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3 命あれども心なきが如く

 犀星の腕の中で、いつしか玲陽の意識は薄れ、その体からは一気に力が抜けていく。

「!」

 咄嗟に、しなやかな腕を絡めて支えながら、犀星はゆっくりと水の中に膝をつき、玲陽が倒れないように慎重に座らせた。ゆらめく水にとけるかのような、淡い玲陽の肌に目を奪われる。

 ぐったりと力の抜けた玲陽の体は、あまりにも無防備だった。これほど弱りきった彼を、犀星は知らない。

 肩を揺すったが、目をさます気配はなかった。

 滝の音だけが、耳元でやたらと響いている。そのしぶきを頬に受けて、犀星は我に返った。

 このまま、玲陽を水に浸しておいては、体が冷えて危険である。体温の低下がどれほど体を痛めることか。

 水に足を取られないよう注意しながら、玲陽を抱き上げ、犀星は慎重に池から上がった。

 玲陽の身体は、信じられないほどに軽く、骨ばかりが目立っている。以前、仕事で地方の飢饉の村を訪ねた時のことが思い出された。痩せ衰え、苦しんだ末に息絶えた人々を目にした。もし、自分がここに来るのがあと半年遅れていたら、玲陽の命も危うかったかもしれない。

 食べられていないのか。

 確かに、庭を調べても、食用となる植物は見られなかった。外部から食事を運んでこない限り、自給自足は難しい様子である。

 玲陽のため、玲芳が何もしていないとは思いたくないが、決して良い環境に置かれていなかったのは確かだった。

 今は、一刻も早く、玲陽を温めてやりたい。

 温暖な歌仙とはいえ、風はもう冷たくなり、日中の気温も温まるほどは上がらない。このままにしておけば、一気に体力を失い、動けなくなってしまう。

 本当はすぐにでも砦を出たかったが、あの通路を玲陽を抱えたまま通るのは無理だった。どうにか、彼が歩けるようになるまで、休ませたい。

 着替えはどこだ?

 犀星は足元を調べた。注意深く見ると、滝から、近くの小屋までの間だけ、地面の色が変わっている。何度も人が通り、踏み固めた印だ。

 犀星は玲陽を抱いて、朽ちかけた小屋に向かった。一部屋だけの、箱のような質素な小屋は、年月に任せて放置されている。

 だが、ここで長い間を過ごしているのだとしたら、それなりに身の回りのものが整っているはずである。乾いた着替えも、体を拭く手拭いも、暖かな寝床も必要だ。

 扉はとうに崩れてなくなり、壁に空いた穴から出入りしていたらしい。小屋の中を見て、犀星はため息が出た。

 何という酷い有様なのか。

 犀星の目に映る、果たして部屋と呼べるかもわからぬ空間。

 軋んで傾いたしょうには、ボロボロに破れたじょくが丁寧に畳んで置かれている。

 壁には、薄い着物と襦袢がかけられている。丁寧にほつれを修繕した跡があるが、どちらも短かすぎて、玲陽の膝丈しかない。壁の棚に置かれた櫛も、何本も歯が折れ、結い上げるための髪紐すら擦り切れて、数本を束ねて使っているようだ。中には、植物の蔓を乾燥させて補強したものもある。

 履き物は体に合わず、壁際にきちんと並べてあった。素足でいることが多いようだ。

 唯一、使えそうなものといえば、部屋の隅の床に置かれた、小さな文机と、硯に墨、小筆だけである。

 こんな場所に、閉じ込められていたのか?

 犀星は体を伝い落ちる水もそのままに、立ち尽くした。

 呆然として、腕の中の玲陽を見る。

 この大切な人を寝かせる場所すら、犀星には思いつかなかった。こんなところにその体を降ろさなければならないなら、ずっと抱いていた方が、どれだけ良いか。自然と玲陽を強く抱き寄せる。

 他にまともな場所はないのか?

 犀星が小屋を出ようと振り返った時、涼景が外から、こちらを覗き込んだ。

「ここにいたか」

「…………」

「大丈夫だ、追手はない」

 そう言って、涼景はまじまじと、犀星が抱く男を見下ろした。

「こいつが?」

「……ああ。陽だ」

「こんな容姿だったとは、聞いていないが」

「間違いない」

 犀星が複雑な表情を浮かべる。再会を喜ぶ気持ちはあるものの、それ以上に、玲陽の変貌ぶりに絶句することしかできなかった。

「おまえたち、ずぶ濡れじゃないか」

「陽が滝に入っていたから……」

「だからって、おまえまで……」

 と、言いかけて、涼景は黙った。今の犀星に何を言ったところで、話は先に進まないだろう。

「それにしても」

 と、涼景は部屋を眺めた。

「酷ぇな」

 足元の木片を蹴り飛ばして、涼景が唸った。

「都の死刑囚牢だって、ここまでじゃない」

「他に、部屋は?」

「建物の状態から見て、ここが一番、まともな部屋だろうな。穴は空いているが、辛うじて雨風は……」

 と、天井を見れば、明らかに雨漏りの跡が真っ黒いしみとなって残っていた。

「外よりはマシか」

 仕方なく、涼景は付け足した。

「とにかく、玲陽を連れ出さないと」

「その前に、濡れた体を温めてやりたい」

 犀星が、どうしたらいい? と涼景を見上げる。

 涼景は、あらためて部屋を見回した。

「待ってろ」

 涼景は傾いた寝台を調べた。折れて欠けた足に、壁際にあった古い履物を噛ませて、高さを合わせる。寝台のささくれだった硬い木の板の上に褥を広げたが、薄すぎるため、ありったけを重ねた。褥は古く擦り切れていたが、丁寧に洗ってあると見えて、使うことはできそうだ。

 そういえば、と、涼景は改めて見回した。

 確かにこの部屋のものはどれも古く傷んではいたが、清潔に保たれているようである。また、着物の折り目ひとつみても、丁寧で整頓されている。

 玲陽がやっていたのか?

 涼景はちらりと、犀星の腕の中を振り返った。

 涼景は玲陽を知らない。

 歌仙で暮らしていたことがあるが、その頃は涼景も玲陽や犀星も、まだ幼子であった。記憶はない。

 このような環境に置かれていながら、身の回りを几帳面に整えていたとしたら、それは思うよりも強い精神力を有する。

 犀星の腕に抱かれて眠る玲陽は弱りきっていて、とてもそのような強さを持ち合わせているとは思われなかった。だが、犀星がここまで心酔するのには、確かな訳があるはずだ。

 早く、話してみたい。

 涼景は、途端に玲陽に強い興味を抱いた。

「陽を牀に寝かせろ」

 明らかに不服、という表情を見せる犀星に、涼景は歩み寄った。

「仕方がないだろ。とにかく、体を温めることが先決だ。玲陽の襦袢を脱がせて、お前も濡れた服を脱げ」

「……うん」

 素肌を人目に晒すことは、それだけで恥である。犀星が戸惑っていると、涼景は自分で玲陽の襦袢に手をかけた。

「涼景!」

 思わず、犀星が玲陽を引き寄せて避ける。

 涼景は淡々と、

「こんなもの着ていたら、体を冷やすだけだ。星、お前も脱げ」

「わかっている。俺がやるから……」

「早く、な」

 言いながら、涼景は壁にかけてあった二着の着物を手に取った。

 その間に、犀星はしゃがみ、膝の上に玲陽を座らせて、片腕でその背中を支えながら、片手で襦袢の帯を解こうとする。水を吸った布地は固く締まっていて、片手ではなかなか思うようにならない。無理をすると、痛んだ生地が裂けてしまいそうだ。

 涼景は腕にかけていた着物を寝台に置くと、犀星の手元を手伝った。

「脱がせたら、玲陽を寝かせて。おまえの着物、肩のあたりは乾いているだろ。脱いだら、それで玲陽を拭いてやれ」

 涼景は犀星たちに背を向けて、目をそらしながら言った。

 丁寧に襦袢を玲陽の腕からはずし、取り去る。玲陽の体に目を落とした犀星は、その有様に、顔を歪めた。

 先ほど、濡れた襦袢越しに見えた傷は、全身に及んでいる。

 大小古今さまざまな打撲の痕と、獣の咬み傷や刀傷、縛り上げられた鬱血など、顔以外に無傷な肌を探すことはできなかった。

「星、おまえも脱いだら、玲陽に寄り添って横になるんだ。温めてやれ」

「あ……」

「凍えた人間を温めるのは、人肌が一番だ。それとも、俺がやるか?」

「嫌だ」

「だったらさっさとしろ。いつ、誰が来るかわからないんだぞ」

 涼景は崩れた壁から、外の様子を伺いながら言った。

 犀星は玲陽を寝台に横たえ、自分も手早く着物を脱ぎ捨てた。

「ここは俺が見ているから」

 傷ついた玲陽の身体に心を乱している犀星を、涼景の声が促した。

 冷たく、冷え切った玲陽の体に自分の体を添えて横になり、体勢を変えてできるだけ密着するよう、犀星は静かに、しかし力強く懐かしい人を抱きしめた。

 犀星が動くたびに、寝台が軋んで不安を掻き立てる音が鳴る。

 玲陽の痩せこけた体は、まるで、氷のようだ。青く色褪せたその唇が、何かを感じ取ったようにかすかに震えた。

 犀星の鼓動が高鳴る。介抱のためとは言え、このような形で玲陽に触れるなど、思ってもみないことであった。

 涼景は壁から外した着物を、二人の上にかけてやった。

「星、辛くなったら言え。俺が代わる」

「嫌だ」

「おまえだって、体温を奪われて弱るんだ。二人で温めた方がいい」

「断る」

 そう、つぶやいた犀星の言葉には、強い決意がある。涼景は、どこか、安心したようだった。

「俺は外を見てくる。火が使えるといいんだが」

「…………」

「ついでに、濡れた着物も干してくる。陽が着られるものは、これしかないようだしな」

「……うん」

 犀星は、くぐもった声で答えた。

 目を閉じ、体だけではなく、心も温めようとするように、犀星は玲陽の頬に顔をよせ、濡れた髪を撫でている。

 その様子を涼景はどこか辛そうに見つめた。秋の風が、崩れた壁から、足元に吹き込んでくる。

 涼景は部屋を出ると、周囲を警戒した。今はまだ、穏やかな時間が流れている。だが、いつ、誰がここへ来て、自分たちを排除しようとするかわからない。そのようなことになれば、流血沙汰も覚悟しなければならない。

 歌仙親王の名前を出せば、大抵のことは混乱なく権威で押さえつけることはできるが、相手はあの玲家である。朝廷に対する忠誠など、まったく期待できなかった。だとすれば、力で圧するしかない。

 何事もなく玲陽が目覚めてくれれば、すぐにでも抜け道を使ってここを出て、隠している馬で犀家まで走る。犀家に逃げこんでしまえば、いかに玲家とて手荒なことはできないはずである。歌仙領内での争いごとは、かたく禁ずるよう、領主たちの間で盟約が交わされている。涼景自身も、燕家の当主として、その誓約に名を連ねている。

 その俺が、玲家の懐深くで何をやっているんだか。

 庭の大きな石の上に、水を絞った着物を乗せて広げながら、彼は己が身の不遇を笑い飛ばした。犀星を思えば、この程度の危険はどうということはない。

 見張りに立ちながら、涼景は記憶を遡った。

 涼景の父、燕広播こうはんは、犀遠とは旧知の仲であった。犀遠が都に出仕していた時期、広範は犀家の領地を任され、犀遠の期待に答えた。そのためか、涼景も犀家には縁を感じ、何かにつけ、犀遠が引き取った犀星のことを気にかけていた。

 そして、犀星が都に来てすぐに、二人は顔を合わせた。正確には、涼景の方が、犀星に興味を持って近づいたのだ。一目犀星を見て、涼景はまるで昔から知っていたような親しみすら覚えた。

 涼景と犀星は立場を超えて親しくなり、互いに本音を打ち明ける間柄となっていった。

 犀星は玲陽については話したがらなかったが、その深く熱い想いが、単なる幼馴染への友情を超えたものであることに、涼景は誰よりも早く気づいていた。

 犀星には、ひとつ、譲れない習慣があった。それは、毎日眠る前に、その日のことを書きつけるのである。それは日記などではなく、歌仙の玲陽に向けた、手紙であった。翌日には東雨がそれを投函していたが、十年間、一度も返事が来たことはなかった。それでも、犀星は何があろうと、これだけはやめなかった。

 このような状況では、手紙は玲陽のもとには、届いていなかったのだろう。無駄なことをしたものだ、と笑うことは容易い。だが、涼景にはとても、そんな気にはなれなかった。玲陽に手紙を書き続けることは、犀星にとって、呼吸するのと同じことなのだと、涼景にはわかっていた。宮中という監獄の中で、犀星もまた、自分が生き残ることに精一杯だったのだ。

 犀星と玲陽。その二人の再会のために、涼景もまた、力を尽くしてきたつもりだった。自分が、実妹である燕春を慕うように、決して世には出せぬ恋焦がれの苦しみを、犀星もまた、抱えているのだ。

 涼景は周囲を警戒しつつ、庭の草木を観察した。食用になりそうなものはないが、逆に薬草の類は確認できた。軍人となるべく育てられた彼だが、一通りの医術も学んでいる。簡単な血止め薬の原料、解熱の薬、化膿止め、滋養薬、など、民間療法でも用いられる草が、自然に任せてではなく、明らかに人の手で育てられていた。

 玲陽が多くの傷を負っていたことから、彼自身が自分のために育てていると考えられる。

 あれだけ怪我をしながら、外部から薬も持ち込ませないのか?

 涼景は眉をひそめた。

 第一、あれは何の傷だ? 自分でやったのか、それとも、誰かに?

 先ほど少し見かけただけで、丁寧に調べた訳でない。だが、帯を解く際に、玲陽の背中にも切り傷の痕を見つけた。

 自分で自分の背中を切るとは考えにくい。

 涼景は唸った。

「少し探してみるか」

 彼は、幾つもの戦場を知っている。自ら、命の危険を感じたこともあれば、数えきれない者の返り血を浴びたこともある。戦地によっては、まともな陣営を構えることもできず、このような崩れかけた廃墟で寝起きしたこともある。

 その涼景から見ても、砦の様子は酷いものだった。

 水源は、唯一、玲陽が浴びていたという滝だけで、井戸は見つからなかった。

 だいぶ日が高くなってきていたが、秋の風は冷たい。

 涼景は古びた手桶を見つけ出すと、滝へと向かった。

 膝まである池は、常に水が流れており、足を取られて歩くのも困難だ。滝の水で手桶を洗い、試しに一口飲んでみたが、思った通り冷たかった。この水を、玲陽は浴びていたのか。高い山麓からの水は、どれだけ、あの痩せ衰えた青年を傷つけただろう。

 さらにあたりを物色して、涼景は妙なことに気づいた。

 ひび割れた水瓶や調理台のある角の部屋は、厨房のようである。しかし、そこには火の気もなく、最近、煮炊きした痕跡もなかった。薪も炭も、釜もない。これでは、料理どころか、湯を沸かすこともできない。

「あいつ、何を食べていたんだ?」

 誰かが、食事を運んでいたのだろうか。先ほどの門番からついでに聞き出した簡単な事情によれば、玲陽の義理の兄や、その知り合いらしき者が数名、数日に一度訪れる他は、誰も出入りしないという。その兄たちも、食糧を運んでくるわけではないようだった。時折、酒を手にしてくることもあったが、それだけである。

 涼景は再び庭に戻り、手入れされた庭を調べた。

 秋だというのに、食用の実を結ぶ植物は見当たらない。毒性のあるものは生息していないにしても、これらの草をそのまま食していたとしたら…

「よく、生きてたな」

 まさに、水や霞を食べて生きるという仙人のような暮らしか?

 世の中には、植物しか口にしないという者もいるが、そこには栄養のある種子や果実も含まれるため、玲陽のように体を痛めている様子はない。

 では、やはり誰かが食事を差し入れているのだろうか。玲本家には、玲陽の生みの親である、玲芳がいる。まさか、実の子をこのような境遇に落としながら、何もしないということも考えにくい。しかし、先日玲家を訪ねた際に会った玲芳は、どこか焦点のさだまらない目をしていた。あれは、薬物に侵されている目だ。まともな判断ができなくなっていてもおかしくはなかった。

 また、玲芳の実兄であり、現在の夫である玲格は、鬼人の異名を持つ、情け容赦のない男である。実妹の玲芳を妻に迎えたのは、父親の知れない玲陽を産んだ妹を嫁に出すことを一族の恥としたからであったともいう。理由はどうあれ、普通の神経でできることではない。さらに聞くところによれば、玲芳との間に、一女をもうけているという。

 いかなる事情があれ、兄妹婚が容認される社会ではなかった。だからこそ、自身もまた、妹への想いに苦しんでいる涼景である。

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 自分のこと、犀星と玲陽のこと、そして、これからのことを、庭に突っ立って、涼景が考えこんでいた頃、殺風景な部屋の寝台では、静かに犀星が涙を流していた。

 どんなに温めても、玲陽の体は冷たいままだ。犀星自身も手足が冷えて、感覚がなくなってきている。だからと言って、涼景と代わるのも嫌だった。玲陽を温めるという一点においては、交代が最善であることはわかっている。しかし、そう簡単に割り切れるほど、犀星も無感情ではない。

 ちょうど、窓から午後の日差しが差し込んでくる。

 犀星は少しでもその日差しを受けようと、寝台を動かした。大きな音が鳴ったが、それでも、玲陽が目覚める気配はない。

 そっと、犀星は玲陽の胸に手のひらを当てた。玲陽の肌に触れているという事実に、不覚にも犀星は胸の高鳴りを感じる。

 幼い頃、共に入浴したり、川で泳いだり、と、互いの裸体を見てはいたが、それは所詮、子供の頃の話である。

 こうして成人した相手と、突然肌を重ねるなど、考えてもいないことであった。

 玲陽の胸は、静かに、かすかに鼓動を打っていた。犀星の手のひらが、弱々しい脈動を必死に感じ取ろうとする。今にも消えてしまいはしないか。そんな不安に怯えながら、犀星は我知らず、肋骨を指先でたどった。一本ずつ、浮き出たその骨は、薄い皮膚一枚の下に感じられた。

 どうしてこんな姿に……

 犀星の涙が、ポロポロと落ちた。

 玲陽は決して、華奢ではなかった。犀星同様、特に筋肉質ではなかったが、相応に逞しく、しなやかだった。

 二人はよく剣術の勝負をしては競い合った。結果は、玲陽が勝つことが多かったように思う。犀遠が厳しく二人を鍛え、彼らもよくそれについていった。稽古に疲れると、最後には二人で地面に寝転んで語り合った。泥にまみれても、草つゆに着物を汚しても、二人とも、一向に気にしなかった。ただ、互いの存在がそばにあることが、全てだった。

 犀星は、母を知らない。寂しさを感じることはあったが、彼は亡くした母よりも、目の前にいる人間に重きを置いた。犀遠が辛いだろうと慮って、少年になると、もう、母の話をせがむことはなくなった。いずれ、歌仙を離れて宮中に行かねばならないことが定められていた犀星は、その日その日を精一杯に生きた。身分に関係なく、平等に接した。目の前のことに全力で向かい、他者の評価より、己の直感を信じる。それが、幼い頃からの、犀星の生き方だ。

 玲陽は父を知らない子であった。母の玲芳に尋ねても、身に覚えがない、という。父親が不明で生まれる子は数知れずいるだろうが、玲陽のように、父親が存在せずに生まれた子はどれほどいるのだろう。自分は何者なのか、という根本的な疑問、実の母親の愛さえ素直に受け止められず、誰にも心を開くことなく、いつも微笑み、嫌われまいと自分の心を封印してしまったのが、玲陽である。

 このふたりは、生まれる前から、因縁のようなもので結ばれていた。

 犀星の母、玲心が先帝の子を身籠もると、その身のまわりのことをするために、玲芳は都へと向かった。

 生まれてくる子供が女であれば殺し、男であれば連れ去る。

 玲芳はそう、きびしく命じられ、玲心には何も言わずに世話をした。

 玲家の血を継いだ女児が、皇帝の手中に落ちることを、一族の長たちはなんとしても避けたかった。

 また、子が男児であれば、自分たちが引き取り育てることで、次の皇位争いに利用することもできる。玲家には朝廷に成り代わる意志はないが、親王の身と引き換えに、それなりの盟約を通すことくらいは考えていた。

 思惑の中、生まれた子は、男児だった。

 玲心が出産直後に絶命したため、玲芳は急ぎ、犀星を連れて歌仙へと逃げ延びた。先帝・蕭白は追手を放ったが、それを妨害して犀星の歌仙入りを助けたのが、宝順であった。これをきっかけとして、蕭白と宝順は全面対決を迎え、その末に、宝順が即位する流れとなる。

 一方、歌仙に帰り着いた玲芳は、自分が身籠もっていることに気づいた。彼女にはまったく身に覚えのない妊娠だった。

 父が存在するのか、母にさえわからないまま、犀星が生まれた四十九日後に、玲陽が生まれた。

 わずか一月半の差であったが、玲陽は犀星を兄として心深く慕った。

 犀星もまた、父のわからぬ忌み子として避けられ、冷たい仕打ちを受ける玲陽を守りたいと願った。

 二人は、一つの時間を過ごした。

 自分にないものを、相手は持っていた。

 犀星の勇気を玲陽は学び、玲陽の慈愛を犀星は学んだ。

 十五歳を迎えるまでは、彼らは毎日、共に生きてきた……

 犀星は、玲陽の凍った横顔に、そっと顔を近づけ、頬を擦り寄せた。

 子供の頃さえ恥じらった大胆な行動が自然と出たことに、犀星自身、驚いていた。だが、こうせずにはいられない。胸の中に、熱くて痛い感情が次々と湧き出してきて、冷える体に反して心は焼けるようだ。

「陽」

 堪えられない何かに、押し出されるように、犀星の喉から、その名がこぼれ落ちた。

 長い間、虚空にむかって呼び続けた名。

 十年前、自分が置き去りにしてしまった自分の分身、いや、自分の魂そのものの名だ。

「すまない」

 どれほど謝罪を口にしても、償いきれるものではない。

 犀星には、玲陽を都へ連れて行く勇気がなかった。玲陽もまた、自分が犀星の負担になることがわかっていた。

 必ず迎えにくる。

 犀星は別れ際、そう約束した。だが、それを果たすには、あまりに長い時間が必要だった。そしてその間に、玲陽の身にこのような悲劇が起きていようとは、思いもしないことであった。

 あの頃、玲陽は、美しい艶やかな黒髪をしていた。犀星は自分の奇妙な髪色が気に入らず、玲陽の髪に憧れた。

 また、玲陽の漆黒の瞳も、犀星にはうっとりと美しく感じられた。

 黒い髪と瞳、真珠のごとき光沢のある白い肌、誰に対しても、何に対しても、愛情を持って尽くす玲陽の姿は、たとえそれが、寂しさの裏返しであったとしても、犀星には何よりも尊く、美しかった。この人のために、生きようと決意し、犀星は多感な少年時代を、玲陽に全てささげてきた。

 犀星のその真実の想いは、玲陽の心を開かせた。

 母にすら遠慮がちに接し、目をそむけてしまう玲陽が、犀星だけは真っ直ぐに見つめた。そして、作り物ではない、本心からの笑顔を、惜しげもなく向けた。鋭く、強く、自信に溢れた犀星の碧玉の瞳は、玲陽の誇りであり、正しく自分を導いてくれるほしに相違ない。

 あの頃、まだ若すぎた二人には、その感情がなんであるか、はっきりとした答えが出せなかった。

 幼馴染か、複雑な事情を抱えた従兄弟か、共に育った義兄弟か。

 そのどれもが当てはまると同時に、核心を得てはいない。

 何かぼんやりとしたものを感じてはいたが、自信を持って口にすることはできず、心の中に秘め続けた。

 そんな二人を、犀遠は優しく見守り続けた。

 犀遠には、二人が互いに惹かれ、愛を抱いていることがわかっていたが、あせらせることはしなかった。時の中で、それは確実に育ち、やがて、彼ら自身が気付くことを願った。

 そんな犀遠の願いむなしく、二人は十五歳を目前に、引き離された。

 それでも、犀星は一人、玲陽への思いを抱き続けた。

 心に生まれた感情の嵐。それは消えることなく、日々募るばかりで、やり場のない怒りや虚しさ、寂寥感に気が狂いそうになった時、犀星の心は、はっきりと、玲陽を想っている自分を見つけた……

 体が冷えたせいか、鋭い頭痛を覚えて、犀星の意識が思い出の迷路から引き戻された。

 子どもの頃のこと。

 都で過ごした月日のこと。

 そして、今、この瞬間のこと。

 バラバラだった記憶が全て現実であることを、腕の中にしっかりと抱きしめた玲陽の体が、確かに告げている。

 何もかもが現実に起きた出来事であり、その末に、今の自分たちがいるのだ。

 犀星は玲陽の頬に、そっと手のひらを当てがった。

「二度と、放さない」

 自分でも不思議と、そんな言葉が犀星の口をついた。そして、言ってしまってから、それが自分の全てであることに気づく。

 そうだ、玲陽と離れていた時間、自分の心は死んでいたのだ。

 そしてそれは、玲陽も同じだったのだろう……

 自分には、涼景がいた。東雨もそばにいてくれた。たとえそれが玲陽ではなかったとしても、一人ではなかった。

 だが、玲陽は、たった一人、この地で孤独を見ていた。

 姿が変わり果てようとも、犀星には愛しくてたまらない存在に他ならなかった。

 よく、生きていてくれた。やせ細った身体と、いたたまれないほどの傷を抱えながら、それでも、玲陽は生きていた。一体、そこにはどんな思いと苦しみ、そして強さがあったのだろう。

 知りたい、と犀星は思った。

 玲陽の言葉で、彼の日々を語って欲しい。それがどんな苦しみを伴う時間であったとしても、自分は全てを聞き届けたい。自分が過ごした暗い出来事も、洗いざらい聞いて欲しい。そうやってすれ違ってしまった時を埋めたい。そしてそこらまた、一緒に生きていきたい。二度と、離れることはない。

 そう、望みはしても、それは犀星がひとりだけ、思うことかもしれないのだ。

 玲陽が同じ心を抱かず、自分を拒んだならば、それはもう、犀星にはどうすることもできない。もし、そのように運命がめぐるならば、そこで自分の命を閉じてしまいたかった。犀星は涼景に、場合によっては自分を殺して欲しいとまで訴えた。

 玲陽は文字通り、犀星の最後の希望だった。

 玲陽の頬から口元へ、犀星は手のひらを滑らせた。

 わずかに、赤みが戻ってきた唇。あの滝の下で再会したとき、その唇が動いて、確かに、自分を呼んだのだ。

『星…兄様』

 玲陽は、確かに自分をそう、呼んだ。

 それこそが、自分が何より欲していたものだ。

 どんな宝より、地位や権力より、たった一人の人が、自分だけを求めるその言葉。

 これが、これだけが、犀星の望む『富』だった。

 玲陽を取り戻すこと。

 彼が都で生き抜いてきた理由の全てだった。

「二度と、一人にしないから」

 今度は、自らの意思で、力のこもった声で、はっきりと、犀星は囁いた。そうして、玲陽の首元に顔を寄せた。冷えた肌に息を吹きかけ、少しでも温もりを伝えたかった。

「……約束、ですよ」

 かすかに、この世のものとは思えないほど澄んだ声が、犀星の耳元で煌めいた。

 喉が潰れたように呼吸が止まり、犀星は何も言えなかった。寒さではない何かが、かたかたと体を震わせた。

 答える代わりに、ただ、強く強く、玲陽を抱きしめる。

 犀星が力を込めれば、容易に砕けてしまいそうなほど、玲陽の体は細り、病んでいた。全身の傷も、さぞや痛んだことだろう。

 それでも玲陽は、声一つ上げることなく、黙ったまま、その細い腕を精一杯に伸ばして、犀星の背中を抱き寄せる。

 ああっ!

 犀星は目を閉じ、玲陽はその目を開いた。

 自分より、ずっと逞しくなった犀星の体は、彼が都で戦い続け、己を危険に晒してきた結果であることを物語っていた。辺境の地で幽閉され、飼い殺されていた自分には、想像もつかない苦難が、犀星の身には起きていたのだろう。

 身を裂かれる思いで都へ連れ去られたあと、犀星は、命を狙われ、眠れぬ夜を過ごしたに違いない。玲陽を連れていく、と叫んだ犀星の言葉をはっきりと断ったのは、玲陽自身である。

 もし、自分が共に都へ行ったならば、間違いなく、犀星に負担をかけてしまうことを、玲陽は察していた。親王の従兄弟、まだ幼く、剣術もままならず、己の身も自在に守ることができない自分が、どれだけ、足手まといになるか、玲陽は、それだけを考え、後を追いたい気持ちを殺した。

 あの時、犀星は泣きそうな声で自分を呼んでいた。出立のぎりぎりまで、自分を探し、必ず守るから一緒に来てくれと、繰り返した。

 必ず守る。

 犀星のその言葉は真実だっただろう。

 そして、犀星は自分を守り、命を落としただろう。

 玲陽が何より望まない、未来。

 犀星なき世界に、自分もまた、存在する理由はない。

 悲鳴にも似た、自分を呼ぶ声が遠ざかるのを、玲陽は膝を抱えて、隠れたまま聞いていた。

 あの時流れた、止まらない涙の熱さを、玲陽は今でも鮮明に覚えている。

 よく、生きて帰ってくれました。

 玲陽は犀星の頭を引き寄せ、そのうなじに顔を埋めた。

 感じる、喉元の血管の脈動。

 確かに、生きている暖かい体。

 それが、自分が求めた全てなのだ。

 そして、その命が、今、こうして自分の腕の中にある。玲陽は、何もかも、忘れていた。

 幼かった時のこと、この砦で受けてきた仕打ち、何度も襲ってきた、自ら命を絶ちたい衝動。

 それら全ては、この、今、という瞬間が消し去った。そして、新しい時間が始まるのだ。


 命あれども、心なきが如く。


 抜け殻のように生きてきた時間は、終わりを告げた。

 重なり合う心を自らの中に受け入れて、二人は互いの髪を撫で、頬を撫でて、見つめあった。

「陽……」

「星、おかえりなさい」

 犀星は、煌めく玲陽の金色の目を見つめた。かつての彼の瞳と変わらず、優しく底知れぬ慈愛の光が、そこには宿っていた。

「陽、おまえ……」

 変わっていない。

 姿がこれほど変わり果てても、玲陽の魂は変わってはいない。自分が焦がれた心のまま、自分を待っていてくれたというのか。

 交わり合う視線が、互いを絡め取り、どちらからともなく、自然と唇を寄せようとしたとき、

「悪い。待たせたな。湯を沸かすのも一苦労だった」

 火おこしから始めて、煮詰めた薬湯を入れた椀を手に、涼景が入ってくる。

 犀星は、顔を上げると、玲陽の胸に甘えながら、とろんとしたまなこで涼景を見た。

 その恨めしげな目に、涼景は自分が邪魔者だと感じたらしい。

「ああ、そうかよ」

 全てを察して、涼景は無遠慮に二人に近づくと、犀星にはお構いなしで、逞しい腕を差し入れ、玲陽の上半身を抱き起こした。

「触るな!」

 どこか夢うつつだった犀星が、慌てて玲陽の体を奪い取る。突然のことに、あっけにとられて、玲陽は目を瞬いた。

「あの……」

 玲陽は、恐る恐る、犀星と涼景を見比べた。

 この関係はなんだ? 敵同士には見えないが……

「玲光理こうりどの」

 涼景は寝台の下にひざまづいて、玲陽を見上げた。

「とんでもない姿での対面となったが、勘弁してくれ。燕仙水せんすいだ」

 玲陽は、自分たちにかけられていた古着を引き寄せ、素肌を隠した。今更取り繕っても仕方がないと思いながら。

「事情は察しがつきます、仙水様」

 静かに、玲陽は涼景に頭を下げた。

「あなたが、助けてくださったのですね。私も……そして、兄様のことも、ずっと」

「恩は返してもらうぞ」

「涼景!」

 犀星は恨みがましい声を出した。それが、涼景なりの親しみを込めた挨拶だと知ってはいても、玲陽にぶつけられると、なぜか不安になる。

 犀星の心配をよそに、玲陽の方は、落ち着いて答えた。

「仙水様。暁将軍としてのお噂は聞き及んでおります。そのあなたが、兄様をお守り下さいましたこと、この玲光理、心より感謝申し上げます。あなた様からのご恩、とてもお返しし切れるものではないでしょうが……」

「案ずるな。俺が押し売りする恩は安いんだ」

 涼景は薬湯を差し出した。

「こいつを飲めば、帳消しになる」

 一瞬で、涼景の懐の深さを悟ったのだろう。玲陽は素直に椀を受け取ると、疑うことなく飲み干した。

 心配そうに玲陽を支えていた犀星に、涼景がにやりと笑って、

「星、お前がどうして、ここまでこいつにこだわったのか、得心がいった」

「なんだ?」

「二度と手放すな。その時は、俺が貰い受ける」

「ふざけるな! 殺されたいか!」

「兄様」

 思わず激昂した犀星に、穏やかに玲陽が声をかけた。呼ばれて、反射的に振り返る。

「お帰りを、お待ちしておりました」

 犀星の頬に流れ落ちた一雫の涙の意味は、彼自身にもわからない。

 そして、玲陽の頬に、十年ぶりに優しい笑みが浮かんでいたことに、玲陽自身もやはり気づいてはいなかった。

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