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14 光の中の決意

 長い夢を見ていたような気がする。

 そうだ、それは平和なまどろみではなく、容赦無く吹きつける向かい風に立ち向かいながら、一歩一歩を力を振り絞って進むような夢だった。ぬかるみに足をとられ、重たい荷物を肩に負い、どこへ向かうとも知れずに出口を求めて彷徨い続けるような夢だ。

 一瞬、世界が明るくなって、解放されるかと顔を上げたが、そこには鈍重な色をした雲が立ち込めていた。まだ続く。終わりのない時間の渦の中で、最後には立ち尽くすことしかできなくなっていた。

 花の香りのような、夢の光景とはあまりにかけ離れた優しい匂いがして、涼景は重い瞼を上げた。ぼけやた視界がはっきりと輪郭を持って焦点が合うと、彼は困惑したように顔を歪めた。

「おはようございます、涼景様」

 涼景は大声を上げて飛び起きた。思わずあたりを見回し、自分の服装を確かめた。どうやら『大丈夫』そうである。

「こんなところで寝てたら、いくら頑丈な涼景様でも、風邪ひきますよ」

 玲凛が、腰に手をあてて、呆れたように首を傾げた。

 涼景はどうやら、門の内側、影壁の向こうに置かれたとうの上で、眠っていたらしい。玲家から戻り、昨夜はどうにも体の興奮が収まらず、夜の風に当たっていたことまでは覚えている。

「凛、玲家に残ったんじゃ……」

「母上が落ち着いたから、お伝えに来たんです」

 玲凛は一つ、息をついた。涼景の大人の事情など、この少女には関係がない。いつもの桜色の袍が、午前の柔らかな日差しに映えて、いつもより一段と輝いて見えた。

「涼景様、大丈夫ですか? なんか、ぼんやりしていますけど」

「いや、なんでもない」

 口元を手で覆うと、目を逸らす。

「それならいいですけど」

 と、玲凛が涼景のすぐ隣に腰掛けた。

 近い……

 涼景は無防備な玲凛の仕草に、思わず体をこわばらせた。玲凛はじっと目の前の空間に目を向けている。その横顔には、まだ涙の気配が残されていた。涼景もまた、落ち着きを取り戻そうと、前庭を眺めた。昨夜は念の為に警備を敷いたが、それも解かれているらしい。犀遠の采配だろう。玲格が討たれ、玲博もいない。玲芳が意識を取り戻して当主として玲家を仕切れば、玲陽が狙われることもなくなる。全て、終わったかに見えた。

 だが、傷跡は深く、長く痛むことだろう。

 とくに、玲凛は。

 涼景は横目で少女を伺った。

 昨夜、玲格の倒錯が作り出した部屋で、玲凛は自分の運命と立ち向かい、震えていた。果敢に太刀を奮って戦った戦士と同じとは思えない変容ぶり、それでも、彼女の強さがあったからこそ、あそこで耐え続けることができたのだろう。その精神力は、並大抵のものではない。

「なぁ、凛」

 涼景はわずかに声を緩めた。

「どうしてあの時、俺を止めた?」

 涼景が玲格を斬ろうと刀を構えた時、玲凛はそれを拒むように帯を引いて彼を止まらせた。

 一瞬、なんのことかわからない、というように、玲凛は涼景を見上げた。それから、ほんの少し、目を細めて視線をはずす。その様子はまるで、何かを隠しているように見えた。

「私にもわからない」

 玲凛は静かに答えた。

「でも、そうした方がいいと思った」

 彼女は、本当にわからないのだ、という顔をした。それ以上、涼景は問い詰めなかった。そうか、と低く答えただけだった。

 玲凛の感受性の強さ、気持ちの激しさは、涼景も見て知っている。その彼女がわからないのだから、本当にその通りなのだろう。少なくとも、今、彼女にとっては。

「私、歌仙に残ります」

 唐突に、玲凛は切り出した。

「今の母上を、ひとりにはしたくないので」

「…………」

「本当は、陽兄様と一緒に都に行ってみたい。いろんなものを見て、経験して……でも、もう少し、待ちます」

「凛……」

 涼景は気持ちがぐっと、押し下げられるような圧力を感じた。

「おまえの力、惜しい」

「え?」

「……いや、また、その時にでもな」

 玲凛はそっと涼景に体を向けた。何となく呼ばれた気がして、涼景も玲凛を見つめる。どちらも目をそらせない空気が漂う。

「あ!」

 突然、鋭い気づきの声が飛んできた。反射的に二人は顔を向けた。

「凛! おまえ、いつの間に……」

 東雨が、こちらを向いて立っていた。どうやら、武具の片付けを手伝っていたらしく、大量の槍を抱えている。目元には、玲博に捉えられた時のアザが、うっすらと残っている。

「何よ、来ちゃ悪い?」

 玲凛が喧嘩腰で立ち上がる。しかし、不機嫌なわけではない。むしろ、忘れたい何かを吹き飛ばすための勢いである。

「おまえが来ると、ろくでもないことが起きる気がする」

 東雨が頬を膨らませる。こういうところは、本当に子供のようなのだが、と涼景は真顔で見つめていた。奇妙な寂しさが、涼景の胸を吹きすぎた。

「相変わらず身の程知らずね。そういうことは、私に勝ってから言いなさい、って言ったでしょ」

「ああ。勝ってやる!」

 と、東雨は意気込んで、それから、しまった、とたじろぐ。

「いいわよ、相手してあげる」

 玲凛が一歩進み出る。東雨が押されて一歩引く。

「ま、待てよ!」

「何よ、怖いの?」

「誰がっ! そうじゃなくて……」

 東雨は玲凛の腰の太刀を見た。犀遠から授けられたという大太刀の威力は、いやでも忘れられない。

「そ、それ!」

 と、東雨は太刀を顎で指した。

「その太刀、ずるい!」

「はぁ?」

 本当に何を言い出すんだ、と言うように、玲凛が顔をしかめた。

「俺の刀より長くて、重たいだろ? そんなの、平等じゃない」

「ふーん」

 玲凛はすぐにまた、不敵な笑みを浮かべた。表情豊かなところは、東雨といい勝負である。

「だったら、あんた、好きな武器持ってきなさいよ」

「え?」

「なんでもいいわよ? 槍でも、戟でも、戦斧でも」

「……わかったよ!」

 引っ込みがつかなくなった東雨は鼻息荒く、

「見てろ、一番でかくて強いやつ、持ってきてやる!」

 東雨は勢いよく振り返ったが、抱えた槍の重さでふらついた。

「ふん!」

 強がって、大股に兵庫の方へとよろめきながら歩いていく。

 玲凛はやれやれと肩をすくめた。

「武器を選んでいるようじゃ、まだまだね」

 その言葉に、思わず涼景は吹き出した。妹と同い年で、まだ幼いと思ってしまう玲凛だが、戦う者としての力量は十分だと認めるところである。さすがは、犀遠に直接仕込まれただけのことはある。

「おまえは、武器を選ばないのか?」

 わざと、涼景は尋ねた。玲凛は、嬉しそうに涼景を見た。

「武器で戦うのではなく、意志で戦うの」

 そういって、にっこりと笑う。

「叔父上の言葉、ね」

 涼景はつられて目を細めた。

 玲凛は犀遠のことを、叔父と呼ぶ。それは玲陽の影響だったようだ。玲陽にとって、犀遠は従兄弟である犀星の父親、という認識だ。そのため、自然と叔父と呼んだのだろう。たとえ、血のつながりも、籍のつながりもなかったとしても。

 犀星も、玲陽も、玲凛も、そして、自分も、犀遠という一人の背中を追って、ここまできた。

 涼景には、なぜか自分たちが、あたたかな光で繋がれているように感じられた。

「そうだ、これ」

 玲凛が懐から、赤い絹の袋を取り出した。涼景には見覚えのあるものだった。

「これ、母上がどうしても、すぐに叔父上に届けろって言うから」

「書状か?」

「多分」

「何の?」

「わからない」

 玲凛は少し心配になって、

「悪い話じゃないといいんだけど」

「侶香様なら、中庭だろう」

 涼景は母屋の方角に目を向けた。

「もうすぐ曼珠沙華が咲くから手入れをすると、昨日、言っていた」

「わかった」

 玲凛はさっさと歩き出した。涼景は思わず、その後を追った。書状の中身が気になったのか、玲凛が気になったのか、それはあえて、考えないようにしながら。


 涼景の見立て通り、犀遠は中庭にいた。久しぶりの余暇を楽しむ老人のように、回廊に座って茶などを飲んでいる姿は、とても歴戦の老将とは思われない穏やかさに包まれている。その隣には、回廊の木板の上に何枚も重ねた毛氈を敷いて柔らかく整え、玲陽が座っている。さらに犀星が彼に体を貸して寄りかからせていた。

 足音に気づいて、犀遠は顔をあげ、一瞬、目を見張った。

 涼景と玲凛が歩いてくる。昨日の戦いの残滓のような戦慄と緊張が、一瞬、犀遠の脳裏を掠める。久しぶりに手を血で染めた後味は、苦く残りそうだった。

 それにしても。

 と、犀遠は感慨深げに昨日の戦友を見た。

 ふたりとも、本当に頼もしくなったものだ。

 涼景と初めて会ったころ、彼はまだ十三歳になったばかりの少年だった。どうしてこのような子供が、一軍を率いる将に任ぜられてこのような辺境に派遣されたのか、と、都の思惑に怒りを覚えたものである。確かに涼景は賢かった。だが、同時に必死すぎた。周囲からの期待に応えようと、幼い心と体に鞭打って戦場に立っていた。そのあまりの危うさに、犀遠はどうしても目が離せなかった。

 玲凛もまた、十二歳で犀家に逃げ込んできた。小さい手に玲陽からの一筆を握りしめて。

『私の妹を、お願いします』

 玲陽はどんな思いで、その手紙を書いたのだろう。自分もまた苦しい状況に置かれながら妹の身を案じ、そして、犀遠が手を差し伸べてくれると信じて送ってよこしたことに、ただただ、心が痛んだ。犀遠にとって、玲凛は玲陽に託された希望であり、かつての玲陽たちと同じく、日々を生きる意味になった。玲凛の活発で激しい気性は、どこか玲心を思い出させた。

 犀遠にとって愛しい子のような涼景と玲凛が、ともに立つ戦友となろうとは、これほど感慨に浸る日がこようとは、思っても見ないことであった。

 まぶしげに二人の姿を見ていた犀遠は、不意に目の前に奇妙な影が揺れるのを感じた。一瞬、玲凛と涼景の姿が、かつての玲心と自分の姿に重なる。なぜか、忌まわしい気がして、犀遠は目を閉じた。胸の奥に、落ち着かないなにかが生まれようとしている気がした。そんな犀遠の懸念を振り払うように、明るい声が飛ぶ。

「陽兄様!」

 嬉しそうに、玲凛が玲陽に駆け寄る。

「凛どの」

 玲陽は思わず腕を伸ばした。素直に玲凛がその腕の中に収まる。犀星と涼景は視線を交わし、同時に微笑んだ。その様子を、犀遠は幸せそうに見つめた。

「叔父上から、玲家でのことを、お聞きしました」

 玲陽は玲凛を抱きしめながら、

「あなたに、辛い思いをさせて……」

「陽兄様のせいじゃありませんからね」

 玲凛は玲陽の痩せた胸に頬を押し当てながら、

「あれは、私自身の決着です」

 ああ、やっぱり。

 と、涼景は心の中で唸った。

 やはり、この人は強い。

 涼景が浮かべた複雑な表情を、犀星は黙って見つめていた。それからそっと玲陽の肩にかけていた褥を直してやる。

 玲陽は玲凛の背中を撫でた。そうしながら、目だけは礼を言うように犀星を見つめる。

「凛は強いな」

 犀星が、誰にともなく、つぶやいた。玲陽が微笑み、玲凛は犀星を振り返った。犀遠が頷き、涼景は、なぜか横を向く。

 ああ、やっぱり。

 と、涼景は心の中で唸った。

 やはり、この人はずるい。

 涼景の心を察しているのか、犀星はうっすらと笑う。その表情を盗み見て、涼景は気まずそうに首を振った。

「陽、無理に立ち上がるなよ。また、辛くなるぞ」

 涼景は言いながら、大股に玲陽に近づくと、腕を組んで覗き込む。

「顔色は良くなったな」

「涼景様のおかげです」

 玲陽の金色の髪と瞳を、涼景は改めて眺めた。明るい日差しの下で、それは物珍しいものではなく、自然と周囲に溶け込んで目に優しく揺れている。

「おまえが、頑張ったからだ」

 涼景は優しく言った。

「本当に、大したもんだよ、おまえたちは」

 それはまた、誰に向けたともわからぬ言葉だったが、誰に向けられていても、涼景の素直な気持ちであることに変わりはなかった。

「そうだ、凛。おまえ、玲芳様からの手紙を預かってきたんだろう?」

 涼景は、気になっていた話題に触れた。

「忘れてた」

 玲凛はくしゃっと笑うと、玲陽を放し、懐を探った。赤い絹の袋を犀遠に差し出す。

「これ、母上が伯父上に届けるように、って」

「芳が? あれは大丈夫なのか?」

「はい。しばらくは安静が必要ですけれど、体の方は傷もありませんし……」

 と、少し目を伏せる。

「……父は、大切にしていたようですから」

 ぐっと、拳を握って、玲凛は何かを押し殺した。玲格が大切にしていたのは、玲芳ではなく、玲心の面影であることを、皆承知していた。それでも、多くは語らない。

「しばらくは、そばにいようと思います」

「そうだな。そうしてくれると、わしも安心だ」

「はい」

 玲凛はしっかり頷いた。それから、犀遠の手の中にある手紙に目を落とす。

「叔父上、それは?」

「ああ、おそらく、中身は」

 と言って、袋ごと玲陽に手渡した。玲陽は不思議そうに犀遠を見たが、突如、ハッとしたように表情を変えた。驚きとも、喜びとも思える、小さく弾けたような顔をする。

「見てみなさい」

 内容を確信しているように、犀遠は促した。

 玲陽はそっと袋から、一枚の白い手紙を取り出した。

 透けるほどに薄いその紙は、わずかに優しい香が染み込んでいる。

 丁寧に畳まれた紙を開くと、黒髪のように美しい曲線で、懐かしい母の文字が綴られていた。

 読むより先に、玲陽は片手を犀星の膝の上に置いた。犀星は黙って手を重ねる。

 玲陽はゆっくりと文を目で追い、ある一箇所で止めると、犀星の手を強く握った。 

 唇が何かを言おうと動き、やがて、何も言えない、と決めたかのように犀遠を見上げた。

「受けてくれるか?」

 犀遠の言葉に、玲陽の目が揺れる。玲陽の手元を覗いて文面を読んだ犀星が、小さく声を上げた。玲陽は犀星に向いた。視線が合う。犀星が抱きしめるように玲陽を引き寄せた。犀遠が苦笑いを浮かべる。

「星、それは、わしの役目だぞ」

「叔父上、一体何なんですか?」

 玲凛が明らかに不服そうに犀遠を睨む。涼景も事情が気になってならない様子だ。

 犀遠は玲陽を見つめた。

「どうだ、陽?」

 玲陽は犀星の腕の中から、犀遠を見た。そして、こくんと頷く。犀遠は膝を叩いた。

「そうか! 受けてくれるか!」

「叔父上?」

 玲凛は、きょとん、として、珍しく大笑いをして喜ぶ犀遠を見た。ここまで嬉しそうな犀遠を、彼女は知らなかった。

「どういうことだ?」

 涼景が、犀星に向く。犀星はそっと、玲陽を抱く腕を緩めた。玲陽はその隙間で体を一同の方へ向けた。それから、照れたように微笑んで、わずかに震えた声で言った。

「私、犀陽になります」

 玲芳がよこしてきた手紙は、犀遠からの申し出に対する返答だった。

 玲陽本人の意思によって、玲から犀へ名を変えること、犀遠の養子として籍に名を連ねることを許諾する旨が綴られていた。

 犀遠は玲陽の手を握った。

「お、叔父上?」

「父上、だ、陽」

「え!」

 玲陽は、嬉しいやら恥ずかしいやらで、戸惑いが隠せない。

 それを見て、涼景はニヤリと笑った。

「そうだな、そう、呼ぶべきだろう?」

「よかった、これで陽兄様、もう、玲家に振り回されなくて済みます」

 玲凛が涙ぐんで微笑む。

「陽、一緒に親孝行できるな」

 犀星の言葉に反応したのは犀遠だった。

「ほう? おまえに孝行するつもりがあったとは知らなかったぞ」

 と、いたずらめいて笑う。

「いらないなら、引っ込めます」

 犀星が言い返した。

「くれるというなら、遠慮はせぬ」

 犀遠はさらに重ねた。

「まぁ、おまえがやらぬといっても、勝手に取っていく」

 そう言って笑う犀遠の顔は、かつてないほど、穏やかであった。犀星と玲陽が反応に窮して顔を見合わせる。

 犀遠は立ち上がると、少し息子たちから距離をとって、背を向けて立つ。そして、手を後ろに組み、わずかに顔を上げて空に目を向けた。日差しがやんわりとその頬を照らした。庭の曼珠沙華の蕾が、しずがに風に揺れる。

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「正躬の身に起きたことは、他人事ではない。なにか一つ歯車が狂えば、わしも同じであったろう。だが、わしには、失った妻よりも見るべき者がいた。それが、彼とわしの運命を変えたのだと思う」

 犀遠の立ち姿は、まるで厳かな一枚の屏風絵のように、庭の中でその存在をしめしていた。

「過去はもう、追わぬ。これからは茶でも飲みながら、ここから、おまえたちの背中を見せてもらおう。それだけでいい」

 音もなく、犀星が素早く顔を伏せた。玲陽は振り向きもせず、その腕を引き寄せた。静かに抱く。

 星が泣いている。

 玲陽にはわかっていた。誰よりも犀星が犀遠を慕っていることを、彼は知っている。

 犀星の存在は決して、犀遠にとって美しいだけの結晶ではななかった。愛した玲心が、狂乱の末に自らの命と引き換えに産み落とした子。憎い男の血を引く呪われた子。

 そうでありながら、犀遠が精一杯の慈しみを自分に注いでくれたこと。それが、犀星にはずっと、心の棘として疼いている。

 その痛みを、玲陽は我がこと以上に感じとる。玲陽の目にも、じんわりと光が滲む。

「うん?」

 何かに気づいたのか、犀遠は身軽に振り返った。

「どうした、星、おまえ……」

 と言いかけて、笑顔が苦悶に歪んだ。突然に膝をついた犀遠に、涼景と玲凛が駆け寄った。

「侶香様?」

「いや、大事ない……」

 すぐに犀遠は顔を上げたが、そのとき、玲陽の視界を何かが横切った。黒く素早い、風のような影。咄嗟に玲凛を見る。彼女もまた、表情をこわばらせて、兄を振り返っていた。兄妹の間にだけ感じられる、あきらかな不安の気配。

「そんな顔をするな」

 犀遠は安心させるように笑ったが、額にかすかに汗が浮いていた。玲陽はそっと、犀星から手を解いた。

 行ってください。

 玲陽の目が、犀星を促していた。玲陽の体を案じるように眼差しを交わしてから、犀星は立ち上がると、父に歩み寄る。代わりに、涼景が黙って玲陽の横についた。

「父上」

 犀星はどうしたものか、と若干の迷いを抱えながら、犀遠のそばにしゃがんだ。まっすぐに顔を見て、

「もう、よいお年なのですから、無理をなさいませんよう」

 感情を殺す。

 父を慕いつつも、踏み込めばその古傷を痛めてしまう気がして、どうしても素直にはなれない自分がいる。

 だが、犀遠にはその全てが愛おしかった。

「おまえというやつは……」

 言って、犀遠は犀星の頬に手を添えた。犀星は何も言えなかったが、逃げはしなかった。

「もうよい、星」

 犀遠の眼差しは、どこまでも深く犀星の心を包む。

「おまえの思いは、誰も傷つけはせぬ。こらえるな」

 それは、確かに犀星の中の閉ざされていた扉を開く声であった。

 犀星の目から、日の光のような涙がこぼれ落ち、ぽたぽたととめどなく膝を濡らす。犀遠は頬に添えた指で、そっと拭った。それはまるで、幼い日と同じ光景。自分の出生も知らず、ただ、犀遠が全てを受け入れてくれると信じていた日と、同じ涙だった。

 隣で、思わず玲凛がもらい泣きをして微笑んだ。

 堪えていた何かが喉に支えて、玲陽が袖で顔を覆った。涼景は黙って、その震える背中に手を添えた。

 あまりに静かに、しかし、何よりも雄弁に、風が庭に漂い、沈黙を守る。

 犀星のほころぶ笑顔を、玲凛は初めて見た。なぜか急に、母が恋しくなった。

 玲凛は何かに導かれる気がして、庭の奥を見た。隅の、綺麗に整えられた草の中に、その供養塚が据えられている。

 玲凛の視線に、犀遠と犀星が気づく。犀星は少しぎこちなくはあったが、犀遠に手を伸ばして支えて立ち上がらせた。それから、自ら涙を拭って、供養塚の前に膝をつく。祈るでもなく、何かを言うでもなく、ただじっと、年月を経て丸みを帯びた石肌を撫でた。その表情には、今を生きることへの、強い執着が宿っている。

 今、ここにいるということ。そのすべての始まりに、想いを寄せる。

 犀遠が、ひざまずく犀星にゆっくりと歩み寄った。玲凛の目がそれを追う。

 と、突如として、足元から這い上がってくる、肌をなめるような悪寒が、彼女に異変を告げていた。目が離せない。ぴくり、と玲凛の指先が震える。

 犀遠の体が、わずかに傾いた。無造作に大太刀を抜く。一歩、二歩、三歩……

「星兄様!」

 玲凛の絶叫。

 振り向きざまに、犀星は地を転がった。犀遠の大太刀が、彼の顔を掠めて数本の髪を裂き、同時に、塚の石を打ち砕いた。石片が飛び、一つが犀星の頬に赤く筋をつけた。

「何を!」

 瞬時にその場に戦慄が走った。犀遠を見れば、彼は荒い息とともに、大太刀を手に下げ、犀星を睨みつけていた。その形相は、すでに父ではなかった。

 犀星は動けなかった。犀遠の二撃目が繰り出される刹那、玲凛がふたりの間に飛び込んだ。太刀で受けようとしたが、角度を誤る。白い火花が弾けて異様な衝撃が両手を貫き、玲凛の刀が真っ二つに折れ、その勢いで犀星のそばに叩きつけられる。

「凛!」

 名を呼ぶ犀星と玲陽の声が重なった。

「星!」

 涼景が駆け寄って、犀星の体を引き上げた。引きずるように自分の後ろに押しやりながら、距離を取る。

 さらなる追撃のために犀遠が動く。その狙いは、間違いなく犀星だ。玲凛が力を振り絞って立ち上がった。

「凛!」

 涼景が叫んだ。

 玲凛は鍔の手前で折れた刀身を頼りに、再び、犀遠の一撃を遮る。横から力任せに叩きつけられた犀遠の太刀に、玲凛の体が吹き飛ばされ、激しく地に跳ねて転がった。すぐに動くこともできず、擦り切れた肩と足の痛みに、彼女は呻いた。

 目の前の出来事の全てが、黒い夢だった。

 涼景は後ろに犀星を庇い、太刀を抜いた。その動きに、隠せない迷いが混じる。

「下がってろ!」

 涼景は正眼に構えた。

 もう、その名を呼ぶことさえできぬほど、犀遠の表情は面影を失っていた。その太刀筋に容赦はなく、しかし同時に、涼景が憧れた美しさも優しさもない。

 どうして! 何が起きている!

 混乱。焦燥。そして、体の震えは恐怖のためか。

 柄を握る涼景の手が、ぎゅっと音を立てた。咄嗟のこととはいえ、あの玲凛がまったくの無力だった。自分一人で抑えられる自信はない。だが、それでも立たなければならぬ。犀星の盾であり、剣であり続けると決めた自分の道だ。そして、そこに導いてくれた恩師と、こうして対峙せねばならない皮肉に、涼景は苦悶のひと声を発した。

 犀星は、理性の制御を取り戻そうと、必死に呼吸を繰り返した。頭の芯が焼け付いて、何もかもが空回りする感覚に飲み込まれる。まばたきほどの時間も惜しい中で、早く自分を奮い立たさねばならない。焦っていた犀星の目が、正面の景色を捉えた。

 草の上に散らばる、砕かれ、四散した塚の残骸。

 無惨に折れて土に塗れた、大太刀の刀身。

 身を挺して自分を庇った、玲凛の姿。

 体を震わせて盾となる、心を許した友の背中。

 肩に温もりが触れて、犀星は振り返った。

 すぐ横で、玲陽がじっと前を見つめていた。ままならない体を引きずって、犀星に寄り添う。その強い横顔は、犀星の呪縛の最後の結び目を解きほぐした。

「傀儡です」

 犀星は瞬時に、玲陽が語っていたことを思い出した。

 この世に深い情念を残したまま人が死ぬと、その想いが傀儡となって残るという。それが生きている者に取り憑き、その心も行動も支配する。犀遠が、意識を取り戻すには、その体から傀儡を吸い出し、浄化するしかない。さもなくば、やがて犀遠は肉体の限界を迎え、死に至る。

 玲陽の声がはっきりと、意志を持って響く。

「力を貸してください」

「どうすればいい?」

 犀星の答えは短かったが、そこには玲陽に応える強さがあった。

「動きを、止めてください。そのあとは、私がやります」

 犀星は、座り込んでいる玲陽の肩を支えにして、立ち上がった。

「わかった」

 言って、太刀を抜く。涼景がちらりと犀星を伺った。

「星、おまえは……」

「ひとりじゃ無理だ」

 犀星の声は、すでに覚悟を決めていた。涼景と目配せする。そして、一瞬口元に笑み。

「守れよ、涼景」

「……俺が裏だ」

 比翼に導く、その言葉。それが、はじまりだった。

 短く発する合図を受けて、互いを信じて閃く剣。

 比翼の極意は互いを信じる心にある。犀遠が、愛する子らのために編み出したその型はあまりに美しく、そして、危険をはらんでいる。ひとつ呼吸が乱れれば、互いの剣が互いを貫く。涼景は小太刀を左手に加え、防御と牽制を厚くした。

 まっすぐに立っているようで、犀遠の体は揺れている。それは傀儡に憑かれたものに特有の、糸で吊るされた人形によく似ていた。傀儡憑き。体こそ人であっても、その心は人にあらず、そして、人の心を持たぬがゆえに、その力は肉体の限界をやすやすと超える。

 玲凛が顔を上げたとき、すでにその場に激しい剣戟が響いていた。

 犀遠の狙いは犀星だ。常にその姿を追っている。振り下ろされる太刀筋は乱雑で、剣士の名残すら感じられない。ただ、力任せに振る太刀は、時に戦いに慣れている者にとっては厄介だった。先が読めない動きに加え、一撃一撃があまりに重い。肉の痛みも骨の軋みもものともしない、ただ力任せに振るわれる力は、まともに受けるには辛すぎた。涼景は間合いを測って受けずに交わす。刀を合わせて滑らせる。その隙をついて犀星が打つ。痛みを感じない犀遠には、その一撃も通じない。

 予測できない犀遠の動きは、比翼を踏む二人の動きを惑わせる。自分は刃を交わしても、それが相手の足元を狂わせる。犀星の刀の先がぶれて、涼景の喉元をかすった。咄嗟に体を捻って涼景がそれをかわす。そこから再度呼吸を合わせて踏み込む。そんな紙一重の瞬間に、二人は互いを強く意識していく。同調する拍動、交わる視線。次第に両者の体が一つに重なっていく感覚に肌も血も沸き立った。危うさの中でこそ発揮される一体感と連携が生む波状攻撃は、決して一人で戦っていては得られない安心感と自信を、白刃の下の彼らに与えてくれた。それこそ、比翼のもたらす最大の強さである。

 動きを止めることは、相手を倒すことよりも難しい。普通の人間が相手であれば、とうに気を失わせることもできたであろうが、初めから意識のない犀遠には、そのような牽制は通じない。かと言ってその体に傷を負わせることは、最低限にとどめたい。涼景が犀遠をいなし、犀星が打ち込む。その動きには曇りなく、まるで二人の体が一羽の鳥として舞い踊るように美しい。

 ふたりの躍動の全てを、玲陽の瞳が見つめていた。瞬きすら忘れたように見開かれた眼差しには、明らかな戦士の意志がある。

 玲凛は握りしめていた刀の柄を見た。犀遠から託されたその刀は、彼女の誇りでもあった。悔しさに歯を食いしばる。無力は嫌だと、あれほど必死に身につけた力も、この局面では通じない。

「星!」

 涼景の声が、刀を打ち据える音と重なる。犀遠の蹴り込みを腹に喰らって、犀星が戦いの輪から弾き出された。すぐさま、犀遠はその背を狙う。

「させるか!」

 涼景が犀遠の体に肩から身を当てた。その勢いに一瞬ゆらめいたが、犀遠は倒れない。

 間に合わない!

 玲凛の顔に、絶望が走る。と、その想いを断ち切るかのような、風を裂く音。天から一本の戟が降ってきて、玲凛の前に突き刺さった。

「それ、使え!」

 咄嗟に玲凛は振り返った。息を切らせた東雨が立っていた。東雨と交わしたやりとりが、まるで遥か前のことのように思われた。

「二度と、退かない!」

 玲凛は戟を引き抜くと、咆哮と共に突進する。

 涼景が体で犀星をかばった。もろともに打ちすえようとした犀遠の太刀を、玲凛の戟が弾き返した。身長をはるかに超える大ぶりの戟は、東雨が打倒玲凛のために選び抜いた逸品だ。腕力で劣る玲凛でも使い方次第で敵を制圧できる上、範囲も広く中距離で戦える強みがある。

 東雨、あんた、いい趣味してるじゃない!

 水を得た魚ならぬ、戟を得た玲凛は、目を輝かせた。遠心力を巧みに使い、続け様に強烈な攻撃を当てていく。

「ちょっと……やりすぎ」

 玲陽が、玲凛の猛攻にかすかに動じる。動きを止めるにしては、あまりに過激な闘いぶりである。

 その隙に、涼景は犀星と体制を立て直す。

「凛! 抑えるぞ!」

「おう!」

 涼景の声に、三人が犀遠を取り囲む。続く乱撃で、犀遠の肉体はすでに危険だ。流血こそしていないが、内部の肉や骨は、自らが放つ攻撃の衝撃を受けて、傷ついているに違いなかった。その肉体が壊れても止まることをしない。たとえ傀儡を取り除き、本人の意識が戻ったとしても、肉体が破壊されていては、苦しんで死ぬだけのことだ。

 涼景、犀星、玲凛。

 無言の呼吸が重なった。三人の軌跡が交差する。

 風が鳴って、犀遠の刀が犀星を襲う。自分が狙われることを心得ている犀星は、すんでのところで身を翻した。犀遠の動きは早さはあるが、緩急はない。見慣れてしまえば避けることも難しくなかった。

 振り抜きざまにできた隙に乗じて、玲凛の戟が犀遠の足元をうち、跳ね上げた土が視界を奪う。涼景の太刀が交わせない角度で犀遠の手首を峰打ちする。だが、それでも犀遠は刀を手放さなかった。

 犀遠を傷つけないように加減して戦うには限界がある。それでも、玲陽に繋ぐためにやりとげなければならない。

 ぶつかり合う金属の音が幾重にも重なる。それらは互いに主張し、そして、呼応する。手のひらから足裏まで、全ての感覚が世界を捉え、一分の隙も許さぬ警戒を産む。

 玲凛の戟が犀遠の太刀を止め、涼景が力で押し切り、犀星が急所を狙う。その噛み合った攻撃に、犀遠が片膝を折った。

 犀星も、涼景も、玲凛も。

 その姿は、玲陽の目には頼もしかった。玲陽は気持ちを沈め、自分がするべきことを強く思い描く。犀遠から傀儡を吸い出し、浄化する。それが、彼にできることであり、彼にしかできないことだ。彼がするべきことであり……迷ってはならないことなのだ。

 しかし、と玲陽はわずかに眉を寄せる。

 傀儡には傀儡の道理がある。かれらは自分に共感する者にのみ、取り憑く。この現状と合わせて考えるならば、今、犀遠を動かしている傀儡が何者なのかが見えてくる。

 犀遠がその魂を憐れみ、心を寄せたということ。

 そして、ここまでの強い力で犀星を狙っているという事実は、その魂が犀星に対して相当の恨みを抱いているということ。

 犀遠が心を許し、同時に犀星を恨む者とは、誰だ?

 最悪の想像が、玲陽をとらえていた。

 玲陽が知る限り、その魂の正体は、一人しか、ありえないのだから。

 犀星の産みの母親。玲心、ただひとりだ。

 狂気を抱いて散った魂。

 最悪の相手だ。

 玲家の直系女子であり、生まれたばかりの犀星を自ら手にかけようしたその呪いの強さは、傀儡となって凝縮され、もはや、手のつけようがない。

 自分の力で浄化できるものであるのか、あるいは自分もまたその力に飲み込まれ、意識を奪われてしまうのか。それはまさに命懸けと言うしかない行動だった。そして、もし、自分が倒れたとしたら…… 玲陽の決意にさざなみが立つ。わずかの恐れが、弱さになると知っていても、本能的な恐怖は抑えがたい。頬に、一筋、汗が流れた。

「今だ!」

 涼景の声が飛んだ。

 玲陽の心が、一気に引き戻される。自分につなぐために命をかける友の姿が、玲陽の心を不安から救った。

 彼らに、応えたい。

 それは願いであり、誓いだった。

 涼景が間合いを詰め、犀遠の懐に飛び込む。肉薄した涼景の二本の太刀が、犀遠の大太刀を上に跳ね上げた。

 斜めに振り上げられた玲凛の戟が、犀遠の手から太刀を吹き飛ばした。

 犀遠の背後に回り込んだ犀星が、刀の峰でその背中を打つ。

 涼景が倒れ込む犀遠の腕を引き倒すし、玲凛がその肩に飛び乗って、体勢を大きく崩す。犀星がさらに追い討ちをかけ、体当たりで犀遠を地面に押し倒した。涼景が上体まで崩した犀遠の背に馬乗りになって押さえつける。さすがに三人に抑え込まれては、犀遠の肉体が持たないが、まるで関節を砕き、筋肉を裂くような力で抵抗する。このままでは、物理的に犀遠の体が壊されてしまう。

「陽!」

 犀星が叫ぶ。玲凛が犀遠の首を両手で捻り、頭部を固定した。よろめきながらも、玲陽が近づき、崩れ落ちるように犀遠のそばに身を投げ出す。犀星がすかさずその体を支え留めて、玲陽の胸に腕を回した。

 それは、玲陽の心の迷いの最後のたがを静かに外す腕であった。

 犀星が慕う母であろうと、容赦はしない。

 玲陽は、覚悟した。

 離さないで。

 そう、乞うような玲陽の目に、犀星は即座に頷いた。

 玲陽は地べたに這いつくばって体を低め、犀星の腕に体重を乗せる。傷が癒えきっていない玲陽には、傀儡喰らいはおろか、この姿勢に耐える力もない。それでも、彼の決意は変わらない。激戦での疲労があるというのに、犀星は揺らぐことなく、玲陽を抱き止める。その力は、何よりも玲陽を勇気づける。

 犀遠はまだ、体を痙攣させるようにもがいている。体重をかけて頭を抑えている玲凛の手が震えていた。玲陽は一瞬、妹に微笑みかける。唇を噛み締め、玲凛は目を閉じた。

 そうだ、見なくていい。ここから先は、地獄だ。

 玲陽は犀遠の顎を掴み、口を開かせた。口内が切れて、歯茎から血も滲んでいた。たとえ傀儡を取り除いても、助からない予感があった。それでも、こんな姿のままに死なせるなど、玲陽には耐えられない。たとえ激痛にのたうつ最後となろうと、犀遠を犀遠のままに送りたい。目の前の変わり果てた姿ではなく、優しく自分たちを包み込んでくれた愛しい父として。

 玲陽は途中まではゆっくりと、そして、最後は一思いに顔を寄せ、唇で犀遠の口を塞いだ。ぐっと舌を押し込んで、玲陽は喉の奥を吸った。

 涼景が顔を逸らす。玲凛は目を閉じたままだ。そして犀星は、じっと全てを見届けていた。玲陽の思いも、犀遠の無念も、これから自分たちが向き合わねばならない現実からも、決して逃げない。逃げたくはない。静かな、その氷のように冴えた眼差しは、確かに強い意志を宿している。

 心の中に動揺はある。だが、それは直接触れることのない、まるで鏡の向こうの景色だ。自分の姿であって、同時に幻にすぎない。感情は押さえつけるほどに激しく動く。だが、胸を開けば、そのまま受け流せる。そのすべを、犀星は身につけていた。

 ありのままに、受け入れる。そして、静かに眠らせる。

 腕を掴んでいた玲陽の指が、ぎゅっと力を込めた。それは、彼が何かを掴んだ合図だ。玲陽の目がそっと、開かれ、自分を見上げる。そして、ひとつ、しっかりと瞬きをする。それだけで、本能的に犀星は察していた。自分で起き上がることのできなり玲陽を、犀星はそっと引き上げた。犀遠から、玲陽の唇が離れる。と、引き離されるに従って、犀遠の喉の奥から、黒く濁った空気の塊が、ずるりと引き出されてくるのが見えた。それは、犀星の目にも、はっきりと。

 地中から巨大な何かが這い出てくるような、低い唸りのような声が、庭中に響いた。声は犀遠のものだった。

 玲陽は天を仰いだ。

 黒く巨大な蛇のような塊が、犀遠の口から飛び出し、宙に弧を描いて、玲陽の喉へ吸い込まれていく。

 自分の体よりも大きなその塊を、玲陽は苦しみに全身を捩らせながら受け入れる。

 これが、傀儡喰らい……

 犀星は、その光景を記憶に焼き付けた。

 がくん、と激しく一度、それから断続的に、玲陽の体が跳ねた。

 始まった。

 犀星の目元が朱に染まる。

 まるで、桶で汲み上げた泥水を飲み干すように、大量の黒い渦がずるずると玲陽の中に流れ込んでいく。見開かれた目に、涙が光った。最後の残滓まで飲み込んで、玲陽は口を閉じた。反射的に犀星は玲陽を抱え、その頭に手を添え、強く肩に押し付けて抱く。もう一方の手を背中に回し、玲陽の震えをそのまま自分の体で受け止めるように強く抱いた。

 もう、後には退けない。

 犀星はありったけの力を込めた。それでも、玲陽の体はさらに大きな力で内側から震えている。それは、玲陽の体内に宿った別の生き物が、脈動を刻むような振動だった。玲陽は声ひとつ上げない。ただ、見開いた目が、必死に何かに耐えていることだけはわかる。

 飲み込んだが最後、浄化して消し去るか、身体がちぎれ飛ぶかのどちらかだった。

 その瀬戸際で、玲陽が震えている。

 腹の底が煮えるような恐怖が、犀星に襲いかかった。突然に全身が粟立ち、思考がスッと冷えて醒める。その感覚は、突きつけられた絶望に似ていた。

 玲陽を失うかもしれない。

 闇に落ちていく玲陽を、なすすべもなく見下ろすことしかできない情景が浮かぶ。

 喉が軋んだ。

 さらに体に力が入る。

 心の中をのたうち回る、絶望という獣。押さえつけてはならない、と思いながら、ついには受け入れられない恐怖に視界を奪われる。

 くらくらと、犀星の世界が回って、空の青が遠ざかる。

 泣き叫びたいような、耳を塞ぎたいような、持て余した感情で犀星は混乱しはじめていた。このような時に、彼を救ってくれる玲陽は今、更なる苦悶の中に身を投じ、犀星の助けを求める声を聞くこともできない。

 玲陽のいない世界は、そのまま、犀星のいない世界だった。

 嗚咽とも呻きともつかない声が、犀星の唇から溢れた。

 それは短く、鋭く、重たかった。

 それでも、犀星は泣きはしなかった。今泣いたところで、それが無意味であることを、彼は知っていた。

 玲陽を、自分を救えるのは、涙などではない。それよりも、もっと強く、確かに力を与えてくれるもの。

 それは、意志。

 震えていた犀星の目に、小さな光が宿る。それは玲陽からの救いではなく、自らの心の底から湧き上がってきた、鋭い熱のようであった。

「陽」

 犀星は声を絞った。自分に言葉が残されていたことさえ忘れていた。

「陽!」

 ただ、その名を呼ぶ。今の自分にできることは、それだけだ。いや、それが残されているではないか!

 犀星の声に、玲陽の魂は何よりも敏感に反応する。

 支配されて蠢く震えから、自らの意志で犀星に向かう力へと、玲陽の体は明らかに何かを掴もうとしていた。

「陽、ここにいる」

 その声は、あまりに優しすぎた。

 あまりに自然で、あまりに尊い救いだった。光だった。

 玲陽はその声を、耳ではなく肌で聞いた。声を伝えてくるのは、振動ではなく感情であり、温もりだった。

 内側から自分を破壊する力と、それを共に抑え、自分を守ろうとする力。どちらが勝るか、など、答えは明らかだった。

 ああ、この人は私を愛しているんだ。

 それは、天啓のように。

 愛の何たるかなどわからない。けれど、もしそれがあるとしたら、この存在を置いて、他にはないと感じる。

 胸の中に、透き通る風が吹き抜けた。これは、目覚めだ、と、玲陽は思った。

 魂を食い荒らすような痛みと苦しみの中で、確かに一筋の光が、彼に差し込んでいた。

 玲陽は目を開こうと、瞼に力を込めた。

 見つめたい。そして、微笑みたい。

 全てが終わり、もう、怖れる必要はないのだと……

 だが、その時、突如として、腹から喉へ、激しい痛みが立ち上った。

 静かなはずの目覚めは、恐怖に刮目する瞬間にとって変わる。絶望の涙が、音もなく流れた。

「!」

 玲陽は、犀星を振り払った。追い求めた犀星の腕が空を掴む。

「よ……」

 声が潰れ、犀星は喉を抑えた。

 目の前に座り込み、乱れた髪をそのままに、玲陽はじっと、動かなかった。纏う気配が、明らかに異常を告げていた。

 ゆっくりと顔をあげて、玲陽は犀星の蒼い瞳を、睨みつけた。

 玲陽の金色の瞳は、漆黒に塗りつぶされていた。白目までが、艶のない、黒。正気を失った、死人の瞳そのものであった。

 それは、すでに玲陽が玲陽ではないという現実に他ならない。

 傀儡が、玲陽から自分を奪ったことを、犀星は直感した。

 犀星の中で、何かが砕け散った。

 一人にはしない。

 たったひとつ、そう、思った。

 玲陽の唇がわずかに開く。何かを呟いたようだったが、犀星には届かない。

 犀星は無防備に、玲陽に体を向けた。

 玲陽の腕が、まっすぐに犀星に伸びる。彼は動かなかった。ただ、その姿勢のまま、じっと虚空を見つめていた。見るべきものは、そこにはないというように。

 白い指が、犀星の喉に深くかけられた。それでも、彼は動かない。だが、蒼い目に灯る光は、消えはしない。

 犀星はゆっくりと呼吸した。それはまるで、大きく動き出す前の、心の集中に近い沈黙。そして、その瞬間が訪れる。

 指が喉に食い込んだ。同時に、犀星は玲陽の背中を抱き寄せた。犀星を掴んでいた玲陽は、すぐに逃れることができない。

 犀星は、迷わず、深く、口付けた。

 連れていけ。

 彼は祈った。

 陽、俺を連れていけ。おまえを一人にはしない。

 とくん、と何かが鳴った。

 ふっと、風が変わった。

 世界が緩やかに裏返った。

 暖かな気配がして、犀星は目を開いた。

 何もない場所に、彼は立っていた。

 光も、闇も、天も地もない。

 空っぽな世界の中心に、彼が浮かんでいた。

 気配を感じ、振り返って、犀星は息を吐いた。

 陽。

 まっすぐに自分を見つめて、玲陽が寄り添っていた。そっと犀星の手を取る。その手は、いつも犀星を励まし、傷を癒してくれたのだ。

 星。

 呼ばれたように感じたが、声ではない気がした。

 それでもいい。声も言葉も、もういらない。ふたりはずっと一緒にいよう。かわす想いさえあればいい。

 いきましょう。

 玲陽の想いが聞こえる。

 犀星は首を傾げた。

 玲陽は微笑んだ。

 私は、あなたと、いきたい。

 犀星の涙が、静かに流れる。それは足元にぽたりと落ち、その一点から、世界に色が広がった。二人を中心として、緑の草が波となって大地を覆った。遠くからせせらぎのような微かな水音が響き、空には光が満ちた。風が円を描いて二人の髪を美しく閃かせ、小さな赤い花弁ひとひら、舞い落ちてきた。玲陽は手を掲げて、それを受け取った。また、次の風が吹いた。その激しさに、二人は身を寄せてわずかに目を閉じる。再び開いたとき、周囲を無数の花弁と芳香が包み込んでいた。曼珠沙華の花弁の花嵐が、空間を満たして全てを染めていた。渦巻く風の激しさの中で、二人はいつしか、しっかりと両手合わせ、硬くつないでいた。

 突如、どん、と世界がひっくり返った。

 再び目を開くと、真っ黒な風が音を立てて二人を飲み込んでいた。それはあらゆる光を殺す闇、すべての光が失せた、あの、死のまなこのように。

 呆然として、犀星は腕の中の玲陽を見た。うっすらと開かれた玲陽の目は、煌めく金色を浮かべていた。

 玲陽はそっと、犀星の背中に腕を回した。彼の身体は、暗い風の中で、やわらかく白い蛍光を放って、ほんのりと輝いて見えた。

 新月の夜に、その体が輝く。

 そうか、今夜は……

 いつか聞いた話を、犀星はまぶたの奥で思い出した。

 薄く色づいた唇が、どこまでも甘い微笑みを浮かべる。その眼差しは、惜しげもなく犀星にだけ与えられる祝福だった。

 込み上げたものに任せて、犀星は玲陽を抱きしめた。玲陽もまた、犀星を引き寄せた。自分を求める玲陽のあたたかな腕は、犀星の心まで抱いているようだった。

 黒い風が二人をなぶり、その風音の裏側から低くうねるような声がした。

『…………』

 それは言葉であったのか、うめきであったのか、判然としない。ただ、一つだけ確かなことは、それがいかなる『存在』による、いかなる『呪い』であったとしても、犀星の選択を変えることはできないということだ。そしてそれは、玲陽も同じだった。

 犀星は、目を見開いた。そこに宿るは強い意志。戦う決意に違いなかった。

 玲陽は、目を開いた。迷いのない黄金が、輝いていた。

 風が唸る。それに乗って、大地からいく筋もの黒く長い髪のような影が螺旋に飛び出し、次々に彼らの肌をかすめていく。

 風の音で、耳が塞がれていた。

 だが、今、彼らには声も言葉も必要なかった。

 ただ、互いを託す、想いがあればそれでよかった。

 光は、玲陽が与えてくれる。

 力は、犀星が返してくれる。

 それだけで、よかった。戦うことが叶う。

 玲陽は犀星の肩に手を置いた。犀星はその手に自分の手のひらを重ね、もう一方の腕を玲陽の腰に回す。犀星の背中にあった腕に、玲陽は力を込めた。引き寄せ合いながら、ふたりは立ち上がった。

 ふたりの体をひとまとめにして、黒い風の糸が絡みつく。しかし、彼らは倒れなかった。玲陽は犀星の腕に体を預け、重ねた手はそのままに、片腕をゆっくりと動かした。大きく、曲線を描いて、玲陽の指先が暗い風に白く輝く裂け目を走らせながら、高く掲げられる。切り裂かれた光の線の向こうに、青い空が見えていた。

『…………』

 風の慟哭が、何度も波となって二人を押し流すように押し寄せた。

 犀星は玲陽の全身を受け止め、揺るぐことなく立ち続けた。まるで、そうすることが、自分の全てであるように、玲陽と一体となって、支え続ける。

 玲陽はすべてを預け、目を閉じた。

 周囲に渦巻く変化した傀儡の闇は、己が力を上回る。

 だが、たとえ一人で敵わぬ相手でも、玲陽のそばには犀星がいる。怖れることはない。

 私たちは、一緒にいくのだから。

 玲陽の柔らかい指が動いて、いくつかの印を軽やかに結んだ。最後の形のまま、斜めに振り下ろす。

 指の軌跡が闇を裂き、大地を指したその刹那、ふたりの足元にまばゆい光芒が生まれ、それは闇もろともに二人を飲み込んで、高く天へと立ち上がった。

 魂を解き放つ。ふたりの命を賭して、玲陽が結んだ力こそ、新月の光そのものだった。

 完全なる闇も完全なる光も、盲目に違いない。

 それでも、彼らに何かを見る目は必要なかった。

 彼らに必要なのは、ただ、想いだけなのだから。


  ・


 それは、二十を数える間の出来事だった。玲陽が傀儡を飲み込むのを、玲凛はしっかりと見ていた。そして、犀星の命をかけた口付けの後、あたりから、傀儡の気配が消えた。二人が見つめ合い、微笑む姿に、本当にすべてが終わったのだと感じた。

 玲凛は、犀遠の上体を仰向けにして、膝の上に抱えた。

 浅い息で、犀遠はわずかに目を開いた。身体は無理な戦いで傷んでいた。砕けた骨が内臓を傷つけ、外傷はなくとも、致命傷に至っているのは明らかだった。

 玲凛は、戟を握っていたのと同じ手で、犀遠の頬を撫でた。

「私が小さいころ、よくこうして甘えさせてくれました。次は私の番です」

 犀遠は瞼を上げて、玲凛を見た。それは紛れもなく、自分を愛してくれた『父』の顔であった。痛みは感じていないのか、犀遠は穏やかだった。

「侶香様!」

 駆け寄ってきた東雨が、泣きながらその手を両手で包み、頬擦りした。

 涼景の目元は腫れていたが、その目に涙はなかった。彼の右手が、今なお握る刀の柄で震えていた。

 支え合いながら、犀星と玲陽が犀遠に身を寄せる。犀遠は、雲が晴れたような笑みを浮かべた。

 唇が動いて、小さく優しい声が聞こえる。

「おまえたちは、もう、飛べるな?」

 それは、問いかけという名の信頼。

 犀星の手が、玲陽の膝を掴んだ。玲陽は黙ってその手を取った。そして、犀遠を見つめた。

「父上」

 それは初夏の朝に聞いた、小鳥のさえずりのように清らかだった。

 犀遠は、かすかに頷いたらしかった。

 長い旅をしてきた風が、一瞬、庭に立ち止まり、また、吹きすぎていった。

 開かれたままの犀遠の瞳に、今年最初の曼珠沙華が、静かに揺れていた。

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