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10 間隙に住まう

 犀遠は、自分の部屋の北の引き戸から、朝の歌仙の景色を眺めていた。

 しらじらと夜が明けるにしたがい、朝靄が退いて色彩が濃度を深めてゆく。移り変わる景色は、彼の身に起きた波瀾万丈な一生と同様に、人の力ではどうすることもできない圧倒的な力を見せつけ、いつも彼をいましめてくれるようだ。

 犀家は代々、豊かな歌仙を領地とし、軍人を輩出する家柄であった。この屋敷の他にも、分家が住まう私邸が随所にある。七代前にこの地に移り住み、周囲の豪族との共存を旨としてきた。その家風は、武芸を重んじ厳格で質素、勤勉な者が多い。犀遠はその最たる人で、玲家でさえ一目置く存在だった。

 犀家と玲家の関係は、かつては良好であったのだ。玲心が犀遠と結ばれるまでは。

 玲心は、同郷で昔馴染みであった犀遠を、こころ密かに思い続けていた。彼が都で軍部の役職に就いた後も、この歌仙の地で無事を祈り続けた。

 やがて、彼女も年頃を迎え、玲家の当主として正式に身分を与えられることになった。しかし、それは、生涯、玲家の屋敷から外に出ることを許されない運命を意味する。一族の中で、子を産み続けることを強いられるだけの一生である。

 そんな生活に耐えられなかった彼女は、無断で家を抜け出し、単身、都へ向かった。

 歌仙と都・紅蘭との間は、険しい山脈に阻まれ、迂回する道も決して平坦ではない。

 旅に慣れた者が馬を用いても、踏破するには十日は要する。ましてや、歌仙から出たこともない若い女性が挑むには、命懸けの旅であった。玲家を出た玲心が犀遠のもとにたどり着いたのは、一月半が過ぎたころであった。

 それだけの困難を乗り越え、自分を頼ってきた玲心を、犀遠が拒めようはずもなかった。ふたりはひっそりと夫婦となり、都で居を共にした。

 犀遠は当時、すでに幕環将軍として名を知られ、その手腕は先帝・蕭白の絶大な信頼を得ていた。軍人としての才ばかりか、学問や政治にも通じていた犀遠は、周囲の信頼を集めながら、確実に己の理想に向けて邁進する日々を送っていた。玲心は忙しい夫をよく支え、犀遠も妻を慈しんだ。

 だが、そんな平凡な暮らしは、長く続かなかった。

 犀遠はあるとき、蕭白が主催する夜宴への招待を受ける。帝から、妻である玲心を連れて来るように、との命令が降っていた。それが何を意味するか、宮中の清濁合わせ飲んできた犀遠には、すぐにわかった。

 妻を差し出せ、というのだ。

 玲家の女性を得て、女児に恵まれれば、特殊な力を手の内に置くことができる。自らの御代の安泰を求める蕭白にとって、玲心は是が非でも手に入れたい駒だ。

 玲心が帝の命令を断れば、反逆の罪に問われる。かといって、二人で身を隠したところで、残された犀家の領民たちが苦しむことは明らかだった。

 犀遠は、親交のあった燕家当主・燕広範へ書状を送り、自分なき後の、犀家の土地を任せる段取りをつけた。

 そうしてから、心の内を玲心に明かし、来世の絆を誓い合うと、二人で事故を装い、家に火を放った。

 最後まで、玲心を抱きしめ、庇いながら、犀遠は気を失ったという。

 彼が目覚めたとき、状況は最悪の状態へと転じていた。そこは、牢の中であった。そして、玲心の姿はどこにもなかった。

 数日後、身なりの良い少年が一人、供を連れて、彼の牢を訪れた。

 幼き日の、宝順である。

 宝順は、玲心が帝の妾となったこと、自分の嘆願により死罪はまぬがれたが、都下りの命令が降りたことを告げた。

 少年だった宝順は、やつれ果てた犀遠を見つめ、その目に涙を浮かべていた。

「余にできるのは、ここまでだ。すまぬ」

 その言葉は、決して偽りや策略の上でのものではなかっただろう。

 だが、命の恩は末代まで続く。犀遠には、自分がこの少年の治世においても、自由を奪われるであろうことを予感した。

 それでも、玲心が生きているのならば、と、少年の言葉に従い、歌仙へと戻ったのである。

 時は過ぎ、一年を回ったころ、玲心は子を産んだ。それは帝の第四子であり、男児であった。

 本来ならば、後継者候補として大切に育てられるべきところだが、帝が玲心に求めたのは女児である。余計な世継ぎ争いを避けるため、密かに赤子を殺すよう命令が下された。当時、産前産後の介抱のため、玲芳が玲心のそばに参じていた。彼女は玲家の命を受け、玲心の産んだ子が女児ならば殺し、男児ならば連れ帰るように言われていた。玲芳の働きによって、赤子であった犀星は、母の死後、すぐに都から連れ出され、玲家へと戻された。

 犀遠は、玲家の方針に反していた玲芳と結託し、犀星を犀家へと引き入れた。

 半分は、憎んでも憎みきれない、帝の血を継いだ子である。しかし、犀星には、玲心の面影がありありと見てとれた。玲心を守ることも、共に死に殉じることも叶わなかった情けない我が身なれど、妻が残した小さな命を守り育てることが、犀遠にとっての唯一の贖罪と思われた。

 いずれは都へ呼び戻される犀星を、犀遠は深く愛し、慈しんで育てた。犀星も、自分の置かれた状況に苦悶しつつ、父の教えを必死にその身に刻んだ。

 血はつながらずとも、確かに親子であった二人は、日々、民を思い、領地の平穏を維持してきたのである。

 そして、今。

 犀星は犀遠の期待を超えて、その才能を花開かせようとしている。まだまだ危なっかしく未熟な犀星ではあるが、それも含めて、彼の持つ魅力なのだと、犀遠は思う。

 友を見れば、その者がわかる、という。

 犀星の窮地に、無理を押して力を尽くす涼景と東雨は、都での犀星の姿を写す鏡である。

 嬉しくも誇らしくもある。

 挨拶もなく、音も立てず、自分の横に並んだ犀星に、犀遠は振り向きもせずに声をかけた。

「眠れたか?」

「はい」

 犀星は、犀遠と共に景色を眺めた。その目は朝日にきらめき、力強い生命力を宿している。

「何か、ご用でしょうか?」

 犀星は普段の氷の表情のままだ。

 犀遠は、ふと、寂しさを感じる。

 十年前、都に上がる日が目前に迫ってくるに従い、犀星は感情を殺すようになっていた。

 それまでは明るく豊かだった表情が、次第と凍りつき、気持ちを表すことを恐れるようになった。

 上洛の不安を周囲に悟られまいとしたのかもしれない。または、その頃から抱いていた玲陽への淡い思いに気づかれたくなかったのかもしれない。

 どちらにせよ、その氷の仮面は、都での日々によって、すっかり犀星の一面となってしまったようだった。

 他の何に喜びを感じても、このことだけは、犀遠の気持ちを曇らせる。

「父上?」

 黙ったままの犀遠を訝しんで、犀星がちらりと目を向け、繰り返す。

「何か、ご用ですか?」

 まったく、こいつは。

 犀遠は恨めしげに犀星を横目で見た。

 用がなければ一緒にいてもくれんのか、おまえは。

 やれやれ、と犀遠は首を振って、

「話があるのは、おまえの方ではないのか?」

 明確な根拠があったわけではないが、長年の直感のようなもので、犀遠は言った。これが、よく当たるのだ。

「……さすが父上です。お見通しというわけですね」

「なに? 本当に話があるのか?」

 やや大袈裟に、犀遠は驚いて見せる。引っ掛けられた、と気づいた犀星が、悔しそうな呆れたような複雑な表情をした。

「まったく、父上には敵いません」

「フッ、勝てると思ったのが己の傲慢」

 犀遠は笑い飛ばした。

「……まぁ、いいですが……」

 犀星は襟を正して、犀遠を見た。自分より少し背の高い父は、いつまでも、犀星にとっての目標である。口には出さないが、尊敬し、憧れ、信頼していることは間違いなかった。犀星の気持ちは犀遠も感じていたが、できるならば、もう少し素直に甘えて欲しいものだ、と欲が出る。

「父上、ひとつ、俺の話をお聞きいただけますか?」

 真面目な顔で、犀星は言った。犀遠はもう少しからかおうと構えていたのだが、犀星があまりに真剣なため、それを諦めた。

「うむ。話せ」

 犀星はひとつ頷くと、整えた声で言った。

「もし、俺がこれから話すことを、父上が間違っていると判断されたら、そうおっしゃってください」

「わかった。遠慮なく言わせてもらう」

「ですが」

「うん?」

「たとえ、父上が反対なさっても、俺は改めるつもりはありません」

 犀遠が一瞬言葉に詰まる。

「ならば、わざわざ、わしの意見など聞かずとも良いではないか」

「いえ」

 犀星は首を振った。

「父上に反対されても成し遂げる。その覚悟が必要ですので」

「相変わらず、面倒なやつだ。屁理屈ばかりこねおる」

 犀遠はため息をついたが、どこか嬉しそうでもあった。

「それで、おまえのその、一世一代のとっておきの覚悟というのは?」

 犀星は相変わらずの冗談めかした父の言葉遣いに、少し頬を緩めた。

「陽を、都に連れて帰ります」

 犀星の告白を、眉ひとつ動かさず、犀遠は聞いていた。おもむろに口を開き、

「それで?」

「……え?」

 犀遠の反応に拍子抜けした犀星は、目元を動かした。犀遠は鼻で笑った。

「馬鹿馬鹿しい。おまえはわしに、惚気を聞かせたいのか?」

「の……惚気……」

「真面目に聞いて、損をした」

 そう言って、犀星はまた、景色へと目を移した。

「あ、あの……」

 犀星は気まずそうに唇を歪めて、

「お怒りになりませんか?」

「怒ってどうする?」

「反対されるものと……」

「わしが反対したところで、変えるつもりはないと言ったではないか」

「ですが……」

「だいたい、おまえは最初からそのつもりで、歌仙に戻ってきたのだろう? 今更、何を言うか」

「それは……」

 犀星は妙に納得してしまった。しかし、少しでも気がかりなことがあれば、全てを父に話してきた彼は、食い下がった。

「父上がおっしゃるように、俺はそのために戻ってきました。……あ、父上にもお会いしたかったし」

「世辞はいらん」

「……ですが、事態は考えていた以上に複雑で、陽をとりまく状況は、そう簡単に決められるものではなくて」

「そうだな。こりゃ、和平を破ってでも、玲家に戦争を仕掛けるしかあるまいて」

 犀遠はとんでもないことを、さらりと口にした。

「仕方あるまい。息子の一世一代の覚悟、見届けねば、あの世で心に合わせる顔が無いわ」

「父上」

「案ずるな」

 犀遠は、不遜とも愉悦ともとれる、不思議な表情を浮かべた。

「おまえの父は、まだ役に立てると思うぞ」

「父上……」

「おまえは昔から変わらん。言い出したら頑固で融通が効かない」

 そう言って、懐かしそうに笑う。

「おまえを止められるのは、昔から、陽だけであった。そして、おまえを、そのように強固に動かすことができるのも、あいつだけだ」

「…………」

「陽に、せがまれたか?」

「え?」

「助けてくれ、とな」

 パッと犀星の顔が赤らむ。明らかな動揺は、見ていて気持ちがいいほどわかりやすい。

 ああ、やっぱりお見通しじゃないか!

 犀星は唇を結んで、斜め下に視線を投げた。

「父上は、意地が悪いです」

「意地くらい悪くないと、玲家と渡り合うことはできん」

 真剣味に欠けるように思われるが、これで、犀遠は十分に本気なのだ。軽い口調とは逆に、その真意は決して揺るがない。それが、犀侶香という人物であった。そのことを、犀星は小さいころからよくわかっている。

「俺も成長していないかもしれませんが、父上だって、変わっていません」

 仕返しのように、犀星は言ったが、その言葉もまた、犀遠にとっては息子の可愛いぼやきとしか聞こえなかった。

 犀星は、さらに続けた。

「もう、若くはないのですから、ご無理をなさいませんよう」

「世の中には、年寄りにしかできないこともあるのだ」

 弁がたつ犀遠には、何を言っても無駄である。

 無駄とわかっていても、つい、言い返したくなる自分は子供なのだろうか。

 犀星はふと、そんなことを思った。

「すっかり秋だなぁ」

 犀遠のその一言は、犀星の心を景色へと向けさせた。

「はい。歌仙の秋は優しいです。俺にとっては、ここの季節はどれも」

「そうか」

 犀星の、涼やかな目元を、犀遠はじっと見つめる。稀有な蒼い瞳は、どのような世界を見てきたのだろうか。自分が過ごした宮中の醜さを、犀星も味わったのだろうか。

 そう思うと、途端にこの、無愛想な息子が一層愛しくなる。

「まさか、こうして成長したお前に、再び父と呼んでもらえる日が来ようとはな。長生きはするものだ」

「そのような、年寄りくさいことを……」

「ときに」

 犀遠が、珍しく犀星の言葉を遮った。少し驚いて、犀星は犀遠を見た。

「人を、殺めたようだな」

「…………」

「誰も告げ口などしてはおらん。わしが勝手にそう思った。あたりか?」

 ちらっと横目で犀星を見る。答えられず、表情をこわばらせて、犀星は歌仙の景色へと向き直った。しかし、懐かしく美しい景色も、今は目に入らなかった。

 犀遠に隠していたわけではない。しかし、それを告げるには、玲陽がどのような目に遭っていたのか、嫌でも伝えねばならない。

 犀星は唇を噛んで、沈黙に耐えた。

「背負え」

 不意に、優しい犀遠の声がした。

「わしはおまえを信じている。おまえが選んだのなら、そうするしかなかったのであろう。済んだことをとやかくはいわん」

「…………」

「ただ、忘れてはならぬ。わかるな」

「はい」

 犀星は静かに答えた。

「陽にまつわる罪ならば、いくらでも背負います」

 どこか、寂しそうに犀遠は微笑んだ。

「おまえは昔からそうだ。そうやって人に隠して自分の傷を見せようとはせん」

「人に言ったところで、自己満足の気休めにしかなりませんから」

 犀星が、声を低めた。犀遠が同じ声色で応じる。

「その気休めが必要な時も、時としてあるぞ」

 犀遠は、深く息を吸った。

「わしに弱音を吐けとはいわぬ。それは、おまえにとってはなんの意味もなかろう。だが、友は別だ。心をさらけ出せる相手がいることは大切だ。それはどのような強者であろうと変わらぬ」

 犀星の目の前に、自分に笑顔を向けてくれる人々の顔がちらついた。

「わしはひとつ、おまえを褒めねばならん」

 犀遠の意外な言葉に、犀星はわずかに緊張した。

「おまえは、良い友を得たな」

 どくん、と犀星の鼓動が強く打つ。その、照れて黙り込む横顔を、犀遠は眩しそうに見た。

 目の前のこの景色は美しく、世界がいかに広大であるかを教えてくれる。しかし、犀星の瞳の輝きは、この大地よりもはるかに奥深く星空の広がりを見せるのだ。それは、人の、夢が拓く世界なのかもしれない。

 犀遠はそっと、犀星の肩を抱いた。すっかり逞しくなったものだ、と思わず涙腺が緩む。

「星。おまえがいかように進もうとも、もし、その道が誤っていたというのであれば、それは、わしの育て方が間違っていたのだ。その時は、すまぬ。別の道を探してくれ」

「父上……」

 犀星は間近に、父の顔を見つめた。自分が長く留守にしていた間に、年をとってしまったと、寂しさを感じる。

「父上、俺は平気です。どんな道だろうと、父上が示してくださった道ならば、自信をもって突き進むことができます。心配しなくても、父上にその責任を押し付けたりはいたしません。進むと決めたのは俺です」

 犀遠は表情を和らげて、

「もうじき、庭に曼珠沙華が咲くであろう。おまえの好きな花だ」

 言うと、犀星の肩をひとつ叩き、いつもの、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「時間を取らせたな。用件はこれだけだ。あいつのそばに戻ってやれ」

 犀遠は言葉が見つからず、ただ、一礼して回廊へと数歩歩いた。急に足が重くなって立ち止まる。前触れなく、胸の中に寂しさが込み上げてきた。

「父上!」

 振り返り、呼びかける。

「どうした、星」

 犀遠の声が、確かに自分を捉える。父は、自分に背中を向けたままだ。

 大きく開かれた引き戸の向こうの景色。地上の風景は犀星の位置からは見えず、ただただ、青い空の中、犀遠は立っているようだった。

 喉の奥で涙の味がして、犀星は目を見張った。

「いえ……なんでもありません」

 震える声で告げるのが精一杯で、そのまま背を向ける。

「呼びたくなったらいつでも呼べ」

 背後から、犀遠の一際強い声がかけられた。

「気が向いたら、返事をしてやる」

 犀星の頬に涙が流れる。もうそれ以上、声を出せず、犀星は足早に玲陽の元へ戻った。

 足音が遠ざかるのを聞き、犀遠は目を閉じた。


 ここに来て、どれくらいたったかな?

 東雨は玲陽の部屋の前の回廊で膝を抱えてぼんやりしていた。部屋の中では、玲陽が治療を受ける、とかで、東雨は簡単に追い出されてしまった。玲陽の傷の状態は、腹内の損傷、としか聞いていなかった。てっきり、刃物か何かで腹を切られたのだと思ったが、そうではないらしい。なんとなく尋ねてはいけない空気を感じて、東雨は気がかりながらも黙っている。

 目の前の奥庭には、小規模ながら、よく実った畑が広がっている。庭の中に畑を作る、という犀星の発想は、この庭が原型なのだろう。茄子に胡瓜に小松菜、葱…… 観賞用ではなく、確実に食用のものばかりである。自分たちが暮らしていた都の屋敷の畑はどうなっているかな、と東雨は気になった。もう少しで、人参が採れるはずだった。手間をかけて育てた大根も白菜も、収穫期を逃してしまいそうだ。

 少し気持ちに余裕がでてきたのか、東雨は色々と思いを巡らせる。落ち着いて見回せば、色々なものが目新しく、興味をそそられる。

 畑の向こうには、瓦屋根の平屋が見える。東の離れだ。

 確か、若様はあそこで寝起きしていたって言ってたなぁ。

 家人が話してくれた犀星の思い出話を辿って、東雨はあれこれと想像していた。

 若様、ここで育ったんだよな。

 ここには、自分が知らない犀星の人生がある。都で起きた出来事であれば、彼は全てを覚えていたが、ここでのことは全く想像がつかなかった。犀星は昔話など一切しなかったし、自分が聞くこともなかった。もっとも、尋ねたところで答えてくれたとは思われない。

 犀星の秘密主義は、今思うと玲陽のことを知られないための配慮であったのだが、東雨はただのケチだと信じていた。毎日性懲りも無く書き続けていた日記のような手紙も、玲陽と自分をつなぐ、たった一本の頼りない糸だったのだろう。

 ズキっと東雨の胸が締まった。

 犀星と玲陽が見つめ合う姿が、脳裏に蘇る。見たこともない、必死に相手を想う犀星の表情、そして、それをしっかりと受け止める玲陽の眼差し。

 俺、最低……

 東雨は抱えていた膝を、両腕で引き寄せ、顔を伏せた。

 犀星の手紙を止めていたのは、他でもない、自分なのだ。

 もちろん、それを知る者は誰もいない。いや、一人だけ、東雨の本当の主人である、宝順帝だけは知っている。

 犀星のもとに十年もの長きにわたって献身的に仕えてきた侍童、東雨の正体は、まぎれもない、宝順帝が犀星の元に差し向けた間者である。

『いつまでもおまえを、好きにさせておくわけにはいかない』

 先日、涼景が口にした際どい言葉は、確かに東雨への警告であった。燕涼景は、自分の正体に気づいている。それは薄々感じてはいたが、正面から言われたのは初めてだった。

 犀星の身辺に身を置き、あらゆる情報を皇帝に流す。皇帝への逆心の有無、弱みや失態、汚点だけではない。その能力も才能も成果も、すべてありのままに、だ。あくまでも自分は帝のものであり、犀星は見せかけの主人に過ぎない。決して犀星に忠誠を誓っているわけではない。犀星の懐深く入り込み真意を引き出すために、無邪気な侍童を演じてきただけである。

 ずっと、騙してきた。

 東雨は疑問にも思わなかった自分の行動に、今、初めて戸惑いを感じていた。

 涼景に脅されたからではない。

 自分の心の中に生まれた、不安定で不気味で、正体のわからない未知の感情が、彼を混乱させるのだ。それは突然現れたわけではなかった。随分前から、自分の心に少しずつ降り積もり、層を成して堆積していた。まるで、水底で時間をかけて降り積もる泥のように。それが今、水の渇きによって地上に現れ、見たこともない色調で彼を翻弄している。そして、その水を干上がらせたのは、玲陽の出現だった。彼が現れなければ、東雨はずっと、気づかないふりを続けることができたというのに。

 なんか、腹立つ。

 そう思って、すぐにまた、自分は嫌なやつだ、と落ち込む。誰かの存在に動かされている自分は嫌いだ。自分は自分でいたい。誰にも、指図も命令もされたくない。

 皇帝、という、この国で最も重たい鎭によって押さえつけられている東雨である。それ以上の負荷には耐えられない。それなのに、勝手に周囲があれこれと動いて、自分はなすすべもなく振り回れている。

 やっぱり、腹が立つ。

 その苛立ちは、周りへのものか、自分へのものか、判然としない。

 東雨はより一層、背中を丸めて自分を抱きしめる。

「ちぇ……」

 小さく漏らした声は、年よりも幼く聞こえた。

「暇そうでいいわねぇ」

 表の方から回り込んで奥庭に入ってきたのは、撫子色の着物に黒染めの革鎧をまとい、腰に朱塗りの鞘の大太刀を吊るした少女である。

「! おまえっ……」

 東雨が一瞬で警戒体制に入る。跳ねるように立ち上がると、玲陽の部屋の引き戸の前に立ち塞がった。

「今、入れないよ。光理様、治療中だから」

 だから俺がここを守っているんだ、と言わんばかりの東雨に、少女、玲凛は皮肉っぽく笑った。

「それであんたも追い出されたんだ」

「うるさい!」

 図星を突かれて目が泳ぐ。東雨はやはり、玲凛が苦手と見える。

「おまえだってフラフラしてんだろ。暇なのか?」

 憎まれ口を叩きつつも、玲凛が警備の仕事で前庭に詰めていたことを、東雨も知っている。自分には任せてもらえない大役をこなす玲凛が、東雨には羨ましくもあった。

「色々とあるのよ。まぁ、あんたみたいな子供に言ってもしかたがない」

「子供って……おまえ、幾つだよ?」

「十六」

 ふん、と東雨は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「俺はもうすぐ十八だ」

「へぇ。そんな顔して?」

 玲凛はにやり、と少女らしからぬ不敵な笑みを浮かべる。童顔で年よりも幼く見られることを気にしている東雨は、その仕草に不満をあらわにした。

「顔は関係ないだろ。いちいち、腹の立つ……」

「あんた、東雨っていうんだって? 星兄様に聞いた」

「だから?」

「東雨って、あざな?」

 何気ない玲凛の問いかけに、東雨は自信を崩されたように真顔になる。

「違うの? じゃぁ、本名?」

「関係ないだろ、そんなの」

 顔を背けて、怒ったふりをするが、玲凛はそのようなことを気にする神経を持ち合わせていない。彼女は相当肝が座っているか鈍いか、のどちらかである。その遠慮のなさ、気性の激しさは、とても玲陽と同じ血が流れているようには見えない。玲凛は腕を組んで、

「姓は?」

 東雨はぶすっとした顔で、

「……ない」

「なぁんだ。あんた、星兄様の侍童なんてやってるから、それなりの家の出かと思ってた」

 呆れたように、玲凛は言った。東雨がかちん、とくる。

「! ほんと、おまえ腹立つな! そういうおまえはあんのかよ、字」

「仲咲」

 あっさりとしてやられて、悔しそうに顔を歪め、東雨はさらに言葉を射かける。

「……変なの。凛って名も生意気そうだし!」

 本気でそう思っているわけではないが、今はなんでも気に入らない。だが、玲凛は怒ったそぶりもなく、むしろ、嬉しいことを話すような顔になる。

「凛はね。兄様たちがつけてくれたの」

「え?」

 玲凛は畑の胡瓜を一本もぎ取ると、井戸端に置いてあった桶の水で軽くあらい、齧り付いた。同じようなことを犀星もやっていたな、と東雨は思い出した。

「兄様たちが小さい頃、近くの村が山賊に襲われたんだって」

 食べながら、玲凛は少しずつ話を始めた。

「知らせを聞いて兄様たちが駆けつけたとき、目の前で、弱っていた赤ん坊が死んだ。その赤ん坊の名前が『りん』だった。世界の何も知らないまま、命を終えた子がいる。その子の分まで世界を見て、自由に生きられるように、って、生まれたばかりの私に名付けてくれた。『凛』って字はね、美しいとか、毅然として強い、って意味なのよ。だから、気に入ってる。まぁ、学のないあんたにはわかんないかもしれないけどね」

 東雨は顔をしかめた。

「誰が学がないって! 若様にちゃんと教わっている!」

「星兄様に?」

「ああ」

 羨ましいだろう、と少々自慢げな東雨だったが、玲凛にはまったく刺さっていない。この数日、東雨は玲凛を遠巻きに観察していた。どうやら彼女は玲陽への執着はあるものの、犀星に対してはほぼ無関心なのだ。東雨にとっては、それが少し意外である。都において、歌仙親王は注目の的である。関心を示さない者の方が珍しいくらいだ。

 若様の魅力がわからないなんて、頭悪いのはそっちだろ。

 咄嗟にそんなことを考えてしまう東雨は、完全に犀星贔屓と言わざるを得ない。

「まぁ、いいわ」

 玲凛は胡瓜を食べ切って、

「ねぇ、東雨」

「呼び捨てすんな! 東雨様だろ!」

 思わず、喧嘩腰になって東雨は食ってかかった。せめて、年長者としての矜持くらいは守りたい。

「光理様だって、東雨どの、って呼んでくれるんだ。おまえ、妹なんだろ。少しは……」

「うるさいなぁ」

「うるさいってなんだよ!」

「細かいのよ、いちいち。そういうのはね、私に腕っぷしで勝ってから言いなさいよ」

「!」

 一瞬、東雨はひるんで腰を引いた。玲凛が犀家に飛び込んできた時のことを思い出す。暴れ馬を乗りこなし、拳で地面を殴りつけていた姿、その時の形相は今でも悪夢である。

 玲凛は東雨の腰の刀をちら、と見た。

「あんた、刀使うんでしょ?」

 玲凛の挑発的な態度に、東雨はどうすべきか、と迷った。ここは応じるべきか、相手をしないべきか……

「稽古、つけてあげようか?」

「いらない。若様につけてもらってる」

「まぁた若様? そんなに星兄様のこと大好きなんだ」

「す……好きなんかじゃ……」

 また、図星だ。

 東雨はどうしても、自分の中のもやもやとした感覚に足元をすくわれている気がする。冷静になれば、犀星はあくまでも監視対象であり、個人的な感情などない、と割り切れる。しかし『従順で明るく犀星に付き従う少年』を演じ続けてきた東雨にとって、このようなやり取りの中でも、つい、そんな『役柄』が出てしまう。本当の気持ちがどこにあるのか、東雨自身にもわからなくなりつつある。

「ふぅん」

 したり顔で、玲凛は笑った。すべてお見通しです、と言わんばかりだ。東雨も頭に血が昇る。

「なんだよ、その顔! おまえ、本当に腹立つやつだな!」

「ムキになって……やっぱり子供じゃないの」

「おまえっ! やってやるよ!」

 あわれ、東雨は玲凛の挑発に見事はまった。

「へぇ、抜いたわね」

 スッと目を細め、玲凛は表情を冷たくする。

「おまえが誘ったんだろ? ほら、やれよ!」

 一方、東雨の方は刀を構えながら、精一杯の虚勢を張る。すでにこの時点で、精神的に玲凛が上回っているのだが、いかんせん、決闘ごとに不向きな東雨には判断できない。

 玲凛は静かに大太刀の柄に手をかけた。

 彼女の細い腕が、すらすらと輝く太刀を鞘から抜いていくさまを見るだけで、東雨は一気に血の気が引いた。

 気迫が、違いすぎる! これは、ぜったい、ダメなやつだ!

 そんな後悔と恐怖が湧いた瞬間、玲凛の太刀が空気を裂く恐ろしい音を立てて横に薙ぎ払われ、東雨の刀が目にも止まらぬ速さで回転して弾き飛ばされる。

「……う、うわっ!」

 衝撃でぺたん、と尻餅をついた東雨は、腰が抜けたままずり下がって腕で顔を庇った。控えめに言って、怖くて死にそうだった。

 だが、玲凛の太刀がそれ以上自分を追い詰めることはなかった。

「……なに、これ。あんた、からっきしじゃない」

 興味をなくした獲物を放り出す肉食獣。

 東雨は猫に弄ばれたネズミの気持ちを察した。涙を浮かべて、凛の顔を見上げる。彼女はすでに、刀を納めていた。と、東雨の背後で、玲陽の部屋の引き戸が開いた。涼景が顔を出す。

「何をしてる? 騒がしいぞ!」

 見れば、つまらなそうに突っ立っている玲凛と、砂埃の上に崩れ落ちている東雨がいる。

「ん?」

 涼景は、畑のあたりに突き刺さっていた東雨の刀に気づいた。

「そういうことか」

 東雨の不幸を察して、涼景は腕を組んだ。

「バカだな、東雨、こいつにかなうわけないだろ」

 敗れた東雨にさらなる追い討ちをかける。東雨は独り言のように、

「だって……売られたら買うってのが喧嘩だろうが……」

「相手を見て買え。生活費少ないんだろ?」

 恨めしそうに、東雨はのけぞって逆さまに涼景を見上げる。もう、なりふり構わず情けなさ全開である。涼景は、

「凛、こいつはおまえの相手にはならん。実戦経験もないし、そもそも、筋が悪い」

 と、とどめを刺した。

「涼景様、酷い……」

 東雨はそのまま、自棄を起こしたように地面に寝転がった。相手をしていられるか、と涼景はそれを一瞥しただけで、玲凛に向く。

「凛、玲家の様子は?」

 玲凛は切り替えて仕事の顔になる。

「今のところ、境界付近に動きはない。見張りは続けるけれど、新月が近くて夜は危ないかもしれない」

「今夜から、俺が代わろう。おまえは屋敷を頼む」

「心得た」

 力強く頷き、玲凛は微笑を浮かべる。涼景もひとつ頷いて応じる。年が若いとはいえ、涼景の玲凛に対する評価は高い。

「では、東雨」

 涼景は、いまだに回廊の下あたりに転がっていじけている東雨を見下ろした。

「白芍(びゃくしゃく)と大棗(たいそう)が足りないんだが、燕家に取りに行ってもらえるか? 春がよく使うから、備蓄があるはずだ」」

 東雨が不機嫌そうな顔をあげる。と、涼景の後ろから、犀星が覗いた。途端に、東雨は立ち上がって埃を払い、犀星に元気な顔を向ける。その様子に、玲凛が呆れ返って肩を揺すった。

「お薬、光理様に使うんですよね? 俺、行ってきます。暇だったので、この辺りの地図は頭に入れちゃいました」

 変わり身の速さだけは見事である。やる気に満ちている東雨に、犀星は不安そうに眉を動かした。

「だが……玲家の動きがどうなるかわからない。危険だ」

「護衛してあげようか?」

 東雨の横顔を自信満々で覗き込んで、玲凛が提案する。

「誰がおまえなんかに頼むか!」

 東雨は当然のようにそれを突っぱねた。護衛どころか、こいつと一緒じゃ、こっちが殺されかねない、というのが本音だ。

 犀星はまだ、不安そうだ。

「若様、俺、若様のお役に立ちたいんです」

 東雨の目が、犀星を見つめてきらきらと光る。

 犀星は何か言いたげだったが、その言葉は飲み込んだ。そして、いたわるように微かに微笑んだ。

「わかった。本当に気をつけるんだぞ。何かあったら、すぐに戻れ」

「はい!」

 元気の良い返事を聞いて、犀星は少し安堵したのか、部屋の中に戻っていく。満足そうな東雨に、涼景は小刀を差し出した。

「東雨、これを持って行け」

「懐刀?」

 受けとって、東雨はその小ぶりだがずっしりと重い短刀を見た。涼景が懐から取り出したばかりなのに、なぜかヒヤリと冷たく感じる。

 全長は東雨の拳二個半ほど、藍色の鞘に銀色の緩やかな曲線の模様が描かれ、先端よりに獣の顔がある。柄頭には碧玉が埋め込まれており、どう見ても高価な一振りであると見て取れる。

「春に見せれば、俺のものだとわかる。おまえを信用するだろう。身分証がわりに持っていけ」

「それは助かります。いきなり行ったら、春さんに斬り殺されそうなんで」

「え?」

「だって、涼景様の妹なんでしょ?」

 妹というものはこういうものだ、という顔で、東雨は玲凛を見た。涼景は意図を察して早口に、

「いや、春は凛とは違う」

「涼景様?」

 玲凛が問いたげに目を細める。

「いや、深い意味はない」

 涼景は視線を逸らした。

 気を取り直したように、玲凛は東雨に一歩近づくと、にっこりと笑った。その笑顔を怖いとしか思えない東雨は、相当、心に痛手を負っているのだろう。

「東雨様。くれぐれもお気をつけくださいませ。あなたまでお守りする余裕はございませんので」

 ひらひらと軽やかに手を振って、玲凛は颯爽と前庭へと戻っていく。

「……なんなんだよ、あれ」

 東雨が泣きそうな声を出した。涼景が淡々と、

「歌仙で一二を争う剣豪、ってところか。凛の強さは天性のもの。争ってもお前に勝ち目はない」

「なんでそんなに強いんだろう」

「血筋、かもな。侶香様の話では、陽は星より、いい腕をしていたと聞くぞ」

「光理様が? あんなにお綺麗で、お優しそうなのに……」

「人は見かけによらない。おまえも、もう、十八なんだろう?」

「……涼景様?」

 今度は東雨が涼景に抗議の目を向ける。

「いや、深い意味はない」

「俺の顔のこと、言ってますよね」

 東雨は膨れっ面をしたが、それは余計に彼の印象を幼くする。

 涼景は不満そうな東雨をじっと見て、それから、不意に真顔になった。

「あと、な」

 顎を動かすようにして、涼景は東雨の持つ小刀を指した。

「その刀、おまえにやる」

「え?」

「そのまま持っていろ」

 なぜか、その声が低く重たく感じられて、東雨は胸が騒いだ。涼景の目は、感情を失っていたが、同時にそれこそが、彼の今の心であるようにも思われる。

「……どうして」

 東雨は改めて、懐刀を見つめた。随所に細工が施されている。やはり、簡単に誰かに譲渡するようなものとは思われない。

 東雨はそっと、刀身を引いた。カチャっという小さな音が、柄を握る手にやけに響く。流れる水のような刃紋が美しい。

「あ……」

 刃の根元には、ほんのり紫黒い油が塗られていた。かすかに土と苦味の混ざったような臭気が漂う。

「この、匂い…… 烏頭(うず)か……」

 東雨の鼓動が早まる。それは警戒か、緊張か。涼景の静かな声が降ってくる。

「気をつけろ、肌に触れても危ない。……いざという時だけ、使え」

 東雨は息を呑んだ。これがあれば、東雨でも相手を容易に死に至らしめることができる。

「……どういう、つもりですか?」

 東雨は涼景を見上げた。その目は、決して恐れてはいない。

 涼景は東雨から目を逸らし、虚空に向けてつぶやいた。

「腕の悪いおまえのための、護身用。それ以外に、何か理由が必要か?」

 まただ。また、この声。

 感情のない、平坦な、それなのに胸にずしりと響く重たい声音。

「では、薬の件、頼んだぞ。俺は玲家との前線に行ってくる」

 涼景はそれ以上東雨を見ることもなく、回廊を渡って姿を消した。

 燕涼景、何をたくらんでいる……

 じっと、東雨は立ち尽くしたまま考えた。

 このような刀を自分に与える理由について。

 俺を試している? 試されている?

 この刃で誰を斬るか、誰に尽くすか、選べとでもいうつもりか?

 冗談じゃない。俺は、誰の指図も受けない。

 再び、刀に目を落とす。

 冴えて光る刀身には、鋭く冷めた目元が映っていた。

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