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5 痛みの奥に

 抜け道の通路を這い出るだけで、玲陽は力尽きた。

 犀星は玲陽を自分の鞍の前に座らせ、片腕で抱き寄せた。玲陽は直前に負った傷や、責め苦による疲労で、今にも気を失いそうになりながら、暖かな犀星の胸にもたれかかり、浅く不規則な呼吸をしている。

 犀星が先頭を、涼景が追手を警戒して後ろを走る。

 玲家領を脱するため、平地を一気に駆け抜け、犀家との境界の川を渡ったところで、二人はようやく手綱を緩めた。ここまでくれば、玲家も容易に手出しはできない。

「陽、頑張ったな」

 犀星は励ますように、玲陽の額に口づける。肩で息をしながら、玲陽はわずかに笑って見せた。振り落とされまいと、犀星の着物の襟を握っていた玲陽の指は、血の気も失せてしびれている。

「あとは、俺が支えるから」

 犀星は、涼景が聞いたこともないような甘い声で言った。

 夜道でよかった、と涼景は心底思った。

 まさか、白昼堂々、領民たちにふたりのこんな姿を見せるわけにはいかない。

「今頃、玲家は大騒ぎだろうな」

 涼景は、少しでもふたりを励ますように、明るく言った。

「どこかの誰かが、ご丁寧に火をつけたからな」

 と、犀星が応じる。涼景はにやりとしながら、

「さしずめ、初心な親王の、恋の炎ってやつだろ」

「それならば、しかたあるまい」

 自分で言って、犀星は少し照れ臭そうに唇を歪めた。

「だいたい……」

 照れ隠しなのか、犀星の声が若干上ずっている。

「俺はただ、明かりをつけろ、と言っただけだ。火を放てとは言っていない」

「なぁに、大した違いじゃない。明るくなっただろ?」

 玲陽は、全身を苛む痛みと、焼けただれたようにひりつく呼吸に耐えながら、それでも二人の会話を聞き逃すまいと、意識を保っていた。

 頭上で交わされる、他愛のない会話が嬉しかった。

 犀星の声は、耳を当てている肩から、直接響いてくる。心音も混じって聞こえるその声は、玲陽の心をどこまでも柔らかく包み込む真綿のようだ。

 どんなに辛くても、幸せだった。

 こんな夢を、何度も見た。

 犀星が自分を、地獄から引き上げてくれる夢。

 目覚めるたびに、孤独と寂しさで気が狂いそうだった。衝動を抑えきれず、自らを傷つけたこともあった。

 夢じゃ、ない。

 玲陽は犀星の首元に顔を擦り寄せた。応じるように力を込める犀星の強い腕に、優しく抱き寄せられる。前髪を啄むように口づけが降る。

 ああ、夢じゃない!

 不思議と、涙は出なかった。犀星に会えば、自分はなりふり構わず号泣するものだと思っていたのに、実際には信じられないほど、穏やかだ。まるで、昨日まで、一緒にいたような錯覚すら覚える。離れていたなんて、きっと、嘘だ。

 もっと、見つめたい。もっと、触れたい。もっと、話したい。

 そう願っても、今の玲陽には力が残されていない。自分がどれほど傷つき、ずたずたになっているか、玲陽は本能で感じとっている。生きていることが不思議だった。

 死にたくない。

 そう思ったとき、玲陽は同時に、自分が生きる喜びを取り戻したことを、強烈に思い知った。

「星……」

 たまらず、玲陽は名を呼んだ。

「ここにいる」

 まるで玲陽の心をすべて見透かしているように、犀星はささやき返した。

「はい……」

 玲陽は痛みを忘れ、犀星の温もりだけに心を傾けた。

 月が天頂に至る前に、犀星は、満身創痍の玲陽を、犀家の屋敷に連れ帰った。

 ことの次第を把握していた犀遠が、屋敷の手筈を整えてくれている。

 犀家の警備兵が、犀星たちを門の外まで迎えに出ており、彼らは一足先に安全を確保した。

 犀星はとるものもとりあえず、玲陽を暖かく柔らかい牀に寝かせた。

 季節は秋。歌仙では暖を取る時期ではなかったが、玲陽の体調を考え、熏炉くんろに火を入れて部屋は暖かく保たれた。玲陽の痛みを少しでも鎮めるため、薫香薬が焚かれ、部屋の中の空気はとろりとした粘性を帯びる。

 犀星は玲陽に痛み止めと誘眠効果のある薬を飲ませ、湯を含ませた布で、丁寧に体を拭き清める。玲陽はうっとりとした様子で、全てを犀星に任せていた。

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 少し遅れて、涼景が薬や治療用の道具、湯を沸かすための炉を、部屋に運び入れた。彼は玲陽を介抱する犀星を見ながら、時間をかけて調合を始めた。

 涼景が何をしていても、玲陽は不安を感じることはなかった。その薬の量や、種類、見なれない器具は、自分の体に使われるのだろうと思ったが、すべてを任せて、自分は受け入れるだけだ。

 目の前に犀星がいるのだ。何を恐れる必要があろうか。

 玲陽はふと、天井を見上げて、懐かしさを覚えた。

 玲陽にとって、ここは我が家である。そばには、あの頃と同じように、犀星がぴたりと寄り添ってくれる。新たに親交を結んだ涼景も、犀星を支えながら、自分に心を砕いてくれる。また、姿は見えなくても、近くには、信頼する犀遠の気配。家人たちが静かに話しながら行き交う足音もある。

 帰ってきた。

 玲陽の胸が熱く火照り、鼓動が怖いほどはっきりと感じられた。

 生きていたい。

 この鼓動を、止めてなるものか!

「星……」

 玲陽は痛みが落ち着くにつれ、眠気を発し、ぼんやりとした声で、犀星を呼んだ。

 息がかかるほどに顔を寄せ、犀星は玲陽の金色の髪を撫でつけた。

 玲陽は何か眩しいものでも見るように、犀星の顔を目を細めて見つめている。痩せ、やつれ、疲れ果てているとはいえ、玲陽の瞳は強い意志を宿して輝いている。対する犀星は、その生来の魅力はこれほどであったか、と思わせる透き通る笑みを浮かべ、まさに一目で誰もが心惹かれずにはいられない美しさだ。

 目の保養なのか、毒なのかわからんな。

 涼景は次の処置の支度をしながら、二人を見守った。

「……星……」

 玲陽の唇が何かを囁くように動いた。それを読み取って、犀星は優しくうなずくと、頬を撫でた。心地よさそうに、玲陽は目を閉じ、そのまま、深い眠りに沈み込んでいった。

 玲陽の意識が失せるにつれ、犀星の表情は、いつもの、落ち着いた感情のうすいものへと戻っていく。

「星、おまえも少し眠るか?」

 涼景は、静かに犀星に話しかけた。

 犀星は数秒、思案しているようだった。

「涼景、おまえは、どうする?」

 聞かれたくなかった、という顔で、涼景は仕方なく答えた。

「陽の治療をする。早いに越したことはないのでな」

「それなら、俺も手伝う」

「そう言うと思ったよ」

 涼景はため息をついた。

「気持ちはわかるが、おまえは長いこと眠っていない。いくらなんでも、そろそろ限界だ」

「お前に殴られて、さっき、眠った」

 犀星はチラリと涼景を睨んだ。

「なんだよ、まだ根に持っているのか?」

「何度も殴られた」

「おまえだってやり返しただろうが」

 涼景はさらりと犀星の視線をかわした。

「もしお前が本当に手伝うというなら、覚悟が必要だぞ」

 涼景は真剣な顔つきで、あらためて犀星を見る。

「陽のためなら」

 犀星は静かに頷いた。

 玲陽が絡むと、犀星が落ち着きを失うことを、涼景は案じていた。だが、いつまでも避けては通れない。犀星にとっては荒療治になるかもしれないが、いい機会だろう。

「待ってろ」

 涼景は丁寧に粉薬を湯に溶いたり、用意した布や棒、紐を組み合わせて道具の調整している。

 眠ったままの玲陽の髪を撫でながら、犀星はそっと、涼景の手元を盗み見た。

 涼景が言った『覚悟』の意味を、犀星も察している。

 激昂していたとはいえ、あの小屋の中で見た光景を、犀星が忘れるはずがなかった。

 玲陽の身体が、どれほど破壊されているのか。その凄まじさに、現実に起きたこととは思われない。

 玲陽の容体は、どこをとっても酷いものだった。

 身体中の外傷は、深いものはほぼ治癒していたが、栄養状態が悪かったせいか、傷跡がはっきりと残っている。皮膚の変色だけではなく、ミミズ腫れのように盛り上がったままの傷もある。背中側、心臓の裏側には、白く傷跡の浮く焼印の痕跡までが残されていた。今夜新たに付けられた圧迫痕が、すでに紫色に染まって、身体中に点在していた。白い膝の裏側には、鷲掴みにした大きな手の形が、はっきりと浮き出ていた。

「あいつら……」

 思い出すだけで、血が燃えるようだ。

 感情に任せて太刀を振るったことは、犀星も反省していた。函において強姦罪は、現行犯であればその場で死罪。その性質上、被害者は弱者であることが多く、また、過失では起こり得ない罪であるためだ。

 これは、都であろうと、歌仙であろうと、変わらない。

 ましてや、犀星にとって、玲陽の身に起きたこととなれば、もとより、彼らを生かして帰すつもりはなかった。だとしても、冷静に対処すべきだったと思うところはある。しかし、後悔はない。

 玲陽は外傷もさることながら、目に見えない傷の方が、状態は悪かった。体内の、特に臀部から腹部にかけての損傷が激しく、傷が化膿して身体中に毒素が回っている可能性があるらしい。滝の水を浴びて体を冷やしただけで倒れ込むほど、症状は悪化している。

 犀星はそっと、布団の中に手を入れると、玲陽の胸に手を当てた。治療しやすいように、服は単衣を羽織らせただけにとどめてある。手を徐々に下に動かし、腹部をさする。この薄い皮の下にある内臓が、犀星の想像を超えて傷ついている。

「腹の中が、めちゃくちゃだ」

 犀星の仕草に気づいて、準備の手を止めることなく、涼景は言った。

「お前も知っているだろ。宮中でもこういう類の傷を負わされる者は多い。だが、こいつの場合、内部が傷ついているだけじゃない。腸の一部が千切れて完全に切断されている」

 犀星はけげんな顔で涼景を振り返った。

「どうして、そんなことがわかる?」

 涼景は、一瞬だけ、犀星を見て、また、目を薬へと向けた。

「見たからだ」

「何を?」

「玲陽の、腹から飛び出した腸を」

「…………」

「肛門から千切れた直腸が引き摺り出されていた」

 思わず、犀星の胃から、何かが込み上がった。玲陽の腹に当てた手に、力がこもる。

「……星、大丈夫か?」

「……なんとか」

 犀星は、自分の感情を持て余しながら、声を絞った。

「それ、大丈夫には思えないが」

 その質問は、犀星にとって、大きな恐怖をはらんでいる。

「……命は……?」

「危ない」

 涼景は言うと、玲陽にかけていたじょくをずらし、犀星の手があてがわれている辺りを、燭台で照らした。

「普通なら、立って歩けるはずもない。痛みと出血で悶絶している。そして、とっくに死んでいる」

「そんな……」

「生きているのが奇跡だ」

 犀星はうなだれ、膝の上で手を握りしめた。

「もっと早く、くるべきだったのに……」

「確かに、それならまだ、ここまでにはならずに済んだかもしれない」

「…………」

「だが、星。逆に考えろ。お前は間に合った。こいつは生きている。そして、お前と再会して、生き続けようとしている。余計なことは考えるな。今は、目の前の現実と向き合え」

「……ああ」

 玲陽を再び失うかもしれない。それも、避けがたく、永遠に。

 不安に取り憑かれている犀星に、痺れを切らしたように涼景は大声をかけた。

「手当てを覚える気がないなら、出ていってくれ。気が散る」

「嫌だ、そばにいる」

「だったら、しっかりしろ!」

 犀星を一括すると、涼景は玲陽の肋骨の一番下に手を添えた。

「陽に触るぞ。文句を言うなよ」

「わかっている」

 犀星は自分の手が、いつの間にか震えていることに気づいた。涼景はそれを見ても何も言わない。涼景のこのような無言の配慮が嬉しいと、犀星は思う。

「こんな体では、固形物は食べられない」

 涼景はつぶやくように言った。犀星は顔をあげた。

「排泄できない、ってことか?」

「ああ。だが、人の体ってのは不思議でな。食べなくても、少しずつ排泄物が溜まっていく。ここを触って見ろ」

 涼景は下腹部の一部を犀星に触らせた。そこだけ、赤子の拳大に膨らんでいる。

「中に、何か、ある」

「そうだ。ここに、本来なら排泄されるべきものが溜まっている。おそらく、ここで、腸が切れているんだろう」

「……どうやって治療するんだ?」

 涼景は盆の上に用意してあった、布が巻かれた棒を手にした。

「千切れた直腸の下部を、この棒でもとの位置に押し込む」

「そんな乱暴な!」

 犀星は小さく叫んだ。

「本当なら、腹を割いて、詰まっているものを取り出し、切れたところを縫い合わせる手術が必要だが、残念ながら、今の陽にそれに耐えるだけの体力はない。だから……」

 言いながら、涼景は玲陽の体を慎重に裏返して、うつ伏せにさせる。

 眠っているというより、ほとんど気を失っている玲陽は、反応を示さなかった。

 涼景は注意をはらいながら、玲陽の下腹部に毛氈もうせんを丸めて差し込み、腰を持ち上げる。犀星は玲陽の腰をささえ、膝を曲げて脚を固定した。

 眠っていて欲しい。せめて、痛みを感じないように。恐怖を感じないように。

 犀星は祈りをこめて、褥を三つ折りにし、玲陽の上半身が冷えないよう、柔らかく包み込む。

 その間に、涼景は棒に巻かれた布に、薬を染み込ませた。

「一緒に、薬油を入れて、挿入の摩擦を減らす」

 涼景の薬の調合を、犀星はしっかりと見て覚えた。

「その薬は?」

「紫雪だ。解毒や鎮痛の効果がある」

「よく手に入ったな。皇家でしか使われない貴重な薬と聞いたが」

 涼景は、何を言っている、という顔で、犀星を見た。

「これは、もしもの時に備え、親王様のために太医から預かってきたものだ。おまえに使うなら、不自然ではあるまい」

「……ああ」

 犀星は、驚いたような反応を見せ、納得した。

 こいつ、すっかり自分の立場を忘れていたな。

 涼景は、嬉しいような、呆れたような、妙な気分だった。

 涼景は玲陽の足元に回ると、患部が見える位置に犀星を呼ぶ。

「ちゃんと見ろ。そして、覚えろ。俺よりおまえが処置したほうが、玲陽も安心する」

 黙って、犀星は頷いた。

「いいか? 腸を正しい位置に戻して、傷口に薬を塗り重ねる。あとは、こいつの生命力に賭けるしかない」

 涼景は左手を玲陽の腹側に入れて感触を探りながら、右手に持った棒を少しずつ入れていく。探りあてた場所で、薬を塗り込むように念入りに動かすと、それを静かに引き抜く。

 棒に巻かれた布が、鮮血に染まって出てくるのを、犀星はじっと見つめた。

「腸は途中で曲がっている。ここまでは真っ直ぐ、その先は左に曲がって、腹を包むように……」

 説明しながら、涼景は何度も、棒に布を巻き直し、薬湯を染み込ませ、繰り返し慎重に手当てを続ける。犀星も、見よう見まねで布の準備を手伝った。血を吸った布は、炉にくべてそのまま焼却する。

 玲陽は眠ったまま、みじろぎもしない。

 長時間かけて、丁寧にふたりは手当てを続けた。

 調合した薬をすべて使い切ると、涼景は玲陽を仰向けに戻してやった。

「覚えたか? 次からはおまえがやるんだ」

 犀星は額に浮いた汗を拭って、うなずいた。

 これで終わりか、と思った犀星に反して、涼景はまた別の薬を湯に溶かしている。

「今度はこっちだ」

 言いながら、涼景は今かけたばかりの褥をめくり、玲陽の脚の間に明かりを当てた。

 反射的に、犀星が臆する。玲陽の会陰部の途中に、何箇所もの指先大の膨らみができている。表面は赤く腫れ、白い玲陽の肌との対比に、犀星は軽い恐怖すら感じた。

「尿道が酷く傷ついている」

 涼景は布を湯に浸して絞ると、玲陽の下腹部を覆って温めた。そうしながら、毛氈を薄めに畳んで腰の下に敷き、少しだけ、持ち上げる。

「針のような形状のもので痛めつけられた跡だ」

「赤く腫れているのは?」

「おそらく、尿道の途中が傷つき、そこに膿が溜まっている」

 涼景は大きめの杯いっぱいに薬湯を用意していた。

「あれが破裂して全身に膿が回ると、他の臓器もやられる。そうなったら終わりだ。だから、膿を取り除く」

「うん」

「方法はある。ひとつひとつの腫瘍を切開して洗浄するか、手で押し出しながら吸い出すか」

 犀星の目が困惑に揺れる。

「どうする? お前が決めてくれ」

 涼景は判断を犀星に任せた。犀星は玲陽に体を寄せた。

「これ以上、傷なんてつけたくない」

「おまえなら、そう言うと思っていた」

 涼景は少し表情を和らげた。犀星の返事を想定して、彼は湿布や薬湯を用意していたのだ。

「湿布で温めれば、膿が柔らかくなり、吸い出しやすくなる」

 涼景は、犀星に薬湯を進めた。

「星、まず、これで口をゆすげ。消毒薬だ」

「え?」

「俺にはやらせてくれないんだろ? おまえがやるんだ」

 涼景の問いに、犀星は真顔で頷いた。

 涼景は処置を犀星に任せ、自分は補助にまわった。

 犀星は玲陽の陰茎に指を添えると、腫瘍の硬さを確かめた、表面の皮膚が薄く、力を加えると皮膚が破れてしまいそうな怖さがある。犀星は細心の注意を払って、腫瘍をひとつひとつ揉み、力を加減しながら、しこりをほぐしていく。

「いいか、膿が出ても、絶対に飲み込むな。吐き出せ」

 犀星はうなずくと、消毒薬で口内をゆすぎ、玲陽の先を咥え込む。その動きに、全くの躊躇がないことに、逆に涼景の方が驚かされる。

 犀星は丁寧に腫瘍を押し、頃合いをみて強く吸った。ざらりとした粘液が舌に触れ、瞬く間に腐臭と苦味が口の中に広がる。嗅覚を弄する匂いが鼻腔を抜け、眉間のあたりに痛みが走った。わずかに表情が歪んだが、犀星は口を離さなかった。

 限界まで耐えると、涼景の用意した皿に、黄緑がかったどろりとした液を吐き出す。

 差し出された消毒薬で、すぐに口をすすいで、犀星は荒く息をした。

 犀星が離れている間に、涼景は湿布を取り替えた。今、処置したところは腫瘍が凹み、玲陽の元の形を取り戻している。犀星は、舌で上唇を舐めた。

「まずい……」

「美味いわけがないだろ」

 涼景は吐き出された膿を一瞥した。

「毒みたいなもんなんだから」

「いや、そう言う意味じゃなくて……」

 と、犀星は視線を彷徨わせた。

「うん?」

 どうにも落ち着きがないように感じられる。

「続けられるか? 辛いなら、代わるが……」

「いや」

「なんだよ?」

 涼景の真剣な顔を見て、犀星は気まずそうに、口角を下げた。涼景はその顔に、かすかに浮かんだ羞恥を見た。

「星、おまえ、興奮してんのか?」

「……してない!」

「そっちまでは面倒見ないぞ」

「お前になんか頼まない」

「してんじゃないか」

 犀星は慌ただしく口をゆすいで、再び、膿を吸い出した。

 玲陽がいれば犀星が立ち直ったように、犀星が自分を取り戻せば、玲陽も助かる。

 医術者らしからぬ精神論で、涼景は胸を撫で下ろした。

 なんとなく玲陽の顔を見れば、先ほどよりも安らかで、呼吸も深く安定している。

 やっぱり、おまえは強いんだな、陽。

 涼景はこの時、玲陽の回復を確信した。


 東雨は、自分だけが完全に除け者にされていることに、巨大なる不満を抱えていた。

 犀家に到着した夜、犀星と別れた東雨が目を覚ました時、すでに犀星は涼景とともに出かけた後であった。それでも一日ぐらいなら、と、我慢して過ごしていた東雨は、夜になって帰ってきた犀星を大喜びで迎えに出た。

 置いて行かれたことへの不満を言い、犀星たちが今日一日何をしていたのか聞き出そうと意気込んだ。だが、犀家に戻った犀星と涼景は、東雨を相手に話をするような雰囲気ではなかった。

 犀星は自分の馬に、白く薄い着物を纏った人物をひとり、乗せていた。松明の揺れる灯りの中では詳しいことはわからなかったが、どうやら、それが玲陽だったのだ、と、東雨は後から家人たちに聞かされた。

 犀星が玲陽と会えた。

 東雨は素直に喜んで、すぐに挨拶に行こうとしたが、それはあっさりと家人たちに止められてしまった。

 玲陽は酷い怪我をしているため、今は治療に専念し、誰にも会えない、という理由だった。

 玲陽どころか、つきそっている犀星にさえ会わせてもらえない。

 周囲から漏れ聞こえた話では、犀星と涼景が玲家との間に火種を撒いた、との情報もあった。

 これは、犀家当主の犀遠に叱られるのではないか、と東雨は案じたが、状況は真逆だった。

 どういうわけか、犀遠をはじめ、みな、犀星たちの行ったことを好意的に捉えて、玲家との全面対決も視野に、意気揚々と構えていたのである。

 その理由を、東雨は仕事を手伝っていた馬丁から聞いた。

 玲陽を子供時代から知っている馬丁の男は、楽しそうに、話をしてくれた。

 玲陽が犀星と、この屋敷で仲の良い兄弟のようにして育ったこと、犀星が都へ行く時、仕方なく離れ離れになったこと。その後、玲家によって幽閉されていたこと。そして、今回、犀星が玲陽を救い出し、連れ帰ったこと。

 どうせなら、直接犀星から聞きたかったが、今は待つしかなかった。

 東雨の切り替えは早かった。犀星に会えないとなると、今度は屋敷の家人たちを訪ねてまわった。一通り、家の仕事がこなせる東雨は、どこに行っても重宝された。厨房で料理を手伝いながら、馬小屋で馬の蹄を磨きながら、庭の隅で薪割りに励みながら、東雨はさまざまな立場の者たちから、それとなく、犀星と玲陽の過去の話や、玲陽の怪我の様子などを聞き出した。

 屋敷について五日目、東雨は中庭に面した回廊に座って刀の手入れをしながら、いつになったら会えるのか、と、ため息を繰り返していた。

 玲陽の怪我の状態はよくないらしく、犀陽と涼景以外は、部屋にも入れてくれない。たまに犀星と廊下ですれ違うが、挨拶をする程度で、すぐに玲陽の部屋に戻ってしまう。

 今まで、犀星の世話は全て自分がしてきたのに、犀家の使用人たちに全てとって代わられて、自分はやることがない。

 午後の空は美しく澄んでいたが、風は冷たく、秋の装いを濃くしている。

「どうした?」

 気配もなく、後ろから声がかけられ、慌てて刀を取り落としそうになりながら、東雨は振り返った。

「あ……侶香様」

 東雨は犀遠を前に、膝を正して礼をした。さすがは宮中でしつけられている東雨は、このようなときはそつなくこなす。犀遠も若い頃は宮中で、今の涼景と同じような職についていた。東雨の振る舞いが、教養のある作法であることが、侶香にはすぐにわかった。

「東雨」

「はい」

 東雨は顔を伏せたまま、返事をした。

「ここでの暮らし、慣れたか?」

「はい」

「不自由があれば、遠慮なく言いなさい」

「ありがとうございます」

「ときに」

 下を向いている東雨には見えなかったが、侶香は口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「星はおまえに、人と話すときは目を逸らすよう、教えているのか?」

「……え?」

 東雨はハッした。

 そうだ、この人は、『あの』犀星の養父なのだ。宮中では、目下の者が目上の者の顔を見るのは、非礼とされている。犀遠は官職についているわけではないが、東雨は念のため、その通例に従っていた。

「いいえ」

 東雨は顔を上げた。遠慮なく、犀遠を見上げる。

「若様は、話をするときは、相手の目を見るように、と」

 犀遠は笑ってうなずいた。

「ならば、ここでもそうしてくれ。その方が気が楽だ」

「はい」

 言い方が、若様にそっくりだ。

 東雨は、犀星に会えたような気がして、懐かしく、嬉しかった。

 犀遠は東雨の隣に親しく腰を下ろした。置かれていた東雨の細い刀を見る。

「その刀、見せてもらってもよいか?」

「はい」

 東雨は両手で持ち上げて、差し出した。

「ほう、よく手入れしてある」

 犀遠は刀を受け取ると、日にかざした。

「これは、お前のか?」

「はい。自分の刀は自分で整えるのが刀に対する礼儀、そうでなければ、いざという時に身を守ってはくれない、と、若様が……」

「あいつ、生意気を言いおって……」

 犀遠はニヤリと笑うと、東雨に耳打ちする。

「それは、わしの受け売りだ」

 思わず、東雨は呆れたような笑顔を見せる。

 この屋敷に来てから、東雨と最も関係を持っていたのが、犀遠である。

 まるで、父親のように東雨に話しかけ、からかい、笑顔にしてくれた。見知らぬ土地に来た少年の緊張をほぐすかのような心遣いを、東雨自身、ありがたく感じている。あの、無愛想で人嫌いな犀星を育てた父親とは思えない。

 と、そこまで考えて、血は繋がっていなかったことを思いだす。

 東雨と並んで庭に面した回廊に座り、呑気に大あくびをしているこの初老の男は、かつて、宮中で名を馳せた武術の名手であったという。だが、今の彼からはそんな過去の堅苦しい立場など、微塵も感じられない。陽気な酒場の主人のようですらある。

「あの……」

 東雨は、興味本位で、犀遠に話しかけた。

「若様のご様子はいかがですか? 涼景様から、近づくと理不尽に睨まれるから避けた方がいい、と脅されていまして……」

「はは…… 確かに。腹の虫がおさまらないのだろう。わしもさっき廊下で声をかけたが、無視された」

 何でもない、と笑い飛ばす犀遠に、東雨は親しみを覚えた。本当にこの人が、宮中で恐れられた将軍だったのだろうか。

「子が親を無視するなんて…… いつもの若様なら、逆に叱りつけるところなのに」

「いつものあいつは、そんなに真面目なのか?」

「ええ。真面目というか、融通が効かないというか、頑固というか、とにかく、言い出したら曲げないから、こっちが迷惑してます。滅多に笑わないし、冗談を言う時も真顔だし、本気なのかどうかもよくわかりません」

「変わらんなぁ」

「子供の時から、あんな感じなんですか?」

「そうだな。物心つくまでは、普通の無邪気な子供だったんだが……同年代の子供たちより、妙に大人びたところがあって、可愛げがなくなった。陽にだけは懐いていたがな」

 犀遠の物言いに、東雨は思わず笑った。

 可愛くない、と言うわりには、犀遠は実に嬉しそうである。

「でも、時々、可愛いんですよ」

 すっかり、犀遠に気を許している東雨は、遠慮なく言った。

「若様、草花がお好きでずっと眺めていたり、路上の野良猫をかまったり……それから、時々、体を丸めて寝るんです。子どもみたいに」

「そうか……おまえは、本当に星によくしてくれているのだな」

「え?」

 東雨は犀遠の横顔を見て、首を傾げた。

「東雨を見ていればわかる。あいつは幸せ者だ」

 なんとなく照れ臭い気がして、東雨は黙った。犀遠の目は、どこか遠くを見ているようだった。

 中庭の隅の山桜の木の枝が、一際強く吹いた風に大きく揺らいだ。

「都に送り出すとき、わしはあれに、何もしてやれなかった。宝順帝の勅命とあらば、逆らうことは領民の命に関わる」

「若様は、親王様として、都に歓迎されたのでは?」

「あいつは、駒だ」

「え?」

「大人たちの都合で、いいように利用されてしまった」

 明るかった犀遠の表情に、やるせない思いが走る。

「そんな話、初めて聞きました」

「あれは言わないだろうが、ちゃんとわかっていたはずだ」

 犀遠は、深い森を思わせる静けさを感じさせる声で、

「お前は、星の出生を知っているのだろう?」

「はい、一通りは……」

「妻を先帝に召し上げられた時、私の命乞いをしてくれたのが、当時皇子だった宝順帝だ」

「まさか! 帝が?」

 今まで、さんざん、涼景から帝の悪評を聞かされてきた東雨が、思わず本音で叫んでしまう。

 だが、犀遠はそれを咎めることもなく、逆に何度か小さく頷いた。宝順の裏表の激しさを、この老獪も知っていると見える。

「あの頃の宝順帝は、お優しい方だった。子どもながらに、妻を取り上げられたわしを不憫に思ったのだろう。あのとき、わしは、処刑されることが決まっていた。妻との心中を図った罪でな。なのに、都下がりで済ませてくれた」

「命を助ける代わりに、二度と都には立ち入れない、ということですか」

「ああ。しかも、犀家の領地もそのまま、残してくれた。後妻をとることも許されたが、一人でいるのはわしの意志だ」

「それで、侶香様は、ここでずっと……」

「うむ。先帝に奪われた妻の行く末が気がかりでな。死にぞこなった」

 東雨は膝を抱えて、じっと話を聞いていた。

「先帝は、玲家の血を引く姫が欲しかったのだ。玲家の女児には力があると言われているからな。だが、生まれたの皇子だった」

「それは、聞いたことがあります。若様、命を狙われたとか」

「必要のない血を残したくはなかったのだろう。妻は出産後にすぐ亡くなってしまったが、芳が星を連れ帰った。その時も、先帝から逃げられるよう、算段をつけてくれたは、宝順帝であった」

「宝順帝と先帝が衝突したの、その直後でしたよね」

「そうだ」

 東雨が生まれる前の話である。

「そこまでして、宝順帝は若様を助けてくれた、ってこと?」

「そのような方であったのだ」

 東雨は、現在の帝しか知らないが、同一人物とは思われなかった。

「だから、宝順帝は若様のこと、宮中に呼んだのか……あれ? それなら、歓迎していたんじゃ……自分が助けた弟なんだから」

「そこはまた、少々複雑でな」

 犀遠はため息をついた。

「玲家が関係してくる」

「玲家……」

「玲家にとって、星は皇家から得た人質だ。星を宮中に返す代わりに、この土地での、玲家の支配に干渉しないよう、交渉の材料に使った」

「玲家……でも、若様は『犀』の姓を……あれ?」

 寂しそうに、犀遠は首を振った。

「確かに、星はここで、わしと一緒に暮らしてはいたが、それはあくまでも養い親としてだ。星とは血のつながりもない。先帝の落胤であるから、わしが養子に迎えることもできん。形式的なつながりすらないのだ」

「……そうか」

「だが、玲家は違う。彼らには、堂々と、星の所有を主張する根拠がある。星の母親は、玲家の当主候補だったのだから」

 東雨が難しい顔をして、庭の少し先を見つめた。

 柔らかそうな土の上を、枯葉が風に乗ってくるくる回りながら通り過ぎてゆく。

「なんか、嫌ですね」

「うん?」

「だって、若様を育てたのは、侶香様じゃないですか。それなのに、都合のいい時だけ、玲家が利用するとか、虫が良すぎます」

「まぁ、そうでもない」

「え?」

「もともと、星は芳が連れ帰ったのだ。だから、本来はそのまま、玲家で育てられるはずだった」

「あ、そうか……」

「わしが、どうしても、と頼み込んだのだ。星は妻の産んだ忘れ形見。せめて、その成長を見守りたかった。そこで、わしは芳と取引をした」

「取引?」

「あの頃、芳はちょうど、陽を産んだ。だが、父親はいない。当然、玲家内に陽の居場所はなかった。そのままではいずれ、殺されてしまう。わしは星を預けてもらう代わりに、陽も安全に育てることを提案した。だから、一方的に玲家が横暴なわけでもないのだ」

 東雨は、何度か小さく頷いた。

「だがな」

 犀遠は、ゆっくりと立ち上がった。東雨が見上げると、そこには、今まで見たことのない、厳しい犀遠の顔があった。

「いかに玲家といえど、此度のこと、許しおくわけにはいかぬ。大切な息子を、二人も奪われてなるものか」

 犀遠の企みは、東雨には想像もつかなかった。だが、犀星と玲陽に向けられた愛情の大きさだけは、強い決意とともに、東雨の胸を確かに打ったのである。

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