリナ様を全面的に支持しておられます。あのメリッサという女は、実験の材料に過ぎません。いざとなれば処分するなり、隠すなり……」
耳を疑うような会話だった。どうやら神殿の司祭や神官たちが、疫病の深刻な広がりを憂慮しているが、それを“隠蔽”しようと画策しているらしい。
(やはり、疫病の蔓延は想像以上に深刻……それでも、私を実験材料扱いするだけで、まともに治療へ導くつもりはないってこと!?)
メリッサの背に寒気が走る。もし本当にそれが神殿とカタリナの方針だとすれば、もはや王都の人々は見殺しにされるのも同然だ。追放された自分にそこまで責任を感じる義務はないのかもしれないが、“聖女”と呼ばれたころの矜持がそうはさせない。自分が動かねば、誰が人々を救うのだろう。カタリナがそれを放棄しているなら、なおさら。
「……アーサーさんに伝えなきゃ。ここを早く抜け出して、王都の街へ出て、何とか治癒を――」
そう決意を固めた矢先、背後からぬっと伸びてきた手がメリッサの腕を掴んだ。
「おい、勝手に立ち止まるな。さっさと歩け」
見張りの神官だった。メリッサは押しやられるように歩を進めるしかない。心臓はバクバクと鳴り、頭の中でただひとつの思考がリフレインしていた。
“ここから出て、あの人々を救わなくてはならない。たとえ王太子やカタリナが何と言おうと、やるべきことがある。”
2. アーサーの反撃と隠された魔導書
数日後の真夜中。メリッサが閉じ込められている部屋の扉が開き、見回りの兵士と神官が交代する時間帯。地下室の廊下には、淡いランプの灯りが揺れているだけで人影はまばらだった。
その静寂を破ったのは、アーサーの低い囁きだ。彼はメリッサの手を引いて部屋の奥へと促す。
「メリッサ、準備はいいか? そろそろ動かないと、このままじゃお前の体も限界だろう」
メリッサは小さく頷き、胸の鼓動を必死に抑え込む。正面から戦えば勝てる見込みは薄い。それでも、今回は“ある小さなチャンス”が巡ってきたのだ。
チャンスとは何か――それは、カタリナが王都の上層部との会合を行うため、一時的に神殿を離れたという情報だった。普段、メリッサの実験に立ち会い、彼女を苦しめていたカタリナがいない今こそ、逃げ出す好機である。もっとも、この地下神殿には多数の兵士や神官が残されているが、カタリナの目がないだけでも心理的に違う。
アーサーは来るべきときのために密かに兵士の短剣を盗み、隠し持っていた。神殿の見取り図はないが、何日も彷徨ううちにある程度の構造は把握している。
「どうするの……? まさか正面突破するの?」
メリッサが小声で尋ねると、アーサーは苦い笑みを浮かべた。
「まさか。地下の奥に、古い文献を保管している部屋があるのを見つけた。そこには人員が少ないようだ。そこから上階へ繋がる隠し通路があるって話を聞いたことがある。……一か八かだが、試す価値はある」
メリッサも、かつて神殿にいたころ、地下書庫の存在を耳にしたことがある。ただ、それは最高位の神官しか入れない特別室とされており、一介の聖女だった彼女でさえ立ち入る機会はなかった。
しかし、ここでぐずぐずしていても状況は変わらない。メリッサは意を決し、アーサーとともにそっと部屋を抜け出した。廊下には見張りが二人。アーサーが気配を殺して背後から近づき、短剣の柄で首筋を一撃すると、兵士は声を上げる間もなく床に崩れ落ちた。もう一人は驚いて振り返るが、アーサーが飛びかかり、無理やり押さえ込んで気絶させる。
「すごい……」
メリッサは声を出しそうになったが、アーサーが手で口を塞いで合図する。声を立てれば駆けつける兵士が増えるだけだ。この二人を脇道の陰に隠し、彼らの持っていた鍵束やランプを奪って、さらに奥へ進む。緊張で吐き気がするが、メリッサは必死に耐えた。
闇の廊下を進むうちに、石造りの扉が並ぶエリアに出る。それぞれに金属のプレートが取り付けてあり、何やら符号が刻まれている。アーサーは一枚一枚をざっと確認し、「これか……?」と小声でつぶやいた。そこには古代文字が刻まれており、読解は難しいが、“書庫”を示す紋章らしきものが見て取れる。
鍵束の中から合いそうなものを試すと、カチャリと音を立てて扉が開いた。メリッサとアーサーはランプを手に中へ踏み込む。薄暗い部屋には、高い書棚がいくつも立ち並び、古びた巻物や本が無数に詰まっている。それらは長年にわたって封印されていたのか、埃臭さが鼻につく。
「凄い……ここが神殿の地下書庫。こんなに膨大な文献があったなんて……」
メリッサは一瞬、圧倒される。王都の神殿には歴史ある資料が多いとはいえ、これほど大規模に隠されているとは想像もしなかった。
アーサーは書棚をざっと見回し、壁際を探るように歩いていく。すると、奥の棚の向こうに怪しげな扉のようなものが見えた。
「これだ。たぶん、この先に隠し通路がある。……おそらく神官の緊急避難ルートの一つだろう」
鍵穴に合うものを探してみるが、扉は固く閉ざされ、なかなか開かない。焦るアーサーをよそに、メリッサがふと書棚の中で目についた一冊を手に取った。背表紙に魔法陣の紋様が描かれた、薄紫色の皮で装丁された古い本だ。
(……これは……“闇の術式”に関する本?)
メリッサはページをめくり、その内容に戦慄する。この書物には、人の魔力を奪い、別の器に移し替える“転写の呪い”や、“聖女の力”を捻じ曲げて制御する方法など、あまりにも危険で背徳的な魔術が列挙されていた。大半は断片的な記述だが、所々に書き込まれた注釈に“カタリナ”の名が見え隠れする。
(まさか……カタリナは、ここにある闇の術式を使って私の力を抑え込んだり、あるいは自分の力を偽装したりしている?)
強烈な嫌悪感と納得が同時に押し寄せてくる。そういえば、王都で追放される前、カタリナが突然“聖女の奇跡”を披露し、メリッサの方は訳もなく力がうまく出せなくなったという出来事があった。それらが全部、この“闇の術式”に裏打ちされていたのだとすれば、合点がいく。
「アーサーさん、これを見て! カタリナが使っているかもしれない禁断の魔術書よ!」
必死に小声で呼びかけると、アーサーが顔を上げる。彼は鍵穴と悪戦苦闘していたが、メリッサの真剣な表情に驚き、そちらへ向かう。
「禁断の魔術書……確かにヤバそうだな。しかし、そんなものを何のために?」
「私には分からない。でも、これさえ世間に知れ渡れば、カタリナが“偽りの聖女”である可能性が一気に高まる。エドモンド様が迷っているなら、これを突きつければ目が覚めるかもしれない……」
メリッサはそう言いながら本を抱きしめる。もしこの内容を公にすれば、カタリナは聖女どころか、国全体を欺いている大罪人となるだろう。疫病を治すことのできない偽者が王太子に取り入り、真の聖女を追放してまで権力を握った――これこそが事実ならば、王都の混乱はさらに大きくなるだろうが、その代わり多くの人々を救う第一歩になるかもしれない。
「よし、分かった。じゃあその本を持ち出すとして、これをどうやってエドモンドに見せるか……。やつはすでにカタリナの手中にある。むしろ、王都の人々へ直接示すか?」
アーサーの言葉を聞きながら、メリッサは考える。確かに、王太子を動かすより先に、街の人々にこの真実を突きつけるほうが早いかもしれない。“聖女が偽者”だという衝撃は大きいが、いまや疫病で苦しむ人は多いのだ。カタリナでは治せない病が、メリッサの力なら治せるかもしれない――そう思わせるだけでも十分だ。
「とにかく、まずは外へ出ましょう。今はここに長居すれば見つかってしまう」
焦ったようにアーサーが鍵をガチャガチャと試していると、カシャンという音がして重い扉がわずかに開いた。ほっと息をつくのも束の間、中から冷たい風が吹き込み、ほこりが舞い上がる。どうやら、すぐ続きがあるわけではなく、小さな階段が下へ続いているようだ。
「……これ、下に降りる道じゃないか? 上に抜ける隠し通路だと思ってたが、逆なんだな……」
アーサーは苦笑するしかない。思惑と違ったが、ひとまず進んでみるしかないだろう。メリッサも意を決し、ランプを掲げて階段を下り始めた。
3. 闇の祭壇と“本来の力”の覚醒
階段を下りると、そこには少し広い空間が広がっていた。石の柱が並ぶ地下聖堂のような場所で、中央には魔法陣の刻まれた円形床がある。見上げると天井から怪しげな紫色の光が差し込み、壁際には黒いロウソクが何本も立っている。
「これは……何かの祭壇か? こんなところに……」
アーサーが警戒しながら辺りを見回す。まるで人目を避けるように造られたこの場所は、神聖というよりは邪悪な儀式を思わせる雰囲気だ。
メリッサは胸の奥に重苦しい圧迫感を覚え、足が震える。上階で行われていた“聖女の儀式”とはまた違う、ドス黒い魔力の流れを感じるのだ。先ほど手にした禁断の魔術書にあった“闇の術式”――まさにここで試されているのかもしれない。
すると、不意に背後で声が響いた。
「そう。ここは、“聖女の力”を根こそぎ奪い取るための場所よ」
振り返ると、そこには銀髪をなびかせたカタリナが立っていた。後ろには何人もの神官や兵士が控え、いつの間にか二人の退路を塞いでいる。どうやら先回りされてしまったらしい。
「カ、カタリナ……! あなたは王都の会合に行っているはずじゃ……」
メリッサが驚愕の声を上げると、カタリナは含み笑いを浮かべる。
「ふふっ、情報を流したのよ、わざと。私が不在だと聞けば、あなたたちが動き出すと思ったから。けっこう強情に耐えていたけど、やっぱり逃げ出そうとしたわね? でも、いいのよ。ここに来てもらったほうが都合がいいんだから」
アーサーが咄嗟に短剣を構えるが、兵士たちが武器をちらつかせ、じりじりと圧力をかける。圧倒的に不利な状況だ。逃げ場はない。
「貴様……メリッサをここで殺すつもりか?」
アーサーが低く唸ると、カタリナは首を横に振る。
「殺しはしないわ。彼女にはまだまだ利用価値があるんですもの。――そう、例えば“聖女の力”をすべて私のものにするためにね」
嫌な笑い方をして、カタリナは指を鳴らす。すると、神官たちが素早く動いてアーサーを取り押さえ、短剣を床に叩き落とした。メリッサもあっという間に兵士に腕を掴まれ、動けなくなる。
「やめて……!」
必死に抵抗するものの、カタリナは意に介さず、祭壇の中央に歩み寄る。そして、その床に描かれた魔法陣の上に片膝をつき、落ち着いた仕草で両手をかざした。まるで儀式の再開を告げる巫女のように見える。
「さて、そろそろ幕を開けましょうか。メリッサ、あなたが持っている“聖女の魔力”を、全部私に渡してもらうわ。そうすれば、私は本当に絶大な力を手に入れ、“唯一無二の聖女”として王国を支配できるのよ」
カタリナの紫の瞳に、狂おしいほどの欲望が宿っている。メリッサは全身が震えるのを感じながらも、目を逸らさずに問いかける。
「……どうして、そこまでして人々を救うわけでもないのに、“聖女”になろうとするの?」
カタリナは嘲笑混じりに答える。
「そんなの、権力が欲しいからに決まってるじゃない。王太子の側に立つ聖女として、国民から崇拝され、神殿をも掌握する。それがどれほどの快感か、あなたなら分かるでしょう? まあ、あなたは本物の力を持っていたくせに、そういうことに興味がなかったみたいだけど」
メリッサは頭を振り、声を荒げる。
「そんなわけない……私は人を救いたかっただけ。神殿や王太子様の役に立てるならと思って、必死に力を磨いてきたのに……!」
「だから甘いのよ、あなた。結局、私があの日“聖女の奇跡”を演出して、あなたの力を封じたら、一瞬で民衆も王太子も手のひらを返した。あなたは追い出され、私は崇められる――簡単でしょう?」
言葉を失うメリッサ。事実、あのときカタリナがどんな演出をしたのか分からないまま、すべてが覆されてしまったのだ。ここにきて、その悪辣な手段のほんの一端が明かされている。
「さあ、今度は最終段階。あなたを生かしたまま、力だけを根こそぎ奪い取る術式を完成させるのよ。この祭壇は闇の魔術の最深奥に通じている。あなたを媒介にすれば、私は永久に失われない“聖女の力”を得られるわ」
カタリナの両手から、淡い紫の光が溢れ出し、魔法陣に接触すると、床の文様が怪しく輝き始める。周囲にいた神官たちは結界のような障壁を展開し、メリッサとアーサーを分断。重圧が空気を押し込み、呼吸もままならない。
(まずい……このままじゃ、本当に力を奪われる……!)
メリッサは必死に抵抗しようと魔力を込めるが、前から感じていた不吉な頭痛がさらに激しくなり、まったく集中できない。息が詰まるような圧迫感。痛みが脳を焼き、意識が薄れていく。
アーサーが必死に身体をよじり、兵士の拘束から逃れようとするが、数人がかりで押さえつけられているため、どうにも動けない。
「ぐ……メリッサ……っ!」
唸るアーサーの声を最後に、メリッサは視界が歪み、床へ崩れ落ちかける。
――そのとき、不意にメリッサの胸の奥からあたたかい光が広がった。まるで、深い闇を突き破るような、眩い金色の輝き。
(この光は……?)
一瞬、メリッサは“辺境の村で人々を救っていた日々”を思い出す。追放され、絶望の中でも、彼女は小さな村で再び多くの人を癒し、笑顔を取り戻してきた。あのときの純粋な想いが、今、胸を満たしていく――。
すると、頭痛が嘘のように消え、呼吸も楽になる。まるでカタリナの術式が、何かに遮られたかのようだ。
(そうだ、私にとっての“聖女の力”は、誰かを見下すための道具なんかじゃない……。人の痛みを癒したい、苦しむ人を救いたい――その思いこそが、私の本当の力の源……!)
メリッサの全身から、ふわりと金の光が立ちのぼる。カタリナの紫の光とぶつかり合い、周囲に火花のような奔流が走った。
「な、何を……!? どうしてあなた、まだそんな力が残っているの!?」
カタリナが怯えた声を上げる。彼女の身体から漏れ出す闇の気配が、金色の輝きに侵食され、焦げるような音を立てている。
「私は……もう二度と負けない!」
メリッサは自分の内側に潜むエネルギーを感じながら、カタリナの闇に立ち向かう。かつてより弱まっていた治癒の魔力が、今この瞬間、辺境の村で培った“本物の経験”を糧にして甦っていく。村の人々の笑顔、アーサーがくれた支え、そして“自分自身を信じる”心――それらが一つになり、強烈な癒しの光として放出されるのだ。
金色の光が巨大な波となって魔法陣全体を包み込み、カタリナの紫の膜を破り始める。神官たちが悲鳴を上げ、術式のコントロールを失って転げ回る。結界が揺らぎ、アーサーを拘束していた兵士たちもひるんだ隙に、彼は力ずくで振りほどいた。
「メリッサ! やったな……!」
アーサーが走り寄り、半ば崩れ落ちそうになっているメリッサの身体を支える。メリッサは微笑み、声を震わせながら答える。
「うん、もう大丈夫……。あの本の内容なんてなくても、私には“救いたい”という気持ちがある。それが……真の聖女の力なんだわ……」
カタリナは地面に膝をつき、苦しげにうめいている。紫の瞳に焦燥感が滲み、銀髪が乱れて頬に貼り付いていた。
「こんな、馬鹿な……あたしの闇の術式が、どうして……あなたみたいな甘ちゃんに負けるのよ……!?」
メリッサはゆっくりとカタリナに歩み寄り、もう一度その瞳を見つめる。かつて自分が味わった屈辱を思えば、ここで仕返しをしたい気持ちが湧いてこないわけではない。しかし、聖女の力はそんな復讐のためにあるのではない――と改めて感じていた。
「カタリナ……あなたが欲しかったのは、万人を治し、苦しみを和らげる力ではなかったのね。哀しいことだけど……私はもう、あなたに憎しみなんて抱かない。だって私が目指すのは、人々を救うことであり、争いを広げることじゃないから」
静かな声でそう告げると、カタリナは唇を噛み、床を叩く。
「そんな奇麗事……! 誰が信じるもんか……あたしは必ず、あんたを……!」
闇雲に手を伸ばすが、その指先からはすでに闇の力が失せていた。まるで絡みついていた呪縛が解け、彼女自身も一人の人間へ戻ってしまったのだろう。
4. 疾走する真実、そして訪れる“ざまぁ”の結末
闇の術式を破り、カタリナを打ち負かしたメリッサとアーサー。しかし、ここはまだ地下深く。さらに上層部には神官や兵士が待ち構えているかもしれない。二人はカタリナや神官たちの妨害を振り切り、足早に上へと続く階段を探した。
ほどなくして、先ほど開けられなかった扉の裏側に辿り着く。どうやら地下書庫とは別の階段につながっているようだ。先を行くアーサーが扉を押し開けると、そこには意外にも広い通路があり、気配を感じる。どうやら上階へ抜けられるようだ。
メリッサは手にしっかりと禁断の魔術書を抱え、アーサーの背中に続く。すでに自分の魔力が本来の調子を取り戻しつつあるのを感じていた。先ほどの“覚醒”で、カタリナの呪縛が解かれたのだろう。体はまだ疲れているが、あの重苦しい頭痛は嘘のように消えている。
しばらく進むと、階段が見えた。そこを駆け上がると、神殿の裏廊下に出たらしい。夜明け前の薄暗い時刻で、周囲には見張りがいない。
「チャンスだ……メリッサ、急ごう」
アーサーが声をかける。もし外に出られれば、そのまま王都の街へ飛び出し、真実を明かすことができるかもしれない。だが、そこへ足音が迫ってきた。複数の兵士、そして――エドモンドの姿があった。
「……メリッサ? なぜここに……? まさか、脱走を企てていたのか?」
兵士が剣を向け、エドモンドが警戒を示す。メリッサとアーサーは息をのむが、ここまで来たら正面突破しかない。
「エドモンド様、話を聞いてください……!」
メリッサが禁断の魔術書を掲げ、必死に言葉を続ける。
「この本には、カタリナが使っていた闇の術式が記されています。彼女の“聖女の奇跡”が偽りで、私や多くの人から魔力を奪うためのものであることも。疫病を治せないのは当然――彼女は最初から、人々を救おうとしていなかった!」
兵士たちがどよめく。エドモンドも目を見開き、顔色を変える。
「何を馬鹿な……カタリナが、闇の術式を? そんなこと……」
しかし、メリッサの全身から放たれる金色の光を目の当たりにすると、彼の言葉は続かない。かつて慣れ親しんだ“本当の聖女の輝き”が、いま目の前に蘇っているという事実が、エドモンドを動揺させているのだろう。
(そうだ、あなたはこれを知っているはず。私が本物だと――なぜあの日、信じてくれなかったの?)
言葉を飲み込みながらも、メリッサは絞り出すように言葉を続ける。
「もし時間があるなら、今すぐ私を街に出してください。私が治癒にあたります。きっと救える人がいる……たとえすべては救えないとしても、少しは……」
エドモンドの瞳がわずかに潤む。彼は唇を震わせ、兵士たちに命じた。
「……剣を収めろ。メリッサを街へ……いや、神殿の堂上へ案内する。そこなら市民たちを集め、治癒を施すことができるはずだ。お前たちはすぐに布告を準備し、王宮に連絡を取れ。……急げ!」
まるで目が覚めたかのように矢継ぎ早に指示を出すエドモンド。兵士たちは戸惑いながらも、すぐに動き出した。その背後で、アーサーは短く息をつき、メリッサの耳元で囁く。
「ひとまず殿下の命令に従っておけ。こいつが本気でお前を信じるなら、俺たちも堂々と街へ出られるはずだ」
そうだ。王太子が動くなら、もはや神殿の連中も強引には妨害できないだろう。メリッサは小さく頷き、急いで後を追う。
――こうしてメリッサはようやく、地下牢から解放された。早朝になると神殿の大広間に人々を招き入れ、そこで彼女の治癒を求める市民の列ができはじめる。疫病に苦しむ人々、あるいは病人の家族を抱えた者たちが、一斉に押し寄せたのだ。
最初は「本当に治せるのか?」という不信もあったが、メリッサが一人、また一人と病人を癒していくうちに、噂が噂を呼び、多くの人がやってくる。エドモンドはこの状況を目の当たりにし、強い衝撃を受けていた。
「これが……本当に、お前の力だったのか。なぜ、俺は信じてやれなかった……」
弱々しい声で呟く王太子。メリッサは声を振り絞りながら、一心不乱に治癒を続ける。まだ体力は万全ではないが、辺境の村で鍛えられた粘り強さをここで発揮しようと、必死なのだ。アーサーがそばで補助をしつつ、血相を変える兵士たちを抑える。
その光景が広場に広まるに連れ、「やはり本物の聖女はメリッサだったのでは?」「カタリナは偽者か?」という声が飛び交い始める。エドモンドも苦しげに神殿の奥を振り返り、「カタリナは……どうなっている?」と兵士に問いかける。だが、彼女の姿はどこにもない。
「恐らく、地下に潜んでいるか、あるいは逃亡を図ったか……」
そう報告を受けたエドモンドは、激しい表情を浮かべる。
「……追え。あれが真の聖女でないなら、この疫病騒動に加担し、多くの命を奪った大罪人だ」
こうして、カタリナは闇の術式を暴露され、王太子自らの追撃を受けることとなった。大広間では次々と人々がメリッサの前に担ぎ込まれ、彼女は休む間もなく治癒を続ける。アーサーはその傍らで彼女を支え、水や薬草の手配を指示し、衛兵をコントロールしながら混乱を最小限に食い止めている。
いずれカタリナが捕らえられ、公の裁きにかけられるのも時間の問題だろう。メリッサの心には、追放されたときの屈辱を晴らしたというより、“やっと人々を救える場が整った”という安堵が大きい。
そしてそれから数日後、街を覆う疫病はメリッサの献身的な治癒と、王宮からの医療支援強化によって、徐々に勢いを失っていった。完全に終息したわけではないが、多くの重症患者が救われ、死者の数も大幅に減少しているという。メリッサの噂はあっという間に王都中に広がり、“本物の聖女が帰還した”と讃えられるようになった。
そんな中、王宮のホールで小規模な式典が催されることになった。メリッサの名誉回復と、カタリナの詐欺行為による“真実の公表”が目的で、王太子エドモンドがわざわざ公式に準備を進めたのだという。
「式典……なんて聞きたくもないけど、仕方がないわね。これで救われた人が多いなら」
メリッサは疲労困憊の身体を押しながら、アーサーとともに王宮へと招かれる。かつて婚約者として共に歩んだ廊下、華麗な装飾の広間――そのすべてが、今は遠い異国のように感じられる。
やがて、王宮の玉座の前へ導かれると、そこにはエドモンドが待っていた。周囲には貴族や高位の神殿関係者が居並び、ざわざわとした空気が漂っている。
メリッサを見るや否や、エドモンドはゆっくりと歩み寄った。そして、深く頭を下げる――王太子ともあろう者が、周囲が騒然とするほどの礼を示した。
「メリッサ……いや、聖女メリッサ・レインウッド。俺は、お前を“偽物”と断じ、追放したことを心から詫びる。お前こそが、真の聖女であった……」
その瞳に浮かぶのは、後悔と悲しみ。だが、それがメリッサの心を癒すことにはならない。あまりにも遅すぎる謝罪に、胸が締めつけられるばかりだ。
「エドモンド様……私は、あなたが選んだ道に口を出す権利はありません。けれど……どうして、あのとき信じてくれなかったんですか……?」
震える声で問いかけるメリッサに、エドモンドは蒼白な顔で答える。
「分からなかったんだ……カタリナの奇跡があまりに派手で、民衆も貴族も彼女を支持した。お前よりも“優秀な聖女”が現れたのだと、俺自身思い込んでしまった。お前の力が本物だったとしても、結果が伴わなければ評価されない――そういう厳しい現実に抗う勇気がなかった……」
王太子としての責任を持ちながら、エドモンドは見せかけの奇跡に飛びつき、本当に大切な存在を捨ててしまった。あのとき、もっと真摯に向き合っていれば、疫病の蔓延も防げたかもしれない――そう思うと胸が痛むのだろう。
メリッサは切なげに目を伏せる。自分も弱かった。追放されたことでショックを受け、何も言えずに逃げ出してしまったのだから。
(でも……もう、戻れない。私が欲しかったのは“婚約者としてのあなた”の支持ではなく、誰かを救うために共に歩む意志だった。それはもう、取り戻せないのよ……)
エドモンドが頷き、玉座の脇に置かれた美しいティアラと聖印を差し出そうとした。
「これは、お前が本来戴くべき“聖女の証”だ。今こそ、王都の正統なる聖女として――」
しかし、メリッサは首を横に振り、静かにそれを押し戻す。
「もう、私は“王都の聖女”を務めるつもりはありません。追放され、辺境の村で暮らして……そこで救える人を救い、支え合って生きる方法を見つけました。私の力は、どこででも人を癒せるし、どこにいても私自身の信念で発揮できるんです」
周囲がざわめく。聖女の栄誉を拒み、辺境に戻るなど、貴族たちには理解できないのだろう。だが、メリッサの心は揺るがない。追放されたときに知った、村人たちとの小さな絆こそが、彼女にとってのかけがえのない居場所だったからだ。
エドモンドは苦しい表情で、「ならばせめて俺の隣で――」と口走りかけるが、メリッサはかぶりを振る。
「ごめんなさい、殿下。私はあなたを救いたくても、あなたの隣に立つことはもうできません。あなたが私を捨てたように、私もあなたを――」
言葉の終わりに、喉が詰まり、涙がこぼれそうになるのを必死に抑える。この瞬間こそがメリッサの“ざまぁ”であり、同時に“決別”なのだ。彼を恨むわけではないが、もう“婚約者としての関係”に戻ることはあり得ない。
周囲には当惑の空気が漂うが、アーサーが一歩前に進み、無言のままメリッサの肩に手を置く。その意思表示に、王太子エドモンドの瞳がかすかに揺れる。
「……そうか。お前には、もう新しい居場所があるんだな。俺は……この国を、そして疫病で傷ついた人々を立て直す責務がある。お前には、その責務を押し付けることはもうできない……。……すまなかった……」
エドモンドの声は震え、今度こそ本気の涙が滲むように見えた。しかし、メリッサは黙って目を伏せる。彼がどれほど悔やんでも、自分を捨てた事実は変わらない。
やがてエドモンドは兵士たちに指示を出し、周囲の貴族たちに向かって、カタリナの闇の術式と偽りの奇跡について厳正な処罰を行うこと、そしてメリッサが真の聖女だったことを宣言する。その様子を、メリッサはまるで遠い世界の出来事のように感じていた。
5. 辺境の村へ――ふたりが見つけた未来
式典が終わり、メリッサとアーサーは王太子の護衛を受けつつ、短い休息を取ることを許された。神殿の一室で疲れを癒やし、翌朝には王都を発つことを申し出たのだ。周囲は「真の聖女がまた去ってしまうのか」と留意を求めたが、メリッサの意志は固い。
「私が本当に救いたいのは、この世界のどこにいるか分からない、助けを呼べない人たちなんです。私は、聖女としてではなく、一人の人間として、誰かの傷を癒やしたい。それが――追放された私に残された“道”だと思うから」
王太子も、もうそれを強く引き留めようとはしなかった。せめてもの償いとして旅の資金や薬、装備などを用意しようとするが、メリッサは最低限だけを受け取って、そう多くは受け取らない。
エドモンドはそんな彼女を目に焼き付けるように見つめ、「いつか、また逢えたらいいな……」と呟いた。だが、それはもう叶わぬ願いだろう。メリッサはかすかな微笑みでそれに応えるだけだった。
翌朝、メリッサとアーサーは馬車を借り受け、王都の城門を出た。まだ疫病の余波が残っており、人々の表情は暗いが、“真の聖女が戻った”という希望も広がっている。もっとも、メリッサ自身は堂々と名乗りを上げたりしなかったが、街角で治癒を受けた人々が感謝の叫びを上げながら見送ってくれる。
「ありがとう、メリッサ様!」「また来てください、お願いします!」
そうした声に、メリッサは複雑な想いで応える。「私はもう聖女じゃないよ」と心の中で呟きながら、手を振り返した。アーサーが手綱を握る馬車が揺れながら街道を進み、やがて王都の景色が遠ざかっていく。
「ああ……終わったんだね。結局、私が追放された理由も、カタリナの闇の術式が大半だったし……エドモンド様も後悔しているでしょう。けれど……」
メリッサが言いかけると、アーサーが淡々と補足する。
「それでも、彼はお前を守らなかった。覚えておけ、それが現実だ。だが、それを恨み続ける必要はない。お前はもう、前に進んでいるんだから」
その言葉に、メリッサは頬を緩める。確かにそうだ。追放された過去を引きずり、王太子を恨んでいたら、いつまでも本当の意味で自由になれない。かといって、彼のもとへ戻る気もない。それならば、ただ自分の道を行くだけなのだ。
「ありがとう、アーサーさん。あなたがいてくれたから、私……ここまで頑張れたのかもしれない」
「……勝手に追いかけてきただけさ。お前がこの国にとって必要だと思ったからな。――それに、俺自身も騎士団を去ったことに後悔はない。この先は、お前の“力”があれば、俺も守るべきものを見つけられるかもしれない」
ぶっきらぼうにそう言うアーサーだが、その横顔はどこか穏やかだ。メリッサの心にも、ほんのりと温かいものが灯る。二人の間にあるのは恋か、それとも友情か――まだはっきりと言葉にできないが、少なくともお互いを支え合って生きたいという想いがあるのは確かだ。
「ねえ、またホワイトウッド村に戻ったら、マシューやナディアに会えるよね。薬草畑も少しずつ整備を進めたいし……それに、もし他の地域で病に苦しむ人がいるなら、そこへ行って助けたい。王都に拘束されなくても、私たちができることはきっとあるはずだよ」
メリッサの声には、かつての気弱さが消え、希望にあふれていた。追放の痛みを経験してもなお、人を救いたいという意志は失われず、むしろ深まったのだ。アーサーは「だな」と短く返事し、馬車を先へ走らせる。
王太子エドモンドには、やり直さなければならない国政と疫病対策が山積みだろう。カタリナは大罪人として裁きを受け、“偽りの聖女”の所業を世に知らしめられる。メリッサを追放した者たちは、今さら悔いても取り返しがつかない――まさしく“ざまぁ”な結末ともいえる。
だが、メリッサはもうそこに固執しない。彼女が見上げるのは、辺境の地へ続く空と、行く先にあるかもしれない新たな出会い。自分の癒しの力は、国の権威や富のためでなく、苦しむ人々を救うためにこそあるのだから。
柔らかな風が吹き渡り、馬車の車輪がカラカラと音を立てる。その音に紛れて、メリッサは小さく微笑みを浮かべた。
(私の物語は、まだ終わらない。王都でも村でも、誰かが待っていてくれるなら、私はそこへ行こう。追放され、蔑まれた過去に縛られるより、今ここにある自由を謳歌するために……)
こうして、“偽物の聖女”の烙印を押されながらも、真の力を取り戻したメリッサ。裏切った者たちに振り回された運命を、今度は自らの足で切り拓いていく。かつての婚約者に「ざまぁ」と思うほどの恨みは抱かずとも――彼女は確かに、自分だけの幸福と使命を見つけ出したのだ。
前方には、遠く続く街道と青い空。馬車を進めるアーサーの肩越しに、メリッサはその景色をまっすぐに見据える。
そして、暖かな日差しの中、二人は迷いなく、辺境へと向かって旅を続けるのだった。