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6 誰がための刃

 もう、何日になるか。

 犀星はずっと玲陽の側を離れなかった。

 体力が落ちている玲陽は、それを補うようによく眠った。昼夜を問わず、不意に目を覚ましたが、半刻も待たずにまた眠ってしまう。

 それでも、ひと眠りごとに、少しずつ、気力を取り戻しているように見えた。

 玲陽の意識は、覚醒と睡眠の合間をいったりきたりしていた。

 酷く混乱した夢を見たようにも思えるし、甘い糖蜜の中に浸っていたようでもある。

 腹部の重たい痛みは常に玲陽を苦しめたが、それ以外は確実に力が蓄えられているのを感じる。

 一度だけ、犀星が腹腔内の処置をしてくれている時に、目が覚めたことがある。背中から頭をつんざく鈍痛に息が止まりかけたが、玲陽は気づかれないよう、じっとしていた。

 もう少しだから。大丈夫だから。

 犀星が繰り返していた言葉は、自分に向けたものだったのか、犀星自身を励まそうとした独り言であるのか、わからない。だが、その必死な思いは、痛みを凌駕して玲陽を包み込んでくれた。

 自分が今、犀星や涼景をはじめ、多くの人たちの庇護のもとにあることに、玲陽は現実味のない浮遊感を感じる。これは全て幻なのかもしれない。

 時折、不意に訪れる恐怖のせいか、体がビクリと痙攣して目覚める時は、すぐに犀星が安心させるように玲陽の手を握った。

 それが昼の日の光の中でも、夜の油灯のゆらめきの中でも、いつも、かたわらには愛しい人が寄り添っていてくれた。

 何度目かに、玲陽は目を覚ました。

 目覚めるたびに見る天井の景色は、これが幻ではないことの印である。

「陽」

 囁くような声が、耳に触れる。

 玲陽はわずかに首を傾けた。深い蒼色の瞳が、白い日差しを移してキラキラと揺れる。

 この人はいつ、眠っているのだろう。

 玲陽はぼんやりとそんなことを思った。

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「……に……いさま」

 か細い、声と呼ぶには儚い音の連なりで、玲陽は犀星を呼んだ。

 暖かな手が、玲陽の額から奥へと、優しく撫でてくれる。その手は、記憶にあった犀星のものよりも大きく、力強かった。

 ああ、大人になったんだ。

 唐突に、玲陽は、そう思った。

 自分が砦の中で、意味もわからず昼夜を繰り返している間、犀星だけが先に行ってしまったような、置いて行かれたような、そんな寂しさを覚える。

「どこにも、行かないで」

 自分でも甘えていると恥じらいながら、玲陽は言った。犀星は目を細めて、唇で頬に触れた。

「ここにいる。怖くないから」

 甘える自分を、さらに甘やかす犀星の声。心に絡みついて、傷を癒すような疼きを与えてくれる。

 もっと聞きたい。

 玲陽は目を閉じ、頬擦りをするように、首を伸ばした。その仕草に、犀星の胸は静かに高鳴る。

 玲陽の温もりは、万金に値する。

 犀星は夢中で玲陽の耳元から首筋に口づけを繰り返し、頭を掻き抱いてわずかに掠れた吐息を鳴らした。交わす体温は、玲陽だけではなく、犀星にとってもどんなやすらぎより心地よい。

「おい」

 低く、よく響く呼び声が、背後から飛んできて、犀星は動きを止めた。

 名残惜しそうに体を起こすと、犀星はゆっくりと振り返った。

 質素な毛氈の上にあぐらをかいて、膝の上に肘を乗せ、身を屈めるようにして、涼景は上目遣いに犀星を見ていた。

「そういうことは、陽が回復してから、夜中に二人きりでやってくれ」

 涼景の傍には炉が置かれ、その火の上では、玲陽のための粥が煮込まれている。

「目が覚めたなら、陽にこれを飲ませろ」

 涼景は白湯を注いだ竹筒を、ぶっきらぼうに犀星に差し出した。ばつが悪そうにそれを受け取って、犀星は口をつけ、温度を確かめる。寝たきりの玲陽の口元に持っていくと、そっと傾けた。

「陽、白湯だ。熱いからゆっくり……」

 唇の端からこぼれた湯を手巾を添えて拭き取りながら、犀星は玲陽に与えた。

 涼景は粥の米粒を摘んで舌と上顎ですりつぶし、かたさを確かめた。玲陽の目覚めを待ちながら、時間をかけて煮込まれていた粥は、すっかり溶けて容易に飲み込める。

 涼景はそれを杓子に一杯、銅鍋から木椀に移すと木匙をそえ、やはり竹筒に入れた甘草湯とともに盆に乗せて、犀星の前に押して寄越した。

 犀星は頷いて、白湯同様、匙で一口ずつ吹いて冷ましながら、玲陽の口に運んでやる。

 玲陽は大人しく給餌を受けて、じっと犀星の顔を見つめていた。犀星の方がそれに照れて、狼狽えてしまうほど、真剣な、どこか鬼気迫る眼差しだった。

「陽、味気なくてすまないな」

 涼景が残った粥を自分と犀星の分として取り分け、塩を足しながら、

「明日には、蓮の実を入れてやる」

「ありがとうございます」

 嚥下の合間に、玲陽は礼を言った。その声は、随分としっかりしてきている。

「すぐに、鶏の煮凝りも食えるようになる。もう少しの辛抱だ」

「はい」

 玲陽は頬を緩めた。

「でも、私は、こうして甘い粥をいただけるだけで十分です」

「そりゃ、星が手ずから食わせてくれるんだから、なんだってご馳走だろうよ」

 涼景は軽口を叩いた。ふわり、と玲陽の頬が紅潮するさまに、犀星は見とれ、思わず手を止める。

「そ、そんなんじゃ……」

 玲陽は態度で肯定して、はにかんだ。

「おまえたちを見ているだけで、腹が膨れるな」

 涼景は嬉しそうに、粥を一気に飲み干した。

「涼景、行儀が悪い」

 犀星が拗ねたように咎めた。が、今は何を言っても、涼景のからかいの種にされてしまう。

「真っ昼間から病身の陽を食おうとするような奴に、行儀作法どうこう言われたくないもんだ」

「涼景! そういう下品な言い方は……」

「おや? 意味がわかったようだな、偉いぞ」

「くっ……」

 涼景の言葉に翻弄される犀星を、玲陽は面白いものでも見るように、にっこりと笑って見つめた。その笑顔に気づいて、犀星はまた、戸惑う。

 涼景と玲陽に、自分は調子を狂わされっぱなしだ。

 犀星は感情を抑えて、また、粥を運んでやった。

 薬湯を飲ませ終わると、犀星は自分が食べるのも後回しにして、玲陽の腹のあたりに手を乗せ、ゆっくりと円をかくように撫でた。その感触が気持ちよいのか、玲陽は大きく深呼吸をすると、目を閉じた。

 また、眠ってしまうのか。

 犀星の表情に、寂しげな色が浮かぶ。まるでそれを察したかのように、玲陽は再び目を開けた。犀星を見上げる。

「兄様」

「うん?」

 玲陽は一度目を伏せてから、改めて犀星を見て、

「兄様も、少し、眠ってください。体を壊してしまいます。そんなのは嫌です」

 涼景が鼻で笑った。

「そいつは頑固で言うことを聞かないんだ。俺もずっと寝ろと言い続けているが……」

「わかった」

「はぁ?」

 あっさりと玲陽に従った犀星に、涼景が信じられない、と目を白黒させる。

 俺があれだけ言ってもきかなかったくせに……

 納得できない、と顔をしかめる涼景を気にもせず、犀星は玲陽の枕元に腕を乗せ、そこに顔を半分埋めた。

「ここで眠る」

「そんな格好では、体、痛くなりますよ」

「それなら……」

 犀星の目が、するりと玲陽の寝台を滑る。

「待て!」

 涼景が制止の声を上げた。毛氈から立ち上がると、部屋の奥から褥を抱えてきて、犀星の上に放り投げた。突然降ってきた厚手の褥に、犀星は押し潰された。

「涼景、何をする!」

「おまえこそ、何をするつもりだった?」

 涼景は大きなため息をひとつつき、額を抑えて首を振った。

「さっさと食って寝ちまえ」

 犀星は、じっと涼景を見ていたが、それ以上言い返さず、自分も椀の粥を一気飲みして、褥にくるまり、玲陽の寝台の足にぴたりと体をつけて目を閉じた。

 そんな犀星の一連の動きを、玲陽が目で追う。

 犀星が動かなくなると、玲陽は涼景と顔を見合わせ、小さく吹き出した。


 一、二、三、四……

 東雨は小さくつぶやいて拍子を取りながら、中庭で刀を振った。

 犀家に来て、はや十日が過ぎた昼過ぎ。ここ数日では例になく暖かな日和で、体を動かすにはちょうど具合が良い。北方出身の東雨には、歌仙の気候は温暖で、汗ばむほどである。

 相変わらず、犀星の頭の中には玲陽のことしかないが、容体は確実に快方に向かっているらしく、今朝、回廊で出会った時には、久しぶりに犀星の方から声をかけてくれた。東雨にはそれが何より嬉しい。

 一、二、三、四……

 構え、踏み込み、打って、下がる。

 東雨は真剣な眼差しでしっかりと前方を見つめ、基本の動きを繰り返した。

 東雨は、八歳になる頃、都に上がった犀星の侍童の役目を、宝順帝から言いつかった。

 彼は孤児であったが、いずれは貴人に仕える侍童となるべく、幼い頃から相当の教育を受けてきた。学問はもちろん、芸事も宮中の儀礼も叩き込まれた。また、夜伽相手をつとめるための特殊なことがらも教わった。東雨は宦官ではないが、同年代には、そのような手術を受けた者たちも多い。

 八歳になる頃には、心構えも実力も、十分に備えていた。生来、賢かった東雨は、体は大きくないが、理知的で機転がきき、また、性格も明るく明朗で、申し分のない魅力を持ち合わせていた。

 帝から、若い親王の世話を命じられ、初めて犀星と引き合わされたとき、東雨はその美しい姿に胸が躍ったのを覚えている。

 こんなに綺麗な人と一緒にいられる!

 まだ純粋だった東雨には、犀星の本性を見抜けるはずもなかった。

 あれから十年。

 彼は、他の主人を持つ侍童ならばしなくて良いような苦労の数々を、重ねてきた。

 本来の東雨の役割は、犀星の身の回りの世話、簡単な読み書きの代行、夜伽の相手、とされていた。だが、実際にはそんな範疇を超えて、なんでもやらなければならなかった。というのも、犀星が自分の屋敷に、東雨以外の人間を誰も置かなかったためである。

 広い屋敷に、犀星と東雨のふたりきり、だ。

 警護の兵はいたが、それは屋敷の外回りのみで、中のことは文字通り生活の全てを、自分達で行う必要があった。

 食事から掃除、洗濯、繕い物、買い物、風呂炊き、水汲み、薪割り、馬の管理に加え、犀星が作った畑の世話まで、東雨はその全てを否が応にも身につけなければならなかったのである。

 就任初日にその条件を聞かされたときには、目の前が真っ暗になったのを覚えている。

 だが、ここで、東雨にとってありがたい誤算が生じた。

 自分がひとりで全てやらされる、と思っていたが、実際には半分以上を犀星がこなしたのである。

 この人、絶対に変人だ。

 東雨は、犀星の俗っぽさに、愕然とした。

 いくら、田舎の歌仙育ちといえども、親王は親王である。歌仙でも、それなりに贅沢な暮らしをしていたのだろう、と思っていたが、とんでもない思い違いだったらしい。

 自分で薪を割り、包丁を握り、茶を煎れる犀星は、親王と言うよりも働き者の近所の若者だった。

 風呂掃除から庭の掃き掃除、畑の雑草抜き、堆肥撒き、果ては、東雨の着物の洗濯まで、犀星はそれが当たり前、という顔で平然とこなした。

 さらに東雨を動揺させたのは、その倹約思考だった。

 犀星はとにかく、金を使わなかった。

 無駄なものは一切買わない。着物も普段着が三着あれば十分、履き物も動きやすいものと、防水になる長靴だけである。

 消耗品も節約する。灯りに油を使わないよう、日が落ちたらさっさと寝る。薪の代わりに、庭に落葉樹を多く植え、落ち葉を燃料に加えてカサ増しをはかる。

 食べるものも、節約対象だった。庭の一部を耕して畑を作り、野菜を育てた。肉が食べたければ山へ、魚が欲しければ川や湖へ自ら行き、獲物は保存できるように加工した。日中は仕事で屋敷を開けるため、さすがに家畜は飼わなかったが、可能な限り自分達で行うという姿勢は貫かれていた。

 東雨は、飯といえば白米、と思っていたが、犀星が市場で自ら買い付けてきたのは、粟であった。それまで、鶏の餌だと思っていた微小な粒々が、自分の食卓の椀の中で湯気をたてているのを見た時、東雨は涙を禁じ得なかった。

『このままでは、俺は鶏になってしまいます』

 幼い東雨が涙ながらに訴えると、当時十五歳になったばかりの犀星が、

『鶏なら、ミミズやバッタも食えるようになるな』

 と、さらに絶望感を煽ったことを、東雨は今でも根に持っている。

 後に知ったことだが、歌仙ではミミズもバッタも食していたとのことである。

「鶏!」

 東雨は不意にその話を思い出して、数字の代わりに叫んだ。

「ミミズ!」

 言いながら、刀を振る。

 回廊を通りかかった犀遠が、何事か、と立ち止まった。

「バッタ!」

「東雨?」

 犀遠は、面白いことが起きていそうだ、と、期待を込めた表情をしている。

「何を妙なことを叫んでいる?」

 東雨は刀を納めて、犀遠の前に進み出ると、一礼した。

「過去の不満を退治していました」

 首を傾げた犀遠に、東雨は犀星との鶏の話を聞かせた。

「なるほどなぁ」

 回廊に座ってくつろぎながら、犀遠は笑った。

「笑い事じゃないんですよ」

 東雨は並んで座り、肩で息を吐いた。

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「本当に、ありえないくらい、ケチなんです」

「親王の俸禄はどうなっている? 決して不足はせんと思うが?」

「そうなんです!」

 東雨は、ここで犀遠を味方につけておけば、今後の家計が豊かになるかも、と期待して訴えた。

「禄は十分にいただいているはずなんです。でも、家計には全然入れてくれなくて! 一月の生活費が三十文ですよ。それだって、この前まで、二八文だったのを、どうにか上げてもらって……」

「それはそれは、随分と思い切った金額だな」

 愉快だ、というように、呑気に犀遠は笑っている。

「それで、あれは残りの金を溜め込んでいるのか?」

「いえ、我が家は貯金がないんです」

「ほう? では、賭博にでも手を出したか?」

「それなら、まだ、責めようがあります」

 犀遠に反して、東雨はふくれっつらだ。

「若様、全部花街に使っちゃうから」

「……ほう! これは愉快!」

 犀遠が手を打った。思わず、東雨は犀遠を睨んだ。

「あれが女につぎ込むとは。色好みとは意外であった」

「え? あ、違います」

 東雨は慌てて首を振った。

「花街は花街でも、花代(女郎に払う金)に使っているわけではありません」

「なんだ、違うのか」

 なぜか、犀遠は少しがっかりしたように見える。

「花代どころか、若様、まったくそういうの、興味ないんですよ。美人ですから、宮中では男性からも女性からもお声がかかるんですけど、完全無視、してます」

「面白味のない男だなぁ」

「まぁ、おかげで俺も、仕事がひとつ減って、楽といえば楽……」

 東雨は、身につけたものの、まったく使い道のない夜伽のことを思い出した。

「では、花街で他に何をしているのだ?」

「治水です」

 意外な答えに、犀遠は目を見開いた。

「治水?」

「はい。何年も前から、花街の水路を整備して人工の川を作ったり、生活に使う井戸や給水網を作ったり……」

「ほほう」

「でも、予算をつけてもらえない、とかで、お金が足りなくて、若様、私財を全部そっちに回しているんですよ」

「なるほど、それでは、ケチをしても責められんな」

「だから、タチが悪いんです」

 東雨は不満そうに言いはしたものの、本気で責めているようには見えなかった。

「若様って、変わってます」

 ふと、東雨は真顔になった。

「なんていうか、普通じゃないんです。はじめは、単なる変わり者かと思っていたんですけど、最近、それも違うなって」

「ほう?」

 犀遠は、興味津々である。都での犀星の様子が聞けるのが嬉しいらしい。

「若様が考えていることって、他の貴人たちとは違うんです。他の人たちはわかりやすい。お金、地位、権力、色、嫌いな相手を潰すこと。でも、若様はどれも、関心がなくて。だから、何を考えているか、全然わからない」

「ふむ」

「でも、わからなくても、黙って若様のお手伝いをしていると、不思議なことが起こるんです」

「不思議なこととは?」

「なぜか、みんな、笑顔になるんです」

 犀遠は、目を細めた。

「市場で買い物をしていたら、歌仙様にどうぞ、って、いろんな物をもらいます。賄賂とかじゃないですよ。じゃがいもを賄賂にもらうなんて、聞いたことがありません」

「市場の……民衆には好かれているようだな」

「はい」

「あれは、なんと言っているんだ?」

「お礼を言って受け取ってますよ。でもなんか、あまりに若様が粗末な暮らしをしているから、哀れみをかけられているんじゃないかって思って、俺は喜べません。食費は助かるけれど、どうしても……」

「面白いものだ」

 満足そうな犀遠を、東雨は見上げた。

「東雨、愚息が迷惑をかけてすまぬ。わしからも、少し言っておこう」

「は、はい!」

 東雨はパッと笑顔になった。

 いかに犀星でも、尊敬する犀遠の言葉ならば、聞くかもしれない。

 もしかしたら、三十二文にしてもらえるかも!

 それで満足する東雨は、自分が犀星によって感覚を麻痺させられていると気づいていない。

「そういえば東雨、さっき、刀を振るっていたが、順調か?」

「え? あ、はい!」

 東雨は姿勢を正した。

「なかなか上達しないんですけど、一応、若様に稽古をつけてもらってます」

「星からは、どの型を習っているんだ?」

一沙かずさと、比翼ひよくです」

「一沙なら、あいつでも教えられような。もっとも、腕前は保証しないが」

 東雨は思わず破顔した。

「若様、強いと思いますけれど」

「だとしたら、格段に腕をあげたのであろう」

 犀遠は意地悪く片目を瞑って見せた。

「あやつはどうしても力が入りすぎて、隙が大きくなる。まぁ、性格だな。その点、陽は筋がよかった」

 東雨は犀星が夢中になる玲陽のことが気がかりだった。何か話を聞きたい、と思ったが、犀遠は急に庭に降りて、自らの刀を抜く。犀星のものよりも大ぶりで、重量がありそうだが、それを軽々と片手で操った。

 東雨はその姿に、今までの犀遠と別人の気風を見る。まさに、見惚れるほどの剣士の構えである。

「比翼についてもきいたのか? あれは、一人では教えきれるものではないが」

「講義は聞きました。たしか、侶香さまが考案されたんですよね。誰かとふたりで、戦う方法。相手との呼吸が合わなければ、本来の力は発揮できない、と」

「そうだ。だから、一人で教えるには限界がある」

「都では、涼景様に伝えていましたよ。時々、二人で組んで型をやっていましたが、俺にはさっぱり……」

「涼景か。奴ならすぐに己のものとしような……」

 ふっと、風を感じ、東雨はびくりとした。気配なく、自分の横にいつしか犀星が立っている。

 犀遠が庭に降りたのは、近づいてきた犀星に勘付いてのことだったのか……

「若様!」

 東雨は跳ねるように立ち上がり、犀星を見上げた。自然と笑みが浮かぶ。

「随分、父上と仲がよくなったようだな」

 犀星からは、嗅いだことのない、薬らしい匂いがする。玲陽の手当に使った香だろう。

「おまえがわしらを放っておくからだ。寂しい者同士、なぁ、東雨」

 犀遠が拗ねた子供のように言う。

「若様、あの、光理様のご様子はいかがですか?」

「ああ。おかげで、だいぶ落ち着いてきた。少し散歩でもしてこい、と追い出されたところだ」

「よかった! 俺、早く光理様にお会いしたいです!」

「まぁ、待て。近いうちに紹介するから……」

「星、裏に回れ」

 唐突に、犀遠が、比翼の表の構えをとる。犀星は一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに察して、

「東雨、しっかり見ておけ」

 そう言うと、抜き身の刀を手に、犀遠の後ろに背中を向けて立つ。

 東雨は思わず姿勢を正した。

 犀星は一度、深く息を吐き、呼吸を抑えた。犀遠の呼吸を気配でとらえ、合わせていく。

 どちらからともなく、二人が一瞬、目配せする。それをきっかけに、刀が空を裂く音と、沓が土を踏み締める音が、まるで予定調和のごとく沈黙を破った。

 犀遠の足運びに、犀星はぴたりと息を合わせて踏み込んでいく。二人とも、縦横に刀を振るっているにも関わらず、それがぶつかることはない。また、常に互いの死角を補って、視線を走らせる。ふたりがひとりとなって戦う型、犀遠が犀星と玲陽のために編み出したのが、この比翼である。

 二人で舞う剣舞は、東雨の知る何よりも美しく、激しかった。一呼吸ずれたなら、互いの刀が互いを傷つけるだろう。しかし、そこには絶対の信頼があった。そして、遠慮のない、本気の刀さばきは、誰も寄せ付けはしない迫力と、間違いのない殺傷能力を確信させる。

左位さい!」

 犀遠の合図に、犀星が右へ大きく跳ねた。宙で身体を半回転させ、着地する時には、犀遠はすでに犀星の背中を守る位置に移動している。

後位こうい!」

 また、犀遠の指示と同時に、犀星が前方へ踏み出す。寸分違わぬ歩調で、犀遠が振り返ることもせず、素早く後退する。ともすれば、両者がぶつかって体勢を崩すところだ。

 比翼の極意は、互いの信頼関係にある、と、東雨は犀星に聞いていた。相手がどう動くか、僅かな合図と気配で察して、自分はその隙を補う。一人で戦う一沙流に比べ、隙はないが難易度は格段に高くなる。

かい!」

 突然、今度は犀星が叫んだ。

 その刹那、背後に足音が聞こえ、誰かが東雨の脇を走り抜けた。

「えっ……」

 涼景だ。

 そのあまりに早い身のこなしに、東雨は何が起きているのか、理解が追いつかない。

 涼景が飛び込み様に、太刀を両手に構え、二人の間に大ぶりの一振りを入れる。本気で切り掛かった涼景の気迫に、東雨は思わず逃げ出しそうな恐怖に駆られた。

 涼景の容赦ない一撃は、飛び退いた犀星と犀遠の間を切り裂いた。

 犀星の合図で、二人が散っていなければ、両者とも、涼景の刀に打たれていただろう。暁将軍・燕涼景は、決して空虚な肩書きなどではない。

「涼景! 裏!」

 犀星が続けて叫ぶ。

「おう!」

 笑みすら浮かべて、涼景は犀星の背後に回った。

「やるじゃないか」

 今度は、犀遠が二人に本気で切ってかかる。

 立場が変わった、と東雨は真剣に三人の動きを見守った。

 犀星が表、涼景が裏の動きを、息を合わせてこなしていく。だが、今度は戦いの型を踏めば良いわけではない。犀遠という、実際の敵がいる。

 耳をつんざく金属音が響き渡り、犀星の刀がまともに犀遠の一撃を受け止めた。両腕から強烈な痺れが全身に走り、犀星が耐えきれず崩れる。その体を飛び越えて、涼景が犀星を守りに入る。回転の勢いをつけて繰り出された犀遠の一刀を、涼景が受け止め、押し返した。その間に、犀星がどうにか立て直す。

きょう!」

 今度は、涼景の指示だ。

えん」と、犀星。

ばく」と、涼景。

めい」と、犀星。

 犀星は身を翻して涼景の前に躍り出ると、犀遠の背後をとった。涼景との鍔迫り合いで逃げ場をなくしていた犀遠が、両者に挟まれる形となる。涼景の刃が犀遠の喉元にせまり、犀星の刃が犀遠の首の後ろにぴたりとついた。

 庭に響いていた、数々の音が止まり、風だけが、植え込みの橘の葉をさらさらと揺らしていく。

 数秒、三者は動かなかった。

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 ゆっくりと、犀遠が刀を下ろす。同時に、犀星と涼景が、ひらりと着物の裾を翻して、犀遠の前に膝をついた。

「ご指南、ありがたく!」

 示し合わせたように、二人の声が重なる。

 犀遠は満足そうに頷くと、体を大きくのばし、やれやれ、と首を回した。

「わしも歳をとったな」

「侶香様」

 涼景が顔を上げる。いつもの無遠慮な彼には珍しく、まるで宮中にでもいるかのように、その態度はうやうやしかった。

「侶香様の太刀の重さ、しかと、刻みました」

「腕を上げたな、涼景」

「歌仙親王のお力かと」

「うちの星が、おぬしの稽古相手になったか」

「は」

「星、お前も少しは役に立ててよかったな」

 一番息が乱れていた犀星は照れ臭そうにうつ向いた。

「あ……」

 その主人の顔に、東雨は、穏やかな表情が戻っていることに気づく。気鬱で沈んでいた影はない。

「久しぶりに振るった」

 犀遠は刀を鞘に収めると、悠然と屋敷に戻る。

「東雨! 湯を使う。背中を流してくれ!」

 廊下の奥から、犀遠の声が響いた。

「あ、はい!」

 東雨は庭の二人に礼をすると、急いで犀遠の後を追った。

「少しは気分が晴れたか?」

 涼景は、まだ息が荒い犀星を見下ろして言った。

「おまえから教わった比翼、まさか、侶香様に見ていただけるとは思ってもいなかった」

「そうだな」

 負け惜しみではなく、犀星は言って立ち上がった。

「やはり、お前と組む方がいい」

「うん?」

 犀星は涼景の方を見ずに、

「父上と組むと引きずられて辛い。差がありすぎる」

 涼景は苦笑いしながら、

「悪かったな、腕が悪くて」

「俺よりは上だ」

「珍しく殊勝だな」

 涼景はにやにやしながら、犀星を見た。その肩はまだ呼吸に揺れている。

「涼景」

「うん?」

「……世話になる」

 突然、思ってもいなかった言葉を耳にして、涼景はぽかんとする。ここまで素直に犀星が礼を言うなど、なかなかあることではない。

「すっかり、巻き込んでしまった」

 まともに顔を見るのは気まずいのか、犀星は庭の橘の木を、涼景に見立てて話しかけた。

「まぁ……なんだ。ただの成り行きってやつさ」

 いつもなら、俺に感謝しろ、と自分から言ってのける涼景だが、この時ばかりは、そんな冗談も出なかった。

 犀星はじっと、立ち尽くしていた。庭の木々がそんな犀星を包むかのように、かすかな音をたてて揺れる。ふわりと漂ってくるのは、甘い金木犀の香りだろうか。青い空ははるかに高く、澄み渡っている。

「俺は……」

 夢見るように静かに話す犀星の背を、涼景は黙って見つめていた。

「記憶にある頃から、俺は陽と一緒にいた。あいつは信じられないほど真っ直ぐで、純粋で、優しくて、そのくせ、負けず嫌いで」

「…………」

「大人たちからは、疎まれていた。その理由は、幼い頃にはわからなかったが…… 周囲にどう扱われても、必死に生きようとしている陽を守りたい。そう思って、刀を学んだ」

 橘の小さな果実が、午後の日の光を受けて金色に輝いている。

「俺があいつを守るつもりだった。なのに、あいつ、俺より飲み込みが早くて、必死に稽古をしても、どうしても勝てなかった。天才肌ってやつだな。筋がいいんだ。学問でも、詩歌でも、何でも競った。競い合いながら、互いに惹かれていった。あいつのいない世界なんて、あり得ないくらいに。ずっと、一緒だと思っていた」

 犀星は、橘の果実を一つとると、そのままかじった。酸味が強く、食用にすることはあまりないが、子どもにとってはご馳走だったことを思い出す。

「俺が十五になる前の月、都から、使いが来た。俺と陽は、父上に呼ばれた。そして、父上は俺に、奥部屋の上座に座るように、と」

「…………」

「親王として」

 いつかは、そんな日が来るのだろう、と、犀星も玲陽も知っていた。しかし、目の前に迫った現実は、二人を混乱させると同時に、絶望の谷底に追い詰めた。

「行きたくない、と言った。だが、俺が拒めば、帝への叛逆の罪で父上も、犀家や玲家の領民も、皆、どうなるか…… 俺に選択の余地はなかった。それでも、ただ一つだけ、願いが叶うなら、陽を……一緒に連れて行きたかった」

「それは……」

「ああ。わかっている。今なら、わかる。だが、あの時の俺は無我夢中だった……」

 じっと、手の中の果実を見つめて、犀星は声を震わせ、

「上座に座るよう、言われたとき、あいつは……陽は……俺の前にひざまづいたんだ。さっきまで、一緒になって転げ回って遊んでいたあいつが、突然、別人みたいに! あいつが言った言葉を、今でもはっきり覚えている。『親王殿下の戴冠の節、お喜び申し上げます』」

 静かに、涼景は息を吐き出した。犀星が、自分の過去を語ることなど、今までになかったことだ。涼景も知らない犀星の本音が、滔々と紡がれていく。

「俺は、屋敷を飛び出した。陽が追ってきてくれることを祈った。あんな言葉、嘘だ。ただの悪い冗談だって! 本気にしたんですか?って笑いながら、あいつが……俺を……俺を……追ってくることはなかった」

「星」

「それが、最後だ。都に発つ前に、あいつの姿を見たのは、それきりだった」

 犀星はまた、果実を一口、噛み締めた。その鋭い酸味と苦味は、今の自分にはふさわしい罰のようですらある。

「あの後、どうやって都まで行ったのか、覚えていない。まるで、悪夢の中を彷徨っていたようで。記憶がない。父上に聞かされるまで、俺は本当に何も知らなかった。俺は、必ず迎えにくる、と言っていたらしい。狂ったように、陽の名を叫びながら……」

「…………」

「狂ったように? いや、狂っているんだ。俺は…… お前も、見ただろ。俺が、あの夜、砦で、玲博たちに何をしたか」

「……ああ」

「十年前、陽をここに置き去りにしたことを、俺はずっと悔やんできた。あいつが、どんな目に遭っているのか、想像しただけで恐ろしかった。でも、もし、一緒に都に行っていたら、あいつは間違いなく、俺をめぐる陰謀に巻き込まれていただろう。そして、そのたびに俺は狂気に侵され、自分のこともあいつのことも、壊してしまったに違いない」

「……おそらく、陽には、それがわかっていた。だから、あえておまえから離れたんだろう」

「なぜ、そう思う?」

「なぜ?」

 驚いたように、涼景の方が問い返す。

「あいつは、おまえより冷静だ。そして誰より、お前を知り、愛している」

 涼景の言葉を背中に聞きながら、犀星は息を止めた。

「どうして……そう、言い切れる?」

「見ていればわかる」

 きっぱりと、涼景は言い放った。

「星。おまえは狂っているわけじゃない。狂わされているんだ。自分の気持ちに。陽を想う心が、おまえを狂わせる。おまえ自身が、お前自身を崩壊させていく。それは恐怖かもしれないが、希望だ」

「希望……?」

 犀星は、その言葉を噛み締めた。

「希望が、あるんだろうか」

「俺には、おまえたちの姿が、希望にしか見えないね」

 一際声を張って、涼景は言った。

「怖がらなくていい。すべて、そのままで」

「…………」

「陽は、とっくに覚悟を決めている。だから、あれだけ冷静でいられるんだ」

「…………」

「おまえも、逃げるな」

「…………俺は……陽を……」

 涼景は背後から、静かに親友を抱きしめた。

「もう、楽になれ。心を抑え込む必要はない。これからは、俺がお前たちを守る。俺の命も刃も、お前たちのために尽くそう」

 黄昏が、ゆっくりと降りてくる。

 沈みゆく夕陽のそばに、一際明るく光るほしが一つ、光芒を放っていた。

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