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11 穴の底

 夕闇は残されていた日の光を瞬く間に飲み込み、夜の気配は、吹き抜ける風の速さで空を覆っていく。藍色の空に一際白い星がしん、と煌めき、夜の寒さが流れ込んでくる。

 犀星は涼景に釘を刺されている炉の火の番に専念していたが、手元の暗さに不安を覚え、欄間を見上げた。月はやせ細り、頼りない。この暗がりに乗じて玲家が兵を動かすことに備え、涼景は領地の境界で野営の予定である。屋敷の表門には玲凛が張り付いている。犀遠は奥座敷にこもって、何やら作戦を考えているようだった。犀星は、ここが自分の居場所、と決めている玲陽の部屋で、静かに時を過ごしていた。

 玲陽の回復は順調で、今日はしばらくの間、牀の上に体を起こしていることができた。明日には歩行に向けて、弱った足を徐々に慣らしていく予定である。

「暗い……」

 明かり取りの欄間からは、星がひとつ、見えるだけである。

 玲陽が、そっと犀星に声をかけた。

「兄様、東雨どのは、まだ……」

 その声は、犀星にさえ届けばいい、というように囁いている。炉の炭が弾ける音よりも小さい。

 犀星は心配顔で唸った。

「燕家までの往復なら、とっくに戻ってきてるはずなんだが」

「探しに行った方がよいのでは……」

 玲陽が、遠慮がちに言う。玲陽としては、そう提案するからには、本当は自分で行くべきだと思っている。だが、それが叶わない今、口にするのも気が引けるのだ。

「そうだな……」

 思案していた犀星は、微かな音に気づいて顔をこわばらせた。

「兄様?」

 玲陽が少し体を起こして、犀星を見る。犀星はじっと耳を澄ませている。だが、玲陽には何も聞こえない。

 おもむろに引き戸を開けると、犀星は回廊にでて、外の藍色の闇に向かった。ごくかすかな風に乗って、その音は確かに聞こえてきた。

「今、トンビが鳴いた」

「え?」

 犀星は部屋の中の玲陽を振り返った。

「……もう、暗いです。こんな時刻にトンビは鳴きません」

「涼景の合図だ。隠れて来い、と」

 涼景と犀星は、お互いに簡単な合図として、鳥の鳴き声を真似た指笛を使っている。

「涼景様は見張りに出ているんですよね?」

「ああ、東雨も戻らないし、何かあったのかもしれない」

 玲陽は牀に上体を起こした。犀星は何かをためらっているように視線を泳がせた。

「何をぼんやりしているんです? 行ってください」

 毅然として、玲陽が言う。

「だが、おまえを置いて……」

「私はここで、あなたが帰るのを待ちます。悔しいけれど、今の私は何もできない」

「火が……」

「燃え尽きる前に、戻ってきて下さい」

 玲陽の微笑みは、犀星の不安を静かに溶かす。犀星はどこかホッとしたように微笑んだ。不思議と勇気が湧いてくる。子供のように、恐怖が消えていく。

「陽……わかった。必ず戻る」

 犀星は炉の炭を足して、少しでも長く燃えるように仕込んでから、部屋を出ようとした。それを、玲陽が呼び止める。

「長袍を羽織って行って下さい。夜気は体に触ります」


 隠れて、か。

 何らかの理由で、こっそりと合流したいときの合図だった。以前、玲陽を助けるために砦に忍び込んだ時と同じである。

 犀星は人の多い前庭を避けて、東の離れに向かった。その離れの裏に、小さな庭があり、そこには自分たちが昔遊んだ石灯籠がそのまま残されている。誰にも気づかれないよう、犀星は灯籠の一部をずらした。下には、隠された通路が昔のままに残されていた。小さな得意の表情が一瞬口元に浮かんだが、再び聞こえたトンビの合図に、それもすぐに消える。

 土の壁に打ち込んでいた木製の梯子は、犀星の重みで何段か崩れたが、どうにか下へ降りることができた。この通路は、犀家の抜け道である。万が一の時の脱出用として掘られたもので、子供の頃にはもう使われなくなっていたが、犀星と玲陽にとっては格好の遊び場だった。

 最近は、こんなことばかりだな。

 そんなことを思いながら、犀星は通路を進んだ。この道は、外門の向こうの木々の中まで続いているはずだ。出口は崩れて塞がっていたが、犀星はどうにかそれを掘りながら地上に這い出た。耳を澄ませると、指笛の音がはっきりとわかった。と、そこで、妙な違和感を感じる。笛の音は、玲家との境界とは逆の方から聞こえてくる。しかも、何となく涼景のものとは違う気がした。

 罠かもしれない。

 そう思いながらも、引き返すことはしない。腰の太刀の鞘に左手をかけたまま、犀星は周囲を警戒し、少しずつ木々の中へ、音を目指して入っていく。足元も見えない闇を進むのは困難だが、幼い日の記憶を頼りに、ゆっくりと前進する。

 宵闇はもう、完全に太陽の余韻を消してしまった。月はなく、星明かりが頼りなく灯る。弱々しくとも、星は彼に味方している。目を凝らせば、空と木々の境目が見える。だが、視覚が教えてくれるのはそこまでだ。そして、夜の森では、視覚はもっとも頼りにならないことを、犀星は知っていた。

 耳をそばだて、じっと音を聞く。指笛の音だけではない。風が木の間を抜ける音、空間を教えてくれるその気配を察知する。沓底が踏む土の感触。柔らかく沈む腐葉土と、カラカラと鳴る散ったばかりの枯葉の違い。フッと香ってくる土や水、樹木や花の匂い、そして、揺れ動く空気の温度と湿度。

 この辺りには崖があるが、その位置は犀星の記憶にしっかりと残っている。安全な道を探りながら、焦らず、一歩ずつ……

 幼い頃に玲陽と迷い込んだ森に、今は意志を持って一人で分け入る。

 指笛の音が、確実に近くなる。近づくにつれ、それが間違いなく涼景のものではないという確信が強まる。息遣い、合図の感覚、その音色。

 誰かが……それも、涼景を騙って自分を誘い出したい誰かが、待ち構えているはずだ。

「…………」

 闇の中で、何か、違う音がした。

 犀星は足を止めると目を閉じ、気配を探った。木や風が立てる音ではない。生き物の気配だ。

「……は……」

 息を吐き出す、短い音。犀星は鞘を握る手に力を込めた。獣であれば、自分が狩られる。

 ズズっと、何かが擦れる音がする。かすかな星明かりの中、前方の闇が蠢いた。誰かがいる。

 鼻先に、覚えのある匂いが漂ってきた。

 金木犀、東雨が身につけている香袋の香りだ。

「東雨」

 小さく、鋭く、犀星は闇に問いかけた。

「……か……ま……」

 明らかに人間の声だ。影が動いた方へ、犀星は慎重に近づく。前に差し出していた指先に、突然、柔らかいものが触れた。それを頼りに一歩踏み出して、犀星は木の幹に縛り付けられていた東雨を探り当てた。思わず、安堵の息が漏れる。

「東雨、怪我をしているのか?」

 手探りに顔を撫で、犀星は囁いた。

「わか…さま…… ごめんなさい」

 視界を奪う闇がそうさせるのか、犀星は東雨をしっかりと抱きしめる。体をまさぐり、異変がないか、と確かめていく。東雨はくぐもった呻き声を立てるが、大きな怪我はなさそうだ。

「待て、今、解いてやる」

 犀星は太刀を抜くと、東雨を傷つけないように縄を切る。縄がばらりと足元に落ちると同時に、東雨の体が自分の方へ倒れてくる。即座にそれを支え、そっと地面に下ろす。

 背後で、ジュッと何かが擦れる音がした。反射的に振り返ると、燃え上がった松明の炎の眩しさが、闇に慣れた目を焼いた。思わず顔を背ける。後ろからの篝火に照らし出された東雨の顔には、殴られたようなあざが残っている。唇を切ったのか、一筋、真っ赤な血が垂れていた。瞬時に、犀星の体に震えが走る。それは激情が爆ぜる前兆、一気に高まる浮遊感。だが、犀星の行動を待たず、炎を掲げた相手が動いた。

 右の後頭部に、鈍い音を聞いたような気がしたのを最後に、犀星の意識は闇に落ちた。


 最初に感じたのは、熱い炎の音だった。小さな炉や油灯ではない、もっと激しく燃える篝火の音。音はするのに、空気は冷えていて、うっすらと寒い。冷たく固い地面は、かすかに湿気を帯びている。土の匂いがすぐ近くでする。

 犀星は何度かしばたきながら、目を開いた。いつもなら、柔らかく息づく玲陽の寝顔があるはずの距離に、いまは橙色の炎の影が揺れている。

 ばちん、と音がして犀星の頭上で篝火が崩れた。火の粉が顔に舞い落ちる。一瞬の、小さく強烈な熱。犀星は振り払うように首を振って、周りを見回した。

 夜の森。木々の間に、自分は倒れていた。両腕が後ろで組まされ、太い縄が体を締め付けている。足首もまとめて拘束されていた。犀星は体を揺すって弾みをつけると、上半身を起こした。

「いい様だな」

 声を頼りに姿を探せば、そこには、ひとり、男が立っている。深緑の衣に同系色の羽織布を纏った目立たぬ姿だが、袖口の金糸の刺繍だけは、篝火の炎でくっきりと浮かんで見えた。

「博……」

 犀星は唸った。

 玲博は鷹揚に木の幹にもたれかかり、腕を組んでこちらを見下ろしている。

「おまえとゆっくり話がしたかったんでな。悪いが出向いてもらった」

 こんなことだろうと思った。犀星に後悔はない。いずれ、玲博との決着はつけなければならないこと、それを、玲陽には見せられないことは、犀星も覚悟のうちである。

 座り込み、犀星は瞳をあげて玲博を見据えた。

 玲博によって際限なく傷つけらた玲陽の傷の凄惨さが、犀星の脳裏に蘇ってくる。玲陽の痛みは、何倍にもなって犀星の痛みに変わる。自分を傷つけられるより辛い。今、目の前にいる男は、間違いなく、犀星の敵であった。何があろうと、許すことのできない悪であった。

 自然と胸の奥が揺れて、感情がぐるぐると渦巻くのを感じる。込み上げては引いていく、そして次の波はもっと大きく高くなる。その波が少しずつ高さを質量を増し、犀星の全身を揺さぶってくるようだ。日常的に持つことのない、特殊な感情の色。殺意。

「何だ、俺を斬りたいか? 刀ならあるぞ」

 玲博は、手にしていた犀星の太刀を、足元に放り投げた。金属の音が、森の木々に長くこだまする。

「まぁ、それじゃ無理、か」

 まさに手も足も出ない、という状態の犀星を、玲博は楽しそうに眺めた。

「おまえが砦に来た時のことを、門番が覚えていた。中からトンビの声がした、って。試してみたら、おまえが釣れた。随分簡単だったな」

「く……」

 犀星はどうにかできないものか、と背中の腕に力を込めてほどこうと足掻く。

「小細工しなくても、おまえにはあの侍童一人で、十分効き目があったかもしれないが」

「東雨……あいつをどうした?」

「心配するな。俺はおまえ以外に興味はない。あいつは犀家の門前に転がしてある。そのうち誰かが見つけるだろう」

 東雨の傷ついた顔が蘇ってきて、また、別の波が押し寄せてくるような感覚を覚える。次々とやり場のない感情が溢れ、普段は乱れない表情が、鮮やかなまでに揺れ動く。玲博は残酷に目を細めた。口元が緩んで、気味の悪い曲線を描く。ゆっくりと犀星の間近に歩み寄り、

「今にも斬り殺したいっていう顔だな。嬉しいぞ、おまえが俺をそこまで思ってくれるんだからな」

「まだ、陽に関わるつもりか?」

 仕方がないだろう、と玲博は肩をすくめるようにして、

「俺のせいじゃないさ。父上がどうしてもってご所望なんでね」

 犀星の表情が大きく歪む。さも嬉しそうに、玲博は目を見開いた。

「そんなことより、話をしようじゃないか、なぁ、犀家の坊ちゃん」

 その呼び方は、子供時代の犀星を揶揄するものだ。

「まぁ、犀家と言っても、血のつながりもなけりゃ、戸籍も別。他人ってわけだ。犀侶香も物好きなもんだ。わざわざおまえみたいなのを背負い込んで」

 話の最中にも、縄を抜けようと頑張っていた犀星は、腕を縛る布の感触が妙なことに気づいた。肌に食い込むはずの縄が、直接、触れていないのだ。予感がして、手首をひねり、指先でまさぐる。案の定、乱暴にくくったと見えて、服や帯を巻き込んで締め付けている。これならば、帯を緩めて肌と縄の間の布地を引き抜けば、隙間ができる。手が自由になれば、足の戒めを解くことも難しくない。

 ゆったりとした長袍の長い袖が幸いした。寒いから着ていくように、と言った玲陽の声が蘇る。

 こんなところで、あいつに救われた。

 犀星の心に、希望が見えた。そうだ、自分は一人ではない。玲陽の心はいつも、自分と共にある。

 犀星は気づかれないよう、玲博に視線を定めたまま、密かに指先で少しずつ帯紐を緩め始めた。

 じっと食い入るように見つめる犀星を、玲博は見返した。その目には、犀星に対する不気味なまでの執着心が滲んでいる。

「くそ忌々しい!」

 いきなり顎を蹴り飛ばされて、体勢を崩す。それでも、犀星は怯まなかった。心だけは、決して折れない。

「綺麗なつらしてよ。腹の中じゃ何を考えているか、わかったもんじゃない」

「おまえと話すことなんかない」

「俺にはあるんだよ。人が親切に教えてやろうとしてんだ。黙って聞いてろ」

 玲博の蹴りが腹に入る。息が止まって身を捩ったが、どうにか意識は手放さない。

「陽のことだ。聞きたいだろ?」

「!」

「ほう、顔色が変わったな」

 玲博は犀星の前にしゃがみ込むと、首筋から耳の後ろへと、ねっとりとした手つきで指を這わせた。ひるんだふりをして、犀星は仰向けに体を傾け、玲博の視界から背中を遠ざける。後ろで手を動かしていることに気づかれるわけにはいかない。

「教えてやるよ。おまえは、何か、勘違いをしているようだからな」

「勘違いだと?」

「あいつは、おまえが思っているような人間じゃないぞ。

「どういう意味だ?」

 自分の行動を悟られまいと、わざと玲博の話に食いつくそぶりを見せる。

「おまえにとってあいつは、誰にでも親切な、自己犠牲とか慈愛とかの象徴なのだろうがな、実際にはそんなんじゃない」

 大仰な語り口で、玲博は言った。

「俺は十年間、あいつを一番近くで見てきた。あいつが何を考えて、何を望んで、何を求めているのか、誰よりも知っているのは、俺だ。そう、おまえじゃない」

「………」

「俺たちが何をしていたか、おまえも覚えているんじゃないか? 忘れられないよなぁ。可愛い可愛い陽が、他の男を相手によがり狂ってる姿なんかよ」

「!」

 屈辱と言うには生ぬるい嫌悪と破壊の欲求が、犀星の全身を震わせた。体が自由になるのなら、衝動に任せて目の前の男を殴りつけていただろう。だが、そんな怒りに我を忘れる行為が、自分の身を滅ぼすことを、この数日で犀星は思い知っている。今は、自分を縛る縄に救われた気がした。少しでも、冷静になる時間が必要だ。

『危険な相手と話をするとき、もっとも避けるべきことは、冷静な判断力をなくすことだ』

 いつだったか、涼景が交渉の議論の際に言っていたことを思い出す。

 そうだ、今が、その時だ。

「ふん、いい顔だ。そそるねぇ」

 玲博の挑発に、犀星は睨むことで抵抗し、同時に気持ちを抑えるよう、呼吸を整える。

「博……おまえがしていることは、暴力であり、虐待であり、陽の心を壊すことだ。俺は、絶対におまえを許さない」

「別におまえの許しなんか欲しくもないね」

 玲博は蔑むように犀星を見た。

「だいたいなぁ、そこが勘違いだっていうんだ。お行儀のいい親王様にはわからないだろうな、俺や陽の気持ちは」

 玲博が、自身と玲陽とを同列に扱うことにさえ、犀星の怒りは熱を増してしまう。だが、今は玲博の言葉に煽られる自分を制する、それだけを考えねばならない。

 玲博はうっとりとして、急に声色を変えた。

「あいつは楽しんでんだよ。自分から進んで凌辱されることを望んでいる。あんたが知ってる十年前の陽はもういない。あいつは変わったんだ。心身ともに快楽に堕ちて、自分から男にすり寄る。みんなころっと騙されちまう」

「嘘だ」

「あんたもそうなんじゃないか? あいつの純真無垢なつらにほだされて、何でも言うことを聞きますってか? 悲しいねぇ」

 自分のことなら飲み込める。だが、玲陽への侮辱は、相手が誰であろうとも、犀星が見過ごせるはずがなかった。

 一つの感情を押さえつけても、玲博はまた次の激しい混乱を煽り立ててくる。次から次へ、犀星の心の中は、処理しきれない感情のるつぼと化していく。

 玲博は、そんな犀星の憤りを、さも面白そうに眺めている。

「それが陽のやり方だ。自分は何も知りません、って顔して、腹ん中じゃ、自分の欲望のために相手を利用することしか考えてねぇ」

「陽を苦しめておいて、よくそんなことが言えるな?」

「陽を苦しめた? 誰が? 俺が?」

 玲博の笑い声が、静まっていた森の空気を震わせ、木の葉がざわめきを立てる。

「おまえ、本当におめでたいな。陽を苦しめてたのは……おまえ」

「!」

「十年前、おまえがあいつを一人にした。そこから、全部狂ったんだ」

 その言葉に、犀星は思わず布をまさぐる手を止めた。じっと、玲博を見る。

 同じ言葉を、犀星は最近聞いた。

 玲凛だ。

 彼女も言った。すべて、星兄様のせいだ、と。玲陽を置いて行ったことが、悲劇の始まりだ、と。

「あいつはずっと、おまえのせいで孤独だった。おまえを信じるあまり、他の誰の言葉も受け入れない。誰にも心を開かない。あいつが孤独になったのは、おまえが心を縛ったからだ。そうやって、ただ一人で耐えることを強いたのは、おまえだ」

 徐々に加速していく何かに、玲博は追い立てられているようだった。表情が次第に強張り、目が忙しなく動く。

「助けを与えてやろうと言葉をかけても、手を伸ばしても、あいつはそれを掴むどころか、見向きもしねぇ。語りかけて、触れて、抱いても、俺を見ねぇ!」

「…………」

「どんな時でも『星が、星が』って。おまえという呪いで、あいつは心を閉ざすしかなくなった。すぐそばにいる俺にさえ……」

 玲博の気持ちが昂っていくのが、その口調からもありありとわかる。徐々に声は震え、大きくなり、そして途端にしぼむ。その起伏は、彼の感情の乱れをそのままに音にしていた。

 それに反して、犀星の胸は静けさを取り戻しつつあった。依然、全身を埋める嫌悪感は消えないが、また別の冷めた感情が入り込んできて、それが沸き立つような興奮を静かにいなしてくれる。

「あいつを一人きりの世界に閉じ込めて、苦しめたのはおまえだ。そして、救おうとしたのが、俺だ」

 ピクッと犀星の眉が片方、震える。後ろの縄が大きく緩んだ。

「星、おまえはとんだ思い違いをしてるんじゃないか? あいつが十年間、おまえへの一途な気持ちに支えられたと、自分があいつの支えになれたと、そんなふうに思っているならとんだ茶番だ。今のあいつは、俺といて幸せなんだよ。黙っていりゃ、いくらだって与えてやる。おまえには絶対に手の届かないものを、俺なら、あいつに、俺が、あいつにっ……」

 息ができない、というように、玲博は苦しげに喉を鳴らし、天を仰いだ。

 犀星の蒼眸に、憎しみでも怒りでもない色がたゆたう。

「やっとわかった。どうして陽があのとき、おまえを逃がせと言ったのか」

「なんだと?」

 引き攣る喉で玲博はうなり、犀星を見た。その目はどこか視点が定まらない。犀星はゆっくりと言葉を重ねた。

「あいつはわかってたんだ。おまえを拒み続けた自分が、おまえを壊してしまったんだってこと」

「おまえ……何を……」

「あいつは許したんだ」

「……言うな」

「あいつはおまえに償おうとした。おまえがそうなったのは、自分のせいだから、と。おまえを庇おうとした」

「……あ、憐れみなど……」

「陽は、そういう奴なんだ。何もかも、全てを自分の罪に置き換えて、自分が潰れることで、誰かを救おうとする」

「言うな!……殺すぞ!」

 玲博の叫びを合図に、犀星は飛びかかった。足元の刀を鷲掴み、玲博に体を当てる。勢いでよろめいた玲博が木の幹に背中を打ちつけたところに駆け込んで、左手で襟首を掴み上げ、右手の刀を喉元に押し付ける。

 互いの視線が近距離で交差し、乱れた呼吸が互いを圧する。

 犀星に刀を与えた時点で、玲博に勝ち目はない。それは、両者ともによくわかっていた。

 犀星は玲博の喉にあてがった刀を、ほんのわずか、引くだけでよかった。それだけで、禍根を断つことができる。

 玲博が生きている限り、どこへ行っても玲陽は逃れられない。

『あなたが人を殺すところは、見たくなかった』

 そうだ、そうだと信じたい。自分のためであったと、信じたい。

 犀星の心が大きく傾く。

 ここで刀を引くことは、玲陽の願いを自ら消してしまうことだ。そのような自分に、これ以上、玲陽を守る資格はない。

「俺は、殺さない」

 犀星の澱みのない声が、ともすれば、愛さえ滲む声が、玲博の運命を告げる。

 玲博の目元が引き攣る。

「……おまえは、いつか、後悔する」

 まるで、呪いをかけるように、玲博は言った。

「俺を殺さなかったことじゃない。陽を選んだことを、おまえは必ず後悔するぞ」

 犀星はその言葉を聞いても、何も感じなかった。そのまま手を離すと、数歩後退り、玲博から離れる。

 じっと犀星を見ていた玲博の表情が、激しい憎悪と屈辱に歪み、彼の中で、決定的に何かが崩壊する。

 玲陽に情けをかけられ、犀星にもまた赦されたことで、彼の自尊心は根底から崩れ落ちた。

 もう、玲博にはそれ以上、犀星を責める力はない。それを悟ると、犀星は篝火の中から燃え盛る薪を一本抜き取り、その灯りを頼りに犀家への帰路に向かう。狂った様な嘆きとも笑い声ともしれない絶叫の他は、彼を追ってくる者は、誰もいなかった。


 ゆらゆらと視界の隅でかすかに揺れていた油灯の芯が、やがて小さくしぼんでゆき、プツッと音をたてて消えるのを、玲陽はかすかに震えながら見つめていた。

 視界が闇に閉ざされても、犀星は戻らない。

 口惜しい。

 犀星を案じて、彼にできるのはただ、祈ることだけだ。

 彼が必ず帰ること、約束を果たすことを、玲陽は固く信じている。その信頼は、決して揺らぐものではない。

 しかし、たとえ戻ってきたとしても、傷ついた犀星の姿は見たくはない。

 どうか、無事でいて……

 あの砦に幽閉されていた時から、毎日ひたすら変わらずに祈り続けた言葉。

 玲陽にとって、無意識に口にでるほど、心に染みついたその言葉は、再会を経て、より思いが募る願いとなる。

 十年ぶりに自分の前に現れた犀星は、昔のままの、暖かく繊細な心を宿した、愛しい人に違いなかった。

 絶望という深い深い井戸の底で、出口を見上げ続けるような日々。いつか、その光の円の中に犀星が現れて、自分に向かって手を伸ばしてくれるのを待ち続けた日々。

 だが、それが訪れることは決してなかった。

 犀星は、井戸の外から自分を救うことはしなかった。自らも、同じ暗がりの中に降りてきて、冷たい水に体を浸し、そっと、だが力強く、玲陽を抱きしめてくれた。ふたりなら、きっと、この穴の底から這い上がり、あの青い空の輝きの中へ行けるはずだ。ふたりなら……

「星、どうか無事で……」

 炉の炭も尽きようとしているが、それを継ぎ足す手はない。

 久しぶりに、一人だ。

 砦から助け出されたあと、玲陽のそばにはいつも誰かがいた。それは、看護のためであったが、同時に、玲陽の心を支えるためでもあった。その気遣いが、玲陽には身に染みてありがたかった。

 こうして一人になると、砦での日々が走馬灯のように蘇ってくる。あれは、確かに自分の身に起きたことだ。体に刻まれた感覚、肌の記憶は鮮烈で、理由もなく反芻を繰り返す。どんなに忘れようとしても、体がしっかりと覚えていて、拭い去ることができない。ふとした瞬間に、脆い吊り橋が崩れ落ちるように、さまざまな記憶が続けざま引き出されて止まらなくなる。目に見えている世界が薄れ、現実よりも記憶の方がはっきりと見えてしまう。

 玲陽は強く自分を抱いた。

 あの頃の記憶は、生涯、自分を苦しめ続けるのだろうか。どれだけ傷つき、痛みに耐えれば、終わるのだろうか。

「助けて……」

 つぶやいて、玲陽は疑問に思う。

 もう、十分に救われているはずなのに、どうしてこんなにも恐怖を感じるのか。自分は何に怯えているのか。何から助かりたいと言っているのか。

 突然、言葉が降りてくる。

 それは、孤独。

 その瞬間、玲陽の目に、熱い涙が溢れた。もう、何年も泣いていなかった。犀星に抱かれて見つめ合った時も、涙は流れなかった。心が渇いて死んだのだ、と思っていた。胸のあたりが痺れるような奇妙な感覚と、止まらない涙と、嗚咽を堪える喉の痛み。

 会いたい。

 強く、そう思った。

 会いたい。

 砦にいる間、どれほど寂しくても泣かなかったというのに、今の自分はあまりに弱い。もう、耐えられそうもない。一人の夜に、一晩たりとも、耐えられそうにない。

 犀星の温もりを知ってしまったから。

 もう、孤独には耐えられない。

 玲陽は今、自分の心のひび割れが、全ての始まりであったと感じた。

 少年の日に味わった、あまりに空虚な喪失感が、自分の精神を崩壊させ、その間隙に何かが入り込むことを許してしまった。

 あの時、もっと自分が強くいられたら、犀星を失っても、その約束を信じて、毅然として強い気持ちでいられたら、忌まわしい『力』に取り憑かれることもなかったかもしれない。

 何もかも、自分が導いてしまった結果だというのに、こんなにも誰かに助けを求めている無責任さが、玲陽をさらに追い詰めていく。

 手で涙を払い、褥に顔を埋め、玲陽は声を殺して泣き続けた。まるで、子供の頃、熱を出した犀星が心配で、眠れなかった時のように。あの時も、今と同じだ。犀星が死んでしまうのではないか、一人ぽっちになってしまうのではないか、と怖くてたまらなかった。

 私の心は、子供のまま、少しも強くなれていない。

 それがまた、余計に玲陽を締め付ける。

「陽?」

 突然に呼ばれて、玲陽は息が止まった。

 泣き腫らした目で暗がりを探る。引き戸の足元に、ぼんやりと外から差し込む炎の灯り。それを踏むように、人影が立っている。

「起きているのか?」

 ああっ!

 あまりに大きな安堵感に、玲陽は押しつぶされるように呻いた。

「はい」

 小さく、声の震えに気づかれないよう、彼は応えた。

「すまない、遅れた。……油灯、消えてしまったな」

 引き戸を閉める音と、優しく語りかける声。玲陽の胸の痺れは熱を帯びて、暖かいものへと変わってゆく。

「でも、炉の炭は、残っています」

 人影は灯りの油を探しているようだった。灯りはいらない、と、玲陽は首を振った。

 人影、犀星は玲陽の枕辺に座った。玲陽はかすかに、土と草の匂いを感じた。そっと、何があったのかを尋ねてみる。

 犀星は、森の中での出来事を、静かに話して聞かせた。玲陽はじっと、耳を傾けた。その表情は、まるで、自分の過去の過ちを聞いているかのように歪んでいたが、暗い部屋の中では、犀星に見られることはない。

「東雨はもう、部屋で休ませた」

 最後にそう言って、犀星は息を長くはいた。訪れた沈黙に、玲陽は何かの色を見た。夜の闇の中、空気が動くような微かな耳鳴り。そして、まだ、犀星が全ての言葉を尽くしていない気配。

 犀星は、そんな玲陽の疑問を裏付けるように、姿勢を正した。

「陽」

 改めて呼びかけたその声は、今までとは明らかに違う響きを帯びていた。この声こそが、本当の犀星の声なのだ、と、玲陽は思った。

「はい」

 微かな怯えを含んだ声音で答える。犀星はしばらく呼吸をひそめたが、その間も、心は波立って何かを探っているようである。犀星の心の音とも言えるその何かの騒がしさを、玲陽は肌で感じ取った。やがて、犀星はゆっくりと言葉をつむいだ。

「あの砦で、おまえは何をしていた?」

 胸の底を、手のひらですくいとられたような不安が込み上げる。玲陽はややしばらく言い淀んでから、

「博兄上に、何か言われたんですか?」

「あいつは関係ない。俺が、知りたいと思った」

 再び、沈黙が生まれる。それを破ったのは、犀星だった。夢見るような、しかし、確実に彼の本心からの言葉が流れ出す。

「ずっと、知りたかった。だが、おまえにそれを尋ねることは、思い出したくもないことを思い出させてしまう。だから、ためらわれた」

「ならば、どうして、今になって?」

 掠れた玲陽の声。それと同じくらいに苦しげな犀星の声が追いかける。

「博と話をして……俺は初めて、陽があいつを逃した真意に気づいた。そんなことは、もう、嫌だと思った。誰かの言葉で、陽を知るのは嫌だ。俺は、おまえのことを、直接おまえから知りたい。誰よりも、ちゃんとおまえを知っていたい」

 ああ、そうだ。この人は、本当に私と向き合おうとしてくれる。

 玲陽はそのまっすぐな言葉に、優しい強さを覚える。これが、犀星なのだ。

 犀星の思いは、玲陽にある種の勇気と、決意を促すようだった。

 玲陽の思考の流れが、方向を変える。

 どこかで隠し続けてきた本当の心を、今、見せてみたいと思ってしまう。

 それは、犀星の真心に、玲陽もまた裸の心で向き合おうとした瞬間だった。

「私が、すべて真実を語るとはかぎりませんよ」

 一歩、踏み込んで、玲陽は言った。犀星は動じることなく、受けてたった。

「それでもいい。おまえになら、たとえ騙されても構わない。誰かが語る真実より、おまえが語る嘘のほうが、俺にとっては、信じて悔いはない」

「本当に……星、あなたという人は……」

 わずかな呆れ、そして、期待。

「陽。頼む。あそこで何があった? おまえは、何をしていた?」

 あなたが望むなら、話してもいい。

 けれど、そのために、勇気をください。私に、勇気をください。

 玲陽は、祈る思いで言葉をつないだ。

「本当にすべてを、話してもいいんですか?」

「ああ」

「あなたにとって、聞きたくない現実かもしれません。それでも、いいんですか?」

「ああ」

 そして、

「……私を嫌いに、なりませんか?」

「ああ!」

 自分が一番恐れていた核心を、犀星は強く否定した。否定してくれた。

 玲陽の心が、決まる。

「手を……手を、繋いでいてください」

 差し出した震える手を、犀星は迷わず握った。するりと絡み合う指は、無言で伝わる優しさの証だ。

 もう、どうなってもいい。楽になりたい。

 玲陽は一度目を閉じると、深呼吸をしてから、静かに話し始めた。

「十年前、私の体に異変が起きて、この力が宿ったとき、義父は、私をあの砦に閉じ込めました。母はそれを止めようとしてくれましたが、叶いませんでした。あの砦で、私は少しずつ、自分に起きたことを知りました」

 できる限り丁寧に、自分でも混乱するほどに複雑に思われる現実を、玲陽は整理しながら、焦らずに続ける。どんなに時間がかかっても、犀星は必ず最後まで聞いてくれると信じていた。

「博兄上は、あるとき、一人の人を連れてきました。その人は、玲家の分家、参玲家に名を連ねる男性で、私の前に来た時、酷く具合が悪そうでした。博兄上は、この人を助けろ、と言いました。でも私には、どうしていいかなんてわかりませんでした。そうしたら……」

 ぎゅっと手を握る。当然のように、犀星が握り返してくれる。

「博兄上が言ったんです。『この人の、精液を飲むのだ』と」

 自分の声が、やけに遠く玲陽には感じられた。その方がいい。我が身の記憶だとは思いたくない。淡々と、ただ、理路整然と。玲陽はつとめて心を空っぽにしながら、話し続ける。

「体内に取り入れられるなら、口からでも、腹からでも、どちらでもいい。好きな方を選べ、と。何を言われているのか、全然わかりませんでした。黙っていたら……そうしたら、その人は……私の……くち……」

 グッと喉が締まって、息が止まる。玲陽は少し休んで、気持ちを抑えた。

「当時の私は、そういうことがよくわかっていなくて……でも、きっとこれは、暴力なんだな、って思いました。喉の奥に絡みつくようなものを出されて、熱くて、味わったことのない匂いと味がして、もう、怖くて…… このまま死ぬんじゃないかって……」

 遠くから聞こえるか細い自分の声を、玲陽は冷めて聞いている。そうだ、これはただの事実。それだけのことだ。

「でも、本当に怖いことは、その後に起きました。体の中が焼けるみたいになって、熱くて熱くて熱くて痛くて苦しくて……吐き戻しました。吐いたら意味がないと言われ、また、同じことをされて。次は絶対に吐かないようにと。でも、そんなの、自分ではどうしようもなくて。そしたら、博兄上は私を滝の所へ連れて行って、水を飲んで浴びろと言いました」

 まるで、言葉の足りない物語を読み上げているような平坦さで、玲陽は語った。彼があえて感情を殺していることは、犀星にも伝わっている。そうしなければ語れない現実であることを、彼も理解していた。玲陽は淡々と、

「私、怖くて、逆らえなくて、滝の水を浴びました。喉も熱かったので、その水を飲みました。おなかの中で、何かが動いて、体を内側からすごい力で引き裂かれていくみたいで、悲鳴をあげながらのたうち回って、でも、今度は吐き出すことはなくて、そんなことがどれくらい続いたかわからないですが、やがて痛みがだんだん引いてきて、頭がぼーっとして、全身がぐったりして動けなくなった。そうしたら、浄化が終わった、って博兄上が言ったんです。私は悟りました。これが私のこれからの生活なんだ、って」

 次第と口調が速くなり、呂律が回らなくなってくる。犀星は繋いだ指を緩め、励ますように、何度も握ってやる。

 急がなくていい。俺はちゃんとここにいる。

 その気持ちが伝わったのか、玲陽は少し落ち着きを取り戻して、声を静めた。

「私のところに来る人たちは色々でした。共通するのは、みんな、参玲家の男性ってこと。最後だけ私の口に出す人もいた。最初から、私の体が欲しいって人もいた。私は黙って従いました。体の中に取り入れて生まれる痛み、その痛みに耐えることで、彼らの命が救われる。初めは信じられなくて、騙されているのかもしれないと思いました。でも、後からわかったんです。参玲家の男性たちは、みな、一生をかけて、周囲の傀儡を自然と吸収してしまう。それは生まれ持っての運命。そして、その傀儡が一定量蓄積すると、発狂して死んでしまう。私のところに連れて来られる人たちは、たくさんの傀儡を吸って、発狂寸前になっている人たちだったんです。本来であれば、一生をかけて傀儡を吸って、ようやく死に至る量に達する。けれど、私が力を得たころから、傀儡が数を増やして、一つ一つの力が強まって、彼らの限界は早く来るようになってしまった。だから、私のせいだから、きっと私のせいだから、私がそれを償わなければならない。そう思って、耐えてきました。数日に一度、博は誰かを連れてきました。一人の時もあれば、数人の時も。私は黙って罪を償い続けた」

 これは、告白なのだ。

 自分が知らず知らずのうちに犯した罪状の告白。

 決して、犀星に知られたくなかった真実。

 玲陽は繋いだ手の温もりだけを信じて、続けた。

「でも、それは贖罪にはならなかった。彼らの精は、私にとっては、力の源だったんです。食べ物がなくても、私がどうして生きながらえたのか。それは、彼らのおかげだった。私たちは共存関係にあったんです。相手は命を救われる。私も、命を長らえる。そんな捻じ曲がった現実。でも、考え方を変えれば納得できます。私は無意識のうちに、周囲の傀儡を強化して、参玲家の人たちが大量に吸収する環境を作った。そして、彼らを糧にし、生きようとしていた。それだけのことなんです。理にかなってた。……でも、それは単なる始まりに過ぎなかった」

 暗闇の中で、玲陽には犀星の表情が見えないままだ。それでも、じっと自分を見つめて、聞き入ってくれていることはわかる。決して目を背けず、向き合い続けてくれることが救いだった。犀星から無言の勇気を得て、玲陽はさらに続けた。

「二年ほどして、私の体にまた、異変が起きました。今度は見た目ではなく、力が強まったんです。二年間繰り返してきた行為によって、私の中で限界が壊れた。そして、次の段階に進んだんです。それこそが『新月の光』の本当の力。次に私が身につけたのは、参玲家ではなく、普通の人たちを救う力でした。傀儡が取り憑いた、傀儡付きと言われる人たち。その人たちは、老若男女、血筋も関係なく、私のところに連れてこられました。私は彼らから傀儡を受け取って、参玲家の人たちにしたのと同じように、浄化を繰り返した。それによってその人たちは傀儡の意識から解放されて、本来の自分を取り戻すことができた。その人たちから、傀儡を受け取る方法…… それはとても簡単。直接、口から吸うんです。わかりますか? そう、口付けを使うんです」

 気持ちが揺れると、玲陽の声もうわずっていく。その度に、犀星は黙って手を握り直す。玲陽はそれを合図に、自分の心の乱れを知る。そんなことを何度も繰り返しながら、話はゆっくりと進んでいく。

「口付けて、相手の体の奥の奥に潜んでいる傀儡を捕まえて、引き摺り出し、それを飲み込む。言葉で説明するのは難しいです。私は、どうしてそんなことができるのかわからなかったけれど、なんとなく覚えたんです……いえ、覚えたというより、思い出した、というのに近い。まるで、遠い昔にそうしていたことがあって、その時の感覚が戻ってきたみたいに。昔触れたことのある琴の曲を、久しぶりに弾くように、自然と…… 怖いくらい、はっきりと。そうやって、私は人々から傀儡を吸ってその人たちを助け、参玲家の人たちから力を吸って生き延びていたんです。それが、私が砦でやっていたことです」

 長い長い話が、区切りを迎えた。玲陽は疲れたように、呼吸を繰り返していたが、まだ伝えるべき言葉があることもわかっていた。

 すべて、吐き出したい。もう、何もかも、曝け出してしまいたい。

 しばしあって、玲陽は再び、口を開いた。

「博兄上は、そんな私をずーっと見てた。そして、少しずつ壊れていった。初めはきっと、本当に助けようとしてくれたんだと思います。でも、私は心を開かなかった。それが、博兄上の心を傷つけることになると、私は考える余裕すらなかった。次第と兄上の言動が変わっていって、でもそれを私は見て見ぬふりをした。だから、博兄上があんなふうになってしまったのは、私のせいなんです。私が、間違えたから……」

 玲陽の声は切なさに震える。どうしてよいかわからないというように首を振る。

「兄上は、小さな頃に、産みの母親を亡くしました。それから、義父上が母上と再婚して……母は、兄上には関心がなかった。義父上も無関心を貫いてきました。だから、彼は、寂しかったんだと思います。誰かに自分を見て欲しいって、それだけだったんだと…… なのに、私までが、その思いを拒絶した。兄上にとって、それがどれだけ悲しいことだったか」

 そこまで言って、玲陽は少しみじろぎをした。

「星、私が話せるのは、これで全部……」

「………」

「全部、忘れてしまいたい。でも、受けた痛みはこの体に刻まれている。涼景様に言われました。私は、二度と、男性を受け入れられないって。そんなことをしたら、傷が開いて、出血して、死に至るって。この体は、一生、あの記憶を忘れないんだって。それが、博兄上を傷つけた、私の罰」

 握られた手はそのままに。

 長い長い沈黙に、玲陽はじっと耐えた。

 全て、伝えた。

 心は震え続けていたが、どこかで、安らかだった。

 全力を出して刀の稽古をした後のような、力を出し切った空虚感があった。

 静かな闇のなかで、時間だけが動いていく。

 沈黙は、自分への軽蔑と拒絶のためなのか。

 その時間が長くなるにつれ、玲陽の中で希望が薄れていく気がして、心臓が何度も縮むように痛む。

 怖い。

 どうして、黙っている?

 玲陽は遠ざかる希望と、膨らむ失意を味わいながら、そっと、絡めていた指を開いた。今はもう、犀星が手を離すことを、止めはしない。

 振り払われるくらいなら、自分から離してしまいたい。

 だが、犀星が力を緩めることはなかった。

せない」

 あまりに苦しい沈黙のあと、犀星はそっと、呟いた。

 その声には、怒りも悲しみもない。

 しっとりとした熱だけが、わずかにたゆたう。

「さっきから、おまえは繰り返し、自分の罪だとか罰だとか言うが、俺には、おまえにどんな罪があるのか、まったく理解できない」

 玲陽は犀星の言葉が、自分を包み込んでいくのを感じた。

「力が宿ったことは、おまえのせいではない。ただ、何か避け難いことが重なっただけ」

 その声には、自分の心の中でどうしようもなく絡んでしまった紐の結び目を、ひとつひとつ、優しくときほぐしていくような、深い慈しみがやどっている。

「博の心が壊れたのも、おまえのせいではない。当時のおまえに、博の心境を推し量る余裕がなくても当然だ。それは事故だ。おまえの過失じゃない」

 犀星の声は静かだったが、その裏に、計り知れない昂る感情が潜んでいることに、玲陽は気がついた。

 それを察して、玲陽は全身が総毛だった。

 今、犀星は確かに飲み込まれるような感情の激流を抱いている。だが、それを強靭な精神力で抑えつけ、決して流されず耐えている。

 あまりに、強い。

 玲陽は息をひそめた。

 その強さは、まっすぐに自分を守る意志と繋がっている。玲陽の体に、恐怖とは違う震えが走った。

「陽。そうやって、身の回りに起きる全てのことを自分の責任にして、それを償うという理由を得て、行為を受け入れ続ける。罪を償っているのだから仕方がない、というように。こんなことを、お前は、続けたいのか?」

「…………」

「俺に助けを求めたおまえは、本気で逃れたいと叫んでいた。自分の中の大義名分を全て捨てて、なりふり構わずに自由になりたい、と…… 俺は、陽の、あの願いが全てだと思っている。陽は、どう思う?」

 ああ、今、まさに、犀星は自分を連れていくつもりなのだ、玲陽は思った。

 今こそ、暗く冷たい穴の底から、蒼い空に向けて手を伸ばすときなのだ。

 自分の傍で、体も心も支え、一緒に穴の壁に手をかけて、這い上がろうしてくれている。

 私と共に。

 震える指に、玲陽は再び力を込め、犀星の手を握ろうとした。それより一瞬早く、犀星の手に力が込められる。それは、確かな、合図だった。

 俺と、来い。

 その声なき声、言葉なき言葉は、玲陽の世界を開く。

 あなたと、いきたい。

 玲陽はしっかりと手を握り返した。ただそれだけが、彼の答えだった。

 確かな力、確かな信頼が、手の温もりとともに二人を確かに繋いでいた。

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