もっとも、村は依然として貧しく、土地は痩せ、山道では魔物が出現する。決して平和そのものというわけではないが、皆が少しずつ力を合わせて前に進もうとしているのだ。メリッサもまた、村人たちのためにできることは何でもやろうと心に決めていた。神殿での生活や華やかな王都の暮らしより、今ここにある汗臭く土の香りのする生活が、いつしか彼女にとっての“生きがい”になりつつあった。
だが――心のどこかに、“不穏な影”はずっとへばりついている。自分を突如として「偽物の聖女」と断じ、王太子エドモンドとの婚約を破棄させ、追放を決定づけた“新聖女”カタリナという存在。
あの悪夢のような記憶を振り払おうと努力してきたメリッサだが、ときおり村の人々の怪我を治そうと魔力を注いだ際に感じる「邪魔する何か」――自分の魔力に混じって入り込もうとする薄暗い気配だけは拭いきれない。まるで「おまえは偽物なんだ」と嘲笑う声が頭の中でこだまするようで、そのたびメリッサは不安に苛まれるのだった。
「……メリッサさん、どうかしたか?」
話し合いの途中、村長ギルデンが怪訝そうに問いかけた。メリッサが深い思考に沈んでいたのを心配してのことだ。メリッサははっとして顔を上げ、苦笑いを返す。
「あ、いえ……大丈夫です、すみません。これからの畑の整備についてですよね。もしよかったら、次の休耕地に薬草を育てる区画を作るのはどうでしょう? 村の病人のためにもなるし、私の魔力で多少は成長を早められるかもしれません」
「おお、それはいい提案かもな! わしらもずっと薬草不足で苦労しておったからのう……」
村長が頷くと、周囲の農夫たちからも賛同の声があがった。少し前までは「魔法? そんなもんあてにして大丈夫なのか?」と訝る声も少なくなかったが、メリッサの治癒を目の当たりにした今では、「信じてみよう」という人が増えている。これまで村に根付かなかった薬草が、メリッサの力で上手く育ってくれたらどんなにいいだろう。皆の期待は高い。
そのとき――遠くから馬の蹄の音が聞こえた。村へ向かって来る者がいるようだ。しかも、どうやら複数の馬が走っているらしく、慌ただしい雰囲気が漂う。辺境のこの地までわざわざ騎乗でやってくるのは珍しい。
「あれは……? 王都の馬具じゃないか……?」
一人の村人が言った。その声に、メリッサの胸に嫌な予感が走る。まだ遠目だが、鎧のきらめきが見える気がした。まさか、王都から騎士が? なぜこんな場所に……。
馬を駆る男たちが村の中心に姿を現したとき、その直感は的中した。彼らの鎧には王家の紋章が刻まれている。しかも、一人だけ上質なマントを羽織り、高価な剣を佩いた青年――その面立ちにはメリッサに覚えがあった。王宮の近衛騎士の一人、レナートとも親しかった騎士団員……いや、名前はロランスだっただろうか。もしかすると、彼らは王都の神殿とも繋がりがあるかもしれない。
馬上の男――ロランスらしき騎士は、周囲を見回しながら村長の姿を探している。村長ギルデンが慌てて前に出て声をかけた。
「いったい何のご用ですかな? ここはホワイトウッド村という小さな集落ですが……」
「俺は王太子エドモンド様の命により、この辺りを巡回している者だ。この地に、“聖女メリッサ”と名乗る女が潜んでいるとの噂を聞いたが、知らぬか?」
瞬間、そこにいた村人たちは息を呑んだ。みな、一度はメリッサがただ者ではないと気づいていたが、王都から追放された“元聖女”だと知る者、知らない者、それぞれ思うところがあるだろう。
ギルデンは目を泳がせながら、精一杯とぼけようとする。
「さあ……“聖女メリッサ”という名は聞いたことがないですな。うちはただの辺境の村で、聖女など……」
だが、騎士団の面々は鼻で笑い、馬から降りると周囲を取り囲むように配置についた。まるで、メリッサを探し出そうとするかのように目を光らせている。
「そうか。では、少し村を見て回らせてもらう。俺たちには王太子殿下の勅命がある。無用な抵抗をすれば、この村がどうなるか……分かっているだろうな?」
脅しの響きを含んだ言葉に、村長やマシューらは押し黙るしかない。メリッサは息を飲んだ。否が応でも、自分が探されているのは明らかだ。だが、ここで黙っていれば、村人たちが騎士たちの手荒い捜索によって傷つけられるかもしれない。それは絶対に避けたい。
(私が出ていけば済む話……でも、この人たちはなぜ今さら私を探しているの?)
メリッサは唇を噛んだ。嫌な胸騒ぎがする。前に出ようかと一歩踏み出したとき、不意に背後から大きな声が響いた。
「待て。村人を脅すのはよせ」
低く響く声の主は――アーサーだった。村外れの森で木材を運んでいたのか、斧を背負い、まるで騎士団を睨みつけるような形で立ち塞がっている。
王都の騎士であるロランスは、アーサーの姿を見て「……あんたは?」と怪訝な顔をした。アーサーは少しの沈黙の後、「ただの村人だ」とだけ吐き捨てる。
(アーサーさん、やめて……!)
メリッサの心臓は早鐘を打つ。昔、騎士団に籍を置いていたという噂を聞いたことがあるアーサーだが、彼は騎士団を辞めて辺境に来た経緯も語ろうとしない。下手に騎士団と揉めれば、ますます状況が悪化するだろう。
しかし、騎士団のロランスは鋭い目をアーサーに向けたまま、やがて「ああ、あんた……」と気づいたように呟いた。
「お前、確か……“漆黒の剣”と呼ばれていたアーサー・ブレイズじゃないか。かつて王都の第三小隊長だったはずだ。ずいぶん落ちぶれたな、こんな村で野良仕事とは」
「あんたに名乗る気はない」とアーサーは険悪な表情を浮かべる。村の人々は顔を強張らせ、「やはりアーサーは元騎士だったのか……」と驚き、どこか尊敬の念と不安が混じった視線を向けていた。
緊迫する空気の中、メリッサはいてもたってもいられず、ついに前に進み出た。
「その“聖女メリッサ”というのは、私のことです」
低く揺れる声でそう宣言すると、村人たちはどよめいた。「メリッサさん……!」と心配の声が上がる。追放されてきた経緯をぼんやり聞かされている者、あるいは全く知らなかった者もいるが、彼女がこの村に救いをもたらした存在であることは周知の事実。今さら「偽りの聖女」と呼ばれて連行されるなど、村人にとっても理不尽でしかない。
だが、メリッサは毅然とした態度を崩さなかった。自分の身がどうなろうと、村を危険に巻き込みたくない。それだけが頭にあったからだ。
「あなた方が私を探している理由は何ですか? 私を“偽物”として追放し、婚約まで破棄したのは王太子殿下自身でしょう。それを今さら……」
声が震えそうになるのを必死にこらえ、続きを問う。ロランスはニヤリと口元を歪め、馬の手綱を握り直した。
「そう、殿下の命令は確かにお前を追放することだった。しかし、事情が変わったんだ。王都では今、疫病が流行っていて、あの“新聖女”カタリナ様がどうもうまく治せない状況らしい。そこで殿下は言ったのだ――“もし本物の癒し手がどこかにいるならば、引き戻せ”とね」
メリッサは言葉を失った。追放した自分を、疫病が広がったから呼び戻すというのか。そんな身勝手な話があるだろうか。
マシューや村長、ほかの村人も激昂しかけるが、騎士たちは武装しており、下手な抵抗は村を焼き払われかねない。アーサーでさえ、一歩前に出そうになるのをメリッサが制した。
「それで……私を連行する、というわけですね。でも、私に拒否権はないのでしょう? 王太子殿下がそう言うのなら、私を捕らえて都に連れて行けばいい……」
メリッサは悔しそうに目を伏せるが、ロランスは高圧的な笑みを向け、鞭を軽く振って馬を前進させる。
「話が分かるようで助かる。お前が素直に従うなら、こちらも村に手荒な真似はしない。……もっとも、“本当に”お前が疫病を治せるかどうかはまだ未知数だがな。偽物かもしれないし」
嫌味な挑発に、村人たちの怒りが爆発しそうになる。メリッサはぐっと奥歯を噛んで耐えた。どれだけひどい仕打ちを受けたとしても、この村に被害が及ぶよりはましだと考えたからだ。
そこへ、アーサーが鋭い声を上げる。
「メリッサ、お前一人で行くつもりか? こいつらが本当にお前を“聖女”として扱うとは限らない。利用するだけ利用して殺されるかもしれないんだぞ」
「アーサーさん……」
メリッサは一瞬、迷いを見せる。王都に戻れば、かつて自分を冷たく追放した者たちがいる。カタリナがまた何か罠を仕掛けているかもしれない。だが、このまま村に留まれば、騎士団の怒りを買い、村が大きな危険にさらされる――。
マシューや村長も押し黙っている。彼らはメリッサを必死に守りたいが、無理をすれば村が巻き添えになる。その事実が、全員の胸に重くのしかかっていた。
やがてメリッサは小さく頷き、苦しい表情で口を開く。
「私は……行きます。もともと追放された身ですし、今さら都に戻っても歓迎されるとは思えません。でも、もし本当に疫病で苦しむ人がいるなら、私が治せる可能性が少しでもあるなら――」
偽らざる本音だった。聖女としての誇りを奪われた今でも、人々を助けたいという気持ちだけは消えていない。たとえ王太子やカタリナの思惑がどうあれ、できることがあるならやりたい……それがメリッサの答えだった。
アーサーは歯ぎしりして地面を睨む。村人たちは涙ぐみながらも頷き、誰もが「行かないでくれ」とは言えない。なぜなら、メリッサの“使命感”が、彼女を突き動かしていると知っているからだ。
「ふん、話がまとまったようだな。ではさっそく出立するぞ。お前たち、荷物をまとめろ」
ロランスが部下の騎士たちを促す。メリッサは最低限の荷物――着替えと薬草、それから村の女性ナディアがくれたハンカチをそっと鞄にしまった。
そんな彼女の隣で、アーサーが短く息を吐く。
「メリッサ……一人で行くなんて言うな。俺もついていく。お前が利用されるだけ利用されて、捨てられるのは目に見えているからな」
「で、でも……」
「元騎士の俺がいれば、少しは抑止力になるかもしれん。それに、最近は村の狩りも落ち着いてきたし、マシューもそこそこ回復している。俺がいなくてもなんとかやっていけるだろう」
そう言いながら、アーサーはギルデンのほうをちらりと見る。村長は「村のことなら心配するな」と頷いた。もちろんアーサーの戦力は痛手だが、メリッサが危険にさらされることを思えば、彼を行かせたほうがいいと判断したのだろう。
「……俺は村なんてどうでもいい、と思っていたが、いつの間にかそれなりに愛着が湧いている。お前がここで頑張っていた姿を見たから……そう思えるんだ」
ぶっきらぼうな口調ながらも、アーサーが珍しく本音を漏らす。メリッサは目を見開き、そして微かに微笑んだ。
「ありがとう。すごく……心強いです」
そう呟くメリッサの目には、うっすらと涙が滲んでいた。彼が傍にいてくれるなら、王都に戻る恐怖も少しだけ和らぐ気がする。追放されたときの痛みが消えるわけではないが、もう一度だけ――本当に、最後のチャンスかもしれない――人々を救うために力を振るおう。そんな決意が、メリッサの胸の奥に静かに燃え始めるのだった。
もっとも、騎士団のロランスはアーサーを連れていくことに難色を示した。厄介な男を同行させるなど、危険因子が増えるだけだからだ。だが、アーサーが「ついていくなら力づくでも構わない」と剣を抜く気配を見せると、ロランスはしぶしぶ引き下がる。どうせ王都に着いてしまえば、アーサーなどどうにもできなくなる――そう高を括っているのかもしれない。
こうして、メリッサとアーサーは王都の騎士たちとともに村を旅立つことになった。村長やマシュー、ナディア、そして多くの村人たちが涙ながらに見送る。
「絶対、帰ってきてよ……メリッサさん!」「あんたまで行っちまうなんて、アーサー、何やってんだよ!」
それぞれが口々に叫ぶ声が、メリッサの耳に焼きつく。ここはもう、彼女にとってただの避難先ではなく、かけがえのない“居場所”になっていたのだ。
村を出てしばらく街道を歩くと、ロランスの合図で馬車が待機している地点に合流する。そこには騎士団の支援部隊らしき者たちもおり、メリッサとアーサーは馬車へ乗るよう促された。もっとも、実質的には“護送”に近い扱いであり、アーサーが不満げに眉をしかめるのは当然だった。
「随分な手厚い歓迎だな。まるで捕虜じゃないか」
アーサーが吐き捨てると、ロランスは馬上から鼻で笑い、「下手に逃げ出されても困るからな」と言い放つ。メリッサは何か言い返したい気持ちを抑え、「でも、これで歩き続けるよりは少し楽になるかも……」と微妙な思いを抱きながら馬車に乗り込んだ。
アーサーもついてくる。こうして、王都へ向かう数日の旅が始まるが、その道中は終始、緊張感が漂っていた。騎士たちはメリッサとアーサーが逃亡を図らないか常に目を光らせているし、メリッサは馬車の中でいつも不穏な吐き気や頭痛を覚えた。まるで何かが魔力を乱そうとするかのように、胸騒ぎはつきまとう。
旅の三日目、日没が近くなり、一行は廃墟になった小さな集落で野営を張ることにした。そこはかつて商人が行き来していたというが、今は魔物の被害か何かで住民が逃げ出し、廃村同然となっている。建物は崩れかけ、草は伸び放題。暮らしの痕跡がかすかに残るだけだ。
ロランスら騎士たちは馬を繋ぎ、警戒のための見張りを配置しながら焚き火を起こす。メリッサとアーサーもその近くに座り、簡素な夕食――干し肉と硬いパンを噛みしめた。村の食事に慣れた身にとっては味気ないが、贅沢を言っていられる状況ではない。
「……メリッサ、大丈夫か? 顔色が悪い」
アーサーが心配そうに覗き込む。メリッサはこめかみに手をあて、微かに笑ってみせた。
「少し頭が痛いだけ。なんだかここに来てからずっと、嫌な感覚がするの……。魔力がうまく安定しないような……」
「そりゃ、お前を追放した連中と一緒にいるんだから、心も休まらないだろうさ」
「そうね……」
メリッサは声を落とした。ふと、王都にいた頃の記憶が脳裏をよぎる。神殿の白い回廊、煌びやかなステンドグラス、エドモンドの優しい笑顔……そして、“新聖女”カタリナの登場で一変した日々。偽物の烙印を押され、婚約も破棄され……。まだ傷が癒えていない自分が、またそこへ戻ることになるなど、夢にも思わなかった。
やがて夜半になり、星空が広がっても、メリッサの不安は消えない。騎士たちが交代で見回りをする中、彼女は焚き火のそばで毛布にくるまりながら浅い眠りにつこうとした。しかし、次第に意識が薄れかけたとき、遠くで誰かの話し声が聞こえ、メリッサははっと目を開ける。
――ロランスたちの声だ。どうやら焚き火を少し離れた場所で、誰かと通信のようなことをしているらしい。貴族や騎士の中には、魔法道具や魔術師の協力を得て、遠方でも連絡を取る手段を持っていると聞く。メリッサはひそかに耳を澄ませた。
「……はい、メリッサは大人しく従っています……。ただし、隣に元騎士のアーサーがいるので、今は手荒なことは控えています……ええ、はい、分かりました。王都に着き次第、神殿の地下へ……」
(神殿の地下……? あそこには……)
メリッサの脳裏に嫌なイメージが浮かぶ。かつて神殿にいた頃、地下の部屋は“聖女の力”を検証するための特殊な施設があるという噂を聞いたことがある。そこには闇の実験や拷問じみた行為が行われている――と、人づてに耳にしたが、真偽は不明だ。しかし、この口調からすると、何かよからぬ目的があるように思える。
(まさか、疫病を治させるために私を呼ぶ――というのは単なる建前? 本当は別の……)
嫌な汗が背中を伝う。メリッサは隣で眠っているアーサーの肩をそっと叩き、小声で呼んだ。アーサーが目を開けると、メリッサは不安そうにささやく。
「ごめんなさい……眠ってたところ。あの、ロランスたちが何か言っているの。神殿の地下に私を連れ込むって……」
「神殿の地下……? 昔、王都の騎士だったころ、あそこがどうなっているか少し聞いたことがある。表向きは倉庫だのなんだの言ってるが、噂じゃ“聖女の力”を増幅させる実験場があるとか、闇の儀式をする部屋があるとか……。あんまりいい話は聞かないな」
アーサーの声も険しくなる。やはり普通の“聖女”待遇で迎えるのではなく、何か陰謀めいた思惑があると考えるほうが自然だ。
「どうしよう……でも、今はまだ騎士たちが周りを囲んでいるし、逃げ出すのは無理だわ。村に戻ったらみんなが危険になるかもしれない……」
「大丈夫だ。最低限、お前をむやみに傷つけさせはしない。俺が守る。……ただ、王都に着いたら状況次第で動くしかないな。下手に逆らえば、疫病とやらで苦しむ市民を見捨てることにもなるかもしれないし……」
メリッサはうつむきながら頷いた。アーサーの決意は心強いが、今は何もできず、ただ連れて行かれるだけ。この無力感がたまらなく悔しい。それでも、村の人々の顔が浮かぶたびに、“耐えなければ”と自分に言い聞かせるのだった。
旅の最終日、朝焼けが東の空を照らすころ、王都の城壁が遠目に見え始めた。メリッサは馬車の隙間から外を覗く。高い石造りの壁と、いくつもの見張り塔がそびえ立つ様子が、かつての馴染み深い景色を思い起こさせた。だが、あの頃とは状況が違う。追放された自分が、再びこの街に足を踏み入れることになるとは……。胸にこみ上げるのは、懐かしさよりも恐怖と不安だった。
やがて城門に到着すると、騎士たちが書類を見せて通行許可を取り、馬車がゆっくりと中へ入っていく。朝早いというのに、街角には大勢の人が行き交っていた。しかし、その表情はどこか沈んでいるように見える。露店もまばらで、医者らしき装いの人々が「薬を売るよ」「疫病に効く!」と叫んで回っている。町中に漂うのは不穏な空気。まさしく、疫病が流行りつつあるという噂は本当らしい。
通りを進むうちに、ちらほらと咳き込む人や、顔色の悪い者の姿が目に入り、メリッサの胸は締め付けられる。たとえ自分が追放された身であろうと、見過ごせる光景ではない。呼吸を止めながら馬車の窓から手を伸ばしたくなるが、騎士たちが厳重に監視しているため、勝手に外へ出ることは許されない。
「これが本当にカタリナのせいなのか……? それとも、もともと防ぎきれなかっただけなのか……」
メリッサは自問するが、答えは出ない。
王都の中心部に近づくにつれ、建物は大きく華やかになり、人の数も増える。しかし、“華やかさ”はあくまで外観だけで、裏通りのほうには疫病の被害が甚大だとの噂も聞こえてくる。
「下手に治癒魔法を街中で使わせないあたり、やはり何か裏があるな。お前が本当に治せるなら、すぐに人々を救わせたほうがいいはずだろうに」
アーサーが馬車の中で低く呟く。メリッサも同感だった。心ある支配者なら、一刻でも早く人々を救うために元聖女の力を試そうと思うはず。なのに、騎士団はあくまで“神殿”へ直行しろ、と言わんばかりに遠回りせず一直線に向かっていた。
やがて馬車が神殿の前に止まる。かつてメリッサが王都で聖女として仕えていた場所。その壮麗な外観は変わらぬままだが、彼女の心は暗い影を帯びる。ここで自分は“偽者”と断じられ、冷たく突き放された……。その記憶が、まざまざと脳裏に蘇ってきた。
「さあ降りろ。歓迎はできんがな」
ロランスが皮肉まじりに言い、メリッサとアーサーは馬車を下りる。そこには神殿の関係者らしき人物が数人待ち構えていた。白い法衣を纏った神官風の男が、こちらを品定めするような目つきで見やる。
「この者が“メリッサ・レインウッド”か……。元聖女とはいえ、随分とやつれているな。確かに疫病を治す力など残っているのか、疑わしいものだ」
耳障りな言葉に、アーサーが一瞬怒りを露わにしそうになったが、メリッサは彼の腕をそっと掴んで引き止める。ここで暴れても状況が悪化するだけだ。
神官たちに続いて、メリッサとアーサーは神殿の奥へ導かれる。かつてよく通った白亜の回廊や、大理石の床を踏むたびに、胸の内が痛む。廊下に飾られたステンドグラスや彫像は相変わらず美しいが、自分がここに帰ってきた理由はまったく違う――“聖女”でもなく、“歓迎される存在”でもない。
やがて案内されたのは、地下へ続く階段。石造りの薄暗い空間へ足を踏み入れると、ひんやりとした冷気が肌を刺す。メリッサが震える肩をこらえながら、神官の後ろを進むと、重々しい扉の前で立ち止まった。
「ここが、お前たちの部屋だ。……王太子殿下とカタリナ様が来るまで、しばらく待っていろ」
内心、「部屋」とは名ばかりの牢獄なのではないかと思うが、メリッサとアーサーは抵抗できぬまま、中に押し込まれる。扉が閉まり、外から鍵をかける音が響いた。
部屋の中は粗末な寝台と椅子が二脚、そして小さなテーブルだけが置かれている。壁は厚い石レンガで、天井近くに狭い窓があるだけ。薄暗く、閉塞感に包まれた空間だった。
「ここが“疫病を治すための特別室”ってか。まったく笑わせるぜ」
アーサーは憤りを露わにする。メリッサもまた、静かな怒りを感じていた。結局、自分たちは“実験材料”か“囚人”のように扱われている。
「……どうしてこうなってしまうの……? もし本当に疫病を治すのが目的なら、人々のもとへ行くなり、治療を開始するなり……やり方はいくらでもあるのに」
メリッサが項垂れながら呟くと、アーサーはそっと彼女の肩に手を置いた。
「落ち着け、メリッサ。まだ何も終わったわけじゃない。ここでおとなしくしていろとは言われたが、チャンスがあれば動けばいい。お前の癒しの力が本当に必要なら、彼らが自分から接触してくるだろう」
「……うん、そうだね。ありがとう、アーサーさん」
気丈に微笑もうとするメリッサだが、その笑みは弱々しい。正直言って、ここへ来て以来、ずっと感じている不可解な邪気――いまも頭痛に似た感覚がときおり襲ってくる。かつて追放されたときに味わった絶望感が、容赦なく胸を締めつけるのだ。
その夜、メリッサとアーサーは簡易の寝台で仮眠をとるしかなかった。廊下には神官や兵士が交代で見張りを立てており、部屋からの脱出は容易ではない。薄暗い部屋の中、メリッサは目を閉じて何とか休もうとするが、先ほどから胸の鼓動が異様に早い。喉が渇き、呼吸が乱れる。汗がにじむ手のひらを見つめ、彼女はどうしようもない不安に苛まれるばかりだった。
(やっぱり、カタリナの呪術か何かが仕込まれているの……? 私がまだ追放される以前、競演の場で感じたあの“闇”のようなものが、ずっとまとわりついている……)
そう思いながらも、どうすることもできない。街の人々が苦しんでいるのに、自分はここで囚われの身となっている。歯噛みしても事態は変わらないが、それでも苦悶は募る一方だ。
浅い眠りを繰り返し、夜が明け始めたころ――廊下から足音が聞こえてきた。複数の靴音が響き、やがて扉の前で止まる。ガチャリと鍵の開く音がして、扉が開け放たれた。
「おはようございます、“メリッサ様”」
皮肉げな声で挨拶したのは、銀髪をきれいにセットし、紫の瞳を湛える若い女性。まぎれもなく、“新聖女”と呼ばれているカタリナ・モーリスだった。後ろには数名の神官らしき人物が控えている。
カタリナは艶やかに微笑みながら部屋に入ってくる。メリッサがぎょっとして体を強張らせると、カタリナは薄く笑みを深めた。
「まあ、ずいぶんと痩せられたのね。辺境で辛い生活を送っていたのかしら? でも、久しぶりにこうして会えて嬉しいわ」
「……あなたは、何のつもりで私を呼び戻したの……?」
メリッサは懸命に声音を落ち着けようとしたが、どうしても震えが混じる。あの追放のときに向けられた嘲笑が脳裏をよぎり、怒りや悲しみが沸き起こると同時に、その闇に囚われそうな恐怖を感じるのだ。
カタリナは喉を鳴らして笑い、「あなたを呼び戻したのは、私じゃなくて“殿下”の意向よ」とあえて強調する。
「ただ、私も賛成したの。だって、もし本当に疫病が広がっているなら、あなたの力が役に立つかもしれないでしょう? もちろん偽物かもしれないし、使い物にならないかもしれないけど……試してみる価値はあるわよね」
その言葉に、メリッサの心は掻き乱される。疫病の治療――それが大義名分なのは分かるが、カタリナの笑みには別の狙いがあるように思えてならない。後ろに控える神官たちも、何やら記録用のメモや怪しげな道具を携えているし、これはまるで“実験”の下準備をしているようにしか見えない。
アーサーが立ち上がり、カタリナを睨みつける。
「お前が聖女と呼ばれているかは知らんが、メリッサをこんな地下室に閉じ込めて何をするつもりだ? 本当に人々を救いたいのなら、王都の病人のもとへ案内して治療を始めさせればいいだけの話だろう」
「まあ、ずいぶんとせっかちな人ね。そうしたいのは山々だけど、まずは“本当に癒しの力があるのか”を確かめる必要があるのよ。ここでは王都から隔離された環境で“安全に”実験ができるから便利なの。もし彼女が疫病を本当に治せるなら、それを裏付ける証拠が欲しいのよ、私にも――ね」
まるで「お察しでしょう?」という態度でカタリナは小さく肩をすくめる。実験――その言葉に、メリッサは背筋が凍る思いだ。追放前にも、彼女を陥れようとしたのはカタリナだった。あのときは別の手段でデマを流し、メリッサを“偽物”とする空気を作った。今回は“本物かどうかを確かめる”という名目で、もっと直接的な方法を取ろうとしているのかもしれない。
「……あなたたち、本当に人々を救う気があるの? それとも、私を陥れることが目的なの?」
思わず声を荒げるメリッサに、カタリナは薄笑いを浮かべたまま応じない。代わりに後ろの神官が言った。
「黙れ。お前が治癒の力を保持しているかどうかは、神殿が決めることだ。さっさと準備に入れ」
カタリナはメリッサとアーサーを見下ろすように一瞥し、「後ほどね。私も色々と忙しいの。殿下がいらっしゃるまで、大人しくしていてちょうだい」と言い残して部屋を出て行く。
扉は再び閉められ、鍵がかかる音が冷たく響く。メリッサはその場に立ち尽くし、ただ唇を噛みしめた。ここに来たばかりだというのに、すでに身動きが取れない状態に追い込まれている。アーサーも苛立ちを抑えられない様子で、壁を拳で叩く。
(……このままだと、私たちは“彼らの思うがまま”に扱われるだけ。エドモンド様はどうする気なの? 本当に疫病で苦しむ人を救いたいのなら、こんなやり方をしなくても……)
エドモンド――婚約者だった人。彼が今どこで何をしているのか、メリッサには想像もつかない。王城にいるのだろうか、それともカタリナとともに神殿の上層部を牛耳っているのか。いずれにしても、彼がこの状況を黙認しているのだとすれば、メリッサにとっては裏切りの傷がさらに深くなるだけだった。
薄暗い地下室で、メリッサとアーサーは長い拘束の日々を送り始める。正確には、神官たちがときおり「治癒の力を見せろ」と言って患者を連れてくることがあったが、その患者というのも、本当に疫病にかかった一般市民なのか、あるいは神殿側が意図的に作り出した症状の被検体なのか――疑わしいことばかり。
しかもメリッサが治癒魔法を発動しようとすると、奇妙な頭痛や眩暈が頻繁に起こり、十分な力を出せない状態が続く。すべてはカタリナの術中なのかもしれない……と思いつつも、メリッサには確かめる術がない。
それでも、幾度か施術を重ねるうち、わずかながら患者の症状が和らぐ場面もあった。アーサーが見張りの目を盗んで「大丈夫か?」と声をかけるたび、メリッサは額の汗を拭いながら小さく微笑み返す。「少しは効果があるみたい。けど……なんだか、以前よりも力が不安定で……」
そうやって苦しみながらも癒しを続けるメリッサを見て、神官たちは「ほう、やはり多少の力はあるのか……」などと薄笑いを浮かべ、さらに厳しい検証を求めるようになった。彼女を休ませることなく、次々と患者(あるいは被検体)を運んでくるのだ。まるでメリッサの魔力をギリギリまで搾り取ろうとしているかのように。
アーサーは堪えかねて何度も抗議するが、そのたびに衛兵に囲まれて剣を突きつけられ、引き下がるしかなかった。もしここで強硬手段を取れば、メリッサに刃が向かうかもしれない。それが分かっているからこそ、彼は我慢する。
(こんな扱い……まさか、本当に“疫病を治す”なんて考えていないのか? むしろメリッサの力を弱らせて……そして、何のために?)
アーサーは苛立ちながらも状況を観察し続ける。カタリナとエドモンドの真意を探りたいが、近づくチャンスも与えられない。メリッサは疲弊しきっているが、それでも“助けられる人がいるなら”と治癒を拒もうとはしない。その健気な姿が、アーサーの胸を苦しくさせるのだった。
そんな地下室の日々が一週間ほど続いたある晩、部屋の扉が唐突に開けられた。見張りの兵士が外から声を張り上げる。
「王太子殿下が、今宵こちらにお越しになる。お前たちは態度を改めろ」
王太子殿下――すなわちエドモンドが、この地下室にまでやってくるというのか。メリッサは思わず息を呑む。ついに来た。追放以来、一度も顔を合わせていない。あの優しかった恋人は、今いったいどんな表情で自分を見るのか……。震える胸の鼓動を抑えきれないまま、メリッサはアーサーと視線を交わす。
「……いよいよか。お前の元婚約者が、何を言い出すつもりか知らんが……」
アーサーは低い声で呟く。メリッサは潤んだ瞳を伏せ、「私にも分からない……」と答えるしかなかった。
“疫病の治療”という名目で呼び戻されたが、結局はこの薄暗い地下で実験同然の扱いを受けている。カタリナの存在、神殿の神官たちの不気味な視線。メリッサを蝕む闇の気配――すべてが交錯して、彼女の心を縛り付ける。
だが、ここで挫けるわけにはいかない。村の人々が待っている。あの温かな笑顔に、もう一度戻りたい。その思いがあるからこそ、メリッサはどんなに辛くとも前を向こうと決意する。そして、それがやがて大きな奇跡を呼ぶことになる――と信じたかった。
その時はまだ、メリッサも、アーサーも、思いも寄らない。王太子エドモンドとの再会が、さらに深い陰謀と愛憎の渦へと二人を巻き込んでいくことになるとは……。
こうして、メリッサの心には「今度こそ、最後まで自分の信念を貫く」という決意が固まりつつあった。たとえ再び裏切られようと、騙されようと、誰かを救える可能性があるのなら、やり遂げる。それが、聖女であろうと無かろうと、追放された身であろうと変わらない“私のあり方”――そう強く胸に刻み込むのであった。