抜け道の通路を這い出るだけで、玲陽は力尽きた。
犀星は玲陽を自分の鞍の前に座らせ、片腕で抱き寄せた。玲陽は直前に負った傷や、責め苦による疲労で、今にも気を失いそうになりながら、暖かな犀星の胸にもたれかかり、浅く不規則な呼吸をしている。
犀星が先頭を、涼景が追手を警戒して後ろを走る。
玲家領を脱するため、平地を一気に駆け抜け、犀家との境界の川を渡ったところで、二人はようやく手綱を緩めた。ここまでくれば、玲家も容易に手出しはできない。
「陽、頑張ったな」
犀星は励ますように、玲陽の額に口づける。肩で息をしながら、玲陽はわずかに笑って見せた。振り落とされまいと、犀星の着物の襟を握っていた玲陽の指は、血の気も失せてしびれている。
「あとは、俺が支えるから」
犀星は、涼景が聞いたこともないような甘い声で言った。
夜道でよかった、と涼景は心底思った。
まさか、白昼堂々、領民たちにふたりのこんな姿を見せるわけにはいかない。
「今頃、玲家は大騒ぎだろうな」
涼景は、少しでもふたりを励ますように、明るく言った。
「どこかの誰かが、ご丁寧に火をつけたからな」
と、犀星が応じる。涼景はにやりとしながら、
「さしずめ、初心な親王の、恋の炎ってやつだろ」
「それならば、しかたあるまい」
自分で言って、犀星は少し照れ臭そうに唇を歪めた。
「だいたい……」
照れ隠しなのか、犀星の声が若干上ずっている。
「俺はただ、明かりをつけろ、と言っただけだ。火を放てとは言っていない」
「なぁに、大した違いじゃない。明るくなっただろ?」
玲陽は、全身を苛む痛みと、焼けただれたようにひりつく呼吸に耐えながら、それでも二人の会話を聞き逃すまいと、意識を保っていた。
頭上で交わされる、他愛のない会話が嬉しかった。
犀星の声は、耳を当てている肩から、直接響いてくる。心音も混じって聞こえるその声は、玲陽の心をどこまでも柔らかく包み込む真綿のようだ。
どんなに辛くても、幸せだった。
こんな夢を、何度も見た。
犀星が自分を、地獄から引き上げてくれる夢。
目覚めるたびに、孤独と寂しさで気が狂いそうだった。衝動を抑えきれず、自らを傷つけたこともあった。
夢じゃ、ない。
玲陽は犀星の首元に顔を擦り寄せた。応じるように力を込める犀星の強い腕に、優しく抱き寄せられる。前髪を啄むように口づけが降る。
ああ、夢じゃない!
不思議と、涙は出なかった。犀星に会えば、自分はなりふり構わず号泣するものだと思っていたのに、実際には信じられないほど、穏やかだ。まるで、昨日まで、一緒にいたような錯覚すら覚える。離れていたなんて、きっと、嘘だ。
もっと、見つめたい。もっと、触れたい。もっと、話したい。
そう願っても、今の玲陽には力が残されていない。自分がどれほど傷つき、ずたずたになっているか、玲陽は本能で感じとっている。生きていることが不思議だった。
死にたくない。
そう思ったとき、玲陽は同時に、自分が生きる喜びを取り戻したことを、強烈に思い知った。
「星……」
たまらず、玲陽は名を呼んだ。
「ここにいる」
まるで玲陽の心をすべて見透かしているように、犀星はささやき返した。
「はい……」
玲陽は痛みを忘れ、犀星の温もりだけに心を傾けた。
月が天頂に至る前に、犀星は、満身創痍の玲陽を、犀家の屋敷に連れ帰った。
ことの次第を把握していた犀遠が、屋敷の手筈を整えてくれている。
犀家の警備兵が、犀星たちを門の外まで迎えに出ており、彼らは一足先に安全を確保した。
犀星はとるものもとりあえず、玲陽を暖かく柔らかい牀に寝かせた。
季節は秋。歌仙では暖を取る時期ではなかったが、玲陽の体調を考え、
犀星は玲陽に痛み止めと誘眠効果のある薬を飲ませ、湯を含ませた布で、丁寧に体を拭き清める。玲陽はうっとりとした様子で、全てを犀星に任せていた。
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少し遅れて、涼景が薬や治療用の道具、湯を沸かすための炉を、部屋に運び入れた。彼は玲陽を介抱する犀星を見ながら、時間をかけて調合を始めた。
涼景が何をしていても、玲陽は不安を感じることはなかった。その薬の量や、種類、見なれない器具は、自分の体に使われるのだろうと思ったが、すべてを任せて、自分は受け入れるだけだ。
目の前に犀星がいるのだ。何を恐れる必要があろうか。
玲陽はふと、天井を見上げて、懐かしさを覚えた。
玲陽にとって、ここは我が家である。そばには、あの頃と同じように、犀星がぴたりと寄り添ってくれる。新たに親交を結んだ涼景も、犀星を支えながら、自分に心を砕いてくれる。また、姿は見えなくても、近くには、信頼する犀遠の気配。家人たちが静かに話しながら行き交う足音もある。
帰ってきた。
玲陽の胸が熱く火照り、鼓動が怖いほどはっきりと感じられた。
生きていたい。
この鼓動を、止めてなるものか!
「星……」
玲陽は痛みが落ち着くにつれ、眠気を発し、ぼんやりとした声で、犀星を呼んだ。
息がかかるほどに顔を寄せ、犀星は玲陽の金色の髪を撫でつけた。
玲陽は何か眩しいものでも見るように、犀星の顔を目を細めて見つめている。痩せ、やつれ、疲れ果てているとはいえ、玲陽の瞳は強い意志を宿して輝いている。対する犀星は、その生来の魅力はこれほどであったか、と思わせる透き通る笑みを浮かべ、まさに一目で誰もが心惹かれずにはいられない美しさだ。
目の保養なのか、毒なのかわからんな。
涼景は次の処置の支度をしながら、二人を見守った。
「……星……」
玲陽の唇が何かを囁くように動いた。それを読み取って、犀星は優しくうなずくと、頬を撫でた。心地よさそうに、玲陽は目を閉じ、そのまま、深い眠りに沈み込んでいった。
玲陽の意識が失せるにつれ、犀星の表情は、いつもの、落ち着いた感情のうすいものへと戻っていく。
「星、おまえも少し眠るか?」
涼景は、静かに犀星に話しかけた。
犀星は数秒、思案しているようだった。
「涼景、おまえは、どうする?」
聞かれたくなかった、という顔で、涼景は仕方なく答えた。
「陽の治療をする。早いに越したことはないのでな」
「それなら、俺も手伝う」
「そう言うと思ったよ」
涼景はため息をついた。
「気持ちはわかるが、おまえは長いこと眠っていない。いくらなんでも、そろそろ限界だ」
「お前に殴られて、さっき、眠った」
犀星はチラリと涼景を睨んだ。
「なんだよ、まだ根に持っているのか?」
「何度も殴られた」
「おまえだってやり返しただろうが」
涼景はさらりと犀星の視線をかわした。
「もしお前が本当に手伝うというなら、覚悟が必要だぞ」
涼景は真剣な顔つきで、あらためて犀星を見る。
「陽のためなら」
犀星は静かに頷いた。
玲陽が絡むと、犀星が落ち着きを失うことを、涼景は案じていた。だが、いつまでも避けては通れない。犀星にとっては荒療治になるかもしれないが、いい機会だろう。
「待ってろ」
涼景は丁寧に粉薬を湯に溶いたり、用意した布や棒、紐を組み合わせて道具の調整している。
眠ったままの玲陽の髪を撫でながら、犀星はそっと、涼景の手元を盗み見た。
涼景が言った『覚悟』の意味を、犀星も察している。
激昂していたとはいえ、あの小屋の中で見た光景を、犀星が忘れるはずがなかった。
玲陽の身体が、どれほど破壊されているのか。その凄まじさに、現実に起きたこととは思われない。
玲陽の容体は、どこをとっても酷いものだった。
身体中の外傷は、深いものはほぼ治癒していたが、栄養状態が悪かったせいか、傷跡がはっきりと残っている。皮膚の変色だけではなく、ミミズ腫れのように盛り上がったままの傷もある。背中側、心臓の裏側には、白く傷跡の浮く焼印の痕跡までが残されていた。今夜新たに付けられた圧迫痕が、すでに紫色に染まって、身体中に点在していた。白い膝の裏側には、鷲掴みにした大きな手の形が、はっきりと浮き出ていた。
「あいつら……」
思い出すだけで、血が燃えるようだ。
感情に任せて太刀を振るったことは、犀星も反省していた。函において強姦罪は、現行犯であればその場で死罪。その性質上、被害者は弱者であることが多く、また、過失では起こり得ない罪であるためだ。
これは、都であろうと、歌仙であろうと、変わらない。
ましてや、犀星にとって、玲陽の身に起きたこととなれば、もとより、彼らを生かして帰すつもりはなかった。だとしても、冷静に対処すべきだったと思うところはある。しかし、後悔はない。
玲陽は外傷もさることながら、目に見えない傷の方が、状態は悪かった。体内の、特に臀部から腹部にかけての損傷が激しく、傷が化膿して身体中に毒素が回っている可能性があるらしい。滝の水を浴びて体を冷やしただけで倒れ込むほど、症状は悪化している。
犀星はそっと、布団の中に手を入れると、玲陽の胸に手を当てた。治療しやすいように、服は単衣を羽織らせただけにとどめてある。手を徐々に下に動かし、腹部をさする。この薄い皮の下にある内臓が、犀星の想像を超えて傷ついている。
「腹の中が、めちゃくちゃだ」
犀星の仕草に気づいて、準備の手を止めることなく、涼景は言った。
「お前も知っているだろ。宮中でもこういう類の傷を負わされる者は多い。だが、こいつの場合、内部が傷ついているだけじゃない。腸の一部が千切れて完全に切断されている」
犀星はけげんな顔で涼景を振り返った。
「どうして、そんなことがわかる?」
涼景は、一瞬だけ、犀星を見て、また、目を薬へと向けた。
「見たからだ」
「何を?」
「玲陽の、腹から飛び出した腸を」
「…………」
「肛門から千切れた直腸が引き摺り出されていた」
思わず、犀星の胃から、何かが込み上がった。玲陽の腹に当てた手に、力がこもる。
「……星、大丈夫か?」
「……なんとか」
犀星は、自分の感情を持て余しながら、声を絞った。
「それ、大丈夫には思えないが」
その質問は、犀星にとって、大きな恐怖をはらんでいる。
「……命は……?」
「危ない」
涼景は言うと、玲陽にかけていた
「普通なら、立って歩けるはずもない。痛みと出血で悶絶している。そして、とっくに死んでいる」
「そんな……」
「生きているのが奇跡だ」
犀星はうなだれ、膝の上で手を握りしめた。
「もっと早く、くるべきだったのに……」
「確かに、それならまだ、ここまでにはならずに済んだかもしれない」
「…………」
「だが、星。逆に考えろ。お前は間に合った。こいつは生きている。そして、お前と再会して、生き続けようとしている。余計なことは考えるな。今は、目の前の現実と向き合え」
「……ああ」
玲陽を再び失うかもしれない。それも、避けがたく、永遠に。
不安に取り憑かれている犀星に、痺れを切らしたように涼景は大声をかけた。
「手当てを覚える気がないなら、出ていってくれ。気が散る」
「嫌だ、そばにいる」
「だったら、しっかりしろ!」
犀星を一括すると、涼景は玲陽の肋骨の一番下に手を添えた。
「陽に触るぞ。文句を言うなよ」
「わかっている」
犀星は自分の手が、いつの間にか震えていることに気づいた。涼景はそれを見ても何も言わない。涼景のこのような無言の配慮が嬉しいと、犀星は思う。
「こんな体では、固形物は食べられない」
涼景はつぶやくように言った。犀星は顔をあげた。
「排泄できない、ってことか?」
「ああ。だが、人の体ってのは不思議でな。食べなくても、少しずつ排泄物が溜まっていく。ここを触って見ろ」
涼景は下腹部の一部を犀星に触らせた。そこだけ、赤子の拳大に膨らんでいる。
「中に、何か、ある」
「そうだ。ここに、本来なら排泄されるべきものが溜まっている。おそらく、ここで、腸が切れているんだろう」
「……どうやって治療するんだ?」
涼景は盆の上に用意してあった、布が巻かれた棒を手にした。
「千切れた直腸の下部を、この棒でもとの位置に押し込む」
「そんな乱暴な!」
犀星は小さく叫んだ。
「本当なら、腹を割いて、詰まっているものを取り出し、切れたところを縫い合わせる手術が必要だが、残念ながら、今の陽にそれに耐えるだけの体力はない。だから……」
言いながら、涼景は玲陽の体を慎重に裏返して、うつ伏せにさせる。
眠っているというより、ほとんど気を失っている玲陽は、反応を示さなかった。
涼景は注意をはらいながら、玲陽の下腹部に
眠っていて欲しい。せめて、痛みを感じないように。恐怖を感じないように。
犀星は祈りをこめて、褥を三つ折りにし、玲陽の上半身が冷えないよう、柔らかく包み込む。
その間に、涼景は棒に巻かれた布に、薬を染み込ませた。
「一緒に、薬油を入れて、挿入の摩擦を減らす」
涼景の薬の調合を、犀星はしっかりと見て覚えた。
「その薬は?」
「紫雪だ。解毒や鎮痛の効果がある」
「よく手に入ったな。皇家でしか使われない貴重な薬と聞いたが」
涼景は、何を言っている、という顔で、犀星を見た。
「これは、もしもの時に備え、親王様のために太医から預かってきたものだ。おまえに使うなら、不自然ではあるまい」
「……ああ」
犀星は、驚いたような反応を見せ、納得した。
こいつ、すっかり自分の立場を忘れていたな。
涼景は、嬉しいような、呆れたような、妙な気分だった。
涼景は玲陽の足元に回ると、患部が見える位置に犀星を呼ぶ。
「ちゃんと見ろ。そして、覚えろ。俺よりおまえが処置したほうが、玲陽も安心する」
黙って、犀星は頷いた。
「いいか? 腸を正しい位置に戻して、傷口に薬を塗り重ねる。あとは、こいつの生命力に賭けるしかない」
涼景は左手を玲陽の腹側に入れて感触を探りながら、右手に持った棒を少しずつ入れていく。探りあてた場所で、薬を塗り込むように念入りに動かすと、それを静かに引き抜く。
棒に巻かれた布が、鮮血に染まって出てくるのを、犀星はじっと見つめた。
「腸は途中で曲がっている。ここまでは真っ直ぐ、その先は左に曲がって、腹を包むように……」
説明しながら、涼景は何度も、棒に布を巻き直し、薬湯を染み込ませ、繰り返し慎重に手当てを続ける。犀星も、見よう見まねで布の準備を手伝った。血を吸った布は、炉にくべてそのまま焼却する。
玲陽は眠ったまま、みじろぎもしない。
長時間かけて、丁寧にふたりは手当てを続けた。
調合した薬をすべて使い切ると、涼景は玲陽を仰向けに戻してやった。
「覚えたか? 次からはおまえがやるんだ」
犀星は額に浮いた汗を拭って、うなずいた。
これで終わりか、と思った犀星に反して、涼景はまた別の薬を湯に溶かしている。
「今度はこっちだ」
言いながら、涼景は今かけたばかりの褥をめくり、玲陽の脚の間に明かりを当てた。
反射的に、犀星が臆する。玲陽の会陰部の途中に、何箇所もの指先大の膨らみができている。表面は赤く腫れ、白い玲陽の肌との対比に、犀星は軽い恐怖すら感じた。
「尿道が酷く傷ついている」
涼景は布を湯に浸して絞ると、玲陽の下腹部を覆って温めた。そうしながら、毛氈を薄めに畳んで腰の下に敷き、少しだけ、持ち上げる。
「針のような形状のもので痛めつけられた跡だ」
「赤く腫れているのは?」
「おそらく、尿道の途中が傷つき、そこに膿が溜まっている」
涼景は大きめの杯いっぱいに薬湯を用意していた。
「あれが破裂して全身に膿が回ると、他の臓器もやられる。そうなったら終わりだ。だから、膿を取り除く」
「うん」
「方法はある。ひとつひとつの腫瘍を切開して洗浄するか、手で押し出しながら吸い出すか」
犀星の目が困惑に揺れる。
「どうする? お前が決めてくれ」
涼景は判断を犀星に任せた。犀星は玲陽に体を寄せた。
「これ以上、傷なんてつけたくない」
「おまえなら、そう言うと思っていた」
涼景は少し表情を和らげた。犀星の返事を想定して、彼は湿布や薬湯を用意していたのだ。
「湿布で温めれば、膿が柔らかくなり、吸い出しやすくなる」
涼景は、犀星に薬湯を進めた。
「星、まず、これで口をゆすげ。消毒薬だ」
「え?」
「俺にはやらせてくれないんだろ? おまえがやるんだ」
涼景の問いに、犀星は真顔で頷いた。
涼景は処置を犀星に任せ、自分は補助にまわった。
犀星は玲陽の陰茎に指を添えると、腫瘍の硬さを確かめた、表面の皮膚が薄く、力を加えると皮膚が破れてしまいそうな怖さがある。犀星は細心の注意を払って、腫瘍をひとつひとつ揉み、力を加減しながら、しこりをほぐしていく。
「いいか、膿が出ても、絶対に飲み込むな。吐き出せ」
犀星はうなずくと、消毒薬で口内をゆすぎ、玲陽の先を咥え込む。その動きに、全くの躊躇がないことに、逆に涼景の方が驚かされる。
犀星は丁寧に腫瘍を押し、頃合いをみて強く吸った。ざらりとした粘液が舌に触れ、瞬く間に腐臭と苦味が口の中に広がる。嗅覚を弄する匂いが鼻腔を抜け、眉間のあたりに痛みが走った。わずかに表情が歪んだが、犀星は口を離さなかった。
限界まで耐えると、涼景の用意した皿に、黄緑がかったどろりとした液を吐き出す。
差し出された消毒薬で、すぐに口をすすいで、犀星は荒く息をした。
犀星が離れている間に、涼景は湿布を取り替えた。今、処置したところは腫瘍が凹み、玲陽の元の形を取り戻している。犀星は、舌で上唇を舐めた。
「まずい……」
「美味いわけがないだろ」
涼景は吐き出された膿を一瞥した。
「毒みたいなもんなんだから」
「いや、そう言う意味じゃなくて……」
と、犀星は視線を彷徨わせた。
「うん?」
どうにも落ち着きがないように感じられる。
「続けられるか? 辛いなら、代わるが……」
「いや」
「なんだよ?」
涼景の真剣な顔を見て、犀星は気まずそうに、口角を下げた。涼景はその顔に、かすかに浮かんだ羞恥を見た。
「星、おまえ、興奮してんのか?」
「……してない!」
「そっちまでは面倒見ないぞ」
「お前になんか頼まない」
「してんじゃないか」
犀星は慌ただしく口をゆすいで、再び、膿を吸い出した。
玲陽がいれば犀星が立ち直ったように、犀星が自分を取り戻せば、玲陽も助かる。
医術者らしからぬ精神論で、涼景は胸を撫で下ろした。
なんとなく玲陽の顔を見れば、先ほどよりも安らかで、呼吸も深く安定している。
やっぱり、おまえは強いんだな、陽。
涼景はこの時、玲陽の回復を確信した。
東雨は、自分だけが完全に除け者にされていることに、巨大なる不満を抱えていた。
犀家に到着した夜、犀星と別れた東雨が目を覚ました時、すでに犀星は涼景とともに出かけた後であった。それでも一日ぐらいなら、と、我慢して過ごしていた東雨は、夜になって帰ってきた犀星を大喜びで迎えに出た。
置いて行かれたことへの不満を言い、犀星たちが今日一日何をしていたのか聞き出そうと意気込んだ。だが、犀家に戻った犀星と涼景は、東雨を相手に話をするような雰囲気ではなかった。
犀星は自分の馬に、白く薄い着物を纏った人物をひとり、乗せていた。松明の揺れる灯りの中では詳しいことはわからなかったが、どうやら、それが玲陽だったのだ、と、東雨は後から家人たちに聞かされた。
犀星が玲陽と会えた。
東雨は素直に喜んで、すぐに挨拶に行こうとしたが、それはあっさりと家人たちに止められてしまった。
玲陽は酷い怪我をしているため、今は治療に専念し、誰にも会えない、という理由だった。
玲陽どころか、つきそっている犀星にさえ会わせてもらえない。
周囲から漏れ聞こえた話では、犀星と涼景が玲家との間に火種を撒いた、との情報もあった。
これは、犀家当主の犀遠に叱られるのではないか、と東雨は案じたが、状況は真逆だった。
どういうわけか、犀遠をはじめ、みな、犀星たちの行ったことを好意的に捉えて、玲家との全面対決も視野に、意気揚々と構えていたのである。
その理由を、東雨は仕事を手伝っていた馬丁から聞いた。
玲陽を子供時代から知っている馬丁の男は、楽しそうに、話をしてくれた。
玲陽が犀星と、この屋敷で仲の良い兄弟のようにして育ったこと、犀星が都へ行く時、仕方なく離れ離れになったこと。その後、玲家によって幽閉されていたこと。そして、今回、犀星が玲陽を救い出し、連れ帰ったこと。
どうせなら、直接犀星から聞きたかったが、今は待つしかなかった。
東雨の切り替えは早かった。犀星に会えないとなると、今度は屋敷の家人たちを訪ねてまわった。一通り、家の仕事がこなせる東雨は、どこに行っても重宝された。厨房で料理を手伝いながら、馬小屋で馬の蹄を磨きながら、庭の隅で薪割りに励みながら、東雨はさまざまな立場の者たちから、それとなく、犀星と玲陽の過去の話や、玲陽の怪我の様子などを聞き出した。
屋敷について五日目、東雨は中庭に面した回廊に座って刀の手入れをしながら、いつになったら会えるのか、と、ため息を繰り返していた。
玲陽の怪我の状態はよくないらしく、犀陽と涼景以外は、部屋にも入れてくれない。たまに犀星と廊下ですれ違うが、挨拶をする程度で、すぐに玲陽の部屋に戻ってしまう。
今まで、犀星の世話は全て自分がしてきたのに、犀家の使用人たちに全てとって代わられて、自分はやることがない。
午後の空は美しく澄んでいたが、風は冷たく、秋の装いを濃くしている。
「どうした?」
気配もなく、後ろから声がかけられ、慌てて刀を取り落としそうになりながら、東雨は振り返った。
「あ……侶香様」
東雨は犀遠を前に、膝を正して礼をした。さすがは宮中でしつけられている東雨は、このようなときはそつなくこなす。犀遠も若い頃は宮中で、今の涼景と同じような職についていた。東雨の振る舞いが、教養のある作法であることが、侶香にはすぐにわかった。
「東雨」
「はい」
東雨は顔を伏せたまま、返事をした。
「ここでの暮らし、慣れたか?」
「はい」
「不自由があれば、遠慮なく言いなさい」
「ありがとうございます」
「ときに」
下を向いている東雨には見えなかったが、侶香は口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「星はおまえに、人と話すときは目を逸らすよう、教えているのか?」
「……え?」
東雨はハッした。
そうだ、この人は、『あの』犀星の養父なのだ。宮中では、目下の者が目上の者の顔を見るのは、非礼とされている。犀遠は官職についているわけではないが、東雨は念のため、その通例に従っていた。
「いいえ」
東雨は顔を上げた。遠慮なく、犀遠を見上げる。
「若様は、話をするときは、相手の目を見るように、と」
犀遠は笑ってうなずいた。
「ならば、ここでもそうしてくれ。その方が気が楽だ」
「はい」
言い方が、若様にそっくりだ。
東雨は、犀星に会えたような気がして、懐かしく、嬉しかった。
犀遠は東雨の隣に親しく腰を下ろした。置かれていた東雨の細い刀を見る。
「その刀、見せてもらってもよいか?」
「はい」
東雨は両手で持ち上げて、差し出した。
「ほう、よく手入れしてある」
犀遠は刀を受け取ると、日にかざした。
「これは、お前のか?」
「はい。自分の刀は自分で整えるのが刀に対する礼儀、そうでなければ、いざという時に身を守ってはくれない、と、若様が……」
「あいつ、生意気を言いおって……」
犀遠はニヤリと笑うと、東雨に耳打ちする。
「それは、わしの受け売りだ」
思わず、東雨は呆れたような笑顔を見せる。
この屋敷に来てから、東雨と最も関係を持っていたのが、犀遠である。
まるで、父親のように東雨に話しかけ、からかい、笑顔にしてくれた。見知らぬ土地に来た少年の緊張をほぐすかのような心遣いを、東雨自身、ありがたく感じている。あの、無愛想で人嫌いな犀星を育てた父親とは思えない。
と、そこまで考えて、血は繋がっていなかったことを思いだす。
東雨と並んで庭に面した回廊に座り、呑気に大あくびをしているこの初老の男は、かつて、宮中で名を馳せた武術の名手であったという。だが、今の彼からはそんな過去の堅苦しい立場など、微塵も感じられない。陽気な酒場の主人のようですらある。
「あの……」
東雨は、興味本位で、犀遠に話しかけた。
「若様のご様子はいかがですか? 涼景様から、近づくと理不尽に睨まれるから避けた方がいい、と脅されていまして……」
「はは…… 確かに。腹の虫がおさまらないのだろう。わしもさっき廊下で声をかけたが、無視された」
何でもない、と笑い飛ばす犀遠に、東雨は親しみを覚えた。本当にこの人が、宮中で恐れられた将軍だったのだろうか。
「子が親を無視するなんて…… いつもの若様なら、逆に叱りつけるところなのに」
「いつものあいつは、そんなに真面目なのか?」
「ええ。真面目というか、融通が効かないというか、頑固というか、とにかく、言い出したら曲げないから、こっちが迷惑してます。滅多に笑わないし、冗談を言う時も真顔だし、本気なのかどうかもよくわかりません」
「変わらんなぁ」
「子供の時から、あんな感じなんですか?」
「そうだな。物心つくまでは、普通の無邪気な子供だったんだが……同年代の子供たちより、妙に大人びたところがあって、可愛げがなくなった。陽にだけは懐いていたがな」
犀遠の物言いに、東雨は思わず笑った。
可愛くない、と言うわりには、犀遠は実に嬉しそうである。
「でも、時々、可愛いんですよ」
すっかり、犀遠に気を許している東雨は、遠慮なく言った。
「若様、草花がお好きでずっと眺めていたり、路上の野良猫をかまったり……それから、時々、体を丸めて寝るんです。子どもみたいに」
「そうか……おまえは、本当に星によくしてくれているのだな」
「え?」
東雨は犀遠の横顔を見て、首を傾げた。
「東雨を見ていればわかる。あいつは幸せ者だ」
なんとなく照れ臭い気がして、東雨は黙った。犀遠の目は、どこか遠くを見ているようだった。
中庭の隅の山桜の木の枝が、一際強く吹いた風に大きく揺らいだ。
「都に送り出すとき、わしはあれに、何もしてやれなかった。宝順帝の勅命とあらば、逆らうことは領民の命に関わる」
「若様は、親王様として、都に歓迎されたのでは?」
「あいつは、駒だ」
「え?」
「大人たちの都合で、いいように利用されてしまった」
明るかった犀遠の表情に、やるせない思いが走る。
「そんな話、初めて聞きました」
「あれは言わないだろうが、ちゃんとわかっていたはずだ」
犀遠は、深い森を思わせる静けさを感じさせる声で、
「お前は、星の出生を知っているのだろう?」
「はい、一通りは……」
「妻を先帝に召し上げられた時、私の命乞いをしてくれたのが、当時皇子だった宝順帝だ」
「まさか! 帝が?」
今まで、さんざん、涼景から帝の悪評を聞かされてきた東雨が、思わず本音で叫んでしまう。
だが、犀遠はそれを咎めることもなく、逆に何度か小さく頷いた。宝順の裏表の激しさを、この老獪も知っていると見える。
「あの頃の宝順帝は、お優しい方だった。子どもながらに、妻を取り上げられたわしを不憫に思ったのだろう。あのとき、わしは、処刑されることが決まっていた。妻との心中を図った罪でな。なのに、都下がりで済ませてくれた」
「命を助ける代わりに、二度と都には立ち入れない、ということですか」
「ああ。しかも、犀家の領地もそのまま、残してくれた。後妻をとることも許されたが、一人でいるのはわしの意志だ」
「それで、侶香様は、ここでずっと……」
「うむ。先帝に奪われた妻の行く末が気がかりでな。死にぞこなった」
東雨は膝を抱えて、じっと話を聞いていた。
「先帝は、玲家の血を引く姫が欲しかったのだ。玲家の女児には力があると言われているからな。だが、生まれたの皇子だった」
「それは、聞いたことがあります。若様、命を狙われたとか」
「必要のない血を残したくはなかったのだろう。妻は出産後にすぐ亡くなってしまったが、芳が星を連れ帰った。その時も、先帝から逃げられるよう、算段をつけてくれたは、宝順帝であった」
「宝順帝と先帝が衝突したの、その直後でしたよね」
「そうだ」
東雨が生まれる前の話である。
「そこまでして、宝順帝は若様を助けてくれた、ってこと?」
「そのような方であったのだ」
東雨は、現在の帝しか知らないが、同一人物とは思われなかった。
「だから、宝順帝は若様のこと、宮中に呼んだのか……あれ? それなら、歓迎していたんじゃ……自分が助けた弟なんだから」
「そこはまた、少々複雑でな」
犀遠はため息をついた。
「玲家が関係してくる」
「玲家……」
「玲家にとって、星は皇家から得た人質だ。星を宮中に返す代わりに、この土地での、玲家の支配に干渉しないよう、交渉の材料に使った」
「玲家……でも、若様は『犀』の姓を……あれ?」
寂しそうに、犀遠は首を振った。
「確かに、星はここで、わしと一緒に暮らしてはいたが、それはあくまでも養い親としてだ。星とは血のつながりもない。先帝の落胤であるから、わしが養子に迎えることもできん。形式的なつながりすらないのだ」
「……そうか」
「だが、玲家は違う。彼らには、堂々と、星の所有を主張する根拠がある。星の母親は、玲家の当主候補だったのだから」
東雨が難しい顔をして、庭の少し先を見つめた。
柔らかそうな土の上を、枯葉が風に乗ってくるくる回りながら通り過ぎてゆく。
「なんか、嫌ですね」
「うん?」
「だって、若様を育てたのは、侶香様じゃないですか。それなのに、都合のいい時だけ、玲家が利用するとか、虫が良すぎます」
「まぁ、そうでもない」
「え?」
「もともと、星は芳が連れ帰ったのだ。だから、本来はそのまま、玲家で育てられるはずだった」
「あ、そうか……」
「わしが、どうしても、と頼み込んだのだ。星は妻の産んだ忘れ形見。せめて、その成長を見守りたかった。そこで、わしは芳と取引をした」
「取引?」
「あの頃、芳はちょうど、陽を産んだ。だが、父親はいない。当然、玲家内に陽の居場所はなかった。そのままではいずれ、殺されてしまう。わしは星を預けてもらう代わりに、陽も安全に育てることを提案した。だから、一方的に玲家が横暴なわけでもないのだ」
東雨は、何度か小さく頷いた。
「だがな」
犀遠は、ゆっくりと立ち上がった。東雨が見上げると、そこには、今まで見たことのない、厳しい犀遠の顔があった。
「いかに玲家といえど、此度のこと、許しおくわけにはいかぬ。大切な息子を、二人も奪われてなるものか」
犀遠の企みは、東雨には想像もつかなかった。だが、犀星と玲陽に向けられた愛情の大きさだけは、強い決意とともに、東雨の胸を確かに打ったのである。