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9 暗きに開くは曼珠沙華

 夜の帷は全てのものを等しく、しっとりとした時間で包み込む。

 犀家の門前では、犀遠が燕家の護衛との連絡をとりながら、兵の休息と軍備の確認のために動いていた。いつ、どのような形で戦いが始まらないとも限らない。その時に備え、彼は可能な限りの準備を怠らない。

 玲家の実質的支配者である玲格が、当主の玲芳の動きを封じるための最も重要な駒、それが玲陽だ。玲芳の愛情はただひとり、玲陽にしか注がれてはいない。そしてその唯一の弱点を、このまま玲格が見過ごすはずはなかった。

 玲凛は美しい横顔に篝火の鮮やかな橙を映しながら、じっと闇を見つめた。

 自分が母に愛されない娘であることを、彼女はとうに受け入れていた。玲芳が実の兄である玲格に、強引な手段で妻にされ、自分を産ませたこと。同じ女である玲凛には、それが激しい嫌悪として心に焼き付いている。母を慕う気持ちと同時に、父に感じるおぞましさ。

 自分が、兄と妹の間の子であるという事実、さらに、それを母が望まなかったという現実、その上、父もまた、力のない自分を見捨てた。

 何のために生まれたのか。なぜ、生きているのか。

 その問いは常に彼女の中にある。

 玲凛がたったひとつすがったのが、玲陽だった。

 幼い玲凛がこっそりと暗い夜の恐怖に耐えながら、玲陽に会うために砦に通った日々。記憶の中の優しい兄の笑顔だけが、彼女の生きる意思を支えていた。

 そんな玲凛に、玲格は選択を突きつけたことがある。

 玲凛自身が力を持たないのなら、娘を産め、というあまりにむごい言葉だった。

 しかも、玲家本家の血を濃くするため、父である玲格か、それとも兄の玲陽のどちらかと交わることを選ばせた。

 玲凛は何も言わず、ただ、その答えを胸深くに沈めた。

 母に助けを求めたこともある。

 たとえ愛はなくても、玲芳は彼女を傷つけることはしなかった。いつもすまなそうに、目を伏せるだけだ。

 玲凛にはわかっている。母もまた、犠牲者であることが。

 その母を己の自由にするために、玲格は薬や呪いの類で、母の心をすっかり狂わせてしまった。

 今はもう、何を話しかけても答えてはくれない。人形のようにぼんやりと座っているだけだった。

 自分への愛がないとわかってはいても、それを見るのは辛かった。自分から母を奪った玲格という存在。それは、たとえ血のつながる実の父であろうとも、到底、受け入れられるものではなかった。

 篝火が控えめに音を立ててはぜる。

 玲凛は思考の沼から立ち直り、前を見た。

 今の自分は、大切な人を守るためにここにいるのだ。強い意志が、その瞳に燃えている。

 犀遠、涼景、玲凛。偶然とはいえ、今、この小さな辺境の私邸の庭に、国を動かす三英雄が揃い踏みしているのである。いかに父祖に神を持つとも言われる玲家といえども、そう容易にことを構えることはできない。

 犀家の強固な守りの奥、犀星はひとり、玲陽の元にあった。甘ったるい空気には、もうすっかり慣れたが、それもあとわずかのことだろう。玲陽の回復は周囲を驚かせるほど早く、明日にでも、体を起こすことも叶うはずだ。

 涼景が犀星のために持ち込んでいた貴重な薬は、玲陽にとっては天恵であった。親王という位は、犀星の人生に辛い影響しか与えないものであった。だが、今回ばかりは、幸いだった。

 ぼんやりと灯る油灯が、玲陽の眠りを妨げないよう、部屋の隅でゆらゆらと揺れている。その光が壁に映し出す自分の影を、犀星はじっと見つめていた。影に染められるように、牀には体を横向きにして玲陽が横たわっていた。玲陽の背中にはひどい火傷の古傷があり、仰向けの姿勢は辛そうだった。褥瘡をふせぐため、犀星は頻繁に姿勢を変えてやった。衣ごしに触れる玲陽の体温が、犀星の手のひらと胸を火照らせた。

 かつて、これほど玲陽に触れることはなかったように思う。

 一緒に暮らし、すぐ隣にはいても、意図してその肌に触れることはしなかった。むしろ、そんな瞬間が偶然訪れるたびに、犀星はびくりとして手を引いたものである。もっと幼い頃は、玲陽をおぶったことも、手を繋いで歩いたこともあるような気がするが、相手を意識するようになってからは、すっかり臆病になってしまった。

 物思いに耽ると、最後に必ず、玲陽と再会した時のことを思い出す。冷たく傷ついた玲陽と、素肌を合わせて抱き合う自分は、どれだけ追い詰められていたのだろう。今となっては、頭が真っ白になるほど気恥ずかしく、どうにも逃げ出したい衝動に駆られる。

 あれは、必要なことだったから。

 そう、自分に言い聞かせるが、どうにもおさまりが悪い。

 それだけではない。

 玲陽を治療する中で自分がおこなってきた行為の数々が、妙に艶かしく、恐ろしいことに思われてくる。しかしそれは同時に、日常が戻りつつあることを示していた。

 非常事態においては、羞恥心などに惑わされてはいられない。必要ならば臆せずに何でもするつもりだ。治療に伴う接触も、介助のための関わりも、安心を与えるための睦ごとも…… それもこれも、玲陽の体が回復すれば、消えていく関係だ。

 犀星は、手を伸ばせば届く距離で、静かに寝息を立てる玲陽を見た。眠る玲陽は、犀星にとって安らぎだった。その顔を見ているだけで、全ての心の騒ぎが静まっていく。ただ、じっと見ている、それだけでよかった。

 先ほど、体位を変えてやったとき、寝ぼけた声で玲陽がつぶやいたことを思い出す。

「あのね……棗が、食べたいな」

 犀星の頬が緩んだ。炉の番をしながら、玲陽がいつ目覚めてもいいように、白湯と薬湯の用意を欠かさない。犀星は、先ほど厨房から届けられた飯に鶏の煮汁を加え、炉の上で煮込み始めた。一緒に、棗も入れる。腸を温めるための香草と、消化を助けるための温野菜を添え、ゆっくりと時間をかけて煮詰める。

 玲陽の食事は回復に伴い、少しずつ、彩りを増してきた。自分から、何が食べたい、と口にできるようにもなった。起き上がれないため、まだ犀星が匙で食べさせているが、それも後わずかのこと。玲陽の回復は嬉しいが、今の関わりがなくなってしまうことは、寂しくもあった。

 こうして二人でいる時、犀星の世界は玲陽でいっぱいになる。都でひとりになったとき、そうだったように。だが、あの頃に彼を突き刺した凍りつく孤独は、一瞬脳裏をかすめたあと、すぐに氷解した。

 玲陽がいる。

 ただ、その一事によって。

 犀星は、炉の中で赤くジリジリと空気を焼く炭を見つめた。そっと、手をかざす。じんわりと空気を挟んで伝わってくる熱。玲陽の肌の熱さと比べて、皮膚を焼くように尖っている。

 痛いな。

 犀星はそんなことを思った。

 冬の寒さから守ってくれる力強い炭の熱も、無味乾燥な上辺だけで作られた宮中の雰囲気に似て、犀星の心には鋭さしか与えない。それに比べて、玲陽の肌のぬくもりは、深く心の中まで入り込んでくる気がした。

 人の肌って、こんなに沁みるんだな。

 犀星は手を引くと、じっと見つめた。

 一度自分に移った炭の熱で、そっと、玲陽の頬を撫でる。ぴく、と瞼が動いたが、微かに呼吸を深くしただけで、玲陽は目覚めなかった。

 本当によく寝るな、と犀星は少し呆れてしまう。体を癒すためだけではないのだろう。長い間、安心して眠ったことなど、なかったのだろう。想像して、昼間に玲凛から聞いた話を振り返る。

 新月の光。傀儡の浄化とそれに伴う苦しみ。他者の鬱積による破壊。そして、底の見えない孤独。

 犀星は玲陽から手を話すと、その手を握りしめた。

 逃げられたはずなのに。

 犀星は拳を自分の胸に当てた。

 まだ、体力がある頃ならば、逃げられたはずだ。だが、玲陽はそうはしなかった。自分が傷ついても、誰かを守ることを選んだ。選び続けた。死の直前まで。それが玲陽であるのだから。

 もし、このまま回復したら……彼は何を選ぶんだ?

 ゾッとした。気持ちの昂りが腹の奥底から湧き上がってきて、喉をついて迸りそうな嗚咽を覚えた。思考が弾けて理性が遠のく。

 流されてはダメだ。

 助けを求めるように、玲陽を見つめる。

 もう、全て、終わりにしなければ。続けさせるわけにはいかない。それだけは絶対にだめだ!

 強く、心に誓う。

 自分がどうしてこれほど、玲陽に惹かれるのか、その理由は犀星にもわからなかった。それでも、それが決して一時の気の迷いではないと、自信を持って宣言できる。

 これが、愛なんだろうか。

 自分らしくもない、と思いながら、犀星はそんなことを考えた。そうするうちに、胸の高鳴りが少しずつ静まってくる。

 玲陽のことになると我を忘れる自分は、戒めなければならないと思う。

 冷静無比な、蒼氷の親王はどこへやら。

 犀星は自嘲し、長く息を吐き出した。そうだ、せめて自由になる呼吸を整える、それだけでも気持ちを鎮めることができるはずだ。

 玲陽の胸の動きに合わせるように、犀星はゆっくりと繰り返した。やがて、背中の震えがおさまっていく。

 感情の大きな波をやり過ごした気がする。

 そういえば、と、犀星は思い出した。

 玲凛に対して感情を爆発させたあの少年はどうしただろう。あれきり、姿を見ていない。

 玲陽のことで忙しくして、ここ数日、離れていたせいだろうか。東雨がなぜか、自分から遠くなったような気がする。都で過ごす間、一日と空けずに顔を合わせていた。それが日常であり、特に意識したことはない。

 それなのに、こうして馴染んだ屋敷で、玲陽と過ごす間、東雨のことはほとんど思い出しもしなかった。

 薄情者。

 玲凛に一喝された言葉が蘇る。まったくもって、その通りだ。

 慣れない土地で、彼が寂しい思いをすることくらい、考えれば容易にわかるというのに。

 小さな頃から自分にべったりと懐いていた東雨である。その心境はどれほど心細かっただろう。玲陽と会わせた時もその後も、東雨はどこか様子がおかしかったように思う。少し放っておき過ぎた。

 考えれば考えるほど、犀星は己の未熟さに嫌気がさす。

 俺は何も成長していない。

 目の前のことだけで精一杯で、周囲が見えなくなる。自分のことならばどうとでもするが、人の心は壊してしまえば元に戻すことはできないのだ。

 詫びなければならないな。

 犀星は反省を込めて、目を閉じた。

 と、微かに戸の擦れる音がして、細く引き戸が開けられる気配があった。

 咄嗟に犀星は身構えた。

 隙間から覗いた人物が、慌てて隠れるのがわかった。

「……東雨?」

 犀星はわずかに動揺したが、そんなことは悟らせないいつもの顔で見返した。ずるずると重たそうに引き戸を開いて、東雨はしっかりと姿を見せる。その後ろには、呆れ顔をした犀遠が立っていた。

「父上」

 犀星は姿勢を正した。その仕草から何かを感じたらしく、犀遠は微笑むと、東雨の肩をそっと押した。

「こいつが、ずっとそこの廊下で座り込んでいたんでな。連れてきた。……ほら、行かんか」

 犀遠はさらに東雨を促した。気まずそうに、東雨は一歩、部屋に入ったものの、そこで固まってしまう。犀遠はそっと東雨の頭を撫でた。

「心配するな。わしの息子は薄情ではない」

 どきり、として犀星はわずかに目元を動かした。それを見逃す犀遠ではない。

「星、大切な侍童を放っておくやつがあるか。おまえに東雨はもったいないな」

「…………」

 何か言わねば、と思ったが、犀星には言葉が出てこなかった。

 どんなに繕っても、犀遠には気持ちを見抜かれてしまう。犀星は観念した。

「東雨、こちらへ」

 犀星の言葉に、東雨は返事もなく近づくと、ぺたんと毛氈の上に座り込む。それを見届けて、犀遠は引き戸を閉めた。

 眠る玲陽、俯いて黙り込む東雨、そして、人付き合いが苦手な歌仙親王。

 誰も、沈黙を破ることができないまま、時間だけが過ぎていく。

 若様、何かおっしゃってください!

 東雨、何か話せ!

 気まずさに耐えかねて、ふたりがそわそわし始めた頃、しゅっとかすかな音をたてて油灯の火が途切れた。

 反射的に二人揃って、そちらを見る。

 白い煙が一筋、差し込んできた有明の月の弱々しい光の中で、揺らめいて消えていく。

「……灯り、つけましょうか?」

 自然な声音で、東雨が言った。まるで、都の屋敷にいるときのような気軽さだった。

「いや、炉の灯りがあるから、十分だ」

 犀星は静かに答えた。

「でも」

 と、東雨は、犀星が背中にしている炉を見た。炭の赤さばかりが目立って、灯りとしては手元もおぼつかない程度である。

「そのうち、目も慣れる」

 言って、犀星は欄間を見上げた。

「月は弱いです」

 東雨がつぶやいた。

「もうすぐ、新月ですね」

 何気ない東雨の言葉に、犀星はごくり、と喉を鳴らした。自然と玲陽に目がいく。

 闇に沈んで、影しかわからない部屋の景色の中で、なぜかぼんやり、玲陽の髪が仄白く光っているような気がして、犀星は唇がひりひりと乾くように思われた。

「あの……」

 東雨は灯りが消えて表情が見えなくなったことで、いくぶんか、話しやすくなったと見える。犀星の人慣れしない性格をよくわかっている東雨は、こういう時に自分が動いた方がいいことを知っている。

「昼間は、お騒がせしてしまって、ごめんなさい」

 暗がりだったが、東雨はしっかりと頭を下げたようだった。犀星は一瞬言葉につまったが、

「いや、気にするな」

 と、掠れた声で言う。

 いや、そうではないだろう。

 と、心の中で自分を否定し、犀星はもう一度、口を開いた。

「驚いたが……その……」

 と、言い淀む。

「怒っていますか?」

 控えめな調子で、東雨が尋ねた。

「いや」

 と、犀星は短く答えた。

「恥をかかせてしまいましたか?」

 と、東雨。

「いや」

 と、犀星。

「迷惑、でしたか?」

 と、東雨。

「いや」

 と、犀星。

「俺、間違ったこと、しちゃったんでしょうか?」

「東雨」

 犀星はこの問答に困ったような、何か言いたげな調子で遮った。

「若様?」

 自分を呼ぶ東雨の声を、随分久しぶりに聞いた気がして、犀星はさらに喉が締まった。

 ああ、ダメだ。

 犀星は大袈裟なため息をつくと、額を抑えた。

「すまない」

 気づけば、犀星はそんな言葉を発していた。東雨が暗闇の中で、わずかに目を見開いた。

「俺が、悪かった」

 東雨は首を傾げた。

 犀星は、自分の非を素直に認める潔さを持っており、今までも何度かそのようなことはあったのだが、今回については心当たりがない。

「何のことです?」

「おまえに、配慮が足りなかった」

 まっすぐ、犀星は言った。

「自分が、こんなに余裕のない人間だとは、正直思わなかった。すまない」

「……いえ」

 と、東雨は何となく応じてから、ふっと肩の力を抜く。

「俺も、ちょっと、不安定でした。疲れちゃったのかな」

 と、小さな声で笑う。

 暗くて顔は見えないが、その声だけで、犀星には東雨がどんな表情を浮かべているのか、はっきりと思い描くことができた。

 俺は、東雨にまで、助けられてばかりだ。

 情けなさと同時、笑いが込み上げてきて、犀星も呼吸で笑った。

「若様」

「うん?」

「俺、若様のお力になりますから」

 犀星はその声に惹き寄せられるように、暗がりの東雨の影を追った。

「だから、おそばにおいてください」

 鼓動が乱れたように感じたのは、犀星の気のせいではない。東雨の声には、胸を波立たせる危なさが感じられた。犀星はつとめて心を鎮めた。

「いいのか?」

「はい」

「三十文だぞ」

「え?」

「一文たりとも、上げないぞ」

「ええっ!」

 東雨は途端に夢の中から引き戻されたような声で、不満を訴えた。

「しっかり、根に持ってますね」

「さて」

「若様、誤魔化さないでください」

「忘れた」

「もう!」

 完全にはぐらかすつもりの犀星の意図を察して、東雨は膨れたまま、その話題を投げ出した。

 もしかして、若様、俺を元気付けようとした?

 東雨はちら、と希望的推測をしたが、それを確かめる勇気はなかった。

「あ、そうだ」

 東雨は不意に思い出したように、

「若様。昼間、凛が言っていた、玲博って誰ですか?」

 犀星が気配を変えるのと同時に、寝ていたはずの玲陽の体が、ギュッと縮んだ。褥が擦れる音で気づいた犀星が、そっと手を伸ばし、玲陽の体を探る。指先が肩に触れた瞬間、怯えたように玲陽は身を引いた。

「陽、心配ない」

 犀星は自分の心境は棚上げして、玲陽に寄り添った。

「陽。何も心配はないから。今は自分の体のことだけ……」

「もう、やめてください」

 突然、闇の中に玲陽の透き通る声が痛みを帯びて響いた。犀星だけではなく、東雨の胸も苦しくなる。

「あなたがそう言うたびに、きっと大変なことが起きているんだろうなって思ってしまいます。あなたは私には嘘をつけないから」

 言って、玲陽は牀の上に両手をついて、上半身を起こそうと力を込めた。下腹部に強い鈍痛が走り、崩れそうになる。犀星の腕が、しっかりとその背中を支えた。

 犀星は黙って玲陽の隣に体を寄せて座り、自分にもたれさせる。少し呼吸を整えて、玲陽は乱れた髪を掻き上げた。弱々しい月光がその髪にうつって、さらさらと音を立てるかのようだ。

「私は、もう、大丈夫です。これ以上、腫れ物に触るようなことはしないで」

 玲陽の、芯のある細くとも強い声に、犀星は何度か小さく頷いた。

 東雨は、じりっと膝を擦って、少し二人に近づいてから、影を頼りに玲陽を見上げた。

 今のやり取りだけで、東雨には、玲陽が単に庇護されるべき弱い存在ではないことが伝わっていた。確かに今は、体の自由がきかず、身動きが取れないかもしれない。だが、本来の玲陽は、ただ美しく儚いだけの人ではないのだと、東雨は思った。

「光理様」

 東雨は姿勢を正した。何となく、玲陽にはそうすべきだと感じた。

「玲博って人……」

「東雨!」

 思わず、犀星が声を上げる。だが、玲陽は冷静だった。

「いいんです」

 と、頷いて、

「彼は、私の従兄弟です……兄様の従兄弟でもありますが。今は、私にとっては義理の兄にもあたります」

「侶香様がおっしゃっていました。玲格の次男?」

「はい」

 玲陽は小さく、しっかりと頷く。

「あの砦にいたとき、私と接触していたのは彼です。少々込み入った事情で、よく来ていました」

 東雨は続けた。

「侶香様も、凛も、その人のこと、嫌いみたいでした。それに、若様も……」

 犀星は黙ったままだったが、気配から、否定していないことがわかった。

「戦いに、なるんですか?」

 あまりにまっすぐな東雨の問に、玲陽は胸がつまった。

「誰かが誰かを、殺すんですか?」

「東雨どの…… ごめんなさい。あなたは無関係なのに」

 東雨は俯いた。

「俺、目の前で人が死ぬのは嫌です」

 犀星も玲陽も、それぞれに目を伏せる。

「それに、若様が誰かを殺すのは、もっと嫌です」

 東雨の声が辛そうに歪む。犀星の脳裏に、あの夜、怒りに任せて人を殺めた記憶が鮮やかに蘇る。後悔はないというのに、東雨の顔をまともに見ることができなかった。

「俺、怖いです」

 東雨は声を絞り出した。

「殺されるのも、殺すのも、嫌です」

 あまりに純粋な心の吐露に、犀星と玲陽は黙って耳を傾けた。

 かつて、自分たちにも、今の東雨のように震えた日があった。まだ幼かったころに経験した歌仙事変を思い出す。戦いに出た犀遠を待って、二人で祈り続けたこと。いつ、自分たちの屋敷に軍勢が押し寄せて殺されるか、怯えて眠れなかったこと。空を見ても花を見ても、美しいと思えなかったこと。そして、戦から戻った犀遠に、素直に甘えられなかったこと。

「……東雨は……」

 犀星が、心を奮い立たせるように声を絞った。

「東雨は、何も心配しなくていい」

「若様」

「何もするな!」

 血を吐くように犀星は小さく叫んだ。

 同じ道は歩かせたくない。

 東雨が、東雨自身と関係のないことで、その手を血に染める必要はない。

「いいな」

 犀星は念を押した。

 東雨は犀星の影を見つめた。月の光はやはり弱いまま、これ以上、目が慣れることはなさそうだった。

「俺、難しいことはよくわからないです」

 東雨は、目を細めた。

「玲家のこととか、全然、想像もつかない。だけど、一つだけ、はっきりとわかることがある」

 東雨の真剣さは、その声から十分に伝わってくる。

「俺、若様を信じます」

「!」

 空気がピリッと鳴ったような気がした。

 東雨は立ち上がると、気が晴れた、というように、大きく伸びをした。

「じゃ、俺、寝ますね!」

「え……東雨どの?」

 呼びかけた玲陽に、東雨はにっこりと笑って、名残も余韻もなく、あっさりと部屋を出て行った。

 拍子抜けしたように、しばらくの間、残されたふたりは寄り添ったまま黙り込んでいた。時折、何か言いたげに玲陽はあたりを見回しては落ち着きをなくしたが、それ以外は、沈黙と静寂を織り交ぜたような静けさが、部屋を充した。時折、ぱちっと音を立てる炉の炭も、もうじき尽きるだろう。

「兄様」

 玲陽は赤い炭の光が弱くなり、その残像が消える頃、ようやく、呼びかけた。

「私は……」

「言うな」

 優しく、犀星がささやく。玲陽は首を振った。

「ダメです。ちゃんと、向き合わないと」

「いいんだ」

「良くないです……少しも良くない!」

 玲陽の声が悲痛に泣く。

「私のせいだ」

 低く、彼はつぶやいた。

「私が、いらぬ情けをかけたから、火種を残すようなことをしたから、あのとき、あの人を逃したから……」

 玲陽は、自分を支えるために肩に置かれた犀星の手に力がこもって、さらに細かく震えているのを感じた。そっとその手に自分の手を重ねる。

「俺を止めてくれた」

 犀星の震えが、玲陽にも伝わる。なだめるように、玲陽は犀星の手を撫でた。今、玲陽の痛みは犀星の痛みであり、犀星の怒りは玲陽の怒りだ。

「感情に任せて刀を取った俺を、陽は止めてくれた」

「……私は、自分が見たくないものから逃げただけ」

 玲陽は沈みそうになる気持ちを支えるように、犀星の手を強く握った。

「東雨どのと同じです。あなたが人を殺めるのを見たくなかっただけ」

「陽……」

「でも……それは、何の解決にもならない。私の弱さは、事態を長引かせて、もっとたくさんの人たちを苦しめてしまった」

「…………」

「心のどこかで、すべてが終わったのだと思いたかった。けれど、まだ続いている。これ以上、誰かが傷つくのは嫌です」

 玲陽は、澄んだ声で毅然と、

「私は……私を必要とする人たちを、見捨てることはできません。だから……」

 寄り添う犀星の顔を間近で見つめる。

「ごめんなさい」

 玲陽の声が低められたのは、震えを押し隠すためであったか。

「私、あなたと都には行けない」

 何を言われたのか、犀星は数秒、理解できなかった。動揺が、犀星の表情を次第と崩し、困惑の色が濃く浮かぶ。暗い中に、乱れ、戸惑った犀星の息遣いが、切なく響く。途切れ途切れに、犀星は言葉を紡いだ。

「……凛から、新月の光のさだめを聞かされたとき……」

 犀星が、苦しげに息を継いで、

「おまえが、そう、言うような気がしていた」

 認めたくない、しかし、無視できない不安。

 玲陽を知っているからこそ、生まれた不安は、犀星の胸をきつく締め上げていく。

 だから考えたくなかったのだ。玲陽ならば、他の誰かを選んでしまう。

「嫌だ」

 心臓が早鐘のように鳴り、犀星は理性が曇って感情が荒れるのを抑えられなかった。

 あっと言う間に飲み込まれる自分の弱さも、今はどうすることもできない。

「陽は……俺と行くんだ。もう、これ以上、自分を傷つけるな」

 心が上げる悲鳴が、言葉となって溢れた。

「……でも、私がいなくなったら、命を落とす人たちがいるんです」

「だからなんだ!」

 感情のない玲陽の声を遮る。

 犀星は込み上げる想いに任せて、恐ろしいことを言ってしまいそうな自分に気づいていた。それでも、理性の制止など無力だった。最後の力で、犀星は声を低めながらつぶやいた。

「俺を、殺す気か?」

 玲陽が、震えると同時に短い悲鳴をあげた。

 その一言が、どれだけ自分勝手で甘えたものであるか、犀星にもわかっていた。しかし、無理だ。限界だ。

 吐き出すように、犀星は叫んだ。

「どこの誰が死のうが構うもんか! おまえが! 陽が苦しむなんて、それを救えないなんて、もう、嫌だ」

「星……」

 ああ、もう、止まらない。

「捨ててしまえ、そんな力! 陽のせいで誰かが死ぬと言うなら、それに耐えられないというなら、俺がその罪、全て背負ってやる。俺はお前を連れて行く。何があっても放しはしない。誰が、どれだけ周りが犠牲になろうと! 俺には、陽だけが……」

 体が震え、心がわなないて、犀星はそれ以上、声が出なかった。

 狂ってしまう!

 玲陽は思わず犀星に体を押し付けた。手足は自由にならず、傷口は裂けるように痛んだが、そんなことはどうでもよかった。犀星が泣いている。それだけで、どんなことをも犠牲にできる。

 ふたりは無意識に指を絡ませた。互いに力を込めてつながるその温もりに、気持ちがゆっくりと引いていく。手を通して、二人の感情が揺れ動き、怒りや悲しみで傾いた心の天秤が、均衡を取り戻していくようだ。

 玲陽は背中を抱き寄せる犀星の右手を左手でしっかりと握ったまま、自分の右手で犀星の左手を捉えると、指を絡めた。そうして、両方の手をぐっと引く。自然とふたりの距離が縮まる。暗い中で、キラキラと犀星の瞳がほしのように瞬くのを、玲陽はじっと見つめた。大きな緊張感とささやかな期待が、ふたりを取り巻く。空間と時間が彼らを一つの影として、その場所に釘付けにしたかのように動かない。

 本当に伝えたい言葉は、別れではない。

 今なら、向き合える。ふたりなら。

 玲陽は弱った腕にありったけの力を込めて犀星を引き寄せる。唇が震える。

「星……お願い」

 その目が求める。

「助けて」

 犀星の中で、タガがはずれ、彼はそのまま、玲陽を抱きすくめた。痩せた肩が軋み、胸が押しつぶされるように締め付けられたが、それは決して、苦しくはなかった。玲陽は体から力を抜くと、首をのけぞらせて、犀星の抱擁を受け入れる。もう、何も考えなくていい。苦しまなくていい。辛くはない。激しい想いに身を任せるように、玲陽は目を閉じた。彼の心は、押し寄せる安堵に包まれ、恐れが薄れていく。

 犀星もまた、黙って目を閉じた。世界の全てが敵となろうと、この人を一人にはしない。巡り会った星と太陽は、決して離れることはない。


 その夜をどう過ごしたのか、犀星は覚えてはいない。だが、夢に見たことだけは、翌朝目覚めた時にも、しっかりと記憶に焼き付いていた。

 夢の中の自分は、あの砦の庭に立っていた。

 目の前には、そそりたつ崖と、白く砕けて絶え間なく流れ落ちる滝。

 池の水は美しく澄んで、蓮の花がいくつか、控えめに水面に揺れている。池から流れ出る小さな水路は、せせらぎのように昼の太陽を反射しながら静かに石壁まで伸びている。庭の樹木にはムッと熱を感じるほどの鮮やかな緑の葉が生い茂り、枝に這った藤の蔓から、薄紫の香りたつ花が垂れ下がって、微かに風に揺れていた。足元の草は柔らかな土から濃く生えて、色とりどりの花が芳香を帯びて輝くように花弁を開いている。

 その中に、自分はじっと、立っているのだ。

 滝の奥から、薄紅の長いゆったりとした衣を纏った女性が、羽が舞うようにゆっくりと現れた。

 彼女はじっと犀星を見つめ、そっと腕を掲げて、犀星の隣を指す。つられて目を向けると、玲陽の横顔があった。金色の髪に金色の瞳。間違いなく、今の玲陽の姿だった。気づけば、自分たちはしっかりと手を繋いでいた。

 薄紅の衣の女性は、何かを放るように腕を動かした。腕が描く軌跡は滑らかで、優美な舞の一幕を見るようである。彼女が腕を下ろして地面を指すと、その指さされた場所を中心として、まるで大地から水が湧き出すように、赤と白との曼珠沙華が吹き出し、波をうって庭一面に広がっていく。緑の庭は瞬く間に曼珠沙華の花畑となり、自分と玲陽はその花の中に取り残される。

 驚いて玲陽を振り返ると、彼は微笑んで犀星を見つめ、爪先立ちして口づけた。

 その瞬間、曼珠沙華の花弁が一斉に空に舞い上がり、空間全てを埋め尽くす。

 赤と白の花吹雪の中で、犀星は玲陽と深く口付けをかわし、互いをその腕に抱きしめた。

「……おい」

「ん……」

 小さくうめいて、犀星は目を開いた。そして微笑んだ。

 玲陽の透き通る寝顔が、すぐそばにある。焦点も合わないほど近くに顔を寄せて、唇にその寝息を感じると、犀星は柔らかい高揚感に包まれた。

「陽……」

「陽、じゃねぇ。起きろ」

 犀星はしばし、夢と現実と、そして後ろから聞こえてきた不機嫌な声との境目で、気持ちを彷徨わせてから、諦めたように息をついた。

「おまえなぁ」

 黙って声を振り返ると、涼景が仁王立ちしている。

「何でこうなった?」

「……何のことだ?」

「どうしてお前が、陽と一緒に寝ているのかって話だ」

「?」

 犀星は体を起こした。

 どうやら、昨夜はあのまま、玲陽の牀で添い寝していたらしい。

 涼景は頬を引き攣らせて、

「まさか、食ってないだろうな?」

 犀星は、思い出せないな、と振り返り、

「たぶん」

「たぶん、って、おまえっ……」

 涼景は褥を半分めくって、玲陽の体を確かめる。玲陽の着物はきちんと整えられたまま、乱れた様子はない。敷布にも、そんな痕跡は見当たらなかった。

「……大丈夫そうだな」

 乱暴に褥を戻すと、床に座り込んで新しい食材で粥を煮始めた。

「部屋の中は、ずいぶんなことになっているし」

「?」

「油灯の油は尽きたまま、炉の炭もすっかり燃えちまってる。しかも、作りかけの粥がそのまま放置されている」

「……ああ」

「ああ、じゃねぇよ。おまえは一人で、火の番もできないのか」

 種火を消された涼景は、仕事が増えた、と口を曲げている。犀星は牀に腰掛けて、乱れていた襟元をいじった。涼景のような鍛えた体ではないが、引き締まった胸元と鎖骨が覗く。

「悪かった。昨夜、少々話し込んでいたので」

「言い訳はいらん……何をどうしたら、ここまで綺麗に燃やし尽くせるんだ?」

 炉の炭は見事に真っ白だった。涼景は隅の籠から火打ち石と火口袋を取り出し、慣れた手つきで石を打つ。火花がはじけ、乾いた麻くずがほのかに赤く染まる。

 手際よく種火を育てながらも、終始、涼景の表情は不満そうである。

「どうしたんだ?」

 言いながら、犀星は崩れていた髪をほどいた。深い蒼色の髪がなめらかに肩に垂れて、犀星の横顔を際立たせる。その仕草はどこか扇動的ですらある。

「珍しい、おまえがそんなにイライラしてするなど」

「おまえが、そんなだからだ」

 乱暴に、涼景は吐き捨てた。

「まったく、人の気も知らないで……」

「何か、あったのか?」

 真面目に犀星は尋ねた。いつもなら、落ち着いて答える涼景が、今日はやはり、どうにも様子がおかしい。確かに、ここしばらく忙しい思いをさせてしまったが、そのようなことで機嫌を損ねるような人物ではないはずだった。

「何かがあった、ということではない」

 涼景は息を吹きかけて、火を炭に移しながら、

「大の男が、十日以上、こんな部屋の中で過ごしてみろ。出るものも出せずに溜まるのは当然だろうが」

 犀星は眉間に浅くしわを寄せて、首を傾げ、

「腹の調子が悪いか? 陽と一緒に粥を食べているから、俺は楽なんだが……」

「そっちじゃない」

 恨めしそうに涼景は犀星を睨んだ。怒りではなく、完全に不満の顔である。

「まぁ、自分で始末しなくても平気なおまえには、わからないだろうがな」

「……何の話だ?」

「もう、いい」

 むしろ、わからない方がいい。

 涼景は言葉とはうらはらに、素早く火の準備をすると、青銅の小さな鍋を炉に乗せた。

「侶香様がお呼びだ。おまえが起きたら部屋に来い、って」

「そうか」

 犀星はじっと玲陽を見下ろした。その寝息は深く、安定している。それを確かめて、犀星は立ち上がると、涼景の横に片膝をついた。

「なぁ、涼景」

 と、声を抑える。

 直前の会話が会話であるだけに、さすがの涼景も真顔になってのけぞった。

「な、何だよ」

 上擦った声で呼び、涼景は唾を飲み込んだ。犀星は唐突に、涼景の唇に人差し指を当て、静かに、と声を出さずにささやく。そうしてから、玲陽を振り返り、変わりがないことを確認する。

「涼景……」

 犀星の真剣な顔が、あまりにも近い。蒼い瞳は彼の心の深淵を覗く泉のようだ。後ろ手をついて身を引いていた涼景を追って、犀星は四つん這いで迫る。艶のある長い髪がわずかに乱れて涼景に触れる。涼景の目は自然と、犀星の緩んだ胸元に吸い寄せられた。白い絹のような肌に、美しく筋肉の影が落ちている様子は、理性を砕くには十分な破壊力である。体の一部がジリジリと焼かれるような痛みに堪えきれず、かすかに涼景はうめき声を上げた。

 追い討ちをかけるように、犀星は涼景の耳に唇を寄せた。吐息が熱い。

「あいつが動けるようになったら、目を離さないでほしい」

 犀星が声をひそめてささやいた。

「かなり思い詰めているから、何をするかわからない」

「…………」

 断ることなどできない、絶対的な服従を求められる状況。これは一種の拷問ではないか、と思いながら、涼景は必死に頷いた。その反応を見て、犀星は一瞬息を吹きかけ、それから音もなく立ち上がった。

「では、父上のところに行ってくる」

「……おう」

 後ろに手をついた中途半端な姿勢のまま、涼景は答えた。動けそうもない。

 背を向けて引き戸を開けた犀星が、一度涼景を振り返る。涼景はビクッと体を震わせた。

 犀星の流れるような仕草、曲線的な立ち姿、色気のある独特の視線は、今の涼景には残酷すぎる。

「涼景、おまえ……」

「…………」

 彼の声までが、体の芯に、ジンジンと染みる。

 ああ、もう!

 涼景は何かを覚悟した。犀星はわずかに目を細めて、

「陽を食ったら殺す」

「……わかってんじゃねぇか!」

 思わず、涼景は子供のように叫んだ。

 涼景の大声に反応して玲陽が身悶えする。

 犀星は氷のような表情の中に、小さな安堵と微笑を浮かべ、部屋を後にした。

「くそ……覚えてろよ」

 完全に収まりがつかなくなってしまった自分の体から目をそむけて、涼景は悪態をついた。

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