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第2話 :辺境の村での新たな生活

 メリッサ・レインウッドが王都を追われ、荒れ果てた街道を進み始めてから、すでに数日が経過していた。王太子エドモンドの婚約破棄と、“偽りの聖女”との烙印。これまで築き上げてきた地位も名誉もすべて失い、ただ一人、小さな鞄を携えて歩みを続けるしかない。馬車で送ってくれた御者も町外れで彼女を降ろし、気まずそうに手を振って去っていった。


 そこから先は、地図すら曖昧な辺境の地だ。生い茂る森と、岩だらけの草原を交互に抜けていくような道なき道。旅の者はほとんどいないらしく、途中で出会う人影といえば、せいぜい狩りに出ている猟師や、山賊まがいの怪しい男たち――幸い、彼らに追い剥ぎされるほどの金品は持ち合わせておらず、命だけは奪われずに済んだものの、メリッサの心労は日に日に増していくばかりだった。


(私……本当に、どこへ行けばいいの……?)


 そんな不安をかき消そうと、彼女は歩みを進める。王都を出る前に手に入れた情報によれば、この先の山を越えた先に、いくつかの小さな村が点在しているらしい。そこは国境付近でもあり、魔物が出る危険もあるが、それでも商人がときおり行き来し、生活が成り立っているという。王都からあまりに遠いために支配の手が行き届かず、法や税制も曖昧で、いわゆる“辺境”というやつだ。それだけに、追放されたメリッサの逃げ場としては最適かもしれない――そう自分を納得させながら、彼女はただひたすらに歩を運んだ。


 夜になると、深い闇が辺りを覆い尽くす。道中で見つけた木の洞や、廃屋になった小屋、あるいは少しでも屋根のある場所を探して眠るしかない。大きな町を通り過ぎたときには宿屋に泊まることも考えたが、追放された聖女だと知られるのは気が進まないし、そもそも大した金もない。貧しい野宿とわずかな食糧――かつて王宮で贅沢に暮らしていた時代は遠い昔のようにさえ思える。

 それでも、メリッサは不思議と絶望し切ってはいなかった。王都の神殿にいた頃に比べて、身体は疲れ果てているし、まともな食事も取れていないが、“心”に関しては意外なほど落ち着いている。その理由は、誰にも強制されず、誰にも縛られず――“自由”に自分の行く道を決めているからかもしれない。


(そうだわ。私はもう、王都の聖女じゃない。エドモンド様の婚約者でもない。これからは自分のために生きていいんだ……)


 この数日間でメリッサは何度もそう自分に言い聞かせた。裏切られた悲しみはまだ胸を締めつけるが、“聖女”という使命や重責を奪われたことで、かえって肩の荷が下りたような感覚を覚える瞬間もある。しかし、そのわずかな開放感が罪悪感に変わる時もある。なにしろ、彼女は今も神の力を宿している(はず)の身。王都での審問の結果がどうあれ、自分が癒しの魔法を使えることに変わりはない。なのに、それを活かせる場所がないというのは、やはりどこか虚しくもあった。



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1. 辿り着いた辺境の村


 そんな葛藤を抱きながら、メリッサがようやく辿り着いたのは、ホワイトウッド村と呼ばれる小さな集落だった。王都から山道を越えた先、森と草原の狭間にぽつんと存在している。古びた木製の柵が村の境界を示し、十数軒ほどの家々が寄り添うように並んでいた。


 村の入り口には、背の低い老人が粗末な服装で見張りのように立っていた。彼が見るに、よそ者が来ること自体が珍しいのだろう。メリッサが柵の前まで来ると、老人は深い皺を寄せたまま細い目をこちらへ向け、いぶかしげに声をかけてきた。


「……ここいらで旅人なんざ、めったに見んが。お嬢さん、何か用事でもあるのかね?」

「え、ええ……少しこの村に滞在したいんです。道中で行き倒れになりそうで……お恥ずかしい話ですが、休ませてもらえませんか?」


 メリッサとしては、まずこの村を拠点にして、当面の滞在場所を探そうと考えていた。これまでまともに寝床を確保できなかったせいか、心身ともに限界が近い。せめて屋根の下で休める場所が欲しかった。

 しかし、老人は渋い顔をして頭を掻く。


「悪いが、この村は余所者をそう簡単に泊める余裕はない。旅人にあれこれ施すほど、食糧にも金にも余裕はないんじゃ。せめて宿屋があればのう……」

「そうですか……」


 メリッサはしょんぼりとうなだれる。辺境の村に立派な宿屋があるわけもないし、彼ら自身も貧しく厳しい暮らしをしているのだろう。それを思うと、無理強いはできなかった。それでも、何とか説得しようと思い、懸命に言葉を続ける。


「実は、私……ほんの少しですが、人を癒す力を持っているんです。病人や怪我人がいたら手当をするので、どうか一晩だけでも、泊めてもらえないでしょうか?」


 それは事実だ。王都での審問が何と決まろうと、メリッサが人を癒す魔法を使えるのは変わらない。問題は、今、自分の力がどの程度発揮できるのか。王都での“奇跡の競演”では、不可解な邪魔の力を感じて失敗に終わったものの、本来の調子さえ取り戻せれば、人並み以上に治癒魔法を使えるはずだ。そう信じたい。


 老人は「ほう」と呟き、腕組みをしながらメリッサを上から下まで眺め回した。

「癒しの力、ねぇ……。ま、口で言うのはタダじゃからのう。本当に使えるのなら、助けを欲しがっている者はいるやもしれん。わしが村長に伝えてやるから、ちょっとそこで待っていなさい」


 そう言うと、老人は片足を引きずるようにしながら村の奥へと入っていった。メリッサは柵の外でじっと待つしかない。

 空腹に加え、長旅の疲労が一気に押し寄せてくる。立っているのもやっとだ。半ば意識が朦朧とする中、「もしこの村にすら受け入れてもらえなかったら……?」という不安が脳裏をよぎる。

 そうしてどれほど待っただろう。十数分ほどすると、老人がもう一人を連れて戻ってきた。四十代くらいの、がっしりした体格の男性。粗末なシャツとズボン姿で、髪は日に焼けた茶色。しわがれた声で老人が言う。


「こっちが村長のギルデンさんじゃ。ほれ、さっき言うたように……」

 村長と呼ばれた男は、メリッサの姿を見るなり眉をひそめる。よほど警戒しているのか、「まったく」とぼやくように呟いた。


「話は聞いた。どこから来たかは知らんが、旅の女が癒しの力を持ってると? ふん、ウチは貧乏村だが、病に苦しむ者や怪我人ならゴロゴロいる。もし本当に治せるなら、今すぐ一人に試してみてくれ。治せたなら、一晩くらいなら何とかしてやるが……治せなかったら、そのまま出て行ってくれ」


 無慈悲な物言いに、メリッサはぎくりとする。しかし、これが当たり前なのだ。彼らには余裕などないのだから。

「わかりました……。全力を尽くします」

 そう言って力強く頷いたものの、メリッサの心には一抹の不安があった。王都での出来事がフラッシュバックする。あのときのように集中が乱され、力を発揮できなかったら――。しかし、迷っている暇などない。ここで失敗すれば、今夜の寝床も確保できず、飢えと疲労で倒れるのがオチだ。



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2. 最初の癒し


 村長に連れられ、メリッサが向かったのは村の一角にある、小さな小屋だった。屋根には藁が使われ、壁は木の板を釘で留めただけの簡素な作り。扉を開けると、そこには痩せこけた男性が横たわっている。年の頃はまだ三十代ほどか。顔色は青白く、呼吸も浅い。ひどく衰弱しているらしい。


「この男は、マシューっていう村の猟師だ。つい先日、大ケガをしてな。専門の医者に診せる金なんかないから、せいぜい薬草をすり潰したもので応急処置をしたが……熱が下がらなくて、まいっているんだ」

 村長は苦渋の表情で語り、マシューと呼ばれた男性の横にしゃがみ込んだ。


「マシュー、わかるか? 村の外から来た女が、お前を治してくれるかもしれないってよ」

 そう声をかけるが、マシューはうわごとのように唸るだけで、ほとんど意識がないようだ。台の上に敷かれた布団は薄汚れ、血や汗の染みが残っている。痛々しい雰囲気に、メリッサは胸が締め付けられる思いだった。


(大丈夫、落ち着いて……。これまでどれだけの病人を癒してきたの……? こんなの、できるはずよ)


 そう自分に言い聞かせながら、メリッサはマシューの隣に膝をつき、そっと彼の手を握る。かつて王都で聖女として働いていた頃は、病人や負傷者を相手にするのは日常だった。大怪我や重病に苦しむ人々が神殿を訪れ、その都度、メリッサは癒しの魔法で救ってきた。その経験が、今こそ役に立つときだ。


 深呼吸をして集中する。かつて神殿で学んだ祈りの言葉を、ゆっくりと脳内で唱える。それに合わせるように手のひらから温かな光が生まれ、マシューの体を包み込んでいく――はずだった。


 ところが、思ったほどの輝きが現れない。せいぜい手の平をぼんやりと照らす程度で、かつて王都で使っていた治癒魔法の半分以下しか出ていないように感じた。理由はわからない。旅の疲労か、それとも王都の審問で感じた“邪魔”がまだ残っているのか。メリッサは焦りを覚えながらも、必死に魔力を込めていく。


(お願い……力よ、戻って……!)


 何度も祈り、何度も魔力を高めようと試みる。次第に、メリッサの手から発せられる光は僅かに強まり、マシューの身体を淡い金色に包み始めた。奥歯を食いしばりながら、更に意識を集中させる。すると、マシューの硬直していた肩がわずかにほぐれる気配があった。


「ん……ぐ……」

 マシューの唇がかすかに震え、苦痛に耐えるような声を上げる。しかし、それは回復の兆しとも言える動きだ。メリッサは安堵に似た感情を覚え、さらに魔力を注ぎ込む。

 長い時間が経ったように感じたが、実際には数分ほどだろう。メリッサが魔力を放出し終わったとき、マシューは少し呼吸が落ち着き、表情も先ほどより和らいでいるように見えた。頬にうっすらと血色が戻り、荒かった息もいくらか規則的になっている。


「どうだ、マシュー……?」

 村長が恐る恐る尋ねると、マシューはゆっくりと目を開け、か細い声で応えた。

「……村長……? あれ、俺……痛みが、少し……楽に……」


 まだ完全に意識がはっきりしてはいないが、彼は自分の体に起こっている変化を感じ取っているようだ。その様子を見た村長は、驚いたように目を見開いた。


「おい、すごいじゃないか。確かに痛みが和らいでいるみたいだな……。熱も、さっきより下がってるか? ほれ、アレフじいさん、触ってみろ」

 後ろに控えていた見張りの老人――アレフと呼ばれた男がマシューの額に手を当てて、「おお……」と唸る。


「さっきまで焼けるように熱かったのに、だいぶ下がってますな。魔法……本物みたいだ」


 その光景を見て、メリッサは心底ほっとする。確かに昔ほど強力な治癒の光ではなかったかもしれないが、それでも、こうして目の前の患者を救うことができた。完全に治すにはもう少し時間が必要だろうが、とりあえず生命の危機は脱したようだ。


「ありがとうございます……。私、まだ力が十分じゃないみたいで、何度か施術を重ねないと完治は難しいと思います。それでも、続けさせていただければ……」

 恐る恐るそう申し出ると、村長は大きく頷いた。


「もちろんだ。マシューにはこの先も猟師として働いてもらわなきゃ困るからな。お前が治してくれるなら、村としても助かる。約束どおり、一晩ではなく――お前が治癒を続ける間は、この村で寝食を提供しよう。食糧は乏しいが、何もないよりはマシだろう?」


 予想外の好待遇に、メリッサは驚きと喜びを隠せない。喉まで出かかった感謝の言葉を飲み込み、深く一礼する。


「はい……! 本当にありがとうございます。お力になれるよう、頑張ります!」


 こうしてメリッサは、ホワイトウッド村に滞在する足がかりを得た。それは、彼女が追放されて以降、初めて手にした“安息の場所”でもあった。



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3. 村での日々


 村長ギルデンの取り計らいにより、メリッサは村の空き家の一角を借りて寝起きすることになった。そこは以前、ある農夫が使っていた家らしく、今は廃屋に近い状態だが、屋根と壁はまだなんとか健在だ。もちろん寝床は藁束だけ、家具は埃を被った木の椅子が一つあるだけという有様だったが、野宿に比べれば雲泥の差だ。


 村の人々は総じて貧しく、荒れ果てた土地で作物を育て、わずかな収穫でなんとか生計を立てているらしい。加えて、山岳地帯に近いここでは魔物の被害も後を絶たず、猟師のマシューをはじめとする数人が村の守りを兼任している。だが、その要であるマシューが負傷して動けないとなれば、村はまさに危機的状況だった。


「あなたが来てくれて助かったわ。マシューは村では頼れる猟師なのよ。彼が動けないと、狩りもできないし、魔物が出たときにも戦力が足りない。村長もかなり焦ってたの」


 そう語ってくれたのは、村人の女性ナディアだ。彼女は素朴なブラウスとスカートに身を包んだ、年齢的には二十歳そこそこの娘。メリッサと同世代くらいに見える。ナディアは大きな水瓶を担ぎながら、メリッサを村の井戸へと案内してくれた。


「これが村の唯一の井戸よ。雨が少ないときは水も枯れそうになるし、村長たちは毎年頭を抱えてる。だから、お水は大切に使ってね。……あ、悪い意味じゃないわ。ただ、この村は本当に余裕がないの」


 ナディアは申し訳なさそうに微笑んだ。そう、この村は決して裕福ではない。見るからに狭い家ばかりで、家畜も数頭しかいない。畑は痩せており、収穫量も期待できなさそうだ。村人たちの表情には疲れがにじみ出ており、それでも互いに支え合って必死に生きている様子がうかがえた。


 メリッサは井戸水を少し拝借し、手を洗って顔を軽くすすぐ。旅の汚れを完全に落とせるわけではないが、それでも随分と気分がすっきりした。ナディアが「ごめんね、石鹸とかもあまりないの」と申し訳なさそうに言うのを、「いいえ、大丈夫」と笑って返す。


(私も、こんな風に誰かの役に立てるなら、ここで頑張りたい。王都ではもう何もできなかったけど、ここならきっと……)


 自分の存在意義を見出すように、メリッサは心の中で小さく誓う。今のところ、村長は彼女に多くを求めてはいない。ただ、負傷したマシューをしっかり治すことが第一優先だ。治癒魔法の調子は万全ではないが、それでも施術を重ねれば効果が高まる。

 メリッサは1日に数回、マシューのもとを訪れては治癒を施すようになった。最初は僅かな光しか出せなかったが、疲れをとると少しずつ力が戻ってくるのか、施術を重ねるたびにマシューの回復速度も上がっていく。その様子を見て、村の人々は次第にメリッサへの警戒心を解いていった。



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マシューの回復


 ある夕方、マシューの小屋に入ると、彼は起き上がった状態でこちらを出迎えた。まだ痛々しい包帯こそ巻いているものの、顔色はかなり良くなっている。


「お、来たか。メリッサ……さんで合ってたよな。悪いな、こんなに世話になっちまって」

「気にしないでください。私にとっても、回復の練習ができてありがたいくらいです」


 軽口を叩きながら笑うマシューを見て、メリッサは心から安堵する。重傷で意識が朦朧としていた頃とはまるで別人だ。村の女性たちから食事を差し入れてもらい、少しずつ動けるようになっているという。

 彼の主な怪我は左足のひどい裂傷と、そこからきた発熱・感染症だったが、メリッサの治癒魔法と村の薬草が相乗効果を発揮して、驚くほどの速さで回復が進んでいる。マシュー自身は「俺なんかより他にも困ってるヤツがいるだろうに」と恐縮していたが、この村の現状を考えれば、まずは戦力である猟師の回復が最優先だろう。村長もそれを望んでいる。


「そういや、お前は王都の出らしいな?」

 突然、マシューがそんなことを尋ねてきた。メリッサは一瞬どきりとするが、言葉を濁すわけにもいかない。正直に頷いてみせる。


「ええ、まぁ……でも、今はもう王都には戻れません。ちょっと事情がありまして……」

 それ以上のことは話さないほうがいいだろう――そうメリッサは判断する。追放された聖女だと知られれば、村人たちがどう思うかわからない。最悪、彼らが神殿や王宮の逆鱗に触れることを恐れて、メリッサを追い出す可能性もある。それだけは避けたい。何より、ここに受け入れてもらった恩がある以上、村に余計な負担をかけるわけにはいかない。

 だが、マシューは深く追及する様子はなかった。むしろ、「まぁ、人にはいろいろあるよな」と苦笑いを浮かべるだけ。


「こんな辺境まで来るんだから、相当な事情があったんだろう。だが、俺は助かったよ。お前のおかげでこうして痛みが引いてきた。命の恩人だ」

 その言葉に、メリッサはこそばゆいような気持ちになった。人に感謝されるのがこんなにもあたたかいものだったと、あらためて思い出す。王都でも多くの人を治して感謝されたはずなのに、なぜか今のほうが心に沁みるのは、彼女自身が弱っているからかもしれない。



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村人たちとの交流


 マシューの回復が目に見えて進むにつれ、村では「メリッサが癒しの力を持っているらしい」という噂が広まった。最初はよそ者として警戒されていた彼女だったが、その功績を目の当たりにした村人たちは、次第に態度を軟化させていく。

 治癒が必要な怪我や病を抱えた者はマシューだけではなかった。長年、膝の痛みに耐えてきた老人や、風邪をこじらせてせきが止まらない子供もいる。メリッサは時間を見つけては彼らのもとを訪れ、できる範囲で癒しの魔法を施していった。


 もちろん、すべてを完全に治せるわけではない。彼女の力は王都にいた頃より衰えているし、治癒魔法にも限界がある。それでも、薬草や適切な処置と組み合わせれば、かなりの痛みや症状を軽減できるのだ。貧しい村人たちにとっては、それだけでも十分すぎるほどありがたい。

 日に日に「メリッサさん、ありがとう」「助かったよ」という声が増え、彼女が村を歩けば、子どもたちが「ねえねえ、お姉ちゃん!」と集まってくることもある。追放という暗く苦しい体験をしたメリッサにとって、こうした人々の優しさは何よりの救いだった。



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4. 無愛想な男との出会い


 しかし、村人の誰もがメリッサを好意的に迎えてくれたわけではない。中でも、一人の男は彼女に対してあからさまに冷淡な態度を取り続けていた。

 その男の名はアーサー・ブレイズ。年齢は二十代後半ほどで、村の外れに一人で暮らしている。筋肉質な体躯に、短く刈り込んだ黒髪。日に焼けた肌は傷だらけで、まるで兵士か傭兵のような雰囲気を醸し出していた。


 彼は普段、ほとんど村に下りてこない。狩りや薪割りをする姿を遠目に見かける程度で、話しかけても「……」と無言で睨まれるのがオチだという。村長ですら「あいつはよくわからん男だ」と眉をひそめる。

 ある日、メリッサがマシューの家で治癒の施術を終え、帰路につこうとしていたとき、偶然にもアーサーと鉢合わせした。彼は無造作に木材の束を背負い、家々の間を通り抜けようとしているところだった。


「あ……こんにちは。重そうですね、手伝いましょうか?」

 何気なく声をかけたメリッサだったが、アーサーは立ち止まることなく素通りしようとする。さすがに気まずいと思ったのか、一瞬だけこちらを振り向き、低い声を出した。


「いい……。お前ごときに手を借りるつもりはない」

 ぶっきらぼうな返事に、メリッサは戸惑う。周囲の村人たちは苦笑いを浮かべ、「ああ、あれがアーサーの常だ」と言わんばかりに肩をすくめている。しかし、メリッサはどうしても気になって、もう一言声をかけることにした。


「何か……嫌な思いをさせていたら、ごめんなさい。私、まだこの村に来たばかりで……」

 するとアーサーは、冷淡な視線でメリッサを値踏みするように見た後、呆れたように息を吐いた。


「いや、別に……ただ、お前のことは信用していない。癒しの力? 聖女? そんなものに頼らなくても人は生きていける。俺は、自分の力だけで十分だ」


 そう言い放つと、アーサーはまた足早に立ち去っていく。メリッサは思わず言葉を失い、立ち尽くしてしまう。

(私の力を……信用していない? もしかして、それだけが理由ではないかもしれない……)


 アーサーが王都出身だったり、あるいは何らかの事情で“聖女”や“神殿”という存在に嫌悪感を抱いているのかもしれない。そんな推測が浮かんだが、確証はない。村の人に訊いても「さあ、あいつは昔からあんな調子だから」と首を傾げるばかりだった。



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5. 小さな事件と救出


 そんなある日のこと。メリッサが村で過ごし始めてから十日ほどが経過した頃、ちょっとした事件が起こった。

 それは夕刻、空が茜色に染まり始めた頃だった。メリッサは廃屋になっている自分の寝床で、床に積まれた藁の上に腰掛け、日中に治癒魔法を使いすぎて疲労した身体を休めていた。すると、突然、村の方角から大きな叫び声が上がったのだ。


「助けてくれえ!」「魔物が、魔物が出たぞ!」


 慌てて外に飛び出すと、何人かの村人が血相を変えて走っている。そのうちの一人を捕まえて事情を聞くと、どうやら森の外れで子どもが魔物に襲われたらしい。まだ幼い子が行方不明になっており、村の男たちが捜索に向かったという。


「それで、男手が足りなくて……マシューは怪我から回復したばかりだから、無理をさせられないし……アーサーは今、どこにいるんだ!」

 村人が口々に叫ぶが、アーサーの姿は見当たらない。どうやら山に入って薪を取りに行っている最中らしく、すぐには帰ってこないようだ。

 メリッサは心臓が高鳴るのを抑えながら考える。子どもが魔物に襲われて怪我をしているかもしれない。もし早急に救護しなければ、取り返しがつかなくなる危険もある。ここは自分が行くしかない――そう判断した。


「私が行きます。子どもを探して、もし怪我をしていたら治癒します!」


 慌てる村人たちは最初、「女の身で危ない」と引き留めようとしたが、メリッサが真剣な顔つきで何度も訴えかけると、とうとう折れて「じゃあ、俺たちと一緒に探してくれ」とお願いしてきた。

 手分けして森の外れに向かうと、そこは鬱蒼とした樹木が広がり、日没前とはいえ薄暗い。草むらや枯れ葉が積もった地面をかき分けながら進むと、かすかな泣き声のような音が聞こえてきた。


「こっちから声がする……!」


 メリッサが声を上げ、他の村人と共にそちらへ向かう。しばらく進むと、大きな木の根元に小さな男の子が座り込んでいた。その足元には、獣のような魔物の死骸が転がっている。男の子は血だらけになりながら震えており、魔物に噛まれたのか服が破けている。どうやら何かの拍子に魔物を仕留めた――というよりは、魔物が子どもを襲った後、何者かに討たれたような傷跡が見える。


「うわ……血がすごい……」

 村人の一人が息を飲み、もう一人が「すぐに手当をしなければ……!」と慌てる。メリッサは急いで子どものもとに駆け寄った。


「大丈夫? 痛い? 私が治してあげるから……」

 男の子は顔面蒼白で声も出せない状態だが、しきりに腕と足を押さえている。噛まれたらしく、そこから血が溢れている。どうやらかなり深い傷だ。放っておけば出血多量で危ない。

 メリッサはこの場で治癒魔法を使うしかないと判断し、子どもの肩をそっと支えながら、両手を血の滲む患部にかざした。


(落ち着いて……私ならできる。何人も救ってきたじゃない……!)


 自分を鼓舞し、深く呼吸を整える。祈りの言葉を思い出し、力を集中させると、メリッサの手のひらが暖かな金色の光で包まれ始めた。子どもの身体に触れると、その傷口から溢れる血が徐々に勢いを失っていく。痛みにうめいていた子どもの表情が少し和らぎ、涙まじりに「痛く……ない……」と呟いたのを確認して、メリッサはさらに集中を高める。


「すごい……これが本当に魔法なのか……」

「これほどの治癒は、王都の高位聖職者にしかできないと聞いたが……」

 後ろで見守っていた村人たちが興奮気味に口々に言う。しかし、メリッサはそれを聞いても表情を変えない。ここで気を抜くわけにはいかないからだ。なんとか最低限の止血と痛みの緩和が終わると、子どもは意識を失って眠りに落ちた。


「とりあえず、命に別状はなくなったと思います。完全に治すには、村に戻ってからもう一度ちゃんと施術します。すぐに連れて帰りましょう!」

 メリッサがそう指示すると、屈強な村人の一人が子どもを抱え上げ、慌てて帰路につく。彼らはメリッサの指示どおり、足元や腕を固定しながら慎重に歩く。それに伴走する形でメリッサも付き添い、治癒のフォローを続けていた。


 そのとき、ふと気になって魔物の死骸の方へ視線をやると、そこには大剣のような武器の切り傷が走っていた。子どもがこんな武器を扱えるはずもない。まるで、誰かが一瞬のうちに魔物を仕留めたかのような跡だった。


(まさか……アーサー……? でも、姿が見当たらないし……)


 疑問を抱えつつも、メリッサは村人たちとともに急いで村へ戻った。男の子はすぐに村長の家へ運び込まれ、メリッサはそこであらためて治癒魔法を施す。幸い、傷は深いが骨までは達していない。魔物の毒もなさそうだ。時間をかければ回復できる見込みが高いだろう。



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6. アーサーの真意


 やがて夜が更ける頃、子どもの容態は落ち着き、ひとまず安心して眠りについた。村長や子どもの母親は泣きながらメリッサにお礼を述べ、「あなたはこの村の恩人だ!」と何度も頭を下げる。メリッサは「当たり前のことをしただけです」と困惑しながらも、皆の熱意に笑みを返す。


 その後、ひと段落して外に出てみると、夜空には月が高く輝いていた。風は涼しく、森の草葉がざわめく音が聞こえる。メリッサは大きく息を吸い、胸いっぱいに空気を取り込む。王都で満たされなかった“役に立てた”という実感が、こんな辺境の地で得られるとは思わなかった。


 しかし、ふと視線を下ろすと、そこに一人の男が立っていた。アーサーだ。相変わらず木材の束を持っているが、今は行き場を失ったように夜の闇の中に佇んでいる。メリッサが近づくと、彼は何も言わずに鋭い眼光を向ける。少し離れた位置で静かに口を開いたのは、メリッサの方だった。


「アーサーさん……。さっきの子ども、助けてくれたんですよね? 森に魔物の死骸がありました。あなたの大剣の跡みたいな切り傷がついていて……」


 そう問いかけると、アーサーはちらりと手元を見る。彼が腰に差した剣には、血のような汚れがこびりついている。どうやら間違いなさそうだ。メリッサが続ける。


「どうして子どもを連れて村に戻らなかったんですか? 助けてくれたのに、あの子はずっと一人で……」


 するとアーサーは目を伏せ、少し苦しげな表情を浮かべてから、低く呟いた。

「俺は、助けるべき相手がいると思ったら、助ける。ただそれだけだ。別に村人に恩を売るつもりはない」


 意味が分からず、メリッサは戸惑う。アーサーは子どもを救ったにもかかわらず、なぜ黙って姿を消したのか。そして今、ここに戻ってきたのか。彼の態度は相変わらず無愛想だが、その奥に何か重大な事情が隠れている気がした。


「ありがとうございます。あなたのおかげで、あの子は助かりました」

 メリッサが深々と頭を下げると、アーサーは困ったように視線を逸らした。


「……俺は誰かに礼を言われたくてやったわけじゃない。ただ……」

 一瞬、言葉を詰まらせた彼の瞳には、言い知れぬ苦悩が垣間見えた。だが、それを口にするつもりはないらしい。すぐに取り繕うように「別にいい」と吐き捨て、足早にその場を去ろうとする。


「あ、待ってください……!」

 メリッサは思わずアーサーを引き留めた。その瞬間、アーサーの険しい表情がメリッサの手を見る。彼女がほんの少しだけ、彼の腕の端に触れていたからだ。慌てて手を離し、メリッサは言葉を継ぐ。


「ごめんなさい。でも、あなたは本当は優しい人なんだって、私は思います。もし何か力になれることがあったら、言ってください。あなたが私を信用していないのはわかりますけど……私は、ここで暮らす以上、村の誰かを見捨てたりなんてしたくないんです」


 それはメリッサの正直な気持ちだった。アーサーの無愛想ぶりは多少気になるが、それよりも彼が子どもを救ってくれた事実が嬉しい。それをきっかけに、少しでも彼との溝が埋まればと思う。

 しかし、アーサーは感情を表に出すことなく、冷ややかに吐き捨てるだけだった。


「余計な世話だ。……今後も俺に構わないでくれ」


 それだけ言い残すと、彼は闇夜に溶け込むように姿を消す。木材の束を抱えて村の外れへ向かう背中は、どこか寂しげな印象を残していた。

 メリッサは追いかけることなく、その場に立ち尽くす。風が吹き抜け、夜の冷気が肌に染みた。心の片隅には、ほんの少しだけ痛みを伴う違和感が残る。彼の態度が無性に気になるが、今はそれ以上踏み込めそうになかった。



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7. 小さな“居場所”


 翌朝、夜明けとともに村の人々がメリッサのもとへぞろぞろと集まってきた。あの男の子が命拾いしたことで、改めて彼女の癒しの力を認識したらしい。年長者の女性は感動で涙ぐみながら「あなたは神様か何かかい?」と大げさに言うが、メリッサは首を振って微笑むだけだ。


「いえ、私はただの旅人ですよ。できる範囲で、これからもお手伝いさせてください」

 そう告げると、「もちろん大歓迎だよ」「助かるよ」とあちこちから声が上がる。村長ギルデンも「いやあ、あんたが来てくれて本当に良かったよ」と笑顔を見せる。

 こうしてメリッサはホワイトウッド村の“恩人”として、さらに深く受け入れられるようになった。村の空き家を改装し、最低限の生活用品を揃えてくれる人も現れる。一夜にして劇的に暮らしが豊かになるわけではないが、それでも野宿や荒屋暮らしに比べれば格段に快適だ。


「何でも言ってね、村のみんなで協力するからさ」

 そんな言葉が自然に交わされるようになり、メリッサは“追放された孤独”からほんの少し抜け出せた気がした。もちろん、神殿のように豪華な食事や寝具はないが、親切な人々と穏やかな日常――それらは、メリッサの心の傷を少しずつ癒やしてくれる。


(王都では、こういうささやかな幸せを見落としていたのかもしれない。立派な城や神殿で祈りを捧げるのだけが聖女の務めじゃない。こんな遠く離れた村で、人々に直接手を差し伸べることだって、きっと……)


 メリッサはそう考え、微笑む。エドモンドとの婚約破棄や聖女失墜の痛みが完全に消えたわけではないが、ここで少しずつ新たな生き方を見つけられそうな気がしていた。



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8. 迫り来る不穏な気配


 しかし、穏やかな日々は長くは続かない。メリッサがこの村での暮らしに慣れ始めてきた頃、わずかに“嫌な予感”が胸をよぎることが増えた。王都にいたときに感じた、あの得体の知れない邪悪な気配――癒しの魔法を使おうとすると、ほんの一瞬だけ何かに干渉されるような違和感があるのだ。


 村の怪我人や病人に魔法を使う際にも、時折ふっと力が乱れる。幸い、今のところ誰かを大きく傷つけるような事態にはなっていないが、もしこれが深刻化したらどうしようという不安が消えない。自分ではどうすることもできない悪意のような何かが、後ろから忍び寄っている――そんなイメージが頭から離れないのだ。


(カタリナが王都でやっていたことと関係があるのかしら……。私の魔法が弱まった原因は、あのとき“邪魔”されたから? もしそうなら、今も続いている……?)


 思考を巡らせても、確たる答えは出てこない。何より、今のメリッサにはその疑念を解明する手段がない。神殿や魔術師の支えもなく、一人きりで暗闇の手がかりを探るしかないのだから。

 そんな不穏な空気を抱えつつも、メリッサは村での日々を続けていた。今はただ、人々の笑顔を救うために、目の前のできることを全力でこなすしかない。

 そして、彼女はまだ知らない。この先、ホワイトウッド村を揺るがす“大きな災い”が訪れ、さらに王都からの使者がやってきて、彼女の運命を再び波乱に巻き込むことを――。

 そこには、アーサーが背負う謎めいた過去も深く関わってくる。メリッサの癒しの力は真に復活できるのか。再び現れる裏切りや試練を乗り越え、彼女は本当の“幸せ”を見つけられるのだろうか。


 まだ見ぬ未来の行方を知らぬまま、メリッサは辺境の村で小さな光を灯し続ける。負傷者を癒し、病人を看護し、時には子どもたちと笑い合い……。追放された悲しみは少しずつ和らぎ、代わりに“ここで生きる”という新たな意志が芽生え始めていた。




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