「この物語には浪費家のオストロゴート公爵、庶民の娘ファルレシーナ、彼女と相思相愛の偽の従弟ベルフスト。それに公爵の婚約者カッロアンドラ女侯爵、彼女が泊まる宿の主人ラゾイオとその恋人クリスタッリーナという六人の男女が登場する」
「三組のカップルとも言えるね」
ボッケリーニの語るあらすじを聞きながら、サリエーリは物語りを理解しようと頭の中で反芻していた。
「そして婚約者がいるのにファルレシーナに言い寄る公爵だが、恋人のいるファルレシーナは変装してラゾイオの宿に行き女侯爵に会おうとするんだ。変装に協力するのはクリスタッリーナだが、ファルレシーナは彼女に変装の代金を払わない」
「それも酷いな」
ファルレシーナは今作のヒロインだが、品行方正というわけでもないようだ。
「怒ったクリスタッリーナは女侯爵に『公爵には恋人がいる』と告げ口をするんだ」
「なるほど」
怒るのは当然で、クリスタッリーナは相手を陥れるような告げ口をするのだが、ファルレシーナにとっては悪い事でもない。
「ファルレシーナは公爵を懲らしめたい、女侯爵は婚約者の浮気を暴きたい。そこでファルレシーナは公爵と仮面舞踏会に同伴し、ベルフストの協力によって女侯爵と入れ替わり、浮気現場を押さえさせる」
「ご愁傷様だね」
浮気しようとしていた公爵が悪いのだが、これは罠にはめられた形である。
「ファルレシーナの仕打ちに憤慨した公爵は婚約者と和解し、めでたく三組の男女が結ばれる」
「……ラゾイオとクリスタッリーナにもうちょっと存在感を持たせたいな」
台本を読みながら説明を受け、演出について相談しながら二人でオペラの構想を練り上げていく。これまでの振るわなかった経験、それに《アルミーダ》の成功を踏まえて、これまでにない最高の舞台を作り上げたいという強い気持ちが二人の間にあったのだ。
サリエーリの次のオペラ作曲は順調に進んでいた。だが、ここで彼の周囲の人間達に親心からの願望が生まれる。
――彼の生まれ故郷であるイタリアで名を上げさせたい。
イタリア・オペラが主流だったこともあり、イタリアはオペラの本場であった。サリエーリ自身も祖国で上演する事を夢見ているのをガスマンは察していた。
修業中は「イタリアに送り返すぞ」が脅し文句だったが、一人前の作曲家となった今では「イタリアに行かせてやりたい」という考えも生まれていたのだ。宮廷作曲家である彼はサリエーリを後継者にしたいと考えていたので彼を手放すつもりはなかったが、彼のオペラをイタリアで初演できないかと考えていた。
また皇帝ヨーゼフ二世は、サリエーリの
『ガスマンの弟子サリエーリ、音楽に通じ良く作曲をするこの若者がイタリアでオペラ・ブッファかセーリアを作曲させてもらえる劇場を探しているのだが、春にフィレンツェで彼に一曲書かせる機会はないだろうか? きっと人々を満足させるであろう』
この手紙は一七七二年一月九日付のものである。手紙では作曲させてくれと言っているが、実際には既に出来上がったオペラを上演する場所を求めているのだ。そしてフィレンツェの興行師は新作を欲しておらず、この要望に応える事は出来ないと弟が返事をする。
「残念だが、仕方ない。ではブルク劇場で初演を行う事にしよう」
一七七二年一月二九日、ヴィーンの劇場で《ヴェネツィアの市》が初演される。これはヨーゼフ二世が期待した通りに大成功を博した。観客の大喝采をあび、特に「傑出した音楽」と評されたサリエーリの曲は聴衆を魅了したという。このオペラは約五〇年もの長きにわたって演目に残り続ける事になるのだった。
この一ヶ月と少し後、サリエーリにとっても重要な出来事が起こる。当時の宮廷楽長ゲオルグ・フォン・ロイターが三月一一日に亡くなり、後任としてガスマンが宮廷楽長に任命されたのである。宮廷楽長は宮廷楽士のトップに当たる地位だが、慣習的に前任者が死亡しないと次の者に代わる事はない。極めて例外的に皇帝から解任を言い渡される事があるが、それも体調不良等の理由によるものである。
「光栄だが大変な役職についてしまった。去年設立された音楽家協会の運営もあるのだが」
清廉な人物であったガスマンはこの音楽家協会の設立に尽力していた。この会は別名『ヴィーン音楽家の未亡人と孤児の会』といい、会員が亡くなった時にその未亡人と孤児が年金を受けられるというものだ。会長は貴族の名誉職であり、実質の運営責任者は副会長のガスマンなのだった。
宮廷楽長に任命される時期が前任者の死によって決まるので、後任として有力な者でもその任命時期を予測できないという難点がある。これは、ガスマンの弟子であるサリエーリにも強く影響する事になる。
ともあれ、まだ若いサリエーリはすぐに重要な役職に就く事もないと自他共に判断していて、しばらくは新たな曲を作る事に専念するのだった。
この年、サリエーリはさらに二つのオペラを発表する事になるのだが、その最後の一つがデビューから共に歩んできたボッケリーニと共同で制作する最後のオペラとなるのである。