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2 星と太陽の邂逅

 歌仙の地は、函の南東部に位置し、気候は一年を通して穏やかに移ろう。

 北部にある函の都・紅蘭に比べれば温暖で、冬に雪が降ることもなく、過ごしやすい地域である。

 それでも、秋の風は確実に冷たさを増し、あたりを縦横に走る河川の上を吹き抜けた。

 犀家の大きな敷地には、母屋と東西に二軒の離れが南向きに建てられている。

 犀星は子供の頃、昼間は母屋で過ごし、夜は西の離れで眠った。

 親王として、特別なことは何一つない生活だった。

 敷地内の畑を耕して作物を作り、近隣の山に入って狩をし、果実や山菜を集めた。川では領民の子供たちと一緒になって裸で泳ぎ、魚を釣っては大きさを競った。

 母屋の北側にある庭では、犀遠から剣術を学び、日々の鍛錬を欠かさなかった。

 じっと座って学問に打ち込むより、刀を手に駆け回っていることの方が好きな、活発な少年だった。

 都に上がる前の犀星が今とはまるで別人であったことを、涼景や東雨が知るはずもない。

 妙に大人びたところはあったが、好奇心が強く、愛情深い犀星を、屋敷の者達は皆、可愛がった。犀星も彼らによく懐き、一通りの家の仕事を覚えて、共に働くことを楽しんでいた。

 政略や欺瞞、裏切りや欲望に満たされた宮中とは無縁の地で、彼は羽ばたく小さな猛禽のように自由に育てられた。

 そんな輝くような日々の全てに、犀星の傍らには、玲陽がいた。

 玲陽の母親である玲芳れいほうは、犀星の母の双子の妹にあたる。同じ時期に生まれた犀星と玲陽は、この屋敷で共に過ごした。

 何をするにも、二人はいつも一緒だった。

 穏やかな気候と、厳しく優しく明るい父、親切で笑顔のたえない家人たち、そして玲陽という生涯の友に恵まれ、犀星の幸せな日々は過ぎていった。

 十五歳の、宮中に上がる日まで、彼は確かにこの地で幸福の中に生きていたのだ。

 そして今。

 都での十年の時を経て、彼はここに戻ってきた。

 その顔は、少年時代の面影を残しながらも、さらに磨かれて揺るがぬ美しさを宿している。

 しかし、どれほど美しくとも、かつての溌剌とした正気はなく、凍りついたように感情は閉ざされ、動かない。犀星の心は深く冷たい水底に沈み、呼吸は絶たれ、感情の色は失われた。

 何がそこまで彼を変えたのか、それを知る者は都にはいない。

 昨夜を父の部屋で明かした犀星は、結局、一睡もせずに朝を迎えた。

 まだ朝靄が立ち込める時刻、犀家の外門の前で犀星はじっと門の木肌にもたれ、硬く腕を組んで足元を見つめていた。

 その表情は、父と再会する前と同様に硬くこわばり、青ざめている。

 麻織の着物は着色もせず、知らぬ者が見れば親王とは思われぬ質素ないでたちである。

 装飾より実用を取る犀星の気質は犀遠譲りで、都でもそれを変えることはなかった。

 長い蒼髪は頭の後ろの高い位置でひとつに束ねただけで、細い銀の歩揺を刺したのみである。

 宮中の儀式や謁見などで着飾る必要がある場合以外、彼の身なりは極めてつつましかった。

 だが、腰に吊るす大ぶりの刀だけは、刀匠が魂を込めた一級品である。

 犀星のそばには、犀家の馬丁と小間使いが一人、心配そうな顔を見合わせながら、様子をうかがっている。

 さらにその奥の内門のあたりでは、犀遠が見送りに立っていることを、犀星も知っていた。

 だが、犀星は何も言わない。無言で、ただ、足元を見つめ続けるだけである。

 いつもなら、こんな沈黙を嫌っておしゃべりを始める東雨は、今朝はまだすっかり眠って居るらしい。

「あの、伯華様?」

 初老の小間使いの女が、気遣わしげに犀星を呼んだ。犀星は視線だけ動かして、女を見た。

「お共をなさってきた、あの少年、お連れしなくても良いのですか?」

 犀星は小さく顎を引いて頷いた。

「東雨は休ませてやって下さい。役に立ちますので、邪魔にはならないはずです」

 と、徐々に靄の奥から人影が近づいてくるのに気づいて、犀星は大きく首を向けた。昨夜別れた、燕涼景である。

 暁将軍とまで呼ばれるほど上り詰めた若き男は、その屈強な体躯を柔らかな墨染めで包んでいた。わざと緩めた胸元の合わせから、筋肉の浮く厚い胸板が覗く。堅苦しい宮中にありながら、犀星同様、格式に縛られることが嫌いな男である。

「星、少しは眠れたか?」

 燕涼景は、枯れ草を踏み締めて犀星に近づいた。犀星はじっと涼景を見返すだけで、返事はしなかった。

「おいおい、寝ろと言ったのに……途中でぶっ倒れるなよ」

 涼景は事実を悟ったらしく、肩をすくめた。

「東雨は?」

 あたりに姿がないことに気づいて、涼景は尋ねた。

「こちらでお預かりいたしますので、ご安心下さい」

 犀星に代わって、小間使いか答える。

「ああ、それがいい。何があるかわからないから、あいつを連れて行くのは不安だった」

 涼景は小間使いに向けて頷くと、その向こう側に視線を向けた。

 内門のあたりに、靄に隠れてぼんやり見えるのは、犀遠のようである。

「侶香様には、改めてご挨拶に伺うと、伝えてもらえるか?」

「かしこまりました」

 小間使いは涼景に礼をして答えた。

 馬丁が、二頭の馬を引いて、涼景たちの元へ連れてくる。

「仙水様。侶香様が、お二人に馬を用立てるように、と仰せです」

「助かる。俺たちの馬は、昨日、無理をさせすぎた。感謝申し上げると、お伝えしてくれ」

 涼景は馬丁から手綱を受け取ると、一頭を犀星に示し、自分も馬上に上がる。

「星、行こう」

 犀星は黙ったまま鞍上で手綱を握ると、涼景の後に続いた。

 小間使いと馬丁は丁寧に頭を下げてふたりを見送った。

 川の多いこの一帯は、霧がかかりやすい地形である。

 太陽が昇るにつれて霧は晴れ、二人の前に視界が開けた。

 犀家の屋敷から緩やかな下り坂が伸び、その先は平原へと続いている。

 そこには、幾筋もの川が流れ、大地を縫うように曲線を描いて悠々と地平線まで続く。

 その中に、犀家の領民たちの家が、数軒ずつ固まって点在しているのが見える。

 収穫期を迎えた緑の畑、遅まきの予定で耕された黒々とした土がむき出しの畑、農業用の水路、いくつもの橋、水車、道端に置かれた荷車、刈り取った稲や粟の束、すでに働き始めた人影。

 眼下に広がる里は、少年の日に、大切な人と駆けた記憶を鮮烈に呼び起こした。

 犀星は下り坂をゆっくりと、景色の中へ歩んでいった。

 この景色は、あの頃と変わらない。自分達だけが、すっかり変わってしまった。

 疲労と不安とでぼんやりとにぶくなった頭で、犀星はそんなことを思った。

 目を向ければ、日の出の茜色が残る空との境界は、まだうっすらと白く煙っている。

 静かな朝である。

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 込み上げてくる涙を、犀星は止めなかった。堪えることは徒労に終わると身に染みている。

 自分でも情けないほどに、最近は涙が止まらない。

 医者は心の病のせいだと言ったが、たとえそれが症状だとしても、質が悪い。

 流れ落ちる涙はやけに熱く、それがさらに涙腺を緩めているように感じた。

 涼景は何も言わない。

 それだけが、犀星にとって救いである。

 いつから、こんなになってしまったのか。

 犀星は馬の背に揺られながら、曖昧な記憶を手探った。

 半年ほど前、ある日、突然にそれは自覚された。

 朝、目覚めた時に、まるで自分の体が泥にでもなったように重く、鈍重で動かすことができなかった。

 寝床から起き上がれず、声を上げるのも億劫だった。犀星の起床が遅いのを心配した東雨が部屋に来て、様子がおかしい主人を見つけ、慌てて医者に知らせた。

 何かがあったわけではない、と犀星は思う。

 きっかけとなる出来事は思い当たらず、前日も普段通りに政務にあたり、東雨を相手に刀を振り、家の仕事をこなして、疲れて眠っただけのことだ。

 だが、その日を境に、犀星はすっかり勝手が変わってしまった。

 何をしても、心が浮き立たない。

 今まで好んで眺めた、庭の花もくすんでしまった。人々の賑わう市場を歩いても、見えないものにすくんで、足が止まってしまう。単純な文章の転写でさえ、思わぬ間違いをしたり、筆の線が乱れて仕事にならなかった。食が細り、何を口にしても味がしない。やがて、夜は眠れなくなり、昼間は常に眠っているように集中力がなくなった。

 そして、いつも、気づけば泣くようになっていた。

 自分の周囲の世界がどんどん遠ざかっていくように思いながら、最後に一つだけ、残った記憶。それは、ずっと胸に抱き続けてきた、玲陽への思慕だけである。

 十年前、止むに止まれぬ事情で引き離された人は、今、どうしているのか。

 いつ、命が切れても構わないと、犀星は思う。だが、叶うなら、玲陽に会いたかった。せめて一眼会い、約束を果たしたいと願った。

 何もかもが価値を失くした世界で、犀星に残されたものは、そのひとつきりである。

 玲陽を求めて、玲家へ向かう道は、確実に目の前のこの道に違いない。

 玲家はここから馬を走らせて半刻ほどの距離である。

 時は早朝、この時刻に玲家を訪ねたとて、門前払いを食らうことは目に見えていた。急いだところで、結果は得られない。

 それでも、犀星が望むのであれば、涼景としては早めに到着する腹積もりでいたのだが、犀星はゆっくりした馬の歩調に逆らわず、急かそうとはしない。

 不安、か。

 涼景は、犀星の横顔を見つめながら、その胸中を察して黙っていた。

 犀星が決して弱くはないことを、彼はこの十年間でよく知っている。

 苦しいときには、いつも一人で静かに涙し、そして、それを自力で乗り越えてくるしなやかさを持ち合わせている。

 派手さも豪快さも見せないが、共にいると安心感をもたらす犀星の魅力を、涼景は熟知している。

 このまま潰してしまうのは、あまりに惜しい。

 涼景だけではなく、宮中の多くの者たちが、歌仙親王の回復を祈った。

 函は今、皇帝・宝順ほうじゅんの御代である。宝順は犀星の異母兄にあたる。

 凡庸な宝順を支えるには、非凡な犀星の力が欠かせなかった。

 優秀な家臣たちは多くいたが、皇家に連なる犀星の存在は、また、特別である。

 一時はそれ故に、謀反の疑いをかけられたこともあったが、それも犀星自身の才知で切り抜けた。

 今は、宝順自身も、犀星の手腕を高く買って、多くのことを任せるようになっていた。

 宮中の利を優先する宝順に対し、犀星は己の得とならずとも、民心を第一に考える政治家だった。当然、都の民の心は宝順よりも犀星に傾く。しかし、犀星は兄を立てることを忘れなかった。自分が目立てば、それにより間違いなく反感を買うことを、彼は心得ていた。

 出会って間もないころ、涼景はそんな犀星の清貧な姿勢がもの珍しく、興味をそそられた。だが、しだいに、犀星が求める『富』が、金や地位、名声とは違うところにあり、決して無欲なわけではないことを知ると、好奇が信頼へ、そして尊敬にも似た思いへと変わっていった。

 犀星はこの国に必要だ、と、今の涼景は信じている。

 それゆえに、こうして無茶な歌仙訪問にも応じたのだ。

 あたりの朝靄はすっかり消え、あちこちから人の声も聞かれるようになってきた。

 涼景は犀星の涙が途切れたのを確認してから、静かに声をかけた。

「しかし、玲家ってのは特殊だな。お前に頼まれて半月前に訪ねたが、俺が名乗っても決して門を開けなかった。お前の名前を出して、ようやく当主の玲芳が許可を出してくれたが」

 犀星は流れるような動きで、隣の涼景の顔を見た。が、またすぐに前方の地面に視線を向ける。

 涼景はそんな犀星の様子を、落ち着いた表情で眺めた。

「屋敷に上げてもらえても、結局、玲陽には会えなかったがな」

「…………」

「玲陽はここにはいない、の一点張りだ。どこにいるのか聞いても、居場所は言えない、で通された。それ以外の言葉を知らないんじゃないかっていう頑固さだ」

「…………」

「家探しする、って脅してみたが、全く動じてなかったな。あれは、本当に屋敷にはいない反応だと思う」

「…………」

「侶香様の話では、玲家の邸宅裏の砦にいるというが……」

「砦……」

「中に入るにはたった一つの門を通るしかない。門には常に門番が武器を構えている。中によほど重要な『何か』がなければ、あんな場所で武器を持つ必要はないだろう」

「陽……」

「ああ。試しに乗り込む価値はある」

 犀星は、行く手の川を見て、わずかに目を細めた。

 川幅があり、水量も豊かである。

 川の水は西側にそびえる俸鹿山ほうろくざんからの滝を下ってきたものだ。巳禅みぜんの滝は、犀星と玲陽の遊び場だった。滝壺は思いのほか深かったが、その裏には小さな洞窟があり、絶好の隠れ家だった。

 同時に、この川は犀家と玲家との境界でもある。この川から北が玲家、南が犀家の領地だ。

 玲一族は、今の王朝が建設されるはるか前から、一帯を牛耳っていた旧家である。肥沃な土地が多く、農業を中心として、地域の食糧庫という役割を担っていた。この歌仙地方の有力豪族として、今なお、都にもその存在は伝えられている。

 玲一族が、今の朝廷においてもその権勢を保っている要因の一つには、家にまつわる言われがあった。

 玲家の女児には、代々、不思議な力が宿り、魔を滅するという。そのため、男児よりも女児を重んじる、他家にはない慣習が根付いていた。それは同時に、彼女たちにとって幸運でもあり、不幸の種ともなり得た。

 犀星の母、玲心は、この家の出である。

 玲心は玲家の直系であり、次期当主と目されていた人物だった。玲家の女児が特別な力を持つと言っても、それは必ずしも目に見えるものとは限らない。玲心も、特に際立った力があったわけではない。むしろ、双子の妹である玲芳にこそ、時折、奇妙なことが起きることが多かった。

 玲家の長老たちは、玲心を当主に立てた。これは事実上、玲心が玲家の後継を産むためだけに、生涯、屋敷の中でのみ生きることを意味していた。

 この決定が下されたとき、玲心は密かに心を寄せていた幼馴染の犀遠を頼って、都へと逃れた。

 気の強い玲心にとって、飼い殺される暮らしなど、受け入れられるものではなかった。

 玲家は手を尽くして玲心を追ったが、当時の幕環将軍であった犀遠の妻となっては、容易に手出しができなかった。

 玲家の手を逃れたかと思われたころ、玲心は新たな思惑に晒されることとなる。時の皇帝・蕭白は、玲家の血を求めて、犀遠から玲心を引き離し、自分の妻としてしまった。

 犀遠は投獄され、全てを奪われた。

 そんな犀遠を案じて、蕭白帝に解放を願い出たのが、皇子であった宝順だった。

 幼い宝順は、犀遠が二度と都に近づかないことを条件に、歌仙に戻り、領地を継ぐことを蕭白に取り付けた。

 一方、後宮で過ごすこととなった玲心は、狂気に取り憑かれた。それが、夫と裂かれたことによる絶望だったのか、玲家が施した呪いであったのか、今も真相は知れない。確かなことは、玲心が狂ったままに犀星を産み落としたという事実だけである。

「……星?」

 思うでもなく、ぼんやりとしていた犀星を、涼景の声が引き戻した。

「しっかりしてくれ」

 涼景はさりげなく励ますように、声をかけた。

「おまえが頼りなんだぞ。俺は玲陽の姿を知らないんだし、玲家はあの調子で部外者には冷たいし」

「……俺も部外者だ」

 犀星は小さく答えた。

「俺の母上は、玲家に逆らった。だから、俺は子供の頃から、彼らには嫌われているし、本家に上がったこともない」

「だが、事実上、おまえは玲家の嫡男だろ?」

「今は、陽が後継者だ」

「まぁ、玲芳が跡目を継いだから、そうなるが。それでも、血は変えられない」

「ああ、変わらない。俺は、玲家が恨む先帝の血だから」

「自分達の力が、皇家に吸収されることは、あいつらも面白くないもんな」

「玲家は特殊だ。朝廷も国も、ましてや皇帝も、自分達とは関係ない。彼らは、遠い昔から、もっと、重たくて暗い掟のもとで生きている」

 犀星の声は小さかったが、涼景の耳によく響いた。

「閉鎖的、か……」

 自分が発した言葉に、一瞬、涼景ははっとさせられた。

 閉ざされた場所で長く過ごすことは、知らず知らずのうちに精神を狂わせることがある。

 彼の、妹のように。

 玲家も、同じなのかもしれない。

 何百年もの間、この歌仙の地に君臨しながら、それ以上勢力を広げることもなく、ただただ、安定のみを求め、血縁を優先する。

 玲家の城下町に暮らすものも、ほとんどが玲家の分家の者たちである。

 そうやって、一族が身を寄せて、この土地はなりたっている。さしずめ、血で固められた小さな国家のようでさえある。

 眉を寄せて黙り込んだ涼景を、犀星がちらりと盗み見た。

 自分のせいで、このような面倒ごとに巻き込んでしまったという申し訳なさが、余裕がなかった犀星に、涼景を気遣う心を思い出させた。

「涼景」

「……うん?」

「春は元気だったのか?」

 サッと涼景の背中が冷たくなる。

 犀星としては、重たい話題を打ち切るための配慮だったのだろうが、今の涼景には、最も聞きたいくない名であった。

「別に、普段通りだ」

 自分の言葉が気遣いとして役に立たなかったことは、厳しい涼景の表情を見れば、犀星にも察せられた。

「すまない。余計なことを言った」

「……いや」

 涼景は首を振った。

 自分の歪んだ恋を、犀星にはかつて、吐露したことがある。

 俺が今、こいつに気を遣わせてどうするんだ。

 涼景は、ぐらついていた気持ちを引き締めた。

「それより、星。覚悟、できたのか?」

「覚悟?」

 涼景は次第と近づいてくる玲家の屋敷を見た。

 犀家の数倍の敷地を持ち、常に手入れが行き届いた様子である。建物は楼閣を備え、常に五〇名以上の家人が常駐する。屋敷の向こう側には城下町のような賑わいがある地域が広がり、まさに、玲家が歌仙の主人であることを物語っている。

「玲陽に会う、覚悟、だ」

 涼景は犀星を見た。

「……ああ」

 ため息のように漏らすと、犀星は目をあげずに、

「涼景、約束、覚えているか?」

「十年前、必ず迎えに来ると、お前が玲陽に言ったことか?」

「そうじゃない」

 犀星は、深呼吸をして、まっすぐに涼景を見た。

「もしもの時は、俺を切り捨てる約束、反故にするなよ」

「ああ、そっちか」

 涼景は気まずそうに口元を押さえ、それからかすかに笑って、

「わかっている。おまえが玲陽に振られてぶっ壊れた時には、山賊の中に丸腰で放り込んで、眺めていてやるよ」

「自ら手は汚さないつもりか」

 フッと小さな息が犀星の唇を歪める。

「当然か。俺の血は、随分と汚れているからな」

「星! それを言うな」

 涼景は力を込めて拳を握った。

「とにかく、玲陽に会え。全てはそれからだ」

「いや……」

「?」

「それで、終わりだ」

「……っ!」

 互いに馬上でさえなければ、涼景は犀星の胸ぐらでも掴んでいたに違いなかった。

 涼景の知る犀星は、決して諦めることのない男だった。周囲に突きつけられた無理難題も、知恵と自由なひらめき、大胆な行動力で見事にやり遂げてきた。その胸がすくような活躍に、涼景は我がことのように誇らしい気持ちになったものだ。

 今、目の前にいる気弱な犀星など、見たくもない。

 涼景は正直に顔を背けた。

 こちらが気を遣っているってのに、どこまで甘ったれてんだ。

 期待があり、憧れがあるからこそ、彼には、今の犀星は到底受け入れられない。

「しっかりしろ。この時のために、お前は十年間、地獄の宮中で生き抜いてきたんだろ」

 意地が悪いと思いながら、涼景は吐き捨てた。

「今のお前を見たら、玲陽はがっかりするだろうな」

「…………」

「星、俺は昔のお前たちを知らない。それでも、お前がどんな思いで都での十年を過ごしてきたか、俺なりに見てきたつもりだ。間違いなく、歌仙親王は誇れる人間だ。玲陽にとっても、自慢の兄だ。下を向くな、胸を張れ」

 涼景はつとめて感情を殺したが、それを聞く犀星には、涼景の怒りも苛立ちも、そして自分に向けられる熱い友情も、しっかりと伝わっていた。

 濁っていた思考や、不安に溺れていた感情が、少しずつ正気を取り戻していく気がした。

「俺は、十年前」

 犀星は、自分に言い聞かせるように言葉を選んだ。

「都に召し上げられる時、あいつをここに置き去りにしてしまった。あの時は、そうするしかなかった。俺は都ではあまりに無力で、あいつを守ることなんて叶わない。父上でさえ、母上を守れなかった。ましてや、十五の何も知らない俺に、陽を守り抜く力はなかった」

 涼景は振り返って聞いていたが、あえて何も言わなかった。

 周囲を流れる川の音だけは止むことなく、二人を包み込む。それは、引き返すことのない川の水と同じように、取り戻すことのできない過ぎ去った時間の音にも聞こえた。

「連れて行きたかった」

 犀星が、独り言のようにつぶやいた。

「だが……」

「お前は正しかった。それは、お前が都で経験したことを考えれば、わかるはずだ。もし、共に都へ行っていたら、玲陽は間違いなく生きてはいなかっただろう。お前も、今のお前ではななかったはずだ」

「ああ」

「少なくとも、お前は考えた末に決断したんだ。自分を責めるな。それより、償え」

「償う?」

「そうだ。この十年、あいつを一人にしたことを自分の罪だと思うなら、これから償えばいい。今のお前には、その力がある。もう、ここを旅立った十五歳の子どもじゃない。そのために、お前はここへ来たのだろう?」

 犀星は恐る恐る、親友の顔を見上げた。

「わかっている。迎えにくると、約束した。それを果たす」

「難しく考えるな。それでいいんだ」

「ああ」

 犀星は、少し落ち着いたのか、僅かに目を閉じて口元を緩めた。

 その表情に、涼景の昂る気持ちもおさまっていく。

 やっぱり、星だ。

 涼景は素直に、犀星の心が蘇ることを嬉しく思う。

 涼景は玲陽を知らない。

 詳しい話を犀星から聞いたことはなかった。

 犀星は慎重で、自分と玲陽の関係については、ほとんど何も語らなかった。それは、近しい涼景や東雨に対しても同じであった。

 親王であり、有能であり、人心を集める犀星にとって、敵となる人物も多い。

 玲陽との深い心のつながりを知られることは、そのまま、自分の弱点を曝け出すことにもなる。

 そして、玲陽を宮中の闇に巻き込むことへとつながってしまう。

 その懸念から、犀星は沈黙を続けていた。

「陽のこと、ずっと気がかりだった」

 犀星は行手の玲家の屋敷、そして、その奥に見える切り立った崖と、古い石造りの砦へと目を向けた。

「……俺がいない間に、状況は悪化したようだな」

「だろうな」

 涼景は手綱を握り直した。

「玲陽は、玲芳の私生児だったんだろ? ただでさえ、玲家での立場は不安定だ。おまえが庇っていたから救われた部分も大きいと思うぞ」

「それでも、叔母上は陽を、守ってくれると……期待していた」

「自分の願望を人に期待するな」

 涼景は厳しく言った。

「自分が守りたいものがあるなら、自分の手で守るべきだ」

「涼景」

 犀星は物言いたげに涼景を見る。その目は、恨めしそうでもある。

「おまえ、俺を責めたいのか、励ましたいのか?」

「どっちでもない」

 涼景ははっきりと、

「ただ、いつものおまえでいて欲しいだけだ」

 犀星は形の良い眉をわずかに歪めて、行くてを見つめている。

「おまえが玲家を訪ねた時、叔母上の様子はどうだった?」

 犀星は、感情の読み取れない声で言った。

「うむ……普通じゃなかった、と言えるかもしれない」

「普通じゃない?」

「俺は初めて会っただけだから、正しくはわからないかもしれないが、とにかく、会話が噛み合わない」

「同じことを繰り返したと言ったな?」

「ああ。心ここにあらず……いや」

 涼景は眉間に皺をよせた。

「薬」

「?」

 犀星の目が、明らかな動揺に見開かれた。

「薬か毒か……何らかの方法で自我が失われていると考えた方がいい」

「毒……」

 犀星は眉をひそめた。

「もしかすると、叔父上が絡んでいるかもしれない」

「叔父上? ……玲格か?」

 涼景は玲家の構成を思い出した。玲格は玲芳の兄であり、現在は夫だった。

「父の話では、俺が都へ出たころから、叔父上の様子がおかしくなったという。もともと、叔母上には厳しかったが、それがひどくなったとすれば、十分に考えられる」

 涼景は怪訝そうに首を傾げた。犀星は、長く息を吐いた。

「現在の玲家の当主は叔母上だ。女系の家だから、叔父上が実権を握ることはない。しかし、もし、叔母上をあやつれるとしたら、話は別だ」

 少しずつ、犀星の言葉はしっかりと、声は強くなっていく。目の前の出来事に集中することが、彼の気力を蘇られせているかのようだ。

「もともと、俺が生まれた頃……おそらく、母上が亡くなったことが、叔父上の心に影を落としたのだと思う」

「お前の母を失い、双子の妹であった玲陽の母を妻にした……」

「ああ」

 犀星はこくん、と素直に頷いた。

「理解できない」

 涼景は触れたくない話題だ、というように顔を背けた。

「いくらなんでも、どうかしている」

「それが、玲家なんだ。そして、陽も犠牲になっていると考えるのが自然だ……」

「やってやろうじゃないか、星。俺は玲家に恨みはないが、おまえが死ぬほど惚れ込んでる玲陽、好き勝手にされるのも腹が立つ」

 涼景の中の、武人の血が騒ぐらしく、彼は自然と厳しく、そして活力に満ちたように目を輝かせた。そんな涼景を横目に、犀星は冷静だった。

「落ち着け、涼景」

 犀星が自然と呟いたその言葉に、涼景が目を丸くした。今朝までの半死人のようだった犀星は消え、すっかり、都で縦横無尽に策略を巡らす、涼景のよく知る歌仙親王の顔だ。

「あの砦は、一見、強固だ。高い塀と深い堀に囲まれ、唯一の入り口は門のみ。それも、昼夜問わず門番が立っていて、侵入も容易じゃない。だが、方法はある」

「どうするんだ?」

 涼景は、犀星の変化に浮き立つ胸を押さえながら、平生を装った。

「あそこは昔、牢獄だったんだ。本家に楯突いた者を閉じ込めたという……」

「ふむ」

「牢獄ってことは……あれがある」

「あれ?」

「脱獄のための通路」

「!」

「誰も知らないけれど」

「それはいい! ……って、どうしておまえが知っているんだよ?」

「子供の頃、遊んでいたときに、偶然見つけた」

 そう言って、犀星はにやり、と笑った。その不敵な笑みは、犀星が見せる数少ない感情の一つだ。そして、彼がこの顔をするとき、大抵のことは、彼の思うように進むことを、涼景は経験上、よく知っていた。

 しかし、犀星はすぐに、真顔に戻った。

「でも、気になる」

「何が?」

「陽も、抜け道のことは知っているはずだ。なのに、どうして……」

「忘れてるんじゃないのか? 子供の頃の話だろ?」

「忘れない。陽は、俺が話したことなら、絶対に忘れない」

 犀星の口調が少々ぶっきらぼうに聞こえたのは、照れたためかもしれない。

 やっぱりお前は、そうやって前だけを見ている方が似合っている。

 涼景は、少し前までの荒ぶった気持ちもすっかり消えて、満足そうに犀星を見つめた。

 道の先に、人の背をはるかに超える石壁に囲まれた古い砦が見えた。本家から徒歩で半刻ほどの場所にある、鬱蒼とした下草に覆われた場所に、昔と変わらない威圧感を持って、それは待ち構えていた。

 時代によっては、罪人を捕らえていた牢獄である。決して、良い環境ではない。

 犀星と玲陽がここで遊んでいた頃、ここは無人であり、好きに出入りすることができた。

 牢獄は朽ち果てて、誰かを閉じ込めるには意味をなさなかったが、奥の見張り役の詰所や、資料室はまだ、使われていた当時のまま、残されていたのを覚えている。

 砦の裏手は険しい崖になっており、そこから一筋、滝が流れ落ち、庭に池を作っているはずだ。池は堀と繋がっていたが、途中には格子がはまっていて、泳いでくぐり抜けることができなかったのを覚えている。水は堀を満たし、東側に掘られた側溝を通って、近くの川へと繋がっている。

 池の周りは、放置された野草が茂り、腐りかけた木戸と錆びた閂やらが散乱していた。

 砦に近づくにつれ、犀星は少しずつ記憶が蘇ってくるのを感じた。それと共に、玲陽への想いもさらに強くなる。

 堅牢な石壁だけは朽ちることなく、今でも外界と内部とを断絶していた。

 堀にかかった跳ね上げ式の橋の辺りに、数人の男が立っている。この時刻、橋は上げられており、堀を渡る手段はなかった。

「涼景」

 星は馬を降りると、手綱を涼景に託した。

「頼みがある」

「あいつら、引きつけておけばいいか?」

 犀星が言う前に、涼景はそう言って笑って見せた。犀星は、安心したように頷いた。

「中の安全が確認できたら、合図する。追ってこい」

「わかった」

 犀星は身を屈めると、草の中を静かに砦の石壁まで移動する。涼景は草が揺れる先を確かめた。ちょうど、石壁と岩肌が接するあたりで、その動きが止まり、それから、しん、と静まった。

「あのあたりが入り口だな。では、歌仙様の勅命、果たすとするか」

 涼景は門番の死角から出ると、悠然と近づいていった。


 子供の頃に通った通路は、幸い、そのままに残されていた。

 それは犀星にとって幸運であったが、同時に、別の懸念を起こさせた。

 どうして、陽は、これを使って逃げ出さないのか。

 涼景が言うように、本当に忘れてしまったとは考えられなかった。

 だとしたら、自分の意志で中に留まり続けているということになる。

 草をかき分け、息苦しい土の穴を這いずって、犀星は先へ進んだ。こういう時に、飾らない着物は役に立つ。昔から泥にまみれて野山を駆け回っていた犀星である。宮中育ちの親王とは訳が違う。

 真っ暗な土の中を手探りで進み、所々崩れて通りにくくなっている場所を、手で土を掘り返しながら切り開く。通路は途中から、岩の中を通る。脱獄を試みた囚人たちに、今は感謝すべきだと、犀星は思った。

 子供の頃は、随分と長い通路だったように感じたが、もう、すぐ先に出口の日の光が見え始めた。

 出口を見上げて、犀星は違和感を覚えた。

 隠されている?

 出口には地上から枯れ草が置かれ、通路の存在を隠しているようだ。今、通り抜けてきた道を思い出し、記憶と比べる。いくら童心であったとはいえ、明らかに距離が短い。しかも、犀星が顔を出した出口は、彼が覚えていた出口より、石壁に近い位置にある。

 これは、元の通路より手前に、出口を作り直した?

 もしかすると、この通路は、最近、使われたのかもしれない。

 犀星は周囲をうかがいながら、人気がないことを確かめ、地上に這い出た。

 あたりは、鬱蒼とした草が腰の高さまで生え、身を潜めるには十分である。

 注意深く周囲を見回すと、記憶と重なる風景が見つけられた。

 自分がいるのは、庭の隅らしい。

 涼景が門番と何やら言い争っている声が聞こえるが、それ以外に人の気配はない。犀星は体を起こして、改めて見渡した。

 庭の中を石畳が道しるべのように続いている。以前はなかったように思いながら、その細い道をゆっくりと奥へ進んだ。左手には、崩れた木造の残骸が放置され、右手には対照的に美しい水を湛えた池と、その周囲に花々が咲き乱れている。

 妙だ。

 犀星は記憶の中の景色と比較して、その変化に疑問を抱いた。

 明らかに、誰かが手入れをし、世話をしている形跡がある。まさか、あの門番たちがやったとは到底思われない。だとすれば、ここに住む誰かか、それとも、その世話をする者か。

 背後で、涼景が門番たちをからかう声が遠のいていく。

 犀星は一度立ち止まると、空に向けて、鳶の鳴き声を真似た合図の指笛を鳴らした。涼景が引き上げていくのを確認し、先へと進む。

 水の流れ落ちる音が大きくなっていく。

 石畳に沿っていくと、道は大きく右に曲がり、水量はそれほどないが、落差のある滝が見えた。

 犀星の記憶によれば、そこは、この砦の突き当たりである。左手に、十年前よりさらに朽ちた、木造の小屋がある。あれは見張り役の詰所であったか…… どこにも、人の気配はない。どうやら、心配していた警備は、門番だけのようである。

 やはり、変だ。

 犀星は怪しんだ。

 これほど手薄なら、その気になれば玲陽は容易く逃げ出せるはずだ。

 玲陽は犀星と共に犀遠から剣術を学んでいた。しかもその腕前は、犀星をしのぐものである。たとえ捕らえられ、武器を奪われたとしても、庭に転がっている木の枝一本でもあれば、強行突破することもできるはずだ。

 胸騒ぎがした。

 こうなると、ここにいるのはもう、玲陽ではない、と考える方が自然だ。

 犀星は頭の芯が、熱を帯びてくるように思われた。

 大きな期待感と、同時に不安。

 何に期待し、何を不安に思っているのか、犀星自身にもわからなかった。ただ、大きな変化を目前にして、彼の神経は極限まで昂り、集中力は否応なく感覚を過敏にしている。

 陽……

 祈る思いで、犀星はまた、滝を目指した。

 誰もいない。

 そう、思った時、自分が見ている風景の中に、突如、人の姿を見つけて、犀星は立ち止まった。

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 まるで一枚の絵のように、その人影は周囲の景色に溶け込み、動かない。

 高い崖の上から流れ落ちる一筋の滝。

 水量は多くないが、途切れることなく、水音を響かせている。

 その滝の下に、人が一人、こちらに背を向けて立っている。

 膝まで水に浸かりながら、落ちてくる滝の水を背中に受け、じっと、動かない。体には白い襦袢を身につけていたが、水に濡れて肌が透けている。全身に赤や紫のアザや傷跡が見える。まるで、拷問を受けた罪人のような姿である。

 犀星は、目を細めた。しばし忘れていた涙が、その目に浮かぶ。

 違う。

 犀星は震えた。

 水の中の人物は、華奢ではあるが、体つきは男だ。

 しかし、髪は、見たことのない金色をしている。玲陽の髪は、吸い込まれるような漆黒だった。

 陽ではない。

 涙が、流れた。

 滝の音のせいか、男は犀星には気づいていない。

 陽ではない。

 犀星は嗚咽を飲み込んだ。

 もう、立っていることさえ、不思議なほど、力が抜けた。

 何もかも、全ての希望が失せた。

 その時、一陣の風が庭を吹き抜け、花々を大きく揺らした。滝の水までが、ふわりと弧を描いて歪む。舞い上がった強い風に、犀星は思わず腕で目を覆った。

 しんとして、辺りに水音だけが戻ってくると、彼は再び目を開けた。

 途端に、体が凍りつく。

 ずっと自分を支配していた恐怖、不安が、一気に蘇ってくる。

 滝を背にして、男はこちらを見ていた。

 太陽の光が男の濡れた髪に弾けて、金色に輝く。驚きに見開かれたその目もまた、黄金色をたたえ、人間の目とは思われない光芒を放つ。

 異様な姿。

 常人とは思われぬその姿は、犀星の驚愕を招くに十分だった。

 だが、それ以上に彼を困惑させたのは、男の容貌だった。

 十年の時を経て、変わり果てたとはいえ、その面影を見まごうはずはない。

「……陽……なのか」

 震える声で、犀星は問いかけた。ささやきにも近い、かすかな声しか出せなかった。

 何かを言おうとして、男の唇が動いたが、声はなかった。声はなくとも、犀星には聞き取れた。

 はっきりと、自分の名を呼ぶ声が。

 犀星は無意識のうちに駆け出し、滝壺に近づくと、迷わず飛び込んだ。水に足を取られながらも、転げながら男に駆け寄り、そのままの勢いで彼の冷たく冷えた体を抱きしめる。すがりつく。

 悲鳴のような鳴き声が、犀星の喉をついた。

 抵抗もせず、されるがままに犀星に体を委ねたまま、玲陽は目を閉じた。

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