歌仙の地は、函の南東部に位置し、気候は一年を通して穏やかに移ろう。
北部にある函の都・紅蘭に比べれば温暖で、冬に雪が降ることもなく、過ごしやすい地域である。
それでも、秋の風は確実に冷たさを増し、あたりを縦横に走る河川の上を吹き抜けた。
犀家の大きな敷地には、母屋と東西に二軒の離れが南向きに建てられている。
犀星は子供の頃、昼間は母屋で過ごし、夜は西の離れで眠った。
親王として、特別なことは何一つない生活だった。
敷地内の畑を耕して作物を作り、近隣の山に入って狩をし、果実や山菜を集めた。川では領民の子供たちと一緒になって裸で泳ぎ、魚を釣っては大きさを競った。
母屋の北側にある庭では、犀遠から剣術を学び、日々の鍛錬を欠かさなかった。
じっと座って学問に打ち込むより、刀を手に駆け回っていることの方が好きな、活発な少年だった。
都に上がる前の犀星が今とはまるで別人であったことを、涼景や東雨が知るはずもない。
妙に大人びたところはあったが、好奇心が強く、愛情深い犀星を、屋敷の者達は皆、可愛がった。犀星も彼らによく懐き、一通りの家の仕事を覚えて、共に働くことを楽しんでいた。
政略や欺瞞、裏切りや欲望に満たされた宮中とは無縁の地で、彼は羽ばたく小さな猛禽のように自由に育てられた。
そんな輝くような日々の全てに、犀星の傍らには、玲陽がいた。
玲陽の母親である
何をするにも、二人はいつも一緒だった。
穏やかな気候と、厳しく優しく明るい父、親切で笑顔のたえない家人たち、そして玲陽という生涯の友に恵まれ、犀星の幸せな日々は過ぎていった。
十五歳の、宮中に上がる日まで、彼は確かにこの地で幸福の中に生きていたのだ。
そして今。
都での十年の時を経て、彼はここに戻ってきた。
その顔は、少年時代の面影を残しながらも、さらに磨かれて揺るがぬ美しさを宿している。
しかし、どれほど美しくとも、かつての溌剌とした正気はなく、凍りついたように感情は閉ざされ、動かない。犀星の心は深く冷たい水底に沈み、呼吸は絶たれ、感情の色は失われた。
何がそこまで彼を変えたのか、それを知る者は都にはいない。
昨夜を父の部屋で明かした犀星は、結局、一睡もせずに朝を迎えた。
まだ朝靄が立ち込める時刻、犀家の外門の前で犀星はじっと門の木肌にもたれ、硬く腕を組んで足元を見つめていた。
その表情は、父と再会する前と同様に硬くこわばり、青ざめている。
麻織の着物は着色もせず、知らぬ者が見れば親王とは思われぬ質素ないでたちである。
装飾より実用を取る犀星の気質は犀遠譲りで、都でもそれを変えることはなかった。
長い蒼髪は頭の後ろの高い位置でひとつに束ねただけで、細い銀の歩揺を刺したのみである。
宮中の儀式や謁見などで着飾る必要がある場合以外、彼の身なりは極めてつつましかった。
だが、腰に吊るす大ぶりの刀だけは、刀匠が魂を込めた一級品である。
犀星のそばには、犀家の馬丁と小間使いが一人、心配そうな顔を見合わせながら、様子をうかがっている。
さらにその奥の内門のあたりでは、犀遠が見送りに立っていることを、犀星も知っていた。
だが、犀星は何も言わない。無言で、ただ、足元を見つめ続けるだけである。
いつもなら、こんな沈黙を嫌っておしゃべりを始める東雨は、今朝はまだすっかり眠って居るらしい。
「あの、伯華様?」
初老の小間使いの女が、気遣わしげに犀星を呼んだ。犀星は視線だけ動かして、女を見た。
「お共をなさってきた、あの少年、お連れしなくても良いのですか?」
犀星は小さく顎を引いて頷いた。
「東雨は休ませてやって下さい。役に立ちますので、邪魔にはならないはずです」
と、徐々に靄の奥から人影が近づいてくるのに気づいて、犀星は大きく首を向けた。昨夜別れた、燕涼景である。
暁将軍とまで呼ばれるほど上り詰めた若き男は、その屈強な体躯を柔らかな墨染めで包んでいた。わざと緩めた胸元の合わせから、筋肉の浮く厚い胸板が覗く。堅苦しい宮中にありながら、犀星同様、格式に縛られることが嫌いな男である。
「星、少しは眠れたか?」
燕涼景は、枯れ草を踏み締めて犀星に近づいた。犀星はじっと涼景を見返すだけで、返事はしなかった。
「おいおい、寝ろと言ったのに……途中でぶっ倒れるなよ」
涼景は事実を悟ったらしく、肩をすくめた。
「東雨は?」
あたりに姿がないことに気づいて、涼景は尋ねた。
「こちらでお預かりいたしますので、ご安心下さい」
犀星に代わって、小間使いか答える。
「ああ、それがいい。何があるかわからないから、あいつを連れて行くのは不安だった」
涼景は小間使いに向けて頷くと、その向こう側に視線を向けた。
内門のあたりに、靄に隠れてぼんやり見えるのは、犀遠のようである。
「侶香様には、改めてご挨拶に伺うと、伝えてもらえるか?」
「かしこまりました」
小間使いは涼景に礼をして答えた。
馬丁が、二頭の馬を引いて、涼景たちの元へ連れてくる。
「仙水様。侶香様が、お二人に馬を用立てるように、と仰せです」
「助かる。俺たちの馬は、昨日、無理をさせすぎた。感謝申し上げると、お伝えしてくれ」
涼景は馬丁から手綱を受け取ると、一頭を犀星に示し、自分も馬上に上がる。
「星、行こう」
犀星は黙ったまま鞍上で手綱を握ると、涼景の後に続いた。
小間使いと馬丁は丁寧に頭を下げてふたりを見送った。
川の多いこの一帯は、霧がかかりやすい地形である。
太陽が昇るにつれて霧は晴れ、二人の前に視界が開けた。
犀家の屋敷から緩やかな下り坂が伸び、その先は平原へと続いている。
そこには、幾筋もの川が流れ、大地を縫うように曲線を描いて悠々と地平線まで続く。
その中に、犀家の領民たちの家が、数軒ずつ固まって点在しているのが見える。
収穫期を迎えた緑の畑、遅まきの予定で耕された黒々とした土がむき出しの畑、農業用の水路、いくつもの橋、水車、道端に置かれた荷車、刈り取った稲や粟の束、すでに働き始めた人影。
眼下に広がる里は、少年の日に、大切な人と駆けた記憶を鮮烈に呼び起こした。
犀星は下り坂をゆっくりと、景色の中へ歩んでいった。
この景色は、あの頃と変わらない。自分達だけが、すっかり変わってしまった。
疲労と不安とでぼんやりとにぶくなった頭で、犀星はそんなことを思った。
目を向ければ、日の出の茜色が残る空との境界は、まだうっすらと白く煙っている。
静かな朝である。
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込み上げてくる涙を、犀星は止めなかった。堪えることは徒労に終わると身に染みている。
自分でも情けないほどに、最近は涙が止まらない。
医者は心の病のせいだと言ったが、たとえそれが症状だとしても、質が悪い。
流れ落ちる涙はやけに熱く、それがさらに涙腺を緩めているように感じた。
涼景は何も言わない。
それだけが、犀星にとって救いである。
いつから、こんなになってしまったのか。
犀星は馬の背に揺られながら、曖昧な記憶を手探った。
半年ほど前、ある日、突然にそれは自覚された。
朝、目覚めた時に、まるで自分の体が泥にでもなったように重く、鈍重で動かすことができなかった。
寝床から起き上がれず、声を上げるのも億劫だった。犀星の起床が遅いのを心配した東雨が部屋に来て、様子がおかしい主人を見つけ、慌てて医者に知らせた。
何かがあったわけではない、と犀星は思う。
きっかけとなる出来事は思い当たらず、前日も普段通りに政務にあたり、東雨を相手に刀を振り、家の仕事をこなして、疲れて眠っただけのことだ。
だが、その日を境に、犀星はすっかり勝手が変わってしまった。
何をしても、心が浮き立たない。
今まで好んで眺めた、庭の花もくすんでしまった。人々の賑わう市場を歩いても、見えないものにすくんで、足が止まってしまう。単純な文章の転写でさえ、思わぬ間違いをしたり、筆の線が乱れて仕事にならなかった。食が細り、何を口にしても味がしない。やがて、夜は眠れなくなり、昼間は常に眠っているように集中力がなくなった。
そして、いつも、気づけば泣くようになっていた。
自分の周囲の世界がどんどん遠ざかっていくように思いながら、最後に一つだけ、残った記憶。それは、ずっと胸に抱き続けてきた、玲陽への思慕だけである。
十年前、止むに止まれぬ事情で引き離された人は、今、どうしているのか。
いつ、命が切れても構わないと、犀星は思う。だが、叶うなら、玲陽に会いたかった。せめて一眼会い、約束を果たしたいと願った。
何もかもが価値を失くした世界で、犀星に残されたものは、そのひとつきりである。
玲陽を求めて、玲家へ向かう道は、確実に目の前のこの道に違いない。
玲家はここから馬を走らせて半刻ほどの距離である。
時は早朝、この時刻に玲家を訪ねたとて、門前払いを食らうことは目に見えていた。急いだところで、結果は得られない。
それでも、犀星が望むのであれば、涼景としては早めに到着する腹積もりでいたのだが、犀星はゆっくりした馬の歩調に逆らわず、急かそうとはしない。
不安、か。
涼景は、犀星の横顔を見つめながら、その胸中を察して黙っていた。
犀星が決して弱くはないことを、彼はこの十年間でよく知っている。
苦しいときには、いつも一人で静かに涙し、そして、それを自力で乗り越えてくるしなやかさを持ち合わせている。
派手さも豪快さも見せないが、共にいると安心感をもたらす犀星の魅力を、涼景は熟知している。
このまま潰してしまうのは、あまりに惜しい。
涼景だけではなく、宮中の多くの者たちが、歌仙親王の回復を祈った。
函は今、皇帝・
凡庸な宝順を支えるには、非凡な犀星の力が欠かせなかった。
優秀な家臣たちは多くいたが、皇家に連なる犀星の存在は、また、特別である。
一時はそれ故に、謀反の疑いをかけられたこともあったが、それも犀星自身の才知で切り抜けた。
今は、宝順自身も、犀星の手腕を高く買って、多くのことを任せるようになっていた。
宮中の利を優先する宝順に対し、犀星は己の得とならずとも、民心を第一に考える政治家だった。当然、都の民の心は宝順よりも犀星に傾く。しかし、犀星は兄を立てることを忘れなかった。自分が目立てば、それにより間違いなく反感を買うことを、彼は心得ていた。
出会って間もないころ、涼景はそんな犀星の清貧な姿勢がもの珍しく、興味をそそられた。だが、しだいに、犀星が求める『富』が、金や地位、名声とは違うところにあり、決して無欲なわけではないことを知ると、好奇が信頼へ、そして尊敬にも似た思いへと変わっていった。
犀星はこの国に必要だ、と、今の涼景は信じている。
それゆえに、こうして無茶な歌仙訪問にも応じたのだ。
あたりの朝靄はすっかり消え、あちこちから人の声も聞かれるようになってきた。
涼景は犀星の涙が途切れたのを確認してから、静かに声をかけた。
「しかし、玲家ってのは特殊だな。お前に頼まれて半月前に訪ねたが、俺が名乗っても決して門を開けなかった。お前の名前を出して、ようやく当主の玲芳が許可を出してくれたが」
犀星は流れるような動きで、隣の涼景の顔を見た。が、またすぐに前方の地面に視線を向ける。
涼景はそんな犀星の様子を、落ち着いた表情で眺めた。
「屋敷に上げてもらえても、結局、玲陽には会えなかったがな」
「…………」
「玲陽はここにはいない、の一点張りだ。どこにいるのか聞いても、居場所は言えない、で通された。それ以外の言葉を知らないんじゃないかっていう頑固さだ」
「…………」
「家探しする、って脅してみたが、全く動じてなかったな。あれは、本当に屋敷にはいない反応だと思う」
「…………」
「侶香様の話では、玲家の邸宅裏の砦にいるというが……」
「砦……」
「中に入るにはたった一つの門を通るしかない。門には常に門番が武器を構えている。中によほど重要な『何か』がなければ、あんな場所で武器を持つ必要はないだろう」
「陽……」
「ああ。試しに乗り込む価値はある」
犀星は、行く手の川を見て、わずかに目を細めた。
川幅があり、水量も豊かである。
川の水は西側にそびえる
同時に、この川は犀家と玲家との境界でもある。この川から北が玲家、南が犀家の領地だ。
玲一族は、今の王朝が建設されるはるか前から、一帯を牛耳っていた旧家である。肥沃な土地が多く、農業を中心として、地域の食糧庫という役割を担っていた。この歌仙地方の有力豪族として、今なお、都にもその存在は伝えられている。
玲一族が、今の朝廷においてもその権勢を保っている要因の一つには、家にまつわる言われがあった。
玲家の女児には、代々、不思議な力が宿り、魔を滅するという。そのため、男児よりも女児を重んじる、他家にはない慣習が根付いていた。それは同時に、彼女たちにとって幸運でもあり、不幸の種ともなり得た。
犀星の母、玲心は、この家の出である。
玲心は玲家の直系であり、次期当主と目されていた人物だった。玲家の女児が特別な力を持つと言っても、それは必ずしも目に見えるものとは限らない。玲心も、特に際立った力があったわけではない。むしろ、双子の妹である玲芳にこそ、時折、奇妙なことが起きることが多かった。
玲家の長老たちは、玲心を当主に立てた。これは事実上、玲心が玲家の後継を産むためだけに、生涯、屋敷の中でのみ生きることを意味していた。
この決定が下されたとき、玲心は密かに心を寄せていた幼馴染の犀遠を頼って、都へと逃れた。
気の強い玲心にとって、飼い殺される暮らしなど、受け入れられるものではなかった。
玲家は手を尽くして玲心を追ったが、当時の幕環将軍であった犀遠の妻となっては、容易に手出しができなかった。
玲家の手を逃れたかと思われたころ、玲心は新たな思惑に晒されることとなる。時の皇帝・蕭白は、玲家の血を求めて、犀遠から玲心を引き離し、自分の妻としてしまった。
犀遠は投獄され、全てを奪われた。
そんな犀遠を案じて、蕭白帝に解放を願い出たのが、皇子であった宝順だった。
幼い宝順は、犀遠が二度と都に近づかないことを条件に、歌仙に戻り、領地を継ぐことを蕭白に取り付けた。
一方、後宮で過ごすこととなった玲心は、狂気に取り憑かれた。それが、夫と裂かれたことによる絶望だったのか、玲家が施した呪いであったのか、今も真相は知れない。確かなことは、玲心が狂ったままに犀星を産み落としたという事実だけである。
「……星?」
思うでもなく、ぼんやりとしていた犀星を、涼景の声が引き戻した。
「しっかりしてくれ」
涼景はさりげなく励ますように、声をかけた。
「おまえが頼りなんだぞ。俺は玲陽の姿を知らないんだし、玲家はあの調子で部外者には冷たいし」
「……俺も部外者だ」
犀星は小さく答えた。
「俺の母上は、玲家に逆らった。だから、俺は子供の頃から、彼らには嫌われているし、本家に上がったこともない」
「だが、事実上、おまえは玲家の嫡男だろ?」
「今は、陽が後継者だ」
「まぁ、玲芳が跡目を継いだから、そうなるが。それでも、血は変えられない」
「ああ、変わらない。俺は、玲家が恨む先帝の血だから」
「自分達の力が、皇家に吸収されることは、あいつらも面白くないもんな」
「玲家は特殊だ。朝廷も国も、ましてや皇帝も、自分達とは関係ない。彼らは、遠い昔から、もっと、重たくて暗い掟のもとで生きている」
犀星の声は小さかったが、涼景の耳によく響いた。
「閉鎖的、か……」
自分が発した言葉に、一瞬、涼景ははっとさせられた。
閉ざされた場所で長く過ごすことは、知らず知らずのうちに精神を狂わせることがある。
彼の、妹のように。
玲家も、同じなのかもしれない。
何百年もの間、この歌仙の地に君臨しながら、それ以上勢力を広げることもなく、ただただ、安定のみを求め、血縁を優先する。
玲家の城下町に暮らすものも、ほとんどが玲家の分家の者たちである。
そうやって、一族が身を寄せて、この土地はなりたっている。さしずめ、血で固められた小さな国家のようでさえある。
眉を寄せて黙り込んだ涼景を、犀星がちらりと盗み見た。
自分のせいで、このような面倒ごとに巻き込んでしまったという申し訳なさが、余裕がなかった犀星に、涼景を気遣う心を思い出させた。
「涼景」
「……うん?」
「春は元気だったのか?」
サッと涼景の背中が冷たくなる。
犀星としては、重たい話題を打ち切るための配慮だったのだろうが、今の涼景には、最も聞きたいくない名であった。
「別に、普段通りだ」
自分の言葉が気遣いとして役に立たなかったことは、厳しい涼景の表情を見れば、犀星にも察せられた。
「すまない。余計なことを言った」
「……いや」
涼景は首を振った。
自分の歪んだ恋を、犀星にはかつて、吐露したことがある。
俺が今、こいつに気を遣わせてどうするんだ。
涼景は、ぐらついていた気持ちを引き締めた。
「それより、星。覚悟、できたのか?」
「覚悟?」
涼景は次第と近づいてくる玲家の屋敷を見た。
犀家の数倍の敷地を持ち、常に手入れが行き届いた様子である。建物は楼閣を備え、常に五〇名以上の家人が常駐する。屋敷の向こう側には城下町のような賑わいがある地域が広がり、まさに、玲家が歌仙の主人であることを物語っている。
「玲陽に会う、覚悟、だ」
涼景は犀星を見た。
「……ああ」
ため息のように漏らすと、犀星は目をあげずに、
「涼景、約束、覚えているか?」
「十年前、必ず迎えに来ると、お前が玲陽に言ったことか?」
「そうじゃない」
犀星は、深呼吸をして、まっすぐに涼景を見た。
「もしもの時は、俺を切り捨てる約束、反故にするなよ」
「ああ、そっちか」
涼景は気まずそうに口元を押さえ、それからかすかに笑って、
「わかっている。おまえが玲陽に振られてぶっ壊れた時には、山賊の中に丸腰で放り込んで、眺めていてやるよ」
「自ら手は汚さないつもりか」
フッと小さな息が犀星の唇を歪める。
「当然か。俺の血は、随分と汚れているからな」
「星! それを言うな」
涼景は力を込めて拳を握った。
「とにかく、玲陽に会え。全てはそれからだ」
「いや……」
「?」
「それで、終わりだ」
「……っ!」
互いに馬上でさえなければ、涼景は犀星の胸ぐらでも掴んでいたに違いなかった。
涼景の知る犀星は、決して諦めることのない男だった。周囲に突きつけられた無理難題も、知恵と自由なひらめき、大胆な行動力で見事にやり遂げてきた。その胸がすくような活躍に、涼景は我がことのように誇らしい気持ちになったものだ。
今、目の前にいる気弱な犀星など、見たくもない。
涼景は正直に顔を背けた。
こちらが気を遣っているってのに、どこまで甘ったれてんだ。
期待があり、憧れがあるからこそ、彼には、今の犀星は到底受け入れられない。
「しっかりしろ。この時のために、お前は十年間、地獄の宮中で生き抜いてきたんだろ」
意地が悪いと思いながら、涼景は吐き捨てた。
「今のお前を見たら、玲陽はがっかりするだろうな」
「…………」
「星、俺は昔のお前たちを知らない。それでも、お前がどんな思いで都での十年を過ごしてきたか、俺なりに見てきたつもりだ。間違いなく、歌仙親王は誇れる人間だ。玲陽にとっても、自慢の兄だ。下を向くな、胸を張れ」
涼景はつとめて感情を殺したが、それを聞く犀星には、涼景の怒りも苛立ちも、そして自分に向けられる熱い友情も、しっかりと伝わっていた。
濁っていた思考や、不安に溺れていた感情が、少しずつ正気を取り戻していく気がした。
「俺は、十年前」
犀星は、自分に言い聞かせるように言葉を選んだ。
「都に召し上げられる時、あいつをここに置き去りにしてしまった。あの時は、そうするしかなかった。俺は都ではあまりに無力で、あいつを守ることなんて叶わない。父上でさえ、母上を守れなかった。ましてや、十五の何も知らない俺に、陽を守り抜く力はなかった」
涼景は振り返って聞いていたが、あえて何も言わなかった。
周囲を流れる川の音だけは止むことなく、二人を包み込む。それは、引き返すことのない川の水と同じように、取り戻すことのできない過ぎ去った時間の音にも聞こえた。
「連れて行きたかった」
犀星が、独り言のようにつぶやいた。
「だが……」
「お前は正しかった。それは、お前が都で経験したことを考えれば、わかるはずだ。もし、共に都へ行っていたら、玲陽は間違いなく生きてはいなかっただろう。お前も、今のお前ではななかったはずだ」
「ああ」
「少なくとも、お前は考えた末に決断したんだ。自分を責めるな。それより、償え」
「償う?」
「そうだ。この十年、あいつを一人にしたことを自分の罪だと思うなら、これから償えばいい。今のお前には、その力がある。もう、ここを旅立った十五歳の子どもじゃない。そのために、お前はここへ来たのだろう?」
犀星は恐る恐る、親友の顔を見上げた。
「わかっている。迎えにくると、約束した。それを果たす」
「難しく考えるな。それでいいんだ」
「ああ」
犀星は、少し落ち着いたのか、僅かに目を閉じて口元を緩めた。
その表情に、涼景の昂る気持ちもおさまっていく。
やっぱり、星だ。
涼景は素直に、犀星の心が蘇ることを嬉しく思う。
涼景は玲陽を知らない。
詳しい話を犀星から聞いたことはなかった。
犀星は慎重で、自分と玲陽の関係については、ほとんど何も語らなかった。それは、近しい涼景や東雨に対しても同じであった。
親王であり、有能であり、人心を集める犀星にとって、敵となる人物も多い。
玲陽との深い心のつながりを知られることは、そのまま、自分の弱点を曝け出すことにもなる。
そして、玲陽を宮中の闇に巻き込むことへとつながってしまう。
その懸念から、犀星は沈黙を続けていた。
「陽のこと、ずっと気がかりだった」
犀星は行手の玲家の屋敷、そして、その奥に見える切り立った崖と、古い石造りの砦へと目を向けた。
「……俺がいない間に、状況は悪化したようだな」
「だろうな」
涼景は手綱を握り直した。
「玲陽は、玲芳の私生児だったんだろ? ただでさえ、玲家での立場は不安定だ。おまえが庇っていたから救われた部分も大きいと思うぞ」
「それでも、叔母上は陽を、守ってくれると……期待していた」
「自分の願望を人に期待するな」
涼景は厳しく言った。
「自分が守りたいものがあるなら、自分の手で守るべきだ」
「涼景」
犀星は物言いたげに涼景を見る。その目は、恨めしそうでもある。
「おまえ、俺を責めたいのか、励ましたいのか?」
「どっちでもない」
涼景ははっきりと、
「ただ、いつものおまえでいて欲しいだけだ」
犀星は形の良い眉をわずかに歪めて、行くてを見つめている。
「おまえが玲家を訪ねた時、叔母上の様子はどうだった?」
犀星は、感情の読み取れない声で言った。
「うむ……普通じゃなかった、と言えるかもしれない」
「普通じゃない?」
「俺は初めて会っただけだから、正しくはわからないかもしれないが、とにかく、会話が噛み合わない」
「同じことを繰り返したと言ったな?」
「ああ。心ここにあらず……いや」
涼景は眉間に皺をよせた。
「薬」
「?」
犀星の目が、明らかな動揺に見開かれた。
「薬か毒か……何らかの方法で自我が失われていると考えた方がいい」
「毒……」
犀星は眉をひそめた。
「もしかすると、叔父上が絡んでいるかもしれない」
「叔父上? ……玲格か?」
涼景は玲家の構成を思い出した。玲格は玲芳の兄であり、現在は夫だった。
「父の話では、俺が都へ出たころから、叔父上の様子がおかしくなったという。もともと、叔母上には厳しかったが、それがひどくなったとすれば、十分に考えられる」
涼景は怪訝そうに首を傾げた。犀星は、長く息を吐いた。
「現在の玲家の当主は叔母上だ。女系の家だから、叔父上が実権を握ることはない。しかし、もし、叔母上をあやつれるとしたら、話は別だ」
少しずつ、犀星の言葉はしっかりと、声は強くなっていく。目の前の出来事に集中することが、彼の気力を蘇られせているかのようだ。
「もともと、俺が生まれた頃……おそらく、母上が亡くなったことが、叔父上の心に影を落としたのだと思う」
「お前の母を失い、双子の妹であった玲陽の母を妻にした……」
「ああ」
犀星はこくん、と素直に頷いた。
「理解できない」
涼景は触れたくない話題だ、というように顔を背けた。
「いくらなんでも、どうかしている」
「それが、玲家なんだ。そして、陽も犠牲になっていると考えるのが自然だ……」
「やってやろうじゃないか、星。俺は玲家に恨みはないが、おまえが死ぬほど惚れ込んでる玲陽、好き勝手にされるのも腹が立つ」
涼景の中の、武人の血が騒ぐらしく、彼は自然と厳しく、そして活力に満ちたように目を輝かせた。そんな涼景を横目に、犀星は冷静だった。
「落ち着け、涼景」
犀星が自然と呟いたその言葉に、涼景が目を丸くした。今朝までの半死人のようだった犀星は消え、すっかり、都で縦横無尽に策略を巡らす、涼景のよく知る歌仙親王の顔だ。
「あの砦は、一見、強固だ。高い塀と深い堀に囲まれ、唯一の入り口は門のみ。それも、昼夜問わず門番が立っていて、侵入も容易じゃない。だが、方法はある」
「どうするんだ?」
涼景は、犀星の変化に浮き立つ胸を押さえながら、平生を装った。
「あそこは昔、牢獄だったんだ。本家に楯突いた者を閉じ込めたという……」
「ふむ」
「牢獄ってことは……あれがある」
「あれ?」
「脱獄のための通路」
「!」
「誰も知らないけれど」
「それはいい! ……って、どうしておまえが知っているんだよ?」
「子供の頃、遊んでいたときに、偶然見つけた」
そう言って、犀星はにやり、と笑った。その不敵な笑みは、犀星が見せる数少ない感情の一つだ。そして、彼がこの顔をするとき、大抵のことは、彼の思うように進むことを、涼景は経験上、よく知っていた。
しかし、犀星はすぐに、真顔に戻った。
「でも、気になる」
「何が?」
「陽も、抜け道のことは知っているはずだ。なのに、どうして……」
「忘れてるんじゃないのか? 子供の頃の話だろ?」
「忘れない。陽は、俺が話したことなら、絶対に忘れない」
犀星の口調が少々ぶっきらぼうに聞こえたのは、照れたためかもしれない。
やっぱりお前は、そうやって前だけを見ている方が似合っている。
涼景は、少し前までの荒ぶった気持ちもすっかり消えて、満足そうに犀星を見つめた。
道の先に、人の背をはるかに超える石壁に囲まれた古い砦が見えた。本家から徒歩で半刻ほどの場所にある、鬱蒼とした下草に覆われた場所に、昔と変わらない威圧感を持って、それは待ち構えていた。
時代によっては、罪人を捕らえていた牢獄である。決して、良い環境ではない。
犀星と玲陽がここで遊んでいた頃、ここは無人であり、好きに出入りすることができた。
牢獄は朽ち果てて、誰かを閉じ込めるには意味をなさなかったが、奥の見張り役の詰所や、資料室はまだ、使われていた当時のまま、残されていたのを覚えている。
砦の裏手は険しい崖になっており、そこから一筋、滝が流れ落ち、庭に池を作っているはずだ。池は堀と繋がっていたが、途中には格子がはまっていて、泳いでくぐり抜けることができなかったのを覚えている。水は堀を満たし、東側に掘られた側溝を通って、近くの川へと繋がっている。
池の周りは、放置された野草が茂り、腐りかけた木戸と錆びた閂やらが散乱していた。
砦に近づくにつれ、犀星は少しずつ記憶が蘇ってくるのを感じた。それと共に、玲陽への想いもさらに強くなる。
堅牢な石壁だけは朽ちることなく、今でも外界と内部とを断絶していた。
堀にかかった跳ね上げ式の橋の辺りに、数人の男が立っている。この時刻、橋は上げられており、堀を渡る手段はなかった。
「涼景」
星は馬を降りると、手綱を涼景に託した。
「頼みがある」
「あいつら、引きつけておけばいいか?」
犀星が言う前に、涼景はそう言って笑って見せた。犀星は、安心したように頷いた。
「中の安全が確認できたら、合図する。追ってこい」
「わかった」
犀星は身を屈めると、草の中を静かに砦の石壁まで移動する。涼景は草が揺れる先を確かめた。ちょうど、石壁と岩肌が接するあたりで、その動きが止まり、それから、しん、と静まった。
「あのあたりが入り口だな。では、歌仙様の勅命、果たすとするか」
涼景は門番の死角から出ると、悠然と近づいていった。
子供の頃に通った通路は、幸い、そのままに残されていた。
それは犀星にとって幸運であったが、同時に、別の懸念を起こさせた。
どうして、陽は、これを使って逃げ出さないのか。
涼景が言うように、本当に忘れてしまったとは考えられなかった。
だとしたら、自分の意志で中に留まり続けているということになる。
草をかき分け、息苦しい土の穴を這いずって、犀星は先へ進んだ。こういう時に、飾らない着物は役に立つ。昔から泥にまみれて野山を駆け回っていた犀星である。宮中育ちの親王とは訳が違う。
真っ暗な土の中を手探りで進み、所々崩れて通りにくくなっている場所を、手で土を掘り返しながら切り開く。通路は途中から、岩の中を通る。脱獄を試みた囚人たちに、今は感謝すべきだと、犀星は思った。
子供の頃は、随分と長い通路だったように感じたが、もう、すぐ先に出口の日の光が見え始めた。
出口を見上げて、犀星は違和感を覚えた。
隠されている?
出口には地上から枯れ草が置かれ、通路の存在を隠しているようだ。今、通り抜けてきた道を思い出し、記憶と比べる。いくら童心であったとはいえ、明らかに距離が短い。しかも、犀星が顔を出した出口は、彼が覚えていた出口より、石壁に近い位置にある。
これは、元の通路より手前に、出口を作り直した?
もしかすると、この通路は、最近、使われたのかもしれない。
犀星は周囲をうかがいながら、人気がないことを確かめ、地上に這い出た。
あたりは、鬱蒼とした草が腰の高さまで生え、身を潜めるには十分である。
注意深く周囲を見回すと、記憶と重なる風景が見つけられた。
自分がいるのは、庭の隅らしい。
涼景が門番と何やら言い争っている声が聞こえるが、それ以外に人の気配はない。犀星は体を起こして、改めて見渡した。
庭の中を石畳が道しるべのように続いている。以前はなかったように思いながら、その細い道をゆっくりと奥へ進んだ。左手には、崩れた木造の残骸が放置され、右手には対照的に美しい水を湛えた池と、その周囲に花々が咲き乱れている。
妙だ。
犀星は記憶の中の景色と比較して、その変化に疑問を抱いた。
明らかに、誰かが手入れをし、世話をしている形跡がある。まさか、あの門番たちがやったとは到底思われない。だとすれば、ここに住む誰かか、それとも、その世話をする者か。
背後で、涼景が門番たちをからかう声が遠のいていく。
犀星は一度立ち止まると、空に向けて、鳶の鳴き声を真似た合図の指笛を鳴らした。涼景が引き上げていくのを確認し、先へと進む。
水の流れ落ちる音が大きくなっていく。
石畳に沿っていくと、道は大きく右に曲がり、水量はそれほどないが、落差のある滝が見えた。
犀星の記憶によれば、そこは、この砦の突き当たりである。左手に、十年前よりさらに朽ちた、木造の小屋がある。あれは見張り役の詰所であったか…… どこにも、人の気配はない。どうやら、心配していた警備は、門番だけのようである。
やはり、変だ。
犀星は怪しんだ。
これほど手薄なら、その気になれば玲陽は容易く逃げ出せるはずだ。
玲陽は犀星と共に犀遠から剣術を学んでいた。しかもその腕前は、犀星をしのぐものである。たとえ捕らえられ、武器を奪われたとしても、庭に転がっている木の枝一本でもあれば、強行突破することもできるはずだ。
胸騒ぎがした。
こうなると、ここにいるのはもう、玲陽ではない、と考える方が自然だ。
犀星は頭の芯が、熱を帯びてくるように思われた。
大きな期待感と、同時に不安。
何に期待し、何を不安に思っているのか、犀星自身にもわからなかった。ただ、大きな変化を目前にして、彼の神経は極限まで昂り、集中力は否応なく感覚を過敏にしている。
陽……
祈る思いで、犀星はまた、滝を目指した。
誰もいない。
そう、思った時、自分が見ている風景の中に、突如、人の姿を見つけて、犀星は立ち止まった。
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まるで一枚の絵のように、その人影は周囲の景色に溶け込み、動かない。
高い崖の上から流れ落ちる一筋の滝。
水量は多くないが、途切れることなく、水音を響かせている。
その滝の下に、人が一人、こちらに背を向けて立っている。
膝まで水に浸かりながら、落ちてくる滝の水を背中に受け、じっと、動かない。体には白い襦袢を身につけていたが、水に濡れて肌が透けている。全身に赤や紫のアザや傷跡が見える。まるで、拷問を受けた罪人のような姿である。
犀星は、目を細めた。しばし忘れていた涙が、その目に浮かぶ。
違う。
犀星は震えた。
水の中の人物は、華奢ではあるが、体つきは男だ。
しかし、髪は、見たことのない金色をしている。玲陽の髪は、吸い込まれるような漆黒だった。
陽ではない。
涙が、流れた。
滝の音のせいか、男は犀星には気づいていない。
陽ではない。
犀星は嗚咽を飲み込んだ。
もう、立っていることさえ、不思議なほど、力が抜けた。
何もかも、全ての希望が失せた。
その時、一陣の風が庭を吹き抜け、花々を大きく揺らした。滝の水までが、ふわりと弧を描いて歪む。舞い上がった強い風に、犀星は思わず腕で目を覆った。
しんとして、辺りに水音だけが戻ってくると、彼は再び目を開けた。
途端に、体が凍りつく。
ずっと自分を支配していた恐怖、不安が、一気に蘇ってくる。
滝を背にして、男はこちらを見ていた。
太陽の光が男の濡れた髪に弾けて、金色に輝く。驚きに見開かれたその目もまた、黄金色をたたえ、人間の目とは思われない光芒を放つ。
異様な姿。
常人とは思われぬその姿は、犀星の驚愕を招くに十分だった。
だが、それ以上に彼を困惑させたのは、男の容貌だった。
十年の時を経て、変わり果てたとはいえ、その面影を見まごうはずはない。
「……陽……なのか」
震える声で、犀星は問いかけた。ささやきにも近い、かすかな声しか出せなかった。
何かを言おうとして、男の唇が動いたが、声はなかった。声はなくとも、犀星には聞き取れた。
はっきりと、自分の名を呼ぶ声が。
犀星は無意識のうちに駆け出し、滝壺に近づくと、迷わず飛び込んだ。水に足を取られながらも、転げながら男に駆け寄り、そのままの勢いで彼の冷たく冷えた体を抱きしめる。すがりつく。
悲鳴のような鳴き声が、犀星の喉をついた。
抵抗もせず、されるがままに犀星に体を委ねたまま、玲陽は目を閉じた。