サリエーリは甘いものが好きだ。特に好物はレモン風味のアイスである。
「さて、明日は久しぶりの休日だ。グラーベン通りのアイス屋にいこう」
宮廷で多くの公務に追われるサリエーリが、たまの休みにグラーベン通りのアイス屋で好物のレモネードアイスを食べ、心の底からリラックスし至福の時を過ごす。彼にとって最高に贅沢な休日の過ごし方だった。
(※サリエーリは弟子のシューベルトを行きつけのアイス屋に連れて行ったとシューベルトの回想で言われているが、いつから行きつけだったのかは不明)
(まず朝起きて神への祈りをした後、作曲をして……昼前にグラーベン通りに向かおう)
「リーバー・パパ! 明日休みでしょ? 僕も明日は暇なんだ、奇遇だねえ」
明日の予定を頭の中で組み立てながら残務の処理をしていたサリエーリのところに、モーツァルトが騒がしくやってきた。
「そうなのか。珍しいな、二人の休みが重なるなんて」
モーツァルトもこの時期は多忙であった。多くの作曲依頼と弟子のレッスン、さらに演奏会もこなしていたのだ。特に《ハイドン・セット》の後半三曲は出版社アルタリアから一〇〇ドゥカート(四五〇フローリン)もの版権料を得たほか、父レーオポルトが訪ねて来ていた時にハイドンを招き、演奏した。この時にハイドンはレーオポルトに向かってモーツァルトの事を褒め称えたという。
「あなたの息子さんは私が知っている作曲家の中でも最大の人物ですよ」
自分に曲を送ってくれた人物へのお世辞の意味合いもあるが、ハイドンは当時モーツァルトを純粋に評価した数少ない作曲家の一人だった。大作曲家がこう語った影響は極めて大きく、多くの貴族が彼の曲を求めるようになっていたのである。
「一緒にハイキングに行こうよ!」
モーツァルトがサリエーリをハイキングに誘う。彼はサリエーリが弟子たちとハイキングに行ったという話をカヴァリエーリから聞いていたのだ。カヴァリエーリはサリエーリの弟子である歌手だが、彼女はモーツァルトの曲もよく歌い、ランゲ夫人やアーダムベルガーと共にモーツァルトの良き理解者であった。
「ハイキングか。こんな機会もそうないし、モーツァルトが行きたいというなら構わないよ」
アイスはいつでも食べられる、と自分に言い聞かせてモーツァルトの誘いを快く受けるサリエーリだった。
(アイス……)
二人で近くの山に向かう道すがら、モーツァルトは自分の近況などを話した。ハイドンに褒められた話をして嬉しそうにしているモーツァルトの姿を見ながら、サリエーリは彼の才能を認めたハイドンに改めて敬意を抱いた。
「ところで最近また若い弟子を取ったんだって?」
「ヨーゼフ・ヴァイグルの事か。あの子は素晴らしい才能の持ち主だよ。今度スヴィーテン男爵のところに連れて行こう」
ヴァイグルはガスマンに才能を見出された人物だ。その後彼がこっそり作曲した歌をイタリア・オペラ主席チェロ奏者の父が見つけ、グルックとサリエーリに話すと、二人は是非その歌を聴きたいと言った。二人の前で緊張しながらヴァイグルが歌うと、二人は「少なくとも三つ大変良い曲がある」と褒め称えた。その曲は一七八三年二月二一日にブルク劇場で初演されたのである。その時ヴァイグルは十六歳だった。
「彼の父親を説得するのに時間がかかってしまったが、ヴァイグルはまだ十八歳だ。これから多くを学ばせ、必要な技術を習得したら早いうちにローゼンベルク伯爵に伴奏マエストロ代理として推薦しようと思っている」
弟子の事を話すサリエーリは非常に楽しげで、モーツァルトはヴァイグルに興味を持った。後にヴァイグルはモーツァルトの代表的なオペラ《フィガロの結婚》と《ドン・ジョバンニ》で代理指揮を任される事になる。
「ザルツブルクの伝統的なお菓子を持ってきたんだ。パパは甘いものが好きでしょ」
よく晴れた高台の上で休憩する二人はモーツァルトが持ってきたお菓子を食べる事にした。
「ほらこれ、ヴィーナスの乳首っていうんだよ。おっぱいみたいでしょ!」
『ヴィーナスの乳首』とはモーツァルトの故郷ザルツブルクの伝統的なお菓子で、作り方は様々だ。見た目が女性の乳房のように見える甘いお菓子なら良いらしいが、マロングラッセをチョコレートでコーティングしたものが一般的である。ただし当時のヴィーンではチョコレートはかなりの高級品である。金持ちにしか口にする事のできない高級菓子である事はサリエーリも一目でわかった。
「おおこれは美味しそうだ、ありがたくいただくよ」
モーツァルトらしい少々性的な遊び心のある、それでいて高級なお菓子のプレゼントにサリエーリは内心とても喜ぶ。
「では一緒にカノンを歌おう。弟子とハイキングに来るといつもこれを歌うんだ」
サリエーリはポケットに忍ばせていたコミカルなカノンの楽譜を取り出すと、モーツァルトに見せた。これが目当てだったモーツァルトは喜んで一緒に歌いはじめた。
「楽しそうですね、マエストロ」
二人で歌っていると、女性の声がかかった。モーツァルトにハイキングの事を教えたサリエーリの弟子カヴァリエーリだ。
「おやどうしたんだ、こんなところで」
「偉大なマエストロが二人でハイキングに行くと聞いて、弟子たちが集まってきたんですよ。なにか秘密の凄い計画でも立てているんじゃないかって。そうしたらただお菓子を食べて歌っているんですもの、それなら私たちも誘ってくだされば良いのに」
笑いながら答えるカヴァリエーリの後ろには、サリエーリとモーツァルトの弟子が数人集まって来ていた。
「いやーごめんね、たまにはパパ・サリエーリを独り占めしたくってさ」
モーツァルトが笑いながら謝ると、皆が笑い声を上げる。サリエーリは、この平和な時が長く続く事を心の中で神に祈るのだった。