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7 花嵐

 犀家に入って十一日目。

 東雨にとって、待ちに待った時がきた。犀星が、玲陽に会わせてくれるのだ。

 これまでに、周囲から色々と玲陽の噂を集めていた東雨は、楽しみでならなかった。

 玲陽を知る人たちが口をそろえて言うのは、彼は心根が優しくおだやかで、誰に対しても親切である上、その見目は犀星に勝るとも劣らずに麗しい、というものだ。

 直前まで、東雨はそわそわと落ち着きなく、玲陽の部屋へ向かう間も、珍しく一言も喋らなかった。正確には、しゃべらなかったのではなく、緊張で声も出なかった、というほうが正しい。

 若様だって綺麗なのに、それに匹敵するって…… しかも、若様より性格がいい!

 東雨は期待に胸を膨らませた。

 初めて犀星と出会った幼い日、東雨はこの世界には本当に美しい人がいるのだ、ということを知った。自分がそのそばに仕えるという現実に歓喜した。そして、すぐに外見に惑わされた自分を恨んだ。本質は自分で確かめなければわからないということを、知っていたはずだった。犀星の時に一度痛い目に会っているというのに、今回も花には棘ということを東雨は忘れていた。

 もっとも、それを思い知るのはずいぶん後になってからである。

 玲陽とのことは、単に犀星の幼馴染に会う、というのとは訳が違う。犀星の様子を見る限り、玲陽が元気になったら終わり、というわけではないらしい。おそらく、これからは一緒に暮らすことになるだろう。

 まるで見合いに向かうような心境で、東雨は気が気ではなかった。

 犀星は部屋の前まで東雨を連れてくると、念を押すように振り返った。

「いいか、あまりはしゃぐなよ。陽はまだ、熱があるんだ」

「はい!」

 東雨は刀の稽古の時よりも、行儀の良い返事をした。目を輝かせている東雨を見て、犀星は難しい顔をしていたが、諦めたのか、黙って引き戸を開けた。

 玲陽の休む部屋は、常に炉を焚き、暖かく保たれている。

 扉を開けると、その熱気とともに、喉に絡むような薬香の香りが流れてきた。鎮痛効果を持つ香だ。嗅ぎ慣れない臭いに、東雨の鼻がむずむずする。部屋の奥には涼景もいて、炉の上で、薬だか粥だかの準備をしているようだ。

 東雨は恐る恐る足を踏み入れた。と……

「はじめまして」

 優しい声が、東雨の耳に聞こえた。

「あ……」

 声がした方を見ると、寝台に横たわった金色の髪の美しい人が、こちらを見て、微笑んでいた。

 東雨はその姿を凝視したまま、動けなかった。

 仙女さまだ。

 と、東雨は思った。

「東雨?」

 犀星は東雨の背を押して、寝台の方へ促した。

 柔らかな午前の日差しが、寝台の足元の格子窓から差し込み、白い褥を更に白く輝かせている。その輝きにも勝って、玲陽の薄い金箔のような髪がきらめいている。

「きれい」

 思わず、東雨は呟いた。

「うん?」

 犀星が東雨の後ろで静かに見下ろした。

「何をぼんやりしている? 香にやられたか?」

「そ、そんなんじゃありません!」

 東雨は慌てて、よそ行きの顔を作った。ギクシャクとした動きで寝台に近づくと、枕元にひざまずく。

「こんにちは」

 東雨は息を潜めるようにして話しかけた。

「若様のお世話をさせていただいています、東雨です」

 玲陽は微笑んだまま、頷いた。その笑顔に、東雨はまた釘付けだ。

「きれい」

 東雨は再び呟いた。玲陽は少し困ったように東雨を見たが、すぐに表情を和らげた。

「玲光理です。ご挨拶が遅れてしまい、失礼いたしました」

「はい! あ、いえ!」

 明らかに挙動不審な東雨に、犀星はため息をついた。

「何が言いたいんだ、おまえは」

「だ、だって!」

 言い訳っぽく振り返った東雨は、わずかに頬が赤い。

「だって?」

「だ、だって……こんなに綺麗な人だったなんて……」

 東雨の慌てた姿は面白いが、理由が玲陽に見とれて、というのが、犀星には気に食わないらしい。だが、そこは主人としての最後の矜持か、いつもの感情のない仮面を外さない。

「東雨、顔が赤いぞ」

「え! そ、それは……この部屋が暑いから!」

「あ、すみません。兄様、私は大丈夫ですから、風を通して下さい」

「陽、いいんだ」

 犀星は呆れながら、玲陽の牀の端に腰掛けた。

「でも、東雨どのが……」

「東雨どの?」

 犀星が何とも言えない微妙な表情を浮かべる。

「東雨どの?」

 当の東雨自身も、思わず繰り返して、それから、目を見開いた。

「光理様、ありがとうございます!」

「え?」

「俺、そんな風に呼ばれたの、初めてです!」

「あ、嫌でしたか?」

「いえ!」

 東雨は前のめりに、

「ぜひ、ぜひ、そうお呼びください!」

「東雨、声がでかい」

 涼景が、耐えかねたように奥から注意したが、舞い上がっている東雨の耳には入らない。

 犀星は思わず額を抑えた。

「はしゃぐな、と言ったのに……」

「光理様、俺にもお世話させてください。俺、なんだってやりますから!」

 と、玲陽に食いつく勢いである。

「あ、ありがとうございます」

 さすがに玲陽もまずいと思ったのか、助けを求めるように犀星を盗み見る。

「東雨、話してもいいから、声を抑えろ。寝不足で頭に響く」

「若様、寝不足なんですか!」

「だから、全力でしゃべるな」

「寝てください! 俺、代わりに光理様のそばにいますから!」

「いや、それとこれとは……」

「一緒です! 任せてください!」

「うるさいっ!」

 ついに、涼景が怒鳴った。

 豪快な男ではあるが、涼景は怒りっぽいわけではない。よほど、腹に据えかねたと見える。

「ごめんなさい」

 玲陽が、小声で東雨に謝った。

「涼景様も、お疲れなので……悪気はないんです」

 東雨は怒鳴られたことは全く気にしていないが、玲陽がこそり、と自分に気遣いをしてくれたことが嬉しく、ニッと笑った。

「大丈夫です。俺、慣れてるんで!」

「東雨、いい加減に……」

「光理様。ねぇ! 是非、俺にもなにかお世話を……」

「東雨、ちょっと来い」

 犀星は立ち上がると、東雨の襟首を掴んで部屋から引っ張り出した。

「若様ぁ!」

「いいから、来い!」

 東雨に逆らう気はなかったが、犀星が手を離さずにずんずんと進むものだから、仕方なく後ろ向きに引きずられる。

 廊下の角を曲がって犀星はようやく立ち止まった。ぽい、と東雨を離して、犀星は回廊に座ると、頭を抱えた。

「若様……」

「うん?」

「……すみません」

 東雨は、ちょこん、と犀星の隣に腰掛けた。中庭を見れば、昨日よりわずかに陰った太陽が、雲の間から細い光をいく筋も庭に伸ばしている。

「おまえ、浮かれ過ぎだ」

 言ってから、犀星は顔の下半分を、乱暴に手で拭った。片膝を曲げ、その膝の上に肘をついて、大きくため息を吐く。

「何がそんなに嬉しいんだ?」

 犀星の声は怒ってはいない。しかし、どこか恨めしそうである。東雨は膝を抱えた。

「俺、光理様にずっと会いたかったから」

「なぜ?」

「なぜって……」

 東雨は、ぽつりぽつりと、

「ここに着いて、若様と涼景様が光理様を探しに行って…… 俺は留守番」

「今は、連れて行かなくて正解だったと思っている」

 犀星は、忘れることのできないあの夜を思い出した。もう、はるか遠くの記憶になっているが、実際には半月も過ぎていない。多くのことがありすぎた気がする。

「それから、おふたりがお戻りになって、光理様のお手当てをしている時も、俺は何もできなくて……」

「おまえだけじゃない。父上にも目通りさせられる状態ではなかった」

 犀星と涼景以外は、どのような用件でも、決して部屋には入れなかった。それは全て、玲陽の人としての尊厳を守りたかったためであるが、玲陽の怪我の状態を知らない東雨にとっては、寂しく感じても仕方がなかっただろう。

「俺、お役に立ちたいです」

 東雨は気持ちを落ち着けて、

「光理様がお綺麗だからじゃないですよ」

「当たり前だ」

「若様、ずっと光理様のこと、思い続けていたじゃないですか」

「うん?」

 痛いところを突かれた、という顔で、犀星は黙った。

「若様、都に来てから毎日、光理様にお手紙書いていたでしょう? 普通、返事も来ないのに、十年も毎日毎日書かないですよ。おかしいですよ。絶対に変ですよ」

「…………」

「若様がお心を患った時だって、最後まで光理様のことばかり…… どんな人だろう、って気になっても当然じゃないですか」

「…………」

「それに……きっと今、こうして若様が前みたいに少しお元気になられたのも、光理様のおかげですよね? だから俺、少しでも役に立ちたいなって思っただけで……」

 長く、犀星は口を開かなかった。東雨は犀星の横顔を見たが、例の如く、感情は読めない。犀星を知らない者が見れば、まだ具合が良くないのでは、と思うところだが、東雨にはそうではないことだけはわかっていた。

 庭の砂利の上を、枯れ葉が音もなく風に乗って流れていく。東雨はふと、都の自分達の屋敷の庭にも、同じように枯れ葉が舞っている様子を想像した。

 都・紅蘭を出てから、もう、一月が過ぎている。いつ帰れるともわからないが、その頃にはきっと、落ち葉でいっぱいになっていることだろう。

「光理様を、都にお連れするんでしょう?」

 東雨は、静かに尋ねた。犀星は反応しない。犀星の目は庭を見ているようで、実際にはもっと遠い何かに思いを馳せているようだ。東雨は主人の様子を伺いながら、

「俺、光理様と仲良くなりたいんです。そうじゃないと、色んなこと、うまくいかないと思う」

 そう言って、ぎゅっと膝を引き寄せる。

 幼い頃から、ずっと、犀星と二人きりで暮らしてきた。仕事の時には他の人間も一緒だが、生活はすべてふたりを中心に回っていた。必要に迫られて、ではあっても、東雨はいつも犀星と一緒だった。そんな暮らしに慣れきっている東雨にとって、同じ屋根の下に他の人間がいる、という状況は想像もつかない。しかも、その人は犀星が特別に大切にしている相手である。

 俺、どうなっちゃうんだろう。

 漠然とした不安が、東雨にじわじわと迫ってくる。どうしても落ち着かない。自分の居場所が無くなりそうで、何をしていても手応えを感じることができなかった。

「あの、若様……」

 東雨は心細さを感じて、犀星を呼んだ。返事もなく、ぼんやりと虚空を見ているが、こういう時でも犀星がちゃんと自分の声を聞いてくれていることを、東雨は知っている。

「若様は……」

 光理様のことを、どう思っているんですか?

 東雨はどうしても言葉が続けられなかった。

 自分は犀星の侍童である。友人でも兄弟でも、それ以上の関係でもない。一緒に暮らしてきたからといって、犀星が自分を特別扱いしているわけではない。仮に、東雨が犀星の寝所を務めていたとしても、口出しをすべき問題ではないのだ。

 逆に考えるならば、そのような部外者だからこそ、あっさりと聞いても不自然ではないところである。特に犀星のように、なんでも自由に発言を許してくれる主人においては、とがめられることもないだろう。

 どうして、俺は、尋ねることをためらうんだろう。

 東雨としては、簡単なことを簡単に口にできない自分の状態こそが、最も憂慮すべき事柄であった。

 質問を飲み込んだまま、じっと足元を見つめている東雨は、いつの間にか犀星が気遣わしげに自分を見ていることに気づかなかった。

 ふわり、と風が香って、東雨は顔を上げた。いつの間にか、犀星が中庭の隅にある小さな石碑の前に立っている。

「若様……」

 長年の習性で、東雨はこのような場面で、反射的に犀星を追う。まるで、一定の距離にいなければ、息ができないというように。

「若様、この石碑……あ」

 東雨はふと思い至って、犀星を見上げた。

 都の犀星の屋敷の庭にも、似たようなものがある。

「母上の供養碑だ」

 犀星は石の前に膝をつくと、手を合わせた。東雨はいつものように、犀星から一歩下がってかがみ込み、祈っているふりをしながら薄目を開けて犀星を見た。

 じっと目を閉じている横顔は美しかった。この顔が東雨は好きだった。見るたびに、きっと、犀星は母親に似ているのだろう、と思う。犀星はしばしそうしてから、静かに立ち上がった。

「俺が玲陽にこだわるのは、母の面影を追っているからかもしれない」

 突然、犀星が言い出した。東雨は驚いて顔を見つめたままだ。

「俺の母上と、陽の母上は双子でな。聞いた話では、外見は見間違えるほど似ていたそうだ。陽は母親似だから……」

「それなら、きっと、若様だって似ています」

 東雨は遠慮がちに言って、立ち上がった。不思議そうに、犀星が振り返る。

「さっき、光理様にお会いしたとき、思ったんです。若様に似ているって」

「……そうか」

 小さく呟いた犀星は、どこか、ホッとしたように見えた。

「若様は、お母上が大好きなんですね」

「……好きかどうかはわからないが」

 犀星は、ゆっくりと、

「話をしたいとは思っている」

「それ、好きだからでは?」

 東雨はじっと犀星を見つめた。だが、犀星は黙って首を横に振った。

「記憶にない相手を、好きか嫌いかなど言えるわけがなかろう」

「うーん、まぁ、そうか」

「ただ、恋しいのかもしれないな」

「え?」

 東雨は少々、ぎょっとした。

 恋しい?

 そんな言葉を今まで犀星が使ったことなど、一度もなかった。感情を見せない犀星は、気持ちを表す言葉自体、滅多に用いなかった。

「母上は、ご自身の命と引き換えに、俺をこの世界へ送り出してくださった。だから今、こうしてここにいることができる。すべての始まり、生きることを許してくれたのは、母上なんだ」

 東雨は犀星から目が離せなかった。

 表情こそ、今までと同じように感情の薄いままだが、語る言葉はまるで別人のように柔らかく、想いが溢れている。

 若様、どうしちゃったんだ?

 驚き、戸惑い、そしてかすかな不安。

 感情を伝えてくる犀星を歓迎すべきだろうと思いつつも、東雨はなぜか、素直に喜べなかった。そんな自分にまた、余計に困惑する。

 だめだ、しっかりしないと!

 東雨は自分を奮い立たせた。

「それで、若様はお母上と、どんな話をしたいんですか?」

「うん?」

「話してみたい、って言ったじゃないですか」

「ああ」

 犀星は長く息を吐いて、

「よくわからないが、感謝だけは伝えたい」

「産んでくれて、ありがとうって?」

「そうだな」

 東雨は不意に、自分の母のことを思い出した。自分の母もまた、出産が原因で命を落としていた。

 でも……

 と、東雨は思う。

 ありがとう、って言いたいとは思わない。

 東雨の面に、静かに暗い影が落ちた。自然と、表情がこわばっていく。

 この世に生まれて、本当によかったのだろうか。自分は、生きていてよかった、などと、思ったことがあるだろうか。それが言えるのは、

「若様、お幸せなんですね」

 嫌味のつもりはなかった。

 それでも、言わずにはいられなかった。

 我ながら、こんなに意地が悪いのか、と東雨は悔しくてたまらなかったが、それでも毅然として顔を上げた。震えそうになる声を必死に張る。

「生まれてきてよかった、なんて思えるのは、幸せな人だけです」

 犀星の表情が動いたのを、東雨は見逃さない。

 ざまみろ。

 心の中で吐き捨てて、東雨はゾッとする。

 俺、若様に何を……

「おまえ……」

 東雨の様子に何かを感じて、犀星が声をかけようとしたとき、門の方から、何やら騒がしい声と、開門を叫ぶ悲鳴が聞こえた。

「東雨、行くぞ!」

 一瞬早く動いた犀星を追って、東雨は門へと駆け出していた。

「何事だ!」

 犀星と東雨が駆けつけた時、門の周りには護衛兵たちが慌ただしく行き来していた。玲家との緊張関係が続く中で、有事に備えて普段よりも多くの私兵が待機している。

 日常的に閉じているはずの外門が開かれ、内門も開放されていた。犀家は先の幕環将軍・犀侶香の屋敷とあって、ただの豪族の邸宅ではない。規模は小さいが、守りは堅固である。その門が理由もなく開かれることはない。

「玲家が襲ってきたんでしょうか?」

 東雨が不安そうに犀星を見る。剣術を学んでいるものの、東雨には実戦経験がない。戦は怖い。

 屋敷の奥から、足早に犀遠が出てくる。

「父上、これは?」

「さてな」

 犀遠も状況がわからないらしい。その時、馬のいななきと、地を穿つような乱れた馬蹄の音が急速に近づいてきた。

「門を閉じて! 早く!」

 高く、よく通る女性の声が、響き渡りる。

「門を閉めよ!」

 犀遠が繰り返すと、門番が慌てて門扉の綱を引き戻す。締まり切る直前に、外門から内門へ、一騎の騎馬が飛び込んできた。馬が混乱しているらしく、その背に乗っていた少女は必死に手綱を引いた。棒立ちになった馬からなかば転げ落ちて、少女はしばらく起き上がれない。暴走しかけた馬を馬丁たちが必死にとりなした。その向こうで、重たい外門が音を立てて閉じきる。

「大丈夫か!」

 犀星は、地面にうずくまっていた少女のそばに駆け寄った。東雨は犀星の陰に隠れて、様子を見ている。

 少女は落馬した際、細い体に不釣り合いの大太刀を庇って腕に抱いていた。その太刀に、犀星は見覚えがあった。以前、同じものを犀遠が持っていた記憶がある。父から太刀を譲り受けたとすれば、この少女は只者ではあるまい。

 犀星は犀遠を振り返った。

 同時に、少女より先に到着した伝令が、犀遠の前に駆け寄って跪いた。

「申し上げます! 玲家と思われる集団、燕家の邸宅を奇襲。警備の兵にて応戦中!」

「玲家が燕家を襲ったと? 何故……」

 犀星には目もくれず、少女は犀遠に這い寄った。犀遠が少女を振り返る。

りん!」

「私のせいです。私がいたから!」

 少女、凛は必死の形相で犀遠を見上げる。

「あいつら、私を探していたんです。それで、燕家に目をつけた」

「そうか、おまえは燕家に忍んでいたか」

「すぐに増援を! 敵は逃げた私を追ってきたので、今なら、燕家の駐屯兵と増援部隊で、挟み撃ちにできます!」

「あいわかった!」

 犀遠が屋敷の護衛兵を集め、素早く増援の指示を出す。その様子を、少女は悔しそうに顔を歪めて見ていたが、気持ちが抑えられないのか、拳で地面を殴りつけた。

 うそ……

 東雨は、思わず後退った。

 少女は自分よりも年下のように見える。見た目は可憐で、煌びやかな絹の裳が似合いそうな美少女だが、それが拳で土を殴るなど、東雨の想像を超えていた。

 犀星といい、この少女といい、歌仙には変わり者が多いのだろうか?

 東雨の困惑など知る由もなく、少女は立ち上がって身なりを正した。怪我はないようである。

 十数騎が、再び細く開かれた外門から駆け出していくのが見えた。

「申し訳ございません。私がいながら」

「いや、問題ない」

 犀遠が増援の出立を見届けて、少女のもとに戻ってくる。

「案ずるな。玲家の私兵などに負けはせぬ」

「ありがとうございます、叔父上」

「叔父上?」

 東雨が首を傾げる。

「詳しい話を聞かせてくれ。星、凛をわしの部屋へ」

 少女は振り向くと、値踏みするように犀星を見た。無礼極まる態度である。東雨は何か文句を言わねば、と思ったものの、足がすくんでしまっていた。

 少女はじっと犀星を見据えた。その眼差しには一才の遠慮がない。

「……蒼い目……もしかして、星兄様?」

 え?

 東雨は展開についていけない。

「凛、久しいな。すっかり大きくなって……」

 犀星が、懐かしい従兄妹の無事を喜ぼうとした矢先、玲凛が、カッと目を見開いた。

 ひぃっ!

 と、東雨がその形相に恐れをなして、尻餅をつく。美人は怒ると怖いのだ。

「この、馬鹿野郎!」

 門に集まっていた総勢二十名ほどが、何事か、と、一斉に玲凛を振り返って硬直した。

 今にも犀星に斬りかかるのではないか、という憤怒で、玲凛は犀星を刮目している。

 犀星の方はどうしてよいかわからぬまま、いつもの感情のない表情で少女を見返した。

「よくも、歌仙に戻ってこられたな!」

 玲凛の怒髪天をつく。

 東雨はすでに、心が折れて状況を考えることすら放棄している。

 犀遠が全てを察したようにやれやれと首を振った。こうなると、もう、誰も彼女を止めることはできない。

「十年もの間、陽兄様を放っておいて、今更何をしにきた! この、薄情者が!」

 言い返す言葉もない犀星に、玲凛は一歩詰め寄った。

「私は、絶対に許さないからな!」

 怒鳴るだけ怒鳴ると、玲凛はさっと踵を返して屋敷に向かう。

「あ、凛、案内を……」

「ひとりで行ける!」

 取り残された犀星は、助けを求めるように家人たちを見回した。

 伯華様、お気の毒に。

 彼らの表情は一様に哀れみに満ちていた。


 玲凛、字を仲咲は、玲芳とその兄、玲格との間の娘である。兄妹での婚姻は、今の時代、決して赦されない禁忌である。だが、玲家においては、その辺りが曖昧だった。社会の規範よりも、一族が昔から守ってきた習慣が重んじられる。血を残すためとあらば、世の評価など考慮しない。その結果は、時に悲劇を生む。

 母親の玲芳は、実の兄との間に生まれた玲凛を避け、距離をおいていた。慣習とはいえ、彼女には自分の身に起きたことが受けれ入れられなかった。第一子の玲陽は身に覚えがなく、第二子玲凛は実兄の子、という現実は、孤独な彼女を苦しめた。

 玲格は力を持った娘を望んでいたが、玲凛には期待した力は見られなかった。

 力のない娘は、子を成す以外に生きる道はない。

 幼い玲凛の運命は、玲家の血という鎖でがんじがらめにされていたのである。

 玲陽より九歳年下のこの妹は、犀星が歌仙で暮らしていたころから、二人を兄と呼んでよく懐いており、特に玲陽にはべったりだった。

 両親の愛を得られなかった玲凛は、それを兄である玲陽に求めていた。玲陽も苦境にいる妹に寄り添い、可愛がり、よく面倒を見た。

 その後、縁あって、彼女は三年ほど、犀遠の屋敷で暮らしていた時期がある。

 すでに犀星は都へ上がったあとであったため、犀遠はたいそう喜び、賑やかになる、と玲凛を歓迎した。そして、あろうことか、自分の武術の限りを彼女に教えてしまった。いつの世も、父親は娘に甘い。

 そうして恐ろしいことに、玲凛に眠っていた戦いの才能とも言えるものを、開花させてしまったのである。

 以降、彼女は、太刀のみならず、剣、戦斧、槍、戟、弓、馬術、体術、そして軍を動かす戦術論まで一気に吸収し、当代稀に見る強者への道を歩むこととなった。戦勇・犀侶香の再来である。

 燕家に帰省するたびに犀家を訪れていた涼景は、何度か彼女と手合わせをしたが、その度に、この世には天賦の才というものが存在するのだということを思い知らされた。涼景も周囲には天才ともてはやされたが、実際には努力の人である。それに対し、玲凛の才能は本物だった。

 女性の身だから武術に向かぬ、という通説は、彼女の前では通用しない。もし、周囲の環境が許しさえするのなら、涼景は玲凛を是非とも自分の軍に引き入れるつもりである。

 玲凛は、言いつけ通り犀遠の部屋に向かったが、途中で気配を感じ、玲陽が休んでいる部屋に気づいた。

 陽兄様がいる!

 止める家人を振り払って、彼女は引き戸を開けた。

 重く暑い空気が立ち込める部屋で、牀に眠る玲陽を見つけ、玲凛は飛びついた。

「なんだ、東雨、またきたのか?」

 鉢で薬を擦り合わせていた涼景が、引き戸の音を聞いて、下を向いたまま、あきれた調子で言った。

「門の方が騒がしいようだが、何か……」

「兄様!」

「え?」

 女の声に、驚いて涼景は顔を上げた。

「凛じゃないか!」

「ああ、兄様!」

 玲凛は目を閉じていた玲陽の肩を揺さぶった。

「おい、凛、やめろ! せっかく眠ったところなんだから……」

「寝ている場合ですか!」

「いや、寝なきゃよくならん!」

「兄様、起きてください!」

「おまえなぁ!」

 玲陽のことで頭がいっぱいの彼女に、涼景の姿は見えていない。

 東雨といい凛といい、最近の若者は話を聞かない。

 涼景は心の中で恨み言を言ったが、かつて、自分も師匠に同じことを言われていたとは思いもしない。

 急に騒がしくなって、玲陽は混乱しながら目を覚ました。大きな声がガンガンと響く上、突然、体をがたがたと揺さぶられる。ここ数日、過保護すぎる犀星にとことん甘やかされていた玲陽には、辛すぎる仕打ちである。

「兄さまぁ!」

 玲凛が玲陽の胸元にしがみついて、叫ぶように呼びかけた。

「え? え?」

 何が起きているのか理解できず、玲陽はしばし答えられずにいた。誰かと思って顔を覗く。大きな目にいっぱいの涙を浮かべて、玲凛が自分を見つめていた。

「凛どの!」

 かすれた声で、玲陽は呼んだ。

「ああ!」

 重たい腕で、凛の背中を抱き寄せ、玲陽はそっと撫でた。

「よくぞ、よくぞご無事で!」

 「いや、どう考えても凛はおまえより丈夫だから」

 と、涼景はいささか冷ややかだ。

「陽兄様こそ……」

 玲陽は、いつもの優しい笑みを浮かべた。

「あなたには、本当に心配をおかけしました」

 玲陽は済まなそうに目を伏せた。自分のために、玲凛が多方に渡って心を砕いてきたことを、玲陽は察していた。玲凛は兄を安心させるように、声を和らげた。

「もう、いいんです。無事に戻ってきてくださっただけで!」

「無事じゃないけどな」

 どうせ聞いちゃいないだろう、と思いながら、無遠慮に涼景が呟く。そして案の定、無視される。

「涼景様や、兄様のおかげです」

 玲陽は夢見るように、

「兄様……約束を果たしてくれました」

「……兄様? 星兄様のことですか?」

 今までの笑顔が消え、心配そうに玲凛は言った。

「陽兄様、まだ、星兄様のこと?」

 肯定の笑みが、玲陽に浮かぶ。反して、玲凛は辛そうにうつむいた。

「四年前、私が陽兄様に最後にお会いしたとき、陽兄様は、星兄様を待つとおっしゃった。信じて、迎えにくるのを待つと。でも、私だってもうわかる。十年間、手紙ひとつよこさず、陽兄様を気遣う言葉もなかった。陽兄様がどんな目に遭っているか、何も知らないで。それを今になって……私は、絶対ににあの人を許さない」

 話しながら、玲陽の痩せた指を握る。玲凛の気持ちは、玲陽にもしっかりと伝わっていたが、彼の考えは妹とは違う。

「凛どの、星にも事情があるのです。あの人は、私のことを忘れたりしていない。ないがしろになんてしていません」

「それは、陽兄様がそう思いたいだけです」

 低めた玲凛の声が震えた。堪えているのは、悲しみか怒りか。

「凛どの」

 玲陽の呼びかけに、玲凛は目をしっかりと開いて、

「陽兄様がそう信じたい気持ちはわかります。でも、騙されちゃだめ!」

「おい、凛、言い過ぎだ」

 思わず、涼景が立ち上がる。今の言葉は聞き流すわけにはいかなかった。だが、玲凛は相変わらず、玲陽のことしか見えていない。

「陽兄様、お願い。冷静になってください。あなたは……私の大切な兄様です。これからは、私がお守りします。そのために私、強くなりました。叔父上に、たくさん教えていただいて……」

「凛、ここにいたか」

 声を聞きつけたのか、犀遠が部屋を覗いた。

「陽、体はどうだ?」

 玲陽は犀遠が止めてくれたことに安堵した。首を伸ばして、犀遠を見上げる。

「はい、昨日よりも少し楽になった気がします。毎日、少しずつ。これも、本当にみなさんがよくしてくれるおかげです」

「うむ。油断せずに安静にな」

 犀遠は頷くと、玲凛を呼んだ。

「凛、おいで」

「でも!」

「いいから、来るんだ」

 不服そうな玲凛に、玲陽は静かに、

「凛どの、私はもう大丈夫ですから、叔父上と一緒に。ね」

 それは、玲凛の心をくすぐる、兄としての甘い声だ。さしもの玲凛も、このような玲陽の言葉には逆らえない。後ろ髪引かれながら、犀遠と一緒に部屋を出ていく。

 残された男二人は、思わず同時にため息をついた。

 涼景は苦い笑みを浮かべて、玲陽の牀に腰かけた。

「まったく、激しい娘だな、おまえの妹は」

「凛どのは、私を大切に思ってくれています。それゆえに、いろいろ考えてしまうんだと思います」

「邪推もいいところだ」

 涼景は、犀星のことを悪く言われたことが気に入らないらしい。

「陽、今更おまえに言う必要はないと思うが」

「はい」

「星に他意はない」

「はい」

 知っています、というように、玲陽は頷いた。涼景は懐かしむように、

「凛は星が都でどんなふうに過ごしていたかを知らない。だが、俺は見てきた。星がどれだけ、おまえのことを思い続けていたか。手紙もよこさないと言っていたが、あいつは毎日書いていた。馬鹿みたいにな」

「兄様は、私にどんなことを書いてくれていたのでしょう?」

 玲陽は少し緊張しているように見えた。涼景は答えた。

「他愛のないことばかり。俺も、毎日よく書くことがあるものだ、と尋ねたことがあるが」

「…………」

「その日、どんなことがあった、誰とどんな話をして、どんなことを思った、とかな。一歩間違えば、情報漏洩の罪に問われるというのに」

「危ないですね。検閲を通されたら、あらぬ疑いを招きそうです」

「それはあいつもわかっていたようで、宮中の郵政署ではなく、都の民間の飛脚を使っていた」

「そこまでして……」

「そばにいれば何気なくかわす言葉。それを、毎日毎日、お前と話をする気持ちで、書き続けていたんだと思う。そして、手紙でおまえに届けようとしていた。そうすることで、離れていても、一緒にいられる気がしたんだろう。手紙を書くことで、おまえに話しかけていたんだよ、あいつはずっと」

 聞きながら、玲陽の心はちくちくと痛んだり、締め付けられたり、ふわりと熱を帯びたり、忙しなく湧き起こる感情に揺れ動いた。最後には、切ない気持ちが、まるで当時の犀星の心を写したかのように、自分の心に宿るようだった。

 玲陽は、声を低めた。

「それなのに、私は、その声を聞くことができなかった」

「おそらく、それをよく思わない誰かが、潰していたんだろう。だが、あいつはそんなことには負けなかった。返事はなくても、ずっと信じていたんだ。おまえが、自分を待っていてくれると」

「兄様……」

「あいつは、どんな陰謀にも屈しなかった。今は余計な心配をかけるから話さないが、これだけは覚えておいてくれ。歌仙親王としてのあいつの十年間は、決して生やさしいものではなかった。それを生き残って、さらにその上に実績を重ね、信頼を得て、誰も文句の言えない実力と立場を築き上げてきたのは、陽を守る力が欲しかったからだ。あいつは、ただ、そのためだけに、何もかもを投げ打ってきた。中途半端な覚悟でできることではない。俺が今更、言う必要はないのだが、万が一にもお前が不安になるのなら、そのことを思い出して欲しい」

 涼景は感情を抑えながら、それでも止まらない、というように一気に言った。

 その横顔を見ながら、玲陽は鬼気迫る雰囲気を感じ、胸を抑えた。こちらまでが、どんどん苦しくなってくるような、逃げ場のない寂寥に飲み込まれていく気がした。

 玲陽が辛そうな顔をしているのを見て、涼景はわずかに微笑んだ。重たくなった空気を変えるように、明るく声を高める。

「まぁ、俺の言葉を、おまえがどこまで信じるかはわからないが」

「信じます」

 せっかく、場を和ませようとしたのだが、玲陽の返事は今までになく真剣で、涼景は息を呑んだ。

「わずか十日前に会った俺のことをか?」

「確かに、私はまだ、あなたをよく知りません。でも、星が信じている人を、私は信じます。あの人が心を許したのなら、私も、習います」

「星を、信じているからか」

「はい」

 揺るぎない、美しく強い玲陽の瞳。

 涼景の心が、なぜか、ギシッと音を立てて軋む。それがどんな感情のためか、知るのが怖い気がした。もう一歩踏み込めばその正体に気づいてしまう。それが怖くて、涼景は玲陽から顔を背けた。

「でも……」

 玲陽が声を詰まらせながら、

「これから、どうなるのか……」

「侶香様は、凛から詳しい話を聞くつもりなのだろう」

 振り返らずに涼景が言う。妙な沈黙があって、涼景はちらりと玲陽を見た。

 好奇心の塊のような玲陽の顔がある。

 涼景は慌てて首をふった。

「陽、おまえはダメだ」

「ええ!」

「まだ、動けないだろ」

「では、皆さんをここへ! 私も話が聞きたいです!」

「無茶を言うな。おまえは体を休めることに集中しろ。他のことは俺たちに任せておけ。あとで話してやるから」

「そんな……」

「星も、侶香様もいる。凛も役にたつ。乱暴だが……」

「乱暴って……私の可愛い妹です」

 玲陽は少し不満そうに口を尖らせた。涼景はぽかんとして、

「可愛い? あれ、可愛いか?」

「可愛いです!」

 ムキになって主張する玲陽に、思わず涼景は吹き出した。

「おまえも、妹煩悩だな、陽」

「なんで笑うんです?」

「気にするな」

「気にします」

 褥を口元まで引き上げて、玲陽は涼景を睨んだ。だが、涼景の表情が冷え、真顔になったのを見て、黙り込む。

 遠くを見ながら、やけに感情のない顔で、涼景が呟くように問いかけた。

「妹のこと……妹に対する自分の気持ち……怖くなったことはないか?」

「え?」

 それは、ひどく真剣な質問に思われた。だが、玲陽には気の利いた答えはなかった。

「凛どのは確かに激しい方ですが、怖がるということはないです」

「そうか」

「涼景様、何か……」

「いや、いいんだ」

 涼景は切り替えるように、両手で膝を打った。

「星、遅いな。呼んでくるか?」

「いいえ。大事なお話があるのでしょう。私は一人でも大丈夫です。涼景様もぜひ、兄様の力になってあげてください」

「だが……」

「犀家の人たちもいてくれますし」

 玲陽は安心させるように涼景に微笑みかけた。その顔を、涼景も嬉しく見守る。

「では、薬と粥はここに置いておくから、食わせてもらえ。星じゃないと嫌かもしれないが」

「そんなことは……」

 玲陽は隠し難い想いに頬を染めた。

「行ってくる」

 涼景は廊下に常駐している家人たちに玲陽を任せると、犀遠の部屋に向かった。

 回廊を足早に進んで、奥の犀遠の部屋へ向かう。

 おそらく、犀星もそこにいるはずだ。

 涼景は腰の刀の感触を確かめた。

 凛が犀家に来たということは、何らかの動きがあったと見て間違いない。涼景は門前での出来事を知らないが、長年の前線での勘から、おおよその推論が立つ。

 きな臭くなるな。

 涼景は覚悟を引き締めた。少数で歌仙に入った時点で、何かあれば自分が犀星を守る腹はできている。犀星とて無力ではないが、軍人ではない。歌仙の兵力は、玲家、犀家の私兵がほとんどであり、大きな脅威にはならない。犀遠が味方についている今、敵は玲家だけということになる。厄介なのは、玲家が人並外れた奇策を弄する可能性がある、という点である。力を武器に戦うのであれば勝ち目はあろうが、怪しげな呪術などを用いられては、涼景には術が見つからない。そこは、玲陽や玲凛の知識が重要になってくるだろう。

 涼景は犀遠の部屋の前で立ち止まり、膝をついた。

「ご無礼仕ります。燕涼景にございます」

「うむ。入れ」

 中から、犀遠が声をかけた。涼景は一礼し、部屋に進みいる。上座には犀遠が絵地図を前に置いて座っている。その右手から、玲凛、東雨、犀星が、地図を囲むように座っていた。犀星が振り返る。

「涼景。陽は?」

「心配ない。本人が、こちらに行けと」

「そうか」

 涼景は今一度犀遠に向き、

「侶香様、同席をお許しいただけますか」

「無論。おまえを待っていたところだ」

「は」

 会釈して、涼景は犀星のやや後方に座をすえた。

 犀遠は涼景に対して礼儀を押し付けることはしないが、涼景は略式とはいえ、犀遠を立てることを旨としている。普段はそのような格式ばったこととは無縁と思われる涼景だが、そこは天下の暁将軍、しかと心得ている。

「では、凛」

 犀遠が玲凛を促した。はい、と答えて、玲凛は口を開いた。

「少し前、涼景様が玲家を訪れたこと、人づてに聞きました。それで、近々、騒ぎを起こすだろうと」

 そこで、ちらりと涼景の方を見る。彼は頷いた。

「俺が玲家で玲芳様と直接お会いしたことか?」

「おそらく。涼景様が動いていることがわかったから、私も準備をしていました。……母上は最近、ずっと父に薬を盛られていたようで、話もできなくて……だから、私だけでも、どうにか逃げなくてはと」

 玲凛は、先ほどまでの激しさが嘘のように、落ち着いた口調で言った。

「あの夜、砦から火の手が上がって、誰か殺された人もいたようで……」

 玲凛はじっと犀星を見ていたが、犀星は表情を変えなかった。むしろ、見守る涼景の眉が微かに動く。

「大騒ぎになっている中、私は混乱に乗じて燕家に逃げた。叔父上がよこしてくれていた燕家の護衛の人たちには申し訳なかったけれど、こっそり、忍び込んだんです。春ちゃんには、先に手紙で知らせていたので。燕家でかくまってもらって、状況を確認するつもりでした」

 突然出された妹の名前に、涼景は目を伏せた。それは無意識の反応であったが、それ故に彼の動揺を示している。犀遠は玲凛を見た。

「なぜ、わしに知らせてくれなかった? おまえも芳も、陽を黙らせる人質のようなもの。陽が砦から逃げたとなれば、誰がどんな目的で、おまえを狙わないとも限らない。わしも喜んで手を貸すものを。水臭いではないか」

「ここに、陽兄様がいるとわかったから」

 玲凛が澱みなく答える。

「私のことを知らせたら、叔父上は動いてくださる。でも、私より、陽兄様を守って欲しかったんです。余計な負担をかけたくなかった」

「負担など……」

 犀遠は首を振った。玲凛は、また、静かに続けた。

「玲家の状況は何もわからないままで……  そんな中、今日、武装した一団が燕家を奇襲しました。叔父上が常駐させている護衛の方達が応戦してくれたのですが、多勢に無勢……みんな、私を逃すことを一番に考えてくれました……悔しかったけれど、それ以上私が止まっても、迷惑をかけるだけ」

「そやつらの狙いは、おまえひとりだったのだな?」

「はい。私は以前から、玲家と燕家との付き合い方を知っています。無用な争いはしない。だから、私がその場を離れれば、燕家は無事ですむ。だから、一計を案じたんです」

 涼景が目を開き、玲凛の様子をうかがう。

「私、護衛の一人に、先に犀家に行って開門するようにお願いして…… それから、わざと目立つように立ち回って、連中を引きつけたんです。そして……犀家に走りました」

「自分を囮にするとはな」

 犀遠がため息をついて首を振った。

 玲凛は困ったように、

「それしか、思いつかなくて。考えている暇はありませんでした。相手は護衛の人数の三倍はいましたから、早く事態を変えなければ手遅れになると思って……」

 涼景は玲凛の説明を聞きながら、その時の戦況を頭の中で再現していた。それを察したのか、犀遠が涼景に向いた。

「涼景、どう思う?」

「は」

 涼景は膝を正して顔を上げた。

「いかに凛の腕がたとうとも、一騎でその戦況を覆すことは至難の業。戦力差が歴然とある中、時間が経てば戦況は危うくなる一方。犀家の私兵が強者でも、燕家はあの急勾配の山の中、実力を発揮できる場所ではない。危険は伴いますが、味方の数が減る前に敵を燕家から遠ざけることは良策。燕家から犀家への道であれば、馬の体力ももちます。逃亡したと見せかけ伝令を先行させて犀家に知らせ、門を開ける。自身は敵との距離をはかりつつ、見失わないが追いつかれることのない距離を保ち、犀家に到着と同時に門を閉めれば、敵を締め出すことは可能です。そのあとは犀家からの増援と、燕家からの追跡隊を駆使して挟撃に持ち込みます」

 まるで、詩でも吟じているかのように、滑らかに涼景は答えた。

 満足そうに犀遠が頷く。

「おまえが来る前に知らせがあって、無事、増援が燕家の兵たちと合流したそうだ。賊は玲家領内へ落ちたとのこと。深追いはできん。念の為、そのまま燕家の警護に当たらせる」

「は。ありがたく存じます」

 燕家当主、燕涼景は深く、頭を下げた。

「無理に走らせたから、馬には可哀そうなことをしました」

 玲凛が一言、付け足した。犀遠が続ける。

「凛がここにいること、玲家に知られた、ということか。だが、凛、なぜ、賊が玲家の関係者だとわかった? 名乗ったわけでもあるまい?」

 玲凛は、唇を噛んだ。それから感情を殺して、

「……賊のなかに、あいつが……博がいました」

 どくん、と犀星の体が震えた。表情がサッと青ざめる。犀星の脇にぴたりとついていた東雨は、犀星の全身から殺気が迸るのを感じて、身震いした。

「星、おさえろ」

 涼景が、犀星にしか聞こえない声で囁く。

「玲博……次男坊か」

 犀遠は険しい顔で腕を組んで唸った。

「博は、格の先鋒……糸を引くのはやはりあやつか」

 玲格は、玲家の当主ではない。しかし、当主である玲芳を妻に抑え、近年では実質的な支配者となっている。そのために利用したのが、玲陽であった。玲格は玲陽を人質に玲芳を脅した。同時に、その玲芳を盾に、玲陽の抵抗を封じた。親子の情愛を利用した玲格のやり方に、玲家内部でも眉をひそめる者も多い。

「どうしてこんなことになった……」

 今まで沈黙を守っていた犀星が、声を発した。

 それは呻きにも近い、切羽詰まった感情をはらんでいた。

「それをあなたが言うんですか?」

 突如、玲凛が泣き叫ぶような声をで叫んだ。ハッとして、犀星は目を見開いた。

「あなたがいなくなったあと、陽兄様が大変な目にあうことくらい、わかってたはずです!」

「凛、落ち着け」

 涼景が取りなしに入ったが、その手を振り払って玲凛は犀星を睨みつけた。犀星は痛みを堪えるように顔を歪めたが、それ以上怯みはせずに食い下がった。

「何があったんだ? 俺は、都に上がったあと、陽の身に何があったのか、何も知らない。叔母上に手紙を送ったが、返事はなかった」

「言えるわけない!」

 犀星の言葉は、玲凛には言い訳にしか聞こえなかった。彼女はさらに声を荒げた。

「あの砦で、陽兄様が何をされていたか、もう、わかっていますよね! あんなこと、誰にも言えるわけがない! まして、あなたに! 星兄様は帝と同じ、皇家の人。玲家に弓引くことがあれば、もう、私怨ではすまなくなる! 星兄様が知れば、絶対に動いてしまう」

 犀星は困惑に瞼を震わせた。

「おまえ、何を言って……」

「自分でも支離滅裂なことを言っているのはわかっています! 助けにこなかったって星兄様のこと責めるくせに、一方で、知らせれば必ず助けにくるってこともわかってた! 星兄様の立場だってわかります。でも、でも、でもっ!」

「落ち着け、凛。今は……」

「偉そうに言わないで!」

 玲凛は、突き刺すように犀星を睨みつけた。

「全部、星兄様が悪いんだ!」

 声の残響が消え、その場に、しん、とした静寂が降りる。誰も何も言えない、重たい空気が満ちていく。息をするのも苦しく感じられる沈黙の中、不意に、声がした。

「いい加減にしろ……好き勝手言いやがって……」

 押し殺した低いその声は、東雨のものだ。

 ずっと俯いていた東雨が、ガバッと顔を上げた。両の目に、涙が溢れていた。

「十年だ。十年かかりましたよ! 若様、決して器用じゃないから! 確かに時間はかかった!」

 東雨はポロポロと溢れる涙を拭おうともせず、声だけは震わせまいと全身に力を込めた。

「だけどな! 若様は毎日毎日、光理様に手紙書いて! 毎日、毎日、精一杯で……命狙われて、危ない目にも数え切れないほどあって、それでも、それでも……若様だって頑張ったんだよ! 楽なことなんてなんもない! 甘えていたわけでもない。贅沢していたわけでもない。ひと月、三十文だぞ! おまえにそんな生活できるか! 若様のこと、何も知らないくせして、勝手なことばっかり言いやがって! 光理様の妹だろうが、そんなこと知るかよ! 若様の方がずっとおまえより、光理さまのこと、想ってるんだからな! 馬鹿野郎!」

 悲鳴のように叫んで、東雨は肩で息をして、乱暴に腕で顔を拭った。

「もう、いい。十分だ」

 犀星が、目を伏せ、小さく囁いた。その声は短く、儚かったが、東雨の胸に強く響く。

 玲凛はじっと東雨を見つめていたが、おもむろに口を開いた。

「あんた……だれ?」

 衝撃的な一言に、すでに言い返す気力が残っていなかった東雨は、顔をくしゃくしゃにしたまま、部屋を飛び出した。犀星が追おうと立ち上がる。それを、涼景が手で制した。

「俺が行こう」

 涼景は東雨を探して部屋を出た。

 まったく、あいつは……

 複雑な表情を浮かべながら、涼景は東雨の姿を追った。さほど広くない屋敷で、東雨はすぐに見つかった。

 中庭の橘の木の前に突っ立っている。涼景はふとそれが、数日前の犀星の姿と重なって見えた。

 まだ目元は赤かったが、涙は止まったようだった。

 涼景は回廊に立ったまま、柱にもたれて声をかけた

「随分派手に啖呵切ったなぁ。あの凛を相手に、見事だ」

 東雨はちらりと涼景を見て、またすぐに顔を背けた。

「涼景……様。ごめんなさい」

「何を謝っているんだ?」

「俺、なんか、悪いことしたんですよね。だから、涼景様がきたんでしょう? 俺をしかるために」

 いつも強気で元気の塊のような東雨を見慣れている涼景には、今の姿は少々意外だった。東雨とて、泣きもすれば悩みもするのだが、今回はなんとなく、今までとは違う気がする。妙な胸騒ぎを覚えて、涼景はつとめて明るく笑い飛ばした。

「わけがわからん! おまえは一体どんな悪いことをしたんだ?」

「?」

「おまえは、身を挺して主人を庇った。侍童として…… お前がしたことは、至極真っ当! むしろ、誉れに思うべきだ。星も、嬉しかったはずだ」

 東雨は、じっと、橘の実を見つめたまま、それを聞いている。

「まぁ、三十文は余計だったがな」

 涼景は一言付け足すと、真面目な口調に切り替えた。

「東雨、これから事態は荒れるだろう。おまえにも、働いてもらわなければならない」

「俺……」

「とはいえ、本来、おまえは無関係だ。星のそばにいるのも、おまえの意志ではないだろう?」

「え?」

 あどけなさの残る東雨の横顔を、涼景はじっと見た。声を低める。

「そろそろ、はっきりさせた方がいい。おまえはもう、子供じゃない。いつまでも、星の影に隠れてはいられない。……俺も、いつまでもおまえを、好きにさせておくわけにはいかない」

 東雨はゆっくりと、真顔で涼景を振り返った。

「涼景様、何をおっしゃっているんですか?」

 涼景は微塵も表情を変えない。

「すごいな、おまえは。本当にすごいよ」

 感情を見せずに言う。その顔は記憶にないほど冷めていて、涼景のものとは思われない。東雨はじっと見返した。

「だから、何のことだか」

 涼景は柱から体を離すと、一歩進んで東雨に体の正面を向ける。

「わからないなら、わからないままでいい。だが、心当たりがあるのなら、これだけは約束して欲しい。歌仙にいる間は星に尽くせ。それが、おまえのためだ」

 東雨はみじろぎもせず、涼景と向き合った。

 二人の間を、一羽の小鳥が羽虫を追って飛びすぎてゆく。

 涼景はそのまま、隙のない動きで背を向けると、犀遠の部屋へと戻っていく。その後ろ姿を、東雨は目で追い、廊下の角を曲がって消えてから、目を細めた。

「なんだよ、腹立つ……」

 その声は、彼のものとは思われないほど、暗く大人びていた。

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