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12 格子のない世界

 色も形もさまざまに、しかしすべては薄い紅色に統一された、見知らぬ部屋の夢を見た。

 犀星ははじめから、それが夢だと知っていたように思う。そのためか、不思議と達観した気持ちで、やわらかな床の上に立っていた。景色はぼやけてはっきりとしないが、甘い香の香りがした。胸の中の温かい心がほろほろと崩れて粉になり、それがふわりと巻き上がって香り立つような、不思議と安心する匂いだった。犀星は深く呼吸を繰り返した。そうしてからあらためて見回すと、目の前に黒く長い髪の若い女性がひとり、立っていた。緋色の長い袍をまとったその女性には、どこか、玲陽の面影があった。髪に刺した簪には、丸みを帯びた鳥の装飾がある。女性はじっと犀星を見つめていたが、その表情は冴えて、微笑すら見られない。

「陽……」

 自分が無意識に呼んだ声で、犀星は目覚めた。しばらく、ぼんやりと天井を見上げたまま、意識が夢から完全に抜け出すのを待った。すでに空は白々と明けて、ぼんやりと部屋の中に青白い光を投げかけている。空気は鎮まり、冷たい。ああ、炉の炭を絶やしたな、と、犀星は思った。香炉の煙もすっかり消えている。匂いに思い至って、夢のことが蘇ってくる。自分はなぜ、あの女性に『陽』と呼びかけたのか。その理由が犀星にはわからなかった。だが、そこには深い意味などなかったのかもしれない。歌仙に来てから、最も多く口にして、呼び慣れた言葉が、彼の名なのだから。

 犀星は体の右側に温もりを感じて、顔を向けた。安らいだ玲陽の横顔に、自然と笑みがこぼれる。規則正しくゆっくりと上下する胸は、彼がまだ、深い眠りの中にいることを示していた。昨夜、ふたりで交わした感情の波がまだ、心のどこかに静かに揺れている。

 初めて、玲陽と本気で話せた気がした。ふたりの間を隔てていた格子が取り除かれ、見えていても触れられなかった景色に、自由に入り込むことができるようになった、そんな開放感。心がやっと、本当に繋がった想いがする。犀星の目は晴れやかだった。

 長く長い夜の果てに、本気でぶつかり合って切り拓いた道は、これからも決して平坦ではないだろう。玲陽が語った数々の障害は、自分たちを四方から取り囲んで毒を打ち込む矢のように苦しめるに違いない。それでも、最後まで、自分はこの人の盾でいよう。そのために、今まで生き抜いてきたのだから。たとえどれほど傷ついても、そばにいる限り、玲陽が自分を癒してくれる。そうやって、ふたりで生きていこう。

 犀星の心に、根拠のない、しかし揺るがぬ自信と誇りが花開く。それを与えてくれたのは、まぎれもなく玲陽だった。

 俺は、おまえの、光になれるだろうか。

 朝陽の眩しさと比べて、犀星はそんなことを思った。そう思ってから、不意に自分の考えがあまりに稚拙であるように感じて、妙にこそばゆい気持ちになる。あの夢の中の香のせいだろうか。思考が宙をただよって、なかなか落ち着く場所を見つけられない心地がした。そんな流れに任せ、犀星はそっと体を玲陽に向けて倒すと、その顔を覗き込むように起き上がる。瞼が近い。触れることに慣れすぎた体は、反対に触れていないことに不安すら感じる。

 俺は、どうしようもなく、甘えている。

 犀星はさらに腕を伸ばして、玲陽の向こう側に片手をつき、のしかかるように体を低めた。肘を折って上体を支えると、玲陽の呼吸が唇に触れる。

 いっそ、このまま……

 犀星は息をひそめ、眠り続ける玲陽の……

「おい!」

 ぴたり、と、犀星は動きを止めた。声だけで、何が起きたのかを察する。

 これ、何度目だ?

 過去最悪の不機嫌顔で、犀星は部屋の入り口に立っていた涼景を睨んだ。

「星、何度目だよ?」

 涼景の方でも、同じことを思っていたらしく、こちらも今まででもっとも険しい顔だ。

「食ってないだろうな?」

「おまえが邪魔したからな」

 涼景の眉が、ぴくんと動く。

 夜警の徹夜明けで気持ちが昂っているところに、犀星の仕草はいつも煽り立てるように強烈である。

 涼景は無理にでも落ち着いた声を作って、

「聞いたぞ? 昨夜、勝手に出歩いて危ない目に会ったって」

 涼景はしかめっつらのまま、厳しく言った。

「おまえは自分の命を軽く見過ぎる。自重しろ」

「してる」

「してないから言ってる」

 涼景は部屋の中を一瞥して、

「また炭を……」

「いろいろ、立て込んでた」

「いつもそれだ」

 涼景はもう、何かを諦めているらしかった。文句も早々に切り上げて、炭を起こす。

 玲陽から目を離していた犀星は、自分の下で、彼がぱっちりと目を開けていることに気づかなかった。何気なく顔を戻して、突然に目が合う。そして、咄嗟に硬直する。

「何、やってるんですか?」

 おはよう、の挨拶もなく、玲陽は近すぎる犀星の顔を見た。誤魔化すように犀星は微笑んだが、残念ながら近すぎて玲陽には見えない。いや、見えたとしても、許してはくれない空気があった。

「陽、あのな……」

「なんですか?」

 犀星は助けを求めるように涼景を見たが、種火を吹いている涼景はこちらに気づきもしない。

「兄様」

「……っ!」

「近いです」

 玲陽の声は怒ってはいないが、明らかに警戒している。犀星は体を離して、玲陽を見つめた。ホッと、玲陽が息をつく。

「危ない、って昨日、言ったじゃないですか」

 玲陽は、困ったように目を細めて、

「私は唇から魂を吸う。傀儡がとりついていて、魂が二つあるならともかく、一つしかない状態では、その人を喰い殺してしまうんですよ」

 玲陽はそうなることを拒むように、手の甲で唇を覆った。

「だから私は……」

「口付けはできない」

 犀星が言う。その言葉を耳にして、涼景がふと、顔を上げた。

「陽、わかっている」

「だったら、気をつけてくれないと……」

「何に?」

「何って……」

 玲陽は視線を泳がせた。

「こんなことされたら、私……」

「唇を奪うつもりはなかった」

 カッと玲陽は目を見開いた。目の周りが瞬く間に紅潮して、耳までほのかに染まる。それを見ていた涼景が、玲陽に助け舟を出した。

「星。陽だって男だぞ?」

「涼景様! 言わないでください!」

 助けになっていなかった。

「わ、私は、ちゃんと自制できます、たぶん……」

 玲陽の語尾が消えていく。

 犀星はじっと玲陽を見つめていたが、突然何を思ったか、顔を寄せて頬を重ねた。ふわり、と犀星の髪が揺れて、玲陽の視界を横切る。

「!」

 とどめをさしてどうする?

 涼景はため息をついた。

 男心がわからない男は、本当にタチが悪い。

 犀星が顔を離すと、玲陽はもう、潤んだ目を真っ赤にして、唇を硬く結び、何かに必死に耐えていた。

「これなら、大丈夫だろう?」

 犀星が他の誰にも見せない特別な笑みを浮かべて、玲陽にささやく。

「どこが大丈夫なんだよ……」

 ようやく赤くともり始めた炭で、涼景は厨房からもらってきた玲陽の朝食の粥を温め始めながら、

「陽、今日はすこし、起き上がってみような」

「え? あ、はい」

 どうしていいかわからなくなっていた玲陽が、間の抜けた声を出した。それすら愛しい、というように、犀星がやんわりと笑む。

「さっさと動けるようにならないと、おまえの兄貴に何をされるかわかったもんじゃない」

「……どういう意味だ?」

 犀星が涼景を振り返る。

「どうせわかってんだろ? 答えねぇよ」

 これ以上、からかわれてたまるか、と涼景も開き直った。犀星は特に気にした様子もなく、玲陽の乱れた褥をととのえ、常温にしてある水を口元に持っていく。玲陽は素直にそれを口にしたが、なんとなく居心地が悪そうにしている。

 これが平和なんだろうな、と、涼景は思った。

 玲凛と河岸の見張りを交代し、仮眠のために屋敷に戻って早々、犀星と玲博との話を聞かされた。心配して駆けつけてみれば、この有様である。

 それでも、と、涼景は小声で何かささやきあっている二人を眺めた。

 一晩不眠で夜風に吹かれても、この二人の朝を守れるなら、安いものか。

 守ると決めた者のためならば、どんな苦労も笑って引き受けるのが、燕涼景の悲しいサガである。

 彼がこのような性格になってしまった背景は、持って生まれたものもあるだろうが、多分に、周囲からの期待が大きかった環境だろう。そのうちのひとつが、自身が人として目標に掲げた、犀遠の存在だ。圧倒的な力と配慮で幼かった自分を戦場で守ってくれた犀遠の勇姿は、涼景にとって目指すに値するものだった。誰かを守る、それは涼景が強くなるための理由だった。

 結果として、犀遠との出会いが涼景の人生の難易度を上げたのだが、彼はそれすら笑って流している。

 粥がよい具合に温まってきた。そのとき、戸がするりと開いて、涼景の目標が顔を出した。

「おはよう、やすめたか?」

「侶香様」

 座ったまま、涼景が礼をする。

「涼景、ご苦労だった。夜風はもう、冷えるだろう?」

「いえ、あれしきのこと……」

 強がる涼景。微笑む犀遠。涼景は少し顔を崩して、

「火を焚きましたので、しのげました」

「うむ」

 それでよい、というように、犀遠は頷いた。

「叔父上、おはようございます」

 玲陽が行儀良く言う。

「父上、こんなに早く、どうなさったのです?」

 可愛げのない犀星の言葉に、犀遠はやれやれと顔を歪めた。

「星、おまえは本当に……」

 と、言いかけて、首を振る。

「いや、親の心子知らずとは昔から言うしな」

「子の心親知らず、と最近は言うとか」

 犀星がすかさず返す。犀遠は少し驚いたように瞬いた。自然と口元がほどける。犀星は少し気まずそうに顔をそらしていた。玲陽が安心したように微笑み、涼景が満足そうに頷いた。

 遠くで、鳥のさえずりが聞こえ始めた。

「それは、陽の食事かな?」

 犀遠が、涼景が用意していた盆の上の粥と薬湯を指した。

「はい。これから……」

 と、いつものように犀星に差し出す。それを、ひょい、と犀遠が取り上げた。

「今日は、わしがやろう」

「え!」

 玲陽と犀星が犀遠を見上げた。玲陽は照れ、犀星はすねる。その仕草に、思わず涼景は声を立てて笑った。

「おまえたち、わかりやすすぎだ」

「笑い事じゃない。父上、それは俺の仕事です」

「なんだ? おまえはまた陽を独り占めにする気か?」

「そんなことではありません。俺は、自分にできることはやりたいと……」

「ならば、わしに譲れ。わしとて、陽とゆっくり過ごしたい。そのために譲れ。親孝行もおまえがするべきことではないか?」

 理屈屋の犀星が言い負かされるのを、涼景はにやにやしながら見守る。

「ですが……」

 食い下がろうとするが、犀星にはすぐに返す言葉が出てこない。

「星、涼景、すまないが、ちょっとはずしてくれないか」

 犀遠はさっさと玲陽の牀のそばに座って、匙で粥をくるりと混ぜた。

「陽と、ふたりで話がしたい」

 ハッとして、犀星は口を閉じた。冗談や軽口の好きな犀遠ではあるが、それに混じって時折、真剣なことを言い出すのを、彼はよく知っている。そんな時は、黙って従うのがよいことも。

「では、外にいます」

 犀星は立ち上がった。

「済んだら、声をかけてください」

「うむ」

 涼景も無言で犀星に習い、回廊へ出た。

 中庭には、朝日が眩しく煌めき朝靄が残していったしずくが、あたりをしっとりとぬらしていた。わずかに感じる湿った土のにおいは、どこか懐かしい。犀星は黙って回廊の端に座ると、中庭に目を向けた。涼景はその隣に立ち、腕を組んで空を見上げた。

「今日も晴れそうだな」

「ああ」

 静かに、風が草をゆすったが、それはあまりにわずかで、音も立てない。

 長く、ふたりは沈黙した。部屋の中から、小さく玲陽の声がしたが、何を言っているのかはわからなかった。

「涼景」

 犀星が、静かに呼んだ。その声は朝の景色に溶け込んでしまうほど、穏やかで静かな響きであった。

「なんだ?」

 短く、だが親しい涼景の返答に、犀星はかすかに目を細めた。

「ありがとう」

「……また、おまえはいつも突然だな」

「そう、だな。でも」

「なんだよ?」

「陽のこと、だ」

 犀星は涼景をまっすぐに見上げた。飄々として、感情を見せないくせに、肝心な時には心を射抜くような眼差しをむけてくる犀星は、本当に扱いにくい。涼景は逃げずに見返したものの、どうにも照れ臭い。

「おまえがいなかったら、陽は死んでいた。だから、感謝してもしきれない」

「よせって」

 涼景はたまらず、苦笑いをしたが、目ははずさなかった。

「俺がいなかったら、それはそれで、おまえがどうにかしたさ。おまえなら、絶対にあいつを助けただろう」

「それでも……きっと、今以上に陽の苦しみを長引かせてしまったはずだ」

 犀星は落ち着いた声のまま、しかし強さを忍ばせて続けた。

「だから、ありがとう、涼景」

「……ああ」

「都に戻ったら、正式に礼をしないとな」

 涼景の視線がちらと揺れる。気に入らない、という仕草だ。

「戻ってからじゃ遅い。今、よこせ」

「え?」

 犀星がかるく目を見開いた。涼景はそのまま犀星の隣に腰を降ろした。座るのか、と思っていた犀星は、涼景がさらに動いて、自分の膝の上に無造作に頭を乗せるのを止められなかった。

「涼景?」

「夜勤で寝てない。ここで寝かせろ。それで帳消しだ」

 珍しく、犀星の頬に僅かに動揺があった。だが、拒否はしない。一度目を閉じると、ふたたび穏やかに開く。

「わかった。しばし、俺が守ろう」

 犀星の穏やかな笑みを目に焼き付けると、涼景は静かに眠りに身を沈めた。

 涼景の胸にそっと手を添えて、犀星はしばらくその無防備な姿を眺めた。

 どれほど、感謝しているか。

 込み上げるものはあったが、今は静かに見守る時だ。大切な友の、ほんの僅かな休息を守りたかった。それもまた、自分にできることであるのなら。

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