玲陽が犀家に匿われ、半月が過ぎた。
昨夜、犀星が玲博と接触した限りでは、彼らが玲陽を諦める様子はなかった。
前庭には、およそ三十名の犀家の私兵が詰めていた。また、犀家と玲家の領地の境界の川のそばで、常時数名の斥候が、監視にあたっていた。
前庭は犀遠と玲凛、川の前線は涼景が担当した。犀星は玲陽の部屋を離れない。玲陽を守るために考えうる最強の布陣であった。
しかし、いつ終わるとも知れない連日の警戒で、その疲労は重くなっている。
玲家は大きく兵を動かすことはなかったが、それに油断して防衛体制を緩めるわけにはいかない。犀遠がよく鍛えている兵たちではあるが、士気は長くは持たないだろう。
そろそろ、決着をつけねばならぬな。
犀遠は現状を憂い、判断を迫られていた。
このまま、延々と時を長引かせるわけにはいかない。また、今の状態で犀星と玲陽を都に返しても、どのような形で玲家が手出しをしてくるかもわからない。
今こそ、禍根を断つべく動くとき、と、犀遠は意を決した。
ゆるい午後の日差しが、晴れ渡った空を照らし、秋風が煌めいて歌仙の風景を包み込んでいる。
屋敷の警備を玲凛に任せ、犀遠はひとり、外門を出た。
黒染めの袍に腕を通したのいつぶりであったか。控えめだが、丁寧に作り込まれた細工のある帯には、刀を模した犀家の家紋が縫い取られている。腰の太刀は大ぶりで、その深青の鞘にはうっすらと浮かび上がる暗い金色のあやどりが見られる。
久しぶりに屋敷の外に出ると、季節が大きく移り変わっているように思われる。
見慣れていた森の茂りは半ばほど枯れ落ちて、真新しい落ち葉が地面を覆っていた。藪の中に見える赤い色は、柘榴であろう。昔、犀星と玲陽があのあたりでつまみ食いをし、飛び出してきた蛇に驚いて逃げ帰ってきたことを思い出した。犀遠は頬をゆるめ、目元に優しさを浮かべる。あの時の二人の豊かに動いた表情も、命がみなぎるように跳ね回っていた姿も、しっかりと心におさめている。
ふたりと過ごした時間は、犀遠の生涯でもっとも幸せな時であったと思う。
犀遠は、犀星と玲陽のどちらとも、血のつながりがない。また、いかなる親族関係にもない。しかし、それがなんだと言うのだ。
こうして、玲陽の有事に、犀家の家人が一丸となって臨んでいるのは、犀遠を含め、皆の心が結びついている証である。
血よりも情。名よりも実。
犀侶香は襟を正して、乗馬を進めた。
緩やかに下る坂道の先に、歌仙の農村が広がっている。半月前、犀星はこの景色を朝靄の中に見ながら、玲陽のもとへ向かったのであろう。
あの朝、犀遠は敢えて、手出しをしなかった。
それは、十年間、犀星が自分の使命と定めてきた努力に水をさすことを嫌った、犀遠なりの配慮であった。
もちろん、望まれればどのような協力も惜しむものではなかったが、犀星が父に告げたのは、馬を貸して欲しい、との申し出だけであった。
犀星は、己の信念を貫いた。
今度は、その成果に自分が答えるべき時である。
自分にしかできないこと、そして、せねばならないことがある。決して、失敗を許されない、たった一度の大きな賭け。
犀遠はその大仕掛けを前に、久々に浮き立った。
やるべきことは、犀星と玲陽が教えてくれた。
あとは、成すだけだ。
馬の歩調はゆっくりとしていたが、その歩みは力強く、前へ踏み出す気迫を感じさせた。
田畑に出て作業する領民たちが、犀遠を振り返って笑顔で頭を下げた。犀遠も、微笑みながら頷いた。
領主自ら領地内を歩くことは、犀家領内では見慣れた景色だった。犀遠は気さくに皆に話しかけ、時には冗談を言い、時には親身に相談に乗った。飾らないその人柄は、領民たちに慕われ、みなが『侶香様』と字を呼んだ。玲家領とはまるで違う、素朴な交流がここにはある。
犀星と玲陽も、よく犀遠について農村を回っては、あちらこちらで寄り道をしつつ、世の中の機微を学んだ。少年たちの心は、この土地と共にあった。
乾いた風は冷たかったが、陽光に温められた道の土は、ふんわりと甘い匂いを放っている。心地よさが足元から湧き立ってくるようだ。
犀遠は行くてへと目を凝らした。
玲家との境界となっている川の辺りに、数人の人影がある。見張りにあたっている涼景と、犀家の私兵だ。
犀遠が近づいていることにいち早く気づいて、涼景が周囲への警戒を続けながら、馬で駆けてきた。
「侶香様、いかがなされました?」
精悍なその顔に、わずかな不安が浮かんでいる。
「星になにかありましたか?」
「いや、驚かせてすまぬ」
犀遠は笑顔で、
「星なら心配はない。今頃、陽と一緒に昼寝でもしているだろうから」
涼景が安堵とも不満とも知れぬ微妙な表情をする。昨夜も犀星は玲陽の部屋の種火を絶やしたのだ。東雨の帰りを案じて軽率に一人で動いたことも気にかかる。
少々、気を緩めすぎていないか?
そんな涼景の胸中を察して、犀遠は目を細める。
涼景が自分には敬意を払いつつも、犀星に対しては感情を露わにすることが、犀遠には嬉しくてならない。
本当に、こやつらの将来が楽しみでならん。
犀遠は小さくニヤリとした。
「案ずるな。星はたるんでいるわけではない」
「!」
しまった、というように、涼景が照れ笑いを浮かべる。
「ただな、星も陽も戦い疲れている。判断が鈍っているのも事実だ。短い間に、あやつらは多くのものと向き合い過ぎた」
涼景は表情を和らげると、頷いた。
自分はどうしても、犀星に大きな期待をかけてしまう。それは涼景の素直な気持ちだが、その犀星とて、人の子である。歌仙に到着した頃の、ボロボロに傷んでいた犀星が、玲陽のためにどれだけの苦難を超えてきたか。そこに費やした精神力ははかりしれない。
それを思うと、急に犀星という人間が愛しくてたまらなくなる涼景である。
前線に立つ者としてはあるまじき笑みで、涼景はしばし目を閉じた。犀遠がそれを咎めることはない。
涼景が顔を上げるのを待って、犀遠は声を抑えて切り出した。
「涼景。おまえに頼みがあって、来たのだが」
何事か、と涼景は犀遠の顔を見た。犀遠は安心させるように微笑むと、
「急ですまんが、おまえの命、わしに預けてはくれんかな?」
さすがの涼景も、さらりとかけられたその言葉に、呆然としてしまう。
犀遠は涼景の返答も聞かずに、帯に刺していた絹の袋を手に取ると、涼景に差し出した。
「わしと一緒に玲家に行ってくれ。わしが格を惹きつけるから、おまえはその間に、これを芳に渡して欲しい」
涼景はその絹袋を見つめた。中身はおそらく、犀遠がしたためた書状に間違いないだろう。
内容は?
涼景は何も言わず、犀遠を見上げ、その表情の中に、万事を託して悔いのない決意を見た。
暗い朱色に白い糸で曼珠沙華を縫い取った艶やかな絹袋は、犀遠から涼景の手に渡った。
「確かに」
涼景は短く答えた。その口元には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
玲家はその血の始まりに神を持つとも言われる、古からの血脈である。
この地が歌仙と呼ばれるようになる前から、一帯を支配してきた。豊かな農地と、川という水脈、血縁関係で固く結ばれた本家と分家の絡み合う御前町を抱え、皇帝に対しても決して引かぬ胆力をそなえた一族だった。
少し前、その玲家の当主候補であった玲心は、先の皇帝・蕭白との間に一男をもうけた。当時は玲星と呼ばれた、今日の犀星である。
しかしこれは、玲家にとっては裏切りであった。『皇家は玲家の血を求めない』とした、数代前からの約義に反する行為であった。玲家は玲心の妹である玲芳を都につかわし、生まれたばかりの犀星を連れ帰った。そして、この玲家の血を持つ親王を皇帝に差し出すことと引き換えに、玲家の有事にはいかなる条件であろうとも、皇帝の勅命を持って鎮圧に助力することを求めた。現皇帝の宝順は、犀星を自分の手元に置くことを強く望み、この申し出に応じた。
かくして、犀星は皇帝に召し上げられ、玲家は時の朝廷の権力の一端を握って、さらに血による領内の支配を強めたのである。
因縁深い玲家の領地に、犀遠は涼景とただ二騎で踏み入った。
隣接しているとはいえ、玲心の一件があって以来、犀遠が玲家を訪ねることはなかった。玲家もまた、犀家を嫌い、両者は目に見える争いこそなかったものの、交流はかなり制限された。その影響は、次の世代にも暗い影を落とし、犀星と玲陽は幼い頃から、さまざまに辛苦を味わってきた。特に犀星は、母の実家である玲家に、一歩たりとも入ることを許されず、玲陽が玲芳に呼ばれる時は、いつもひとりで門の外で待っていた。犀星の命は、玲家が皇帝と盟約を交わす際の切り札である。危害を加えられることはなかったものの、強い疎外感を感じ続けていたことは事実だった。
玲家の屋敷へと続く道を行けば、すれ違う領民たちが驚いて傍に避けた。みなが、犀遠の顔を知っていたわけではない。その馬の鞍につけられた犀家の家紋を見て恐れたのだった。
領民の中には、玲家の分家の血筋を継ぐ者が多くいる。彼らは生まれながらにして、自分たちの血を尊ぶあまり、他者に対して不寛容であった。
涼景は、こちらを蔑視するような領民たちの仕草を横目に見ながら、玲陽のことを思い出していた。
まさに、不寛容の頂点に君臨する玲家本家、その嫡男である玲陽が、家風とは真逆の性質を持っていることに、改めて驚きを感じる。他者への底知れぬ深い寛容の心は、まさに玲陽そのものだ。しかし、それは彼が玲家の人間ではなく、犀遠の意思の影響下で育てられた結果であることを表している。
陽。おまえは幸運だぞ。
多分に主観の入った感想を、涼景は抱いた。
玲家の屋敷は、すでに視界の中にあった。
周囲の土地より、一段盛られた高台に、広大な敷地を持ち、それらはすべて、堅牢な柵によって囲まれている。門は正面と裏に二箇所。柵の上部には見張りの櫓が等間隔に並び、ちらちらと兵士の姿も確認できる。
事前の情報では、常時敷地内には百名ほどの私兵が駐屯しているという。何かあれば、その三倍は集めることができるはずだ。犀家の兵は、総動員したとしても百名程度である。正面からの衝突は避けたかった。
そして何より、と犀遠は思う。
玲陽は、自分のために誰かが戦い、傷つくことを受け入れられる性格ではない。たとえ結果を出せたとしても、彼が喜ぶことはない。
無血で済めばよいのだが。
玲格を敵とする以上、それは決して簡単なことではないだろうが、玲家に対して敵意がないことを証明するため、こうして、兵を連れずに涼景と二人だけで訪問することを決めたのだ。
すでにこちらに気づいている見張りの兵たちが、手で合図を送り合いながら、連絡をとっているのが見えた。この訪問はすぐに、玲格のもとに知らされるであろう。
犀遠は、ちらりと涼景を見た。一歩先を先導して馬を進めていた涼景は、その視線に気づいて微かに振り返った。
「ぬかるな」
「御意」
彼らの間に交わされたのは、それが全てだった。
四名の門番の兵士が、彼らを門の外で待ち構えていた。
ふたりは門の手前で馬を降りた。犀遠の馬を預かった馬番が、その鞍に犀家の家紋を見つけて、怯えた表情を浮かべた。
誰もが、この突然の訪問が、何らかの火種となりうると察している。
「突然の来訪、失礼する。犀侶香である。玲
犀遠は至極丁寧に門番に告げた。その口調は穏やかで落ち着いてはいるが、決して断れない重々しさがあった。
犀遠の求めに応じて、外門が開かれる。門の目立つ位置に、『玲』の文字をあしらった金色の飾り金具が鈍く光っている。涼景は表情を変えずに、犀遠に従って中へ入った。
兵士がひとり寄ってきて、犀遠に刀を渡すように言う。犀遠は逆らうことなく、腰紐を解いて太刀を預けた。兵士は涼景にも目線を送ったが、涼景はそれには応じなかった。
自分が犀遠の護衛として同行している以上、そして、犀遠が自らの刀を手放した上は、帯刀を妨げられる筋合いはない。また、涼景は、皇帝から専断を許された将であり、戦場でも政でも、皇帝の信に背かぬ限り、その裁量は絶対である。誰も、彼に命じることはできない。犀遠も、それを承知である。
外門から中門へと続く石敷きの参道を進みながら、周囲の状況に注意を払う。参道の脇には低木や薬草が植えられ、視界が遮られている。植え込みの間から奥を探ると、かなりの広さが確認できた。見える範囲に兵舎が三棟、倉庫らしき建物が二棟、厩舎からは馬のいななきが聞こえてくる。
参道の途中には監視塔も備えており、弓を手に構えた兵士が、じっとこちらを見下ろしていた。
ゆっくりと奥へ進むと、彼らの歩みに合わせて、中門が開かれた。両開きの門の向こうには中庭が広がっている。白砂利が敷かれ、中には飛び石の道が見える。整えられた低木と、小さな池、築山も備えた落ち着いた庭である。そんな美しい庭でありながら、回廊のあちこちには、明らかにこちらを意識している兵士の気配を感じる。敷地に入ってから、ずっと空気が緊張しているのがわかる。
敵ながら、いい動きをしているな。
涼景はそんなことを思った。
玲格のいる正殿は目前にある。だが、涼景が犀遠とともに進むのはここまでだ。犀遠がわずかに顎をひいて、涼景を見た。涼景はしっかりとうなずくと、中庭に向く。後ろをついてきていたふたりの兵士が、それを不審に思って制した。
「歌仙親王の命で、当主、玲芳様にお会いしたい」
涼景が落ち着いた声で言った。
兵士は顔を引き攣らせた。涼景が皇帝から与えられている権限を、彼らもよく知っている。断ることはできない。
兵士たちは顔を見合わせ、仕方がない、と一人が案内に立つ。
涼景が背を向けたことを確かめて、犀遠は玲格と対峙すべく、正殿へと入った。
涼景もまた、犀遠の動きを感じ取りながら、自分がなすべきことに集中する。
案内に従いつつも、周囲の警備状況や人の動きを気に掛けながら、母屋の奥へ入る。
玲芳と会うのは、これが二度目である。石のように表情の動かない女性だと、あの時、涼景は思った。玲凛からの情報では、薬の類で言葉を奪われ、思考も鈍らされているらしい。
前回は、何もわからないままの手探りの訪問であったが、今回は違う。玲家という家の特殊性、犀星と玲陽との関わり、玲博や玲格の人間性、そして、懐に入れた、犀遠の手紙。
今の涼景には玲芳の姿はどう見えるのだろうか。
以前と同じように、玲芳はがらんとした部屋に座り、涼景を迎え入れた。御簾や衝立で仕切られてはいたが、その向こうには玲芳を見張るための兵士が控えている。前回は、彼らが自分を警戒しているのかと思ったが、それだけではないことが、今はわかる。
玲芳は玲陽に対する人質であり、玲格にとっては勝手をされるわけにはいかない存在なのだ。
涼景は部屋の前で一礼した。
「ご無礼いたします。歌仙親王殿下の命で参上いたしました、燕仙水にございます」
実際には、今回、犀星は無関係なのだが、この方が話が早い。
それに、このようなことで名前を使ったとしても、犀星がとやかく言わないことは涼景もよくわかっている。
玲芳は橙色の袍に身を包み、静かに彼を見つめていた。
涼景は小さな声も聞き逃すまいと耳を澄ませていたが、入室を促す言葉はなかった。
本来ならば許可なく入るわけにはいかないが、いつまでもこのままでは埒があかない。
仕方がなく、もう一度礼をすると、さっさと進んで玲芳の前に座った。周囲の兵士たちは涼景を止めはしなかった。
「玲芳様」
涼景は最低限の礼儀として、玲芳の顔は直視せず、その首のあたりに目を向けた。
「犀侶香様よりの書状にございます。お改めください」
涼景は、犀遠から預かった絹の袋を、玲芳の前に置く。
玲芳の視線が、ゆっくりと落ち、袋を見る。
だが、彼女は見つめるだけで、手を出そうとはしない。
涼景はしばらく様子を伺っていたが、静かに、声を低めた。
「目を逸らすな。あんたの息子は、今も戦っているんだ」
ぴくん、と玲芳の目元が動く。
玲芳は最後の自我までは失ってはない。あの、強い玲陽の母なのだ。信じるに値する。
辛抱強く、涼景は沈黙した。それは、玲芳にとって必要な時間である。
涼景には、玲芳がどのような葛藤を秘めているのか、想像もつかない。しかし、それでも彼女の中には、玲陽を思う気持ちが消えていないことを信じるしかなかった。それに賭けるしか、今はないのだ。そしておそらく、それは犀遠も同じはずだった。だからこそ、自分はここにいるのだ。
祈るような時間が過ぎ、玲芳の指先がかすかに震えた。
そして、ゆっくりと、自分が動くことができるのを確かめるような速さで、彼女は絹に触れた。
そこからは、流れるように袋を手に取り、澱みなく包みを解いて書状を開く。そこで再び動きがとまり、ただ、かすかに目線だけが書状の上を滑る。
涼景は目を上げ、玲芳の顔を見た。
犀星の母親である玲心は、玲芳と生き映しだったという。彼女の面影には、犀星や玲陽に通じるものが見てとれた。
涼景は、その美しくも凍りついた表情に、何かが揺れるのを見た。
『汝に願わくは、まさに為すべき所を思え。彼の二子、すでに生を選べり』
玲芳の手にした書状が小刻みに震えている。前触れもなく、その両の頬に、きらりと涙が走った。
涼景は、犀遠が何を伝えたのか、わからなかった。だが、その言葉は、玲芳に大きな衝撃をもたらしたに違いなかった。
何もかもを諦め、絶望の中に身を投げていた彼女の心に、かすかな、しかし明らかな光が差し込む。
「帝より全権を委ねられし者よ」
玲芳は、黒曜石のような瞳で、涼景を見た。そこには、強い意志の力があった。
「玲家当主・芳、宝順皇帝の大御心に伏して願い奉る。我が子らに仇なす玲正躬、これを誅し、滅し給え」
涼景の胸が、カッと燃え上がる。
これを、待っていた!
見開いた目に、じわりと熱いものが湧いた。時は来た。彼を阻むものは何もない。
涼景は座したまま、一礼すると、素早く立ち上がり、まっすぐに正殿へ向かった。
涼景と別れた犀遠は、正殿へのきざはしを登り、中へ入った。
犀遠が招き入れられた正殿は、演武場とも思える広さである。入り口から奥に座る玲格まで左右の壁には十名ほどの兵士が並び、犀遠の動きに不審な点があれば、すぐにでも牽制できる構えで、厳しい表情をくずさずにこちらを見ている。壁の上部の欄間からは、外の光が差し込んで、ちょうど、部屋の中央にその光が映り、玲格までの道を示しているかのようだ。犀遠はその光を一歩ずつ踏みながら、玲格の目前で腰を下ろした。
玲格は、犀遠よりもわずかに年長である。蓄えた髭が余計に年長者の風をあらわしている。彼は玲心と玲芳の実兄であり、玲陽と犀星の叔父にあたる。
犀遠が若い頃は、玲格の真摯で正義感の強い人柄に憧れたこともあった。しかし、ふたりの関係は、玲心の死によって、完全に破壊された。
玲格は、ことのほか可愛がっていた妹の玲心が、自分の気持ちを遂げて犀遠と結ばれたことを、心底喜んでくれた。一族は玲心の叛逆を問うたが、玲格はそれを鎮め、妹の平和な幸せを願っていた。そこには、犀遠にたいする期待も込められていた。
だからこそ、皇帝から妹を守り切ることができなかった犀遠に対し、深い失望と怒りを抱いたのであろう。
犀遠はそのことで玲格からとがめられたことはなかったが、玲心の死を境に、彼が豹変してしまったことは間違いなかった。
見まごうほど似ていた玲芳を無理に妻とし、自分の手元で自由を奪い、誰にも触れさせぬように閉じ込めたのは、玲心への贖罪であったか、歪んだ欲か。玲芳は玲格と婚姻後、屋敷から出ることを禁じられた。
玲心のように、誰かい傷つけさせてなるものか。
玲格の激しく倒錯した感情が、玲家の中で何かを捻じ曲げていったことは間違いなかった。
犀星が都へ上がると、それを機に玲格は玲陽をも砦に幽閉した。玲陽の力を生かすためとされたが、事実上、玲芳と玲陽の親子を、互いに縛るための人質にしたに等しかった。
以後、玲格は、参玲家の男たちを玲陽のもとに送り、体内の傀儡を浄化させ、それによって彼らの命を縛った。玲格に逆らえば、浄化を得られず死に至る。それは、男たち当人だけではなく、その家族にとっても効力を持つ残酷な脅迫だった。
また、傀儡にとりつかれた他の領民たちも、取り払ってもらうために玲格に取り入り、従った。彼らは金を積み、玲格からの許しを得て初めて、玲陽に会うことができた。金を用意できなければ、労働で支払った。それも叶わぬものは、ただ、死を待った。
玲陽は、傀儡に苦しむ人々にとって、唯一の救いであった。
玲格は得られた金銭を軍事に投じ、屋敷の防備を固め、兵を鍛えた。歌仙全域の覇権を取り、皇家への反逆の意思を示す機会をうかがっていたのである。いかに玲家とはいえ、自領を守ることはできても、都に攻め登るだけの力を得ることなど不可能である。しかし、玲格の胸には、玲心を狂い死にさせた者たちへの、深い怨念だけが渦巻き、理でものごとを見ることなど、とうに叶わなくなっていた。
犀遠には、玲格の乱心とも言える行為が、決して理解できないわけではない。犀遠もまた、玲心を守れなかった自分を責め、生きることを手放そうとしたこともある。だが、そんな自分を生かしてくれたのは、玲心の忘形見であった犀星だった。
もし、自分が犀星を玲格から引き離さなかったとしたら、状況は変わっていたのかもしれない。
犀星がそばにいたことで玲格が心の平穏を保てていたなら。
そんな可能性も、当時、かすかに胸をよぎる。だが、それは絵空事だった。犀遠が犀星を引き取れたのは、玲格が犀星を殺そうとした、そんな忌まわしい真実があったからだ。玲芳はそのことに恐怖し、犀星を守るため、玲家から切り離したのだ。表向きだけでも、玲の姓を捨てさせ、犀を名乗らせた。
玲格が玲心を大切に思っていたことは事実だ。だが、それによって、犀星を憎むことは筋が通らないと、犀遠は思う。自分が叔父である玲格に命を狙われたことを、犀星は知らない。彼が玲家に入ることを許されなかった裏に、そのようなからくりがあろうとは、幼い犀星には思い至るはずもなかった。
また、玲陽も玲格にとっては目障りな存在であった。玲芳は父を知らぬ間に、玲陽を身籠った。自分が玲陽を守らねばならないと必死だった玲芳は、常に玲陽のことばかりを案じていた。玲芳に玲心の影を見ていた玲格にとって、玲陽に執着するその姿は、まるで、蕭白の子を抱く玲心のように思われた。
『愛しい玲心が、憎い蕭白帝の子を抱いている』
玲格は妄想に取り憑かれ、玲陽をも手にかけようとした。玲芳は犀遠に話を持ちかけ、命の危機にさらされている二人の赤子を助けてくれるように頼み込んだ。犀遠は迷うことなくそれを承諾した。
こうして、犀星と玲陽は、犀遠の庇護のもとで育てられたのである。
いかに玲心の無念を晴らしたいという一念であっても、玲格は多くの者を巻き込みすぎた。その代償は、あまりにも大きかった。玲格は今も、これからを生きようとする若い者たちの未来すら、奪おうとしている。
これ以上、玲心の亡霊にとりつかれた玲格を、放っておくことはできない。
犀遠はその覚悟で、この場に来たのだ。
玲格は、赤茶色の濃淡を美しくあしらった袍に、褐色の裳を身につけ、腰には深い紅色の直線的な剣を帯びている。玲家に伝わる家宝の剣であり、本来ならば玲芳が持つべきものであった。柄の近くに、銀細工で玲家の家紋である炎の紋があしらわれている。その紋は、玲家の血の象徴である。玲本家の者たちが、生まれてすぐにその額に炎を模した刺青を入れるのは、玲家の血を祀るためとも言われている。
玲格の額にも、犀星たちと同様に、小さな炎の刻印が刻まれている。その炎は、一族の象徴であるばかりか、額にそれを刻んだ者の運命すらも、狂わせるほどの呪いであった。。
犀遠は静かに胸に灯す決意を込めて、揺るがぬ視線を玲格に向けた。
「よもや、おぬし自らが訪ねてくるとは」
年齢よりも、老いた、乾ききった声が、深い水底から届くような響きをもって、そう告げた。犀遠は臆することなく、それを受け止めた。
「よもや、拒まずに通してくれるとは。もう、三十年になるか」
犀遠は言い返した。
「そうだ。おぬしが都に発ったとき以来よ」
玲格は口元に、冷たい笑みを浮かべて見せた。それは余裕であったのか、長年の憎しみの澱であったのか。
「このような突然の再会になろうとはな」
玲格の目は犀遠を捉えているように見えて、実際のところ、どこか遠くに向けられているようだった。
気がふれている?
直感的に、犀遠はその異常を感じ取った。
「正躬、おぬしに聞きたいことがある」
「ほう?」
二人のやりとりを、壁際に居並ぶ二十名ほどの兵士たちは、互いに目配せしながら、慎重に見守っていた。
玲家の私兵は、その多くが玲家の分家の者である。彼らにとって、玲陽はなくてはならない存在であった。それを奪った犀遠は、命を脅かす敵も同じである。分家の者にとっては、玲格こそが命を守ってくれる存在であり、犀遠こそが共通の敵だった。
「いいだろう、侶香。話してみよ」
玲格はしわがれた声で言った。犀遠はゆっくりと息を吐き出した。
「おぬし、玲伯華をどう思うておる?」
その問いは、玲格を動かさなかったが、周囲の兵士を動揺させるには十分であった。兵士の中には古参も多く、犀星が玲家にとってどのような存在であったか、直接当時を知る者もいる。
皇家と玲家本家。その二つの血を合わせて生まれてきた犀星は、彼らにとって愛憎の共存する特殊な存在である。そして、その思いは玲心に心を寄せていた玲格にとっては、殊更激しいものであった。
「その名を聞かされるとは」
表情は動かなかったが、玲格の心がゆっくりと傾き、感情の波がうごめいたのを、犀遠は感じ取った。
「侶香。おぬし、随分と意地が悪くなったものよ」
「おぬしほどではあるまい」
犀遠は眉ひとつ動かさずに言った。
かつての玲格は、手本とするに足る人物であった。玲心の死がそれを狂わせてしまった。そして、玲心を死においやったのは、自分のいたらなさであったことを、犀遠は後悔し続けてきた。
全ては、自分が玲心を愛したことから始まり、そして、今の玲格こそ、その結果なのだ。
彼との決着は、犀遠にとって己自身のけじめである。そして、己の過ちの犠牲となった者たちへの、贖罪である。
「あれはまだ、生きているようだな」
冷たい声が、玲格の口をついた。犀遠は可能な限りの集中力で受けてたった。これは、戦いだ。
「忌まわしい血がこの歌仙に舞い戻ったと聞いた」
「おぬしの甥ぞ」
「そうは思うてはおらぬ」
「ならば、どう思う?」
玲格は無表情のまま呟いた。
「災厄よ」
犀遠はその言葉を、胸に刻む。
犀遠にとって、犀星は希望以外の何ものでもない。真逆の玲格とは、相入れない。犀遠はさらに重ねて問う。
「おぬしは、彼をどうしたいと思うておる?」
その問いは、初めて玲格の表情を動かした。それはわずかであったが、口元に一瞬、笑みが浮かんだのを、犀遠は見逃さなかった。
「実に面白いことを聞く」
玲格の声色には、明らかに何らかの興奮が感じられた。それは業火へとつながる小さな種火のようだ。しん、としずまる正殿の床には、玲格から染み出す黒くどんよりと重たい感情の波が広がっているように思われた。
「一言では言えぬ」
玲格は隠しきれない愉悦とともに続けた。
「花を摘みとり、葉をむしり、枝を折り、樹皮を裂き、根を断ち、虫を放ち、腐り枯れるまで塩水を与え、焼き尽くしてくれよう」
犀遠は、嬉々とした色が見え始めた玲格の面から、目を離さなかった。
この男は、本当にその通りのことをするだろう。
犀星が大切に思うものを、一つずつ目の前で奪い、苛むであろう。
それはもう、玲格の心の崩壊と同様に、とめることのできない現実となっていくのだ。
「正躬。おぬしは、そこまで堕ちたか」
寂寥と後悔は、犀遠の声を震わせた。
玲格の目が、異様に輝く。犀遠の見せた動揺は、玲格の精神に享楽すら与える。
「どうだ、侶香よ。おぬしも共に見ぬか?
ゾッとして、何人かの兵士が身を震わせた。
犀遠は心の乱れを押し殺した。そして、まるで、最後を告げるかのように、ゆっくりと問いかけた。
「おぬしは、その芋虫が、蝶ととして飛ぶ様を見たいとは思わぬか?」
「笑止!」
玲格の鋭い声が飛んだ。
「きさまも陽と同様、あの虫の毒にあてられたと見える」
犀遠は心に波風が立とうとも、平生を貫いた。相手の挑発に乗って冷静さを欠くほど、彼は若くはない。
「生かしておいても、害にしかならぬ」
その言葉は犀遠への敵意であると同時に、兵士たちへの命令でもあった。兵たちが、一斉に刀を構えた。
「待て!」
一括でその場の空気を変える、よく通る声が響いた。
犀遠はわずかに口元を緩めた。振り返らずとも、それが何を意味するのか、彼にはわかっていた。
正殿の入り口に、燕涼景が立っていた。
犀遠の前に進み出て、涼景は毅然として玲格を見下ろした。
「玲正躬! 玲子芙様の命により、帝の名をもって、貴殿を断ずる!」
響き渡ったその布告に、兵士たちはどよめきたった。後には退かぬその決意は、涼景の強い眼差しが物語っている。
「なるほど。はかったか」
玲格が小さくつぶやいた。
「正躬よ」
犀遠は静かに立ち上がると、静かに呼びかけた。
「かくなる上は、帝の意に反しても戦う必要はあるまい。おぬしがこれ以上、伯華や光理に関わらぬというのなら、命までは取らぬ」
その言葉は、犀遠がかつて慕った玲格に手向けた、最後の温情であった。
「帝が何する者ぞ。我が意志は強固なり」
玲格は、一切の感情を捨てた面持ちで、二人の来訪者を見つめた。
静かな嘆きの景色が、犀遠の面に浮かぶ。もう、玲格を救うことはできないのか。
その時、廊下の方からばたばたと慌ただしい足音がして、入り口から軽装備の伝令が駆け込んできた。
「おそれながら申し上げます!」
大きく礼儀を欠いていが、伝令がもたらした情報は、そのような無礼も容認されるべきものであった。
「先ほど、犀家領内にて、子衡様のご遺体が発見されました」
玲格は表情を動かすことはなかった。
「お身体には浅い傷がございましたが、致命傷には至らず。傷口の変色により、毒により絶命されたものと見受けられます」
その知らせに、じっと玲格を見据えていた涼景の目元に、わずかに影がさす。
……浅い傷……そして、毒……やりやがった。
涼景の胸で、小さな火が吹き消された。
玲格は目を細めた。どこか、ぼんやりとした、視点のさだまらない目は、それでも犀遠を見ているようである。
「犀家領内、とは。これは、いかなることか?」
玲格は息子の死を悼むより、敵の弱みを得たことに満足を覚えているようだった。
犀遠は何も言わない。
玲家本家の人間である玲博が殺された。それも、現在、敵対している犀家の領地内で起きたこととなれば、玲家にも、犀家を討つ名目が備わったこととなる。
「生きて帰すな」
玲格の号令は、その場の全員の運命を、一つの方向に押し流す。
涼景は刀を抜いた。そのまま一気に玲格を狙う。その太刀筋に一切の迷いはない。だが、どん、という重い音と同時に、天井から格子が落ちてきて、玲格と涼景の間を遮った。
「落とし格子か!」
玲格は悠然と背を向け、御簾を潜って屋敷の奥へ姿を消していく。
行く手を阻まれた涼景の背後から、兵士たちが襲いかかる。涼景は素早く格子を数段駆け上がり、大きく跳躍して、兵士たちの背後に着地すると、身を翻して、兵士を格子際に追い詰め、立て続けに打ち据えた。鍛え抜かれた涼景の肢体は、どのような動きにも俊敏に反応し、その速度についてこられる者はいない。
後方の敵を抑えると、犀遠を背後に庇って、残りの兵士たちに向き合う。
危急を告げる鐘の音がけたたましく鳴り響いた。
刀を構えた兵たちの後ろから、弓を手にした増援が走り込んでくる。間髪入れずに放たれた矢が降り注ぐ。犀遠が咄嗟に衝立を蹴り上げて盾にし、涼景もそこへ転がり込んだ。矢が衝立の向こうに刺さる音が途切れると、涼景は衝立の陰から飛び出し、身を低めて正殿の入り口まで突進する。そのすぐ後ろを、犀遠が続く。四方八方から振り下ろされる刀を、涼景は駆け抜け様に弾き、押し返し、薙ぎ払った。その気迫は戦場を駆ける虎の如くしなやかで、緋色の衣がはためき、舞うかのごとく軽やかだ。暁将軍、燕涼景の真価はここにある。
予想以上の動きに、兵士ばかりか、犀遠までが息を呑んだ。まさに、考えるより早く体が反応する涼景の身のこなしは、誰も寄せ付けはしない。まるであらかじめ全てが決められていたかのような迷いのない動きで、正殿の入り口までもう一息、というところまで前進する。と、一人の兵士の行動が目に入った。
「くっ!」
何が起きるか察しはしたが、兵士に駆け寄る間もない。入り口と涼景たちの間に、再び、格子が落ちた。前後を格子で挟まれる形で、正殿内に閉じ込められる。格子の向こうから、弓兵たちが二の矢をつがえてこちらを狙い、引き絞る。咄嗟に涼景は犀遠の前に立った。すべての矢を受けようとも、守るべき価値のある者は心得ている。
犀遠は低く唸った。
矢が音を立てて一斉に二人に向けて放たれる。その瞬間、犀遠は涼景の体を突き飛ばした。犀遠の機転に、涼景は瞬時に応じ、床を転がって矢をかわす。飛び起きると、犀遠もまた、際どいところで直撃を避けていた。
さすがは犀将軍だ。
涼景の目が意気も高く輝いた。
刀を持たない犀遠を庇い、涼景は壁を背にして後退った。格子が遮って、剣兵の侵入はないが、弓の攻撃は長くはかわせない。このまま閉じ込められた状態が続くことは死を意味する。
そのとき、足元から微かに振動が近づいてくることに、涼景は気づいた。
馬のいななきが聞こえ、荒々しい馬蹄の音が入り口の向こうから一気に近づいてくる。
「どけぃ!」
罵声と、悲鳴。金属のぶつかる音と、重たいものが地面に叩きつけられる音。
磨かれた正殿の床を蹴立てて、一騎の騎馬が飛び込んできた。興奮した馬に何人かの兵士が蹴散らされる。
「きおったか」
思わず、犀遠は笑った。
愛弟子、玲仲咲である。
「どうして……」
正殿深くに馬で駆け込むその傍若ぶりに驚き、涼景は思わず呟いた。犀遠が微笑し、
「わしが正装で出かけたのを、不審がっていたからな。後をつけてきたのだろう」
涼景は少女の気配に気づけなかった自分の未熟を思い知る。
「凛! 格子を!」
飛んできた矢を刀で払い落としながら、涼景は叫んだ。
「任せて!」
玲凛は馬の鞍に立つと、身軽に宙を舞った。周囲の兵士が、思わずその姿に目を奪われる。桜色の薄手の袍と、紅色の長衣、帯の群青と朱色の鞘。そして、黒く長い髪。艶やかなその姿は、とても戦場には似つかわしくない。
玲凛は正面に棒立ちしていた兵士の肩を足場として踏みつけ、部屋の角の二枚の壁を交互に踏んで駆け上がり、狙いを定めて強く跳ねた。そのまま、宙吊りになっていた落とし格子の仕掛けの紐に飛び移る。その衝撃で、わずかに格子が持ち上がった。しなやかで無駄のない体術は、彼女の秀でた素質があればこそ、である。格子の隙間から、すかさず涼景と犀遠が転がり出る。
「よくやった!」
犀遠に褒められ、玲凛は年相応にニッコリと笑った。
「叔父上、鞍に!」
言われて目を向ければ、玲凛が乗りつけた馬の鞍に、門で預けた犀遠の太刀がくくりつけてあった。
「気がきくな」
またもや、玲凛は満足そうだ。
「玲格が奥へ逃げた」
太刀を構えて玲凛と並び、犀遠を背後に守りながら、涼景は言った。
兵士たちがじりじりと包囲の輪を縮めてくる。庭のほうからも、大勢がこちらを目指している気配がある。
「母上のところだわ!」
玲凛が瞬時に判断する。
「ついてきて!」
玲凛の声を合図に、三人は動いた。
涼景が先陣を切り、威嚇の声を上げて飛び出した。刀を振るうとともに強烈な足技で前方の兵士を次々となぎ倒す。容赦のない打撃を受けてのけぞった兵たちの足元を、玲凛の槍がしたたかに打ち据え、動きを封じてその隙に犀遠を先にやる。涼景が力と技を駆使するならば、玲凛は俊敏さと遊撃で相手を翻弄した。犀遠も負けじと鋭い太刀捌きで、危なげなく敵を後退させていく。
三人が一体となって、それぞれの隙を補い、また、相手を信じて時には任せ、正殿から中庭へと抜け出す。玲芳の部屋は中庭の先、母屋の奥である。玲格は正殿の裏の通路から向かったはずだ。すでに先行されている以上、時間がない。追い詰められた玲格が、玲芳に何をするとも知れなかった。
中庭は、すでに白刃の壁で囲まれていた。
玲家の私兵、およそ百。そのうち、定点の警備や見張りに立つ者がいたとしても、三人で七十名余を相手する計算となる。
しかし、犀遠には十分に勝算があった。
数よりも、その質が彼らの突破を有利にする。
すでに、涼景が皇帝の名の下に玲格の断罪を布告している。迷いが生じるものは少なからずいるだろう。
また、玲凛は玲家の嫡女であり、それを知らない者はいない。彼女に弓引くことをためらう者もいるはずだ。
おのずと、士気を高く保てる者は限られてくる。残された者たちも、三人の戦闘能力の前に、決して楽な立ち回りはできない。圧倒的な戦力差、味方が倒されていく姿は、それだけで兵たちの戦意を奪う。
玲凛の案内で、彼らは中庭の突破に挑んだ。犀遠を中にはさみ、背後は涼景が抑える。
中庭にはすでに多くの兵が展開しており、瞬く間に囲まれる。幾重にもなる包囲網を破り、一刻も早く玲芳の元へ急がねばならない。
「死にたくなければ、どけなさい!」
槍を捨てて太刀を抜き、玲凛の怒号が轟く。牽制の大太刀の一閃に、空気が避け、その音に最前列の何人かが怯んだ。中には、玲凛が見知っている顔もある。彼らとて、幼い頃から世話をしてきた玲凛に刃を向けるのは本望ではない。数人が刀を下ろす。離脱した者には目もくれず、玲凛は敵を定めた。
足元の玉砂利を嫌って、玲凛は飛び石を軽快に跳ねながら足場とし、体重を太刀に乗せて、一気に振り下ろした。兵士たちは青銅の鎧を身につけていたが、大太刀の重たい一撃に耐え切れずに膝をつく。
「仲咲様を捕えろ!」
誰かが叫ぶのが聞こえた。玲凛はこれを好機とみて、自らを囮に、数名を引き付け、走る。目指すのは庭の中ほどに作られた池だ。水深は浅いが、中を走るには危険が伴う。池の端の石の上を飛び渡り、場所を定めて躊躇なく水に飛び込んだ。追ってきた兵士たちに向けて、思い切り水を蹴り上げる。
白い水飛沫が、兵士たちの視界を奪う。その一瞬の隙に、玲凛は体の向きを反転させ、巻き上げられた水柱もろとも切り掛かる。
さらに新手が横から走り込んでくるのを視界にとらえ、築山へと走る。小高くなった場所で一呼吸止まり、さらに敵を引きつけると、生垣の向こうへ身を隠した。追ってきた敵の一人を目掛け、すかさず生垣越しに奇襲の一撃を発する。玲凛の太刀はまっすぐに兵士の鎧の隙間をとらえ、引き抜きざまに血飛沫が上がる。他の兵たちがたじろぐ。
玲凛が退いた築山に、今度は犀遠が駆け上がった。低い位置に敵を捉えれば、体力で劣る犀遠でも立ち回りが楽になる。地の利を生かし、全体を見て動く戦場での判断力は、さすがは歴戦の勇士である。犀遠は玲凛と涼景の位置を確認しながら、自分に向かう兵の刀を立て続けに叩き落とした。体力では若いふたりに及ばぬものの、ここで無様な姿は見せられない。犀遠の表情はすでに、戦士のそれである。
涼景は、玲凛の縦横無尽に跳ね回る姿を横目に、重たい太刀を右手に持ち替え、帯に差していた短刀を左手に逆手に構えた。大太刀は威力があるが、その分、重量もかさみ大ぶりになるため、隙も生まれやすい。広い場所で戦う際には、左手の小太刀が盾の代わりとなる。
玲凛が両手で扱う大太刀も、涼景にかかれば片手で同等の破壊力を発揮する。涼景は二振りの刀を横に構え、周囲の敵を鋭く見回した。それだけで、何人かが後退った。すでに、気迫が違うのだ。
いかに訓練されていようと、実戦においては涼景に敵う者はいない。数を頼みに、兵士たちが同時に切り掛かる。一人の剣が涼景の太刀を打ったが、その剛力に容易く押し返される。その隙に傍から突き出された剣は、左手の小太刀で華麗に捌いて跳ね飛ばす。体を半回転させてもう一人の脇腹を蹴り、さらに跳躍を挟んで後ろから襲ってきた兵士の側頭部を太刀の峰で殴りつけた。
涼景の動きは一つ一つに、全くの無駄がない。歩むための足捌きも、次の攻撃に繋げる重心移動となり、振り下ろした太刀の衝撃を利用して体を浮かせ、次の一手を繰り出す。まともに戦うどころか、誰も彼に近づくことすらできない。
兵士が三人、示し合わせ、涼景の左右前方から襲いかかった。涼景が本能とも思える勘で反応し、後ろに一歩下がると身を低めて回転ざまに、三人を一太刀の下に吹き飛ばす。その背後に迫った一人には、振り向きもせずに小太刀を突き立てた。
涼景には敵わないことを嫌でも思い知った者たちが、代わりに、と犀遠に向かう。
犀遠はその動きを見逃さない。太刀を構えて、築山を駆け降りると、母屋の階を目指して駆け出した。嫌でもそれを追わねばならない兵士たちを、涼景と挟み撃ちにする。敵を一方向に集めてしまえば、少数でも有利に動ける。敵の動きを支配する者が、戦場を制する。犀遠も涼景も、それをよく心得ていた。
「凛!」
涼景が追手を次々と太刀の下に沈めながら、叫んだ。
「おう!」
破天荒に周囲を翻弄して跳ねていた玲凛が、涼景の求めに応じて合流する。犀遠を後ろにかばい、母屋へと向かわせながら、涼景と玲凛が揃って残りの兵たちを睨みつけた。
白い玉砂利の上には、三十名を下らない兵士が倒れ、血溜まりが各所に広がっている。すでに、残された兵士に戦意はなく、犀遠はこれ以上の戦闘は無用と判断した。
「行くぞ」
刀を振って血を払うと、犀遠は玲芳の部屋へと向かう。素早く犀遠の横について、玲凛が案内にあたる。涼景はぎりぎりまで背後の兵たちを牽制しつつ、それに続いた。
玲家の母屋は、庭の狂乱とは無縁に、不気味に静まっていた。先刻、涼景が玲芳に謁見した部屋に人気はなく、また、誰かの痕跡も残されていない。
「母上……」
玲凛が低くつぶやく。玲格が玲芳に対して強い執着を抱いていたことを、玲凛は懸念した。ふと、涼景が何かに気づいたように目を見張る。
「匂いが……?」
涼景は空気を探った。
「この匂い、どこからだ?」
「え?」
玲凛も鼻を利かせた。
甘いようでもあり、粘膜を強く刺激するようでもある。犀遠が意味ありげに涼景と目配せし、わずかに困惑を浮かべた。
「こちらからだな」
犀遠は上座の椅子の後ろに立つと、壁を探り、強く押した。壁の一部が回転して、道を開ける。
「隠し通路?」
玲凛も知らなかったと見えて、警戒する。まとわりつくような匂いは、通路の奥から漂ってくるようだった。
「気をつけろ。薬香だぞ」
涼景が苦々しい口調で言った。宮中ではとかく、よからぬ場所で嗅ぐ匂いである。
「薬香って?」
涼景は玲凛をちらりと見て、黙って首を振った。若い娘に説明するには、時間がなさすぎる。涼景は懐から丸薬を取り出すと、玲凛に渡した。
「噛まずに口に含んでいろ」
「これ、なに?」
玲凛が眉をひそめる。
「……眠気覚ましだ」
犀遠も涼景から受け取り、無造作に口に放り込む。それを見て信用したのか、玲凛は恐る恐る、黒く小指の先ほどの丸薬を含んだ。スッと鼻に抜ける冷たい匂いがする。どうやら、自分には言えない事情がありそうである。
三人は涼景を先頭に、通路を進んだ。明かり取りの窓もない。通路の足元に弱々しい油灯の火が揺れている。床に油の溝が整備されており、所々に灯芯が設置されているらしい。
玲家は代々、川の多い土地を支配してきただけあって、治水や引水の技術力が高い。この仕掛けも、それを応用したものだろう。
薄暗いが、できる限り足早に奥へ進む。匂いが次第と濃くなってゆく。玲凛は着物の袖で鼻を押さえた。次第とくらくらと世界が回り始める。涼景の丸薬のおかげで香は弱められているが、それでも呼吸を浅くし、少しでも吸わない配慮が必要だった。
暗さに目が慣れてくると、廊下の先に、ぼんやりと明るい空間が見える。母屋の構造と重ね合わせると、ちょうど正殿の裏といったところか。
目的地が明確になり、自然と駆け足になっていく。通路を抜けると、広い部屋が目の前に現れた。その様子に、みな、言葉を失った。
部屋の随所に陶製の灯明台があり、そのいくつかには淡い桃色や紫の紙がかざされている。周囲を照らすためではなく、光を楽しむ装飾として置かれているようだった。また、天井にも行灯がいくつも吊り下げられている。換気のための欄間には薄い絹の織物が揺れ、差し込んでくる陽の光を様々な色合いに染めていた。
床一面に桜色の
部屋の隅には、貝殻の意匠を凝らした黒塗りの化粧台があり、小筆や紅、香入れ、粉化粧の皿などが整然と並べられている。
壁はさまざまな品で、鮮やかに飾り付けられていた。繊細な七弦の琴、花咲く庭に立つ仙女を描いた絹地の掛け軸、刺繍入りの華やかな長衣、飾り棚には竹や木で作られた小動物に彩色を施した小物。
また、壁と床の境目には、ずらりと白磁の鉢が並べられ、今まさに摘んできたばかりなのではないかという、水々しい花が生けられている。
部屋の中央にはひときわ大きな、朱塗りの牀がある。四方に絹の帳が垂らされ、白や藤色の糸を用いた刺繍で、蝶や牡丹、翼を広げた小鳥の図柄が浮き出している。帳の上部や柱には、金箔を押した雲模様の細工が見られる。
部屋全体は霞がかかったような柔らかい色調で統一され、目に入るものはどれもこれも、甘ったるい菓子のようだ。
まるで、少女の部屋じゃないか。
涼景は素早く室内を見回し、そう、思った。だが、彼が知る限り、この部屋にふさわしい少女は玲家にはいないはずだ。
そして、部屋中に満ち満ちているのは、あの独特の薬香の香りだった。いくつもの香炉が部屋中に置かれていた。特に、牀のそばには、陶製の大きな香炉があり、白い煙が音もなく立ち上り、欄間からの微かな風にたゆたいながら部屋を満たしている。
幻想的で、想像を超えた内装に、軽い倒錯を感じる。
美しいが、何かが、確実に狂っている。
「う……」
と、呻きが聞こえた。
涼景は眉をひそめ、一歩横にずれて、玲凛の前に立った。明らかに、玲凛の視界を遮ることを目的とした動きだ。
「涼景様?」
玲凛は広い涼景の背中をすぐそばに見つめたまま、問いかけた。
「凛、俺の後ろにいろ」
小声で命じるように、涼景は言った。玲凛が首をかしげた時、突如、聞いたこともないような、悲鳴じみた女の声が短く鋭く響いた。犀遠が素早く動いて、牀に近づく。降ろされた帳に手をかけると、力任せに引き下ろした。布が裂ける音が響き、玲凛は小さく首をすくめた。
牀の上には、からみあう男女の姿があった。着衣のままの玲格が、全裸の玲芳を組み敷いている。玲心とも見まごう玲芳の顔に、犀遠は布をとり落とし、思わず数歩、後ろに下がった。玲芳の真っ白な肌に、部屋の色づいた灯りが映って、えも言われぬ怪しげな色気が醸し出される。その腕と脚がうねるようにうごめく様は、ゆっくりとのたうつ白蛇にも見えた。
赤ん坊が泣くような声を上げ、玲芳が体を反らせ、玲格を受け入れている。夜宴で他人の淫態を見慣れている涼景さえ、その様子には戦慄を覚えた。薬香で狂わされた女が、明らかに異常な調度品の室内で、実の兄に犯される姿など、正視できるものではない。
ましてや、と、背後の玲凛を案じる。牀の上の二人は、彼女の実の両親である。兄妹の間に命を得た自分自身を、玲凛はずっと憎み続けていた。それを知っている涼景は、叫び出したい憤りを押さえつけるだけで精一杯だった。
不意に、玲格と玲芳の姿に、自分と春が重なり、涼景は突然の吐き気に見舞われる。どっと全身に汗が噴き出し、頭の中が真っ白に明滅する。動悸とともに血管を激しく流れる血の感触までが彼を責め立てた。思わず膝をつきそうになる。ぐらついた涼景を支えたのは、玲凛の手だった。彼女は涼景の帯をしっかりと両手で掴み、その背に額を押し当てて、じっと立っていた。牀を見なくても、声が、息遣いが、何が起きているのかを突きつけてくる。玲凛は目を見開き、心で泣いた。体の震えを必死に抑える。だが、その足元から這い上がってくる嫌悪感は、どこに逃がすこともできず、玲凛の体内で膨れ上がっていくようだ。
「気持ち悪い……っ!」
玲凛は呻いた。それはむごい事実に対する受け入れ難い叫びだ。
凛……
涼景はまるで、玲凛と支え合っているような思いがした。玲凛は今、自分の背中を頼りにかろうじて立っている。そこには涼景への信頼がある。その信頼が、涼景に、守る者としての気迫を取り戻させる。自分以上に追い詰められている玲凛を思えば、ここで自分が倒れるわけにはいかない。自分を奮い立たせて顔をあげると、見たこともないほどに動揺した犀遠の横顔があった。
玲凛だけではない。犀遠もまた、触れられたくはない過去の痛みにさいなまれ、必死に耐えていた。
目の前にいるのは、玲心ではない。頭ではわかっていても、心が正常に機能しない。薬香のせいもあって、幻惑が現実を塗り替えていく。何が正しく、何が起きているのか、何を信じれば良いのか、何もかもが揺らいで確かなものが掴めない。
犀遠も、涼景も、玲凛も、それぞれがそれぞれに魂を揺るがすような衝撃に打ちのめされていた。その間にも、玲格と玲芳の狂戯は続いている。喉をそらせて仰向いた玲芳の目は、完全に見るべき焦点を失っていた。閉じることのできない口からは、断続的な声が止まらない。それは言語をなさず、文字通り、肉体の緩みに伴って溢れ出る無意識の音だ。それに混じって、低く上ずった断片的な声が、かすかに聞こえていた。それは同じ言葉の繰り返しだ。
「……ん……しん……しん……」
玲格が漏らすその響きを、犀遠たちははっきりと聞き取った。聞き取ると同時に、目の前の悪夢に秘められた全てを悟り、三人は息を飲む。
玲格は、『玲心』を抱いているのだ。
彼がどこまで正気なのかはわからないが、まちがいなく、玲格にとって玲芳は存在せず、全ては玲心を中心として構築された世界にいるのだ。玲格の中の玲心は、純粋な妹のまま、永遠に時を止めた存在だ。
玲凛の手に、ぐっと力が入ったのを、涼景は帯越しに感じた。
「やめて……」
絶望さえ滲んだ声が、濁った空間と時間の中に鮮烈に響く。
「お願い、もう、やめて……」
その声は、涼景ばかりではなく、犀遠の心にも冷静さと立ち向かう意思とを蘇らせる。
「母上……母上を返して!」
玲格が、玲凛の声に動きを止めた。ずん、と重い時間の空隙が生まれる。その底から、這い出るようにして玲格は体を起こし、立ち上がった。ゆらりと大きく傾いで、しかし倒れず、まっすぐに玲凛に体を向ける。その顔には、狂気とも安らぎともつかない曖昧な感情が浮かんでいた。
「……しん……」
つぶやきながら、一歩、玲凛に歩む。気配で、玲凛は固く目を閉じた。背中に感じる玲凛の恐怖に鼓舞され、涼景は刀を構えた。
また一歩、玲格は寄った。涼景がわずかに片足を引いて体勢を整える。間合いに入ったならば、斬る。腹をくくった。自らの死へと近づいていることを知ってか知らずか、玲格はじっと、涼景の背後を見つめている。
凛に手出しはさせない!
涼景は、柄を強く握り、ゆっくり振り上げた。だが、その刹那、玲凛が強く帯を引いた。まるで、涼景の太刀を止めるように。一瞬、涼景の集中が途切れる。
その隙に、犀遠が倒れるように踏み込んだ。
涼景と玲凛の眼前に迫っていた玲格の胸に、体をぶつけざまに太刀を突き立てる。肉を突く音がはっきりと聞こえるほど、その場は静寂であった。じんわりと傷口に血が滲み、黒く着物にしみていく。
玲凛が崩れ落ちるのを、涼景は振り向きざまに抱き留めた。
誰も動かず、誰も動けず、時すら止まる。
ただ、白い煙だけが、朝靄のように揺れていた。
その中で、玲格の瞳が初めて、犀遠を写した。まるで、なぜ、彼がここにいるのか不思議でならない、というようにゆらめく。犀遠は静かに首を横に振った。ふわり、と玲格の表情が緩んだ。そのまま両の瞼が閉じられ、犀遠の胸に崩れ落ちていく。それはまるで、心を許した友に頼って眠りに落ちるかのように、安らかであった。
涼景はただ、背後でひとつの命が消えた気配を感じ、同時に、腕の中で息づく玲凛の熱を愛しく思った。玲凛もまた、自分を繋ぎ止めていた重たい鎖が、煙のように世界から消えていく開放感と、そこに確かに存在していたはずの何かを失った喪失を噛み締めていた。
するり、と、衣擦れが彼らの注意を惹きつけた。玲凛は顔を上げた。涼景の体の向こうに、褥を掻き抱いて、玲芳が静かに佇んでいた。その目はまだ頼りなげではあったが、まっすぐに自分に向けられている。そっと、涼景の腕が、玲凛を送り出した。彼女は吸い寄せられるように玲芳に歩み寄る。
母上、と、声もなく唇がささやく。玲芳はやわらかく玲凛の背を抱いた。玲凛の目の奥に、涙が滲む。
「おかえりなさい」
甘く震えるその声は、玲凛にとって、何かの終わりと始まりを告げる。
涼景は少女の細い背中を、どこか寂しげに見つめた。
と、穏やかだったその顔に、緊張が走った。背筋を氷で撫でられたような感触がして、涼景は犀遠を振り返った。一瞬、梟の鳴き声とともに、犀遠の周りに黒い風が吹いたように見えた。
それはいまだ消えない香の香りが見せた幻であったのか、それとも、別の何かの胎動か。確かなことは、不安の種が芽吹いたという直感だけであった。