抱き合った犀星と玲陽が寝台に横たわっている。その隣の壁に背中をもたれて、涼景は床に座り込んでいた。
意識を取り戻した玲陽を、犀星は体をさすりながら暖めている。
薬湯が回り、玲陽も少しずつ、自力で動けるようになっているらしい。
早くここを抜け出したいが、急いては事を仕損じる。
玲陽が言うには、人が来るとしたら夕刻より後、とのことであった。だがそれも、絶対では無い。また、来る日もあれば来ない日もある。その時になってみないとわからない、という。
もう少し、玲陽が落ち着くのを待ってから抜け出そう、ということで、話はついた。
そして、今の状況である。
涼景は寝台の上を見ないように、と、顔を背けつつも、どうしても気になってしまう。
犀星と玲陽はただ、体の回復のために、調子を整えているだけだ。時々、小声で他愛の無いことを話し、クスクスと笑う。十年も離れていたとは思えない親しさだ。
情事を覗き見している訳ではないにせよ、その甘い空気はどうにも落ち着かない。つい、妹のことを重ねてしまうと、涼景も体がほてってくる。自分達にもいつか、そんな日が来るのだろうか。いや、それは決して望んではならない日なのだ。
燕春とは、十二歳の年齢差がある。しかも、相手は十六になるばかりの娘、体の弱い妹である。涼景は医術者として、彼女の診察を繰り返すうちに、その体が永くは生きられないことに気づいてしまった。二十歳まではない命だろう。出産は愚か、破瓜にも耐えられまい。そのことを、涼景は自分の胸の内にだけ秘め、犀星にすら話したことはない。
国の大事を担う犀星に、自分の個人的な事柄で気遣いをかけたくはなかった。
涼景とは、そういう男であった。
守ると決めた者のためには、官位も道徳も無視する。こうして、犀星のために危険を承知で玲家の懐に飛び込んだのも、彼の性格ゆえだった。
そんな豪胆さを持ち合わせながら、自分は得を取るということをしない。うまく立ち回れば、さらに富も名誉も手に入る立場にありながら、それらには一切の興味を示さない。ただ、友のために、全てを投げ打つのだ。我ながら、損な性格だと思う、と言いながら、それでも、涼景は満足そうによく笑った。
犀星は、そんな涼景だからこそ、惹かれたのかも知れない。そして玲陽も、涼景のその本質を一目で見抜いた。
時折、背後から聞こえる衣擦れの音や、安堵のため息を聞きながら、涼景の胸に、一抹の不安がよぎる。
この二人を、本当に会わせてよかったのだろうか。
両者の気持ちを思えば、こうする以外に方法などない。さもなくば、犀星が孤独のあまり、玲陽に再会せぬまま、命を断つのは時間の問題だった。
しかし、出会ってしまったら、それで終わりではない。
これは、始まりなのだ。
涼景にも想像できないが、何か、大きな出来事が、二人の再会をきっかけに始まろうとしている。そこには、自分も無関係ではいられないだろう。燕春も巻き込むかもしれない。東雨とて、他人事ですまないはずだ。自分達を取り巻く身近な人々、また、ともすると、都を、宮中を、国をも揺るがす、そんなことが……
涼景が途方もない想像をしていたとき、まるで天運のように、痩せこけたネズミが部屋を駆け抜けた。
「大山鳴動して鼠一匹」
思わず、涼景は声に出すと、小さく笑った。
「どうした?」
気づいた犀星が静かに声をかけてきた。振り返ると、艶めかしい姿のまま、犀星が寝台で体を起こしている。その表情はどこか気だるげで、そして、穏やかだった。こんな顔をする犀星を、涼景は知らない。玲陽が犀星に与える影響とは、そこまでのものなのか……
「いや、ちょっと考え事を、な」
涼景は体勢を変えると、玲陽の脈を取ろうと手を伸ばしかけ、宙でそれを止めた。ちらりと犀星を見る。
「光理に触ってもいいか?」
「……ああ」
少しは落ち着いてきたらしく、犀星は頷いた。
こいつ、こんなに過保護だったのか?
玲陽に対する犀星の態度に、涼景は引きつった笑みを浮かべる。歌仙親王は、他者に興味示すことのない、無感情な人間、という評価は、真実ではなかったようである。
玲陽は涼景を信用していると見えて、おとなしく腕を差し出してくれた。
「いい子だ、光理」
涼景の言い草に、犀星がムッとするのがわかる。今は、それすら面白い、と涼景は思う。
正直、のんびりとしていられる状況ではないのだが、これが安全な場所でのやり取りであるなら、大歓迎だ。きっと、涼景の参謀である遜蓮章も、面白がるに違いない。
蒼氷の親王に感情が宿った。
これは、都を揺るがす大事件だ。
涼景は横たわる玲陽の脈を取り、体温を確認する。
「血の巡りが良くなってきたようだな。気分はどうだ?」
「はい。もう、寒気はありません。関節も楽になりました。すぐにでも動けます」
「無理をするな」
涼景は首を振った。
「急に動くと、貧血を起こす。まずは姿勢を維持できるようにしてからだ。座れるか?」
玲陽は犀星の腕に掴まりながら、体を起こした。涼景は、じっと玲陽の体を観察する。傷もそうだが、彼が今見ているのは、その骨格と筋肉の様子である。
玲陽の栄養状態が酷いことは明白である。しかし、涼景には、その体の芯がぶれていないように思われた。筋肉はかなり落ちている。それでも、体幹がしっかりと残り、最低限の力で動けるよう、整っている。
ひょっとすると、計算して鍛えていたかもな。
素人目にはとてもそうは思えない身体を前に、涼景はそう、分析した。
もし、そうだとしたら、この男、相当に強い精神力だ。
そんなことを考えて、思わず、涼景はにやりとした。
「何を見ている?」
涼景の表情を目ざとく見咎めて、犀星が言う。
「陽に妙な目を向けるな」
「そんな目では見ていない。健康状態が知りたいだけだ。お前と一緒にするな」
「! 俺は何も……」
「ほら」
涼景は庭で乾かした犀星の着物を押し付けた。
「早く着ろ。いつまでそんな格好でいるんだ」
「おまえが脱げと言ったんじゃないか」
「状況によって対処は変わるんだ。言うことを聞け」
まるで子供のように言い合いをする二人を、玲陽の優しい笑い声が止めた。
思わず、二人とも、玲陽の顔を見つめる。
「この状況下で、一番落ち着いているのは、光理らしい」
「陽は、いつもそうだ。俺の暴走を止めてくれる」
「そいつはすごい。俺でも手こずるのに」
「それはおまえが無力だから……」
「本当に、よかった」
鈴の音のような、玲陽の声が遮る。操られてでもいるように、大の男が二人とも黙ってしまう。玲陽に優しく見つめられて、犀星は見つめ返すだけで動けない。
「兄様、仙水様とのご縁、大切になさいませ」
「せ、仙水様……か」
聞きなれない呼び名に、犀星が着物を羽織りながら苦笑いをする。
「涼景、で十分だ」
「それはどうも、伯華様」
悪戯っぽく、涼景も犀星の字を口にする。忘れているのではないか、と思うほど、字で呼び合うことのない二人だ。それを察しているのか、玲陽は嬉しそうだ。
「仙水様、私のことも、陽とお呼び下さい」
涼景がフッと笑顔を見せた。
「お許しが出たところで、恐れながら、そうさせてもらおうか」
犀星が手早く帯を締めながら、
「今更なんだ? 本人がいないところでは、そう呼んでいたじゃないか」
「それは、お前が、陽、陽、とうるさいからだ。つい聞きなれてしまった」
「兄様?」
にっこりと玲陽が首をかしげて微笑む。その笑顔に、犀星の手が自然と止まり、見とれたように玲陽を見る。
「いや、俺はそんなには……」
涼景は玲陽に襦袢と紐を差し出しながら、片目をつむった。
「どうやら、寂しくて仕方がなかったらしいぞ。酒を飲んで酔い潰れると、いつもお前を呼んでいた」
「涼景!」
珍しく、犀星が頬を赤らめて自分を睨んでいる。
「おまえ、そんな顔できるんだな? 驚きだ」
嬉しそうに、涼景がからかう。
玲陽の身支度手伝いながら、犀星は顔を背けた。
そうだ、これでいい。
涼景は、先ほどまでの胸騒ぎを沈めた。
今の犀星は、俺が知る都での親王ではない。だが、これが、本来の犀星なんだろう。
そう思うと、玲陽という存在が、犀星にとってどれほどのものであったのか、理解できる。
もっと早く、合わせてやりたかったな。
涼景は玲陽に向き直った。
「それじゃ、陽。俺のことも、涼景と呼べ。俺にとって、おまえたち二人はどちらも同等だ」
頬を火照らせて不貞腐れる犀星をよそに、玲陽はやんわりと頷いた。
「では、せめて、涼景様、と」
涼景の豪快な笑い声が響く。
「星、こいつはおまえより、よっぽど礼儀をわきまえた男じゃないか!」
「こ、これは、陽の昔からの癖だ。俺以外は呼び捨てにしない」
「おまえだけは自分より下、ってことか?」
合点がいった、と、涼景が腕を組む。
「そうじゃない! 俺はっ……」
「兄様」
玲陽が声を高める犀星を制した。
「落ち着いてください。今は、おしゃべりを楽しんでいる時ではありません」
うっ、と、犀星はおとなしくなった。
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やはり、この二人は面白いな。
涼景は一瞬笑ったが、すぐに真顔になる。
「ところで、これからどうする」
直前までの陽気さが、一転して真面目にとって変わるのは、涼景には良くあることだった。
「陽を連れ出す。まずは一旦、犀家で保護する」
犀星も、涼景の変わり身の速さには慣れたものだ。玲陽だけが、不思議そうに二人のやり取りを見ている。
「陽は血の繋がった俺の従兄弟だ。何ら不思議ではない。身内の問題、だ。あくまでも、玲家と犀家で片付ける。燕家に迷惑はかけない」
「体調を崩した陽の治療にあたるため、医者として犀家に参上しよう」
「助かる。お前以外には診せられない」
犀星は気遣わしげに玲陽を見た。
「俺も、そう思う」
涼景は頷いた。
「では、日が暮れる前に行こう。人が来ると厄介だ」
涼景は玲陽を見た。
「どうだ、立てるか?」
「え? あ、はい……」
玲陽は、犀星の腕を支えにして立ち上がった。
「大丈夫そうだな。陽、何か持って行きたいものはあるか?」
「え?」
涼景に促されて、玲陽は部屋の中を見回した。そして、首を横に振る。
それから、何か困ったように、犀星と涼景を見た。
「どうした?」
犀星が玲陽を覗き込む。
玲陽は、唇を固く結んで、うつむいた。
「お二人のお気持ちには感謝いたします。けれど、私はここを離れるわけにはいかないのです」
犀星は、息を吐いた。
「こうなると思っていた」
「兄様?」
「おまえなら、一人でも逃げ出せたはずだ。あの通路のことも、覚えていたんだろ?」
「はい」
「それが逃げなかった。逃げられない理由があるってことだ」
「何が問題なんだ?」
涼景が入ってくる。
犀星が続けた。
「もしかして、叔父上か?」
犀星が憎々しげに言う。玲陽はわずかに目元に力を込めた。
「はい。義父上の言葉は、ここでは絶対です」
「義父? 玲格のことか?」
涼景が尋ねる。犀星が涼景に向いた。
「ああ。陽の身に起こる災難は、すべて、あいつが原因だ。昔からな」
「鬼人と呼ばれている冷血漢らしいな」
玲陽の前でも、遠慮なく涼景は言い放った。玲陽は義父と呼ぶが、玲陽と玲格は親子ではなく、甥と伯父の関係にあたる。犀星が付け加える。
「叔父上は、昔から陽のことを良く思っていなかった。だから、陽と叔母上を引き離すために、実妹である叔母上を妻にしたんだ」
言ってしまってから、犀星はハッとした。涼景の妹への想いを知っていながら、思わず無神経なことを言ったのでは、と、珍しくばつが悪そうに目を逸らす。だが、涼景に気にした様子はない。
「話は聞いている。その上、二人の間には娘がいると言うじゃないか」
「ああ。
複雑な心境の犀星に反し、涼景はただ事実確認を淡々と進めている。犀星が知る中で、涼景は誰よりも情に厚い男だが、物事を運ぶ、というときには、冷静沈着で頼りになる。この二面性が、涼景が部下だけではなく、民衆にも好かれる魅力なのかも知れない。
「陽」
涼景は腕を組んだまま、
「お前の母と妹は、お前の動きを封じるための人質なのか?」
「はい……」
気持ちが沈んだ玲陽に、犀星は話しかけた。
「陽、叔母上は涼景を通して、俺にこの場所を知らせてきた。俺が助けに入ることは、承知だ! もう、おまえに逃げていいと、言ってくれたんだよ」
「兄様……」
「だから、叔母上と凛は、きっと大丈夫だ。今頃、手を打っているはずだ!」
「兄様……」
「だから、行こう、陽! 俺と……」
「星、落ち着いて」
「……ああ」
玲陽との再会で、我知らず興奮していた犀星は、自分が冷静さを欠いていることを自覚したらしい。悔しそうに呼吸すると、目を閉じてうつむいた。
と、玲陽はハッと息を飲んで、部屋の外を覗いた。玲陽の顔色が変わる。
「そんな……早い」
「陽?」
涼景が問う。
玲陽は、目を閉じたままの犀星をじっと見てから、意味ありげに涼景に視線を戻した。
「いいのか?」
玲陽は頷いた。
「お願いします」
「わかった」
「?」
犀星は二人の短い言葉の意味がわからず、顔を上げた。
二人の暗黙のやり取りの中で、自分だけが置いて行かれている。犀星が説明を求めようとしたとき、門の方で数人の声がした。
「涼景様!」
涼景は、答える間も無く、唐突に犀星の腹に一撃を食らわせた。
抵抗できず、犀星が気を失う。
「兄様から剣を奪ってください。ここには、他に刃物はありません」
「お前は?」
「滝を左に行った先に、小屋があります。そこへ」
「あいつらをまとめて斬って捨ててもいいんだぞ」
「ことを荒立てたくありません」
「耐えられるか?」
「今夜だけ、やり過ごします。もう、これで最後です」
「当然だ」
涼景は腰に下げていた袋から、催眠薬の小瓶を取り出すと、犀星の口に含ませた。
「こいつは眠らせておく」
犀星の刀を腰紐ごと奪うと、涼景は自分の腰に結わえた。その間に玲陽は犀星の体に着物をかぶせ、周りから見えないように隠してしまう。
これから起きること。
それは、決して犀星には見せられないことである。
それを、玲陽も涼景もよくわかっていた。
玲陽は自身のことである。また、涼景は玲陽の傷の様子から、想像がついている。
もし、犀星がそれを知れば、逆上して何をするかわからない。眠らせ、万が一に備えて武器を奪う必要があった。
「こちらです!」
涼景に支えられながら、玲陽は門から聞こえてくる男たちの声より早く、目的の小屋へと向かった。
こじんまりとした、物置小屋のような建物である。作りも決して丁寧とは言えない。
しかし、ここは玲陽が砦に幽閉された後に建てられた比較的新しいものだ。
引き戸を開けた涼景は、中の様子に目を背ける。
先ほど家探しした時に、涼景はこの小屋も調べている。そして、玲陽の傷と合わせて想像した時、真実が見えたのだ。
壁にも、床にも、血痕が残されている。何もない、ざらついた木目が剥き出しの、ただの四角い部屋だ。寝台すらなく、すみに水瓶と柄杓が置いてあるだけである。うっすらと、神経を逆撫でするような匂いが染み付いてた。
「私はここで彼らを呼びます……向こうを探されたら、兄様が見つかってしまう……」
「陽!」
よろめいて、床に倒れ込んだ玲陽を介抱しようとした涼景を、玲陽は首を振って止めた。すぐそこまで、声が迫っている。
「くそっ! 裏にいる。必要になったら、俺の名を呼べ!」
言い終わると同時に、涼景は小屋の後ろへ回り込む。岩肌と小屋の壁のわずかな隙間に潜み、呼吸を整えて、声の主たちがやってくるのを待った。
この状況に、犀星を巻き込むことは、絶対にしてはならない。
自分でも不思議なほどに、玲陽の言いたいことが理解できた。先ほど、初めて会ったという気がしない。
数人の声と足音が近づいてくる。
彼らは、何らかの目的で玲格が送り込んでいる連中だ。
犀星が男たちの接近を知ったらどうするか。
答えは、ただ一つ、問答無用で斬り殺すだろう。
そうなれば、事態は最悪である。たとえそれが誰であろうと、命のやり取りは最後にするべきだ。犀星を眠らせたのも、その刀を取り上げたのも、そんな最悪の状況を回避するためだった。ここで激情した犀星が関わってくれば、問題は大きくなるだけだ。
玲陽の視線一つで、涼景にはそれが伝わった。
それは、犀星という人間を知り尽くしている二人だからこその、共通理解だったのだろう。
普段は他者と関わりを持つことを避け、一人でいることの多い犀星だが、玲陽に関する問題となると、人が変わったように感情を剥き出しにする。喜怒哀楽の激しさは、まるで、子どものようだ。
もしかすると、本当にそうなのかもしれない。母を慕う子のように、無条件に玲陽を慕っているのかもしれない。
玲陽には、犀星のそんな性質がよくわかっている。涼景は知らないことではあったが、先ほどの犀星と玲陽のやり取りを見て、すぐに察した。
とにかく、この場に犀星だけはダメだ。
今、対処するべきは、小屋の中の玲陽の無事である。
立木の間から、すでに酒に酔ったらしい男が三人、こちらへ歩いてくるのが見えた。
先頭の男だけが、額に炎を形どった刺青を入れている。似たようなものを、涼景はよく知っている。犀星も玲陽も、形は違うが、額に紅色で炎を模した刺青がある。玲家直系の血を引く者の証だ。
ということは、先頭の男は、玲陽の義理の兄のうちの一人だろう。年齢からして、自分と同じくらいか。だとすれば、二男の
さすがは玲家に関わる者と見えて、身なりはよく、上等な代物であることがわかる。しかし、中身はそれにふさわしくはなさそうである。その粗暴さは、わずかに覗き見た立ち居振る舞いからも想像できる。
この小屋は、玲陽を暴行するためだけに建てられたのだろう。三人は、涼景には気づかず、疑うこともなく、小屋の入り口にいた玲陽を見て、近づいてきた。
涼景は、壁板のつなぎ目から、中を覗き見た。
三人とも、灯籠と、補充用の油を用意している。部屋の隅にそれらを置くと、部屋全体に光が満ちる。決して広くはない小屋には、それで十分だった。
太陽はまだ沈んではいなかったが、秋の夕暮れは早い。見る間に黄昏が小屋を包んでいく。
壁板の間から見える室内では、玲博らしい男が、手にしていた麻袋から、紐や、棍棒、木槌など、何の繋がりもないような道具を、床にぶちまけた。
玲陽はそれらをみても、身じろぎもしない。すでに見慣れているのか、怯える様子もない。
「また滝に入っていたのか?」
玲陽が羽織っていた襦袢を乱暴に剥ぎ取って、玲博は酒臭い息を玲陽に吐きかける。
「どれだけ聖水に打たれようと、腐れ切ったお前の体は元にはもどらねぇよ」
他の二人も、嫌な笑い声を立てた。
「髪も目も腐れて、その上、全身に男の精液を浴びてるんだ。今更、禊なんかしたところで意味はねぇ」
この言葉を犀星が聞かなくてよかった、と、涼景は心底思った。犀星の性分だ、相手が帝であろうと、斬りかかるに決まっている。
「今日は酒宴だぜ、陽」
玲博の『陽』という呼び声には、親しさよりも侮蔑の色が強い。涼景はたまらずに鼻を鳴らした。
「仕事ナシだ。つまり、わかるな?」
玲陽は表情を変えずに聞いているだけだ。
「壊してもいいってことだぜ?」
涼景は拳を握りしめた。元来、正義感の強い涼景が、この小屋の中で行われようとしている蛮行を見過ごせるとは思えなかった。だが、ここでことを荒立てるのは、玲陽の望みではない。玲陽は十年もの間、ひたすら耐えてきたのだ。自分が出て行って、その全てを台無しにすることはできない。
「飲ませろ」
玲博の指示で、男の一人が、抱えていた酒瓶の口を、直接玲陽の唇に押し当てた。
「少しでいいぞ」
玲博が道具を物色しながら言う。
「そいつは、元々酒に弱いからな。すぐに潰れる」
玲陽は酒を受け、苦しげに身体を震わせた。酒瓶が遠ざけられると、玲陽は激しくむせながら、床に突っ伏した。
食事も取れない状況下、空腹にいきなり酒を注ぎ込まれ、男たちに身体を委ねて苦痛と屈辱を与えられる。
そんな日々を、玲陽は繰り返してきたのか。
自らも、宮中で悪しき習慣の餌食になった経験がある涼景には、考えたくない現実だった。暴力と自尊心を打ち砕く、身体も心も粉砕されていく行為。
「ギャン!」
と、獣じみた悲鳴が、涼景を現実に引き戻した。
隙間から覗くと、陽が右肩を抑えて悶えている。玲博の手には、木槌が握られていた。
「おおげさだな。肩を外しただけだ。手を縛れ」
玲博に紐を渡された男たちは、黙って指示に従う。従う、と言うより、彼ら自身も明らかに楽しんでいる。
「博の兄貴」
赤顔の男がすでに着物をたくし上げながら、
「俺、もう、ダメだわ。一発いいか?」
「おまえは堪え性がないからな」
もう一人の背の低い男が笑う。
「仕方がねぇだろ。さっきの女ども、散々飲み食いしたくせに、ヤらせてくれねぇんだから」
赤顔の男は、玲陽の顔にまたがると、そのまま髪を鷲掴みにして、自分のものをその口に押し込んだ。
息が詰まって、逃れようと首をよじるが、弱りきっている玲陽に、それを退けるだけの力はない。まるで道具のように扱われながら、固く目を閉じ、わずかでも息を吸おうと必死だ。男の逸物が動くたびに、玲陽の薄い喉が脈打つのがわかる。
「容赦ねぇな。そんなに突っ込んだら、窒息するぞ」
何でもない、というように玲博が軽い口調で言う。
我が身の記憶に置き換えて、涼景は刀の柄に手をかけた。その手は抑え難い感情で震えている。
赤顔の男が低く唸って、一際、玲陽の咽頭が蠢き、そこで腰を回す。一通り満足したのか、男が体をどかすと、玲陽は一気に飲み込んでいたものを床に吐き捨てた。
「おいおい」
玲博が呆れたように、玲陽の後頭部を踏みつけた。
「吐く奴があるか。お前は俺たちの精液で生きているようなものだ。ちゃんと舐めろ」
「い、嫌です」
「あん?」
玲博の表情が変わる。
おそらく、今までの玲陽は、彼に逆らうことはなかったのだろう。だが、今夜は違う。これで最後、と玲陽は言っていた。もう、屈辱に耐えるつもりはない。だが、玲博にはそんな事情はわからない。
「舐めろって言ってんだ、クソが!」
胃液と酒と精液の中に乱暴に玲陽の顔を押し付けて、玲博はその残虐性を表した。
「……嫌、です」
「こいつ!」
玲博は軽々と玲陽の体を裏返すと、何の前戯もなく、手にしていた棍棒を後孔に突き刺した。
「ヒッ!」
玲陽が反射的にのけぞる。
玲博は嫌な笑みを浮かべて、一度深く中をさぐってから、勢いよく棍棒を引き抜く。と、涼景の目に、恐ろしい光景が飛び込んできた。
直腸から、もしかするとその奥まで、傷だらけの内臓が飛び出す。さすがの涼景も込み上げた吐き気を堪えるので精一杯だった。
腹の中、めちゃくちゃじゃねぇか……!
涼景は人体の構造を思い出しながら、恐る恐る、玲陽の肉の落ちた臀部を見た。はみ出した内臓の一部に、玲博が小刀を当てる。
「おい、大丈夫なのかよ」
へたばっていた赤顔が、興味深そうに玲陽の内臓を靴でつついた。
背の低い男の方は、流石に、気味が悪いのだろう、部屋の隅で顔をしかめながら、玲博を見下ろしている。
「顔に傷さえつけなければ、何をしてもいい」
「でも、死んじまったら……」
「これくらいで死ぬもんか。こうしておくと、傷口から血が出て、中がいい具合に滑るんだ」
あたりはすっかり日が陰り、小屋の隅の灯籠のあかりだけが頼りである。
その灯りの中で、玲陽と玲博の額の刺青が際立って見えた。
玲家に伝わる謎めいた力の証。
だが、今の玲陽を見る限り、体を壊された瀕死の人間にしか見えない。
玲博が、玲陽の直腸の一部を切り裂く。
その痛みに、血を吐くような悲鳴が空気をつんざいた。
内臓を引き摺り出され、切り傷を負わされた挙句、そこに男を受け入れる。
これは、性的な暴力の域を超えていた。
拷問である。
しかも、拷問すること自体が目的の、異常行為だ。
涼景はいつしか、全身に汗をかいていることに気づいた。
怒りが、彼の理性を限界まで責め立てていく。
だが、玲陽は凄まじい悲鳴を上げながらも、自分の名は呼ばなかった。
一声、呼んでくれさえすれば、すぐに助けに飛び込めるよう、涼景は小屋の入り口に向かう。
全身が憤怒に震えて、感覚が麻痺していくようだ。戦場ですら、こんな思いはしたことがない。
と、小屋の入り口に、うなだれて立っている人影がある。
見張りか? と、一瞬警戒したが、それは、もっと、最悪な人物だった。犀星だ。
「まさか、眠らせておいたのに……」
涼景の薬が効かなかったわけではない。犀星は意識が朦朧としたまま、ただ、玲陽の悲鳴に目を覚ましたのだろう。
「星、ここにいてはだめだ」
涼景は、まるで、何事も起きてはいない、と言うように、犀星を遠ざけようとする。
しかし、刻一刻と、犀星の意識は戻りつつあった。玲陽の悲痛なうめきと絶叫が闇を裂いて走る。
ぼんやりとしていた犀星の目が、次第と光を取り戻し、同時に、表情に狂気が宿る。
まずい!
涼景が思うと同時に、犀星は小屋の扉を開けた。
扉の奥に、犀星は現実を見た。
人とは思われぬほど、粗暴に扱われる、玲陽を。
男たちの男根を口腔に押し込まれ、こぼれた射精液にまみれ、床を引き摺り回され、血が滴る陰部に二人の男が同時に抽送を繰り返す様を。喉が千切れるような悲鳴が、響き渡り、美しい金色の髪が踏みにじられ、気を失いそうになれば、体を蹴り飛ばされて正気に引き戻される。玲陽の目には、絶望だけが色濃く宿る。
あまりのことに動けなくなっていた犀星の手が、ゆっくりと握り締められていく。
玲陽の姿が、犀星の理性を崩壊させる。
お終いだ。
涼景は全力で犀星の体を後ろから羽交い締めにし、地面に押し倒した。だが、その時すでに、犀星は涼景の腰から、一振りの太刀を抜き取っていた。
「まさかっ……うっ!」
恐ろしい力で涼景を振り払うと、体格でも力でも勝るはずの涼景を突き飛ばし、犀星は小屋の中に飛び込んだ。
「星っ……」
油断していたつもりはないが、涼景は犀星の力の前に、したたか、地に身体を叩きつけられ、一瞬、意識が遠のく。
玲陽を犯していた男の一人を、犀星は無言のまま、袈裟斬りにする。声一つあげなかったが、血走った犀星の眼は、明らかに我を忘れて狂気に満ち満ちている。
突然の出来事に驚いて、残った男たちが逃げ出そうとするのを、犀星が許すはずもない。
続け様に背後から、一人を串刺にすると、その背を蹴り飛ばして太刀を引き抜き、素早く最後の男の首を落とそうと振りかぶった。
「やめてぇっ!」
玲陽の掠れた叫び声が、かろうじて、最後の一人、玲博の命を救った。犀星が太刀を振り上げたまま、一瞬、動きを止める。
体勢を立て直した涼景が、犀星の手から太刀を叩き落とし、乱暴に腹を蹴り上げて弱らせると、その身体を床にねじ伏せた。
「陽! 来い!」
ままならない体を引きずって、玲陽は涼景のそばに這っていった。涼景は玲陽の手を縛っていた紐を解くと、代わりに動けずにいる犀星の手首を背中で縛り上げる。
犀星は、自分が殺した男たちの血の中に倒れ込んだまま、呆然と空を見つめていた。彼にも、何が起きたのか、理解できていないかのように。
「陽、肩を戻してやる」
逞しい胸に玲陽を抱き寄せ、涼景は今にも折れそうな肩の関節を探り、力を込めた。痛みが走ったはずだが、それ以上の苦痛にさいなまれ続けていた玲陽は、声すら上げない。
玲博は、あまりの恐怖のために、部屋の隅で失禁の憂き目を見ていた。
玲陽はともかく、突然現れた犀星と涼景の二人に、自分が何もできないことは明白だった。いや、何かできることがあるとすれば、意味をなさない言い訳くらいか……
「玲格の二男、玲博だな」
涼景の厳しい声に、玲博は震えながら頷いた。
「な、何者だ……」
「おまえを殺しても、罪にはならない男だ」
涼景の言葉は脅しではない。
過去に遡っての事情は何にせよ、玲陽に対する玲格の仕打ちは、明らかに大罪だ。
劣悪な環境への幽閉と、繰り返される暴行は、許されるものではない。
涼景の判断だけで、この場で玲博を切り捨てても、彼が責められることはない。それだけの権限を、涼景は帝から授けられている。
「陽、お前が決めろ」
涼景は、犀星同様、床に崩れ落ちている玲陽に言った。
「こいつを生かすも殺すも、お前の意志に任せる。責任は俺が取る」
玲陽は乱れた長い髪の間から、金色の瞳で玲博を見つめた。
兄弟の中でも、彼の残忍さは抜きん出ていた。自分の体が命を保てないほどに痛めつけられ、何度も死を望んだのは、玲博の仕打ちによるところが大きい。
玲陽は涼景の手を借りて、どうにか立ち上がると、犀星が抜いた刀の鞘の腰紐をほどき、両手に掴んだ。
鞘で殴るつもりか、と涼景は思ったが、玲陽はあっさりと彼に背を向けた。鞘を杖にして体を支えると、ゆっくり小屋を出ていく。
「水を浴びてきます。こんなに汚れていては、兄様を抱きしめることもできない」
震える声で寂しそうに笑うと、玲陽はよろめきながら、小屋を後にした。玲陽が歩いた後には、白と赤の雫が点々と残された。
陽……
涼景は、首を振った。
「どうやら、命拾いしたようだな」
涼景は男たち二人の死骸を一瞥し、玲博に向き直った。
「玲格に伝えろ。玲芳とその娘に何かあれば、ただでは済まない、と。陽が味わった以上の地獄を見せてやる」
「そ、そんなこと、で、できるものか……父上に楯突くことなんか……」
精一杯の意地なのか、愚かな強がりは哀れでさえあった。
と、
「できる」
今まで魂が抜けたようになっていた犀星が声を発した。
後ろ手に縛られたまま、立ち上がると、玲博の前に進み出る。
「俺を覚えているか?」
「…………」
玲博は目を瞬いたが、隅の灯籠の光だけでは判別できないらしい。
「暗いか? 涼景、灯りをつけろ」
犀星の言葉に、涼景は黙ったまま、男たちが持ち込んでいた油を部屋中に撒き散らし、灯籠の灯心をそこに放り込む。途端に火は燃え広がり、熱気のためにぶわりと風が上昇する。
炎の中に悠然と立つ犀星の顔が照らされると、玲博は声にならない悲鳴をあげた。
紺碧の髪と、深い色の瞳。額の炎の刻印。
「……さ……犀家の……」
「焼け死にたくなければ行け。陽が助けた命だ。俺は手出しはしない。……今だけは」
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つまづきながら、玲博が小屋を飛び出していく。
炎が屋根にまで達し、一部の梁が崩れ落ちてくる。
その中に立ったまま、犀星は恐れるそぶりも見せず、玲博を見送った。
「星、俺たちも行こう」
「その前に……」
星は振り向きざまに、涼景のみぞおちに強烈な膝の一撃を入れると、後退ったその脇腹に、容赦のない回し蹴りを叩き込む。
「悪かった……」
涼景は顔を歪めて、体を立て直すと、犀星の腕を解いた。と、同時に顔面に拳が飛んでくる。
涼景も予測していたのか、間一髪、その一撃だけは避けた。
「何をしているのです!」
外から、襦袢を羽織った玲陽が、驚いた目でこちらを見ている。
「危ない! 早く、外へ!」
犀星はフッと忌々しそうに荒い息を吐き捨てると、小屋を出て、真っ直ぐに玲陽を抱きしめた。
苦笑いと共に涼景が避難した直後、激しい音と熱風が三人を襲う。
犀星は玲陽の顔を胸に押し付けて抱いたまま、それを背中で受けた。
その背中を、涼景がさらに体で庇う。
崩れ、燃え続ける小屋を、玲陽はじっと見つめた。
その目には、赤々とした炎が写り込み、揺らめいたが、なぜかそれすら、小さな灯火であるかのように静かに思われた。
「博兄上は?」
小さく、玲陽は尋ねた。
「逃した」
強く玲陽を抱きしめたまま、短く、犀星が答える。
「どうして、火など?」
再び、玲陽は尋ねた。犀星は玲陽の首から腕を解くと、額を重ねた。炎の紋様が触れ合って、その一点だけ、熱を増すようだ。そのまま、穏やかに答える。
「ただの焚き火だ。水から上がったお前が、凍えないように、な」
中では、二つの死体が燃えている。そんな焚き火があってたまるか。
涼景は、今度は本気のため息をついた。改めて、犀星と玲陽の再会の意味を、考えずにはいられなかった。
自分もまた、賭けてみるしかない。
この、あまりに危うい二人の関係が、どんな未来を招くのか。明るい日は、まだ遥か遠くに思われた。