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第5話 雨の告白

九月に入った。


新学期が始まったが、翔太の訪問は続く。


学校帰りに寄るようになり、制服姿で現れることが多くなった。


九月の第二週、久しぶりの雨が降った。


残暑を和らげる恵みの雨だ。


その日、翔太はずぶ濡れで現れた。


「傘は?」


「忘れた」


明らかに嘘だった。


翔太の鞄には折りたたみ傘が入っているのを知っている。


しかし指摘しなかった。


「とにかく中に入って」


茜はタオルを取りに行った。


戻ると、翔太は玄関に立ったままだった。


水滴が床に落ちている。


制服が肌に張り付いて、体のラインが露わになっていた。


「とりあえず、お風呂に入りなさい」


「いいの?」


「風邪ひくわよ」


翔太は素直に従った。


脱衣所に向かう後ろ姿を見送りながら、茜は複雑な気持ちになる。


翔太が風呂に入っている間、制服を洗濯機に入れた。


ポケットを確認すると、やはり折りたたみ傘があった。


わざと濡れてきたのだ。


なぜ?


亜希子に連絡すべきか迷った。


結局しなかった。


何と説明すればいいのか分からない。


亡き舅の部屋着を用意して、脱衣所の前に置いた。


「着替え、ここに置いておくわね」


「ありがとう」


風呂場から若い声が返ってきた。


まだ変声期を完全に終えていない声。


少年と青年の間の声だ。


リビングでお茶の準備をしていると、翔太が現れた。


借りた部屋着は少し大きいが、違和感はない。


もう立派な青年の体格だ。


髪がまだ濡れていて、雫が垂れている。


「ドライヤー使う?」


「大丈夫」


翔太は茜の向かいに座った。


いつもは隣に座るのに、今日は違う。


距離を置いているように見えた。


二人で黙ってお茶を飲む。


雨音が窓を叩いている。


時折、遠くで雷が鳴った。


「おばあちゃん」


翔太が口を開いた。


真剣な表情だ。


茜は嫌な予感がした。


「なあに?」


「俺、おばあちゃんのこと好きだよ」


一瞬、安堵した。


普通の孫から祖母への愛情表現。


茜も微笑んで答えた。


「私も翔ちゃんのこと大好きよ」


「違う」


翔太の声が急に大人びて聞こえた。


「そういう意味じゃない」


茜の手が震えた。


湯呑みを置く。


カタンと音がした。


雨音が急に大きく聞こえる。


「翔ちゃん、それは……」


「分かってる。おかしいって。変だって。でも、どうしようもないんだ」


翔太の目に涙が浮かんでいた。


必死に堪えている。


茜は言葉を失った。


否定すべきだ。


叱るべきだ。


しかし、できなかった。


孫の苦しみが痛いほど伝わってきたから。


「いつから?」


聞いてはいけない質問だった。


しかし、聞いてしまった。


「分からない。気づいたら……夏休みくらいから、かな。おばあちゃんのことばかり考えてる」


翔太は続けた。


堰を切ったように言葉が溢れ出す。


「母さんは俺を型にはめようとする。成績、進路、全部決められてる。父さんは仕事ばかりで、俺のことなんて見てない。学校も息苦しい。友達にも本音を言えない」


茜は黙って聞いていた。


「でも、ここは違う。おばあちゃんといると、俺は俺でいられる。素の自分でいられる。認めてもらえる」


「それと、その……気持ちは別でしょう」


茜がやっと口を開いた。


「別じゃない。全部繋がってる」


翔太は立ち上がった。


テーブルを回って茜に近づく。


茜は動けなかった。


金縛りにあったように椅子に座ったまま。


「おばあちゃん」


翔太の手が茜の頬に触れた。


若い手。


震えている手。


温かくて、少し湿っている。


「やめなさい」


やっとの思いで言葉を絞り出した。


声に力がない。


翔太は手を引いた。


しかし、その瞳は諦めていなかった。


むしろ決意を新たにしたような光を宿している。


「ごめん。でも、この気持ちは変わらない」


その時、玄関のチャイムが鳴った。


二人とも飛び上がるように振り返った。


「翔太? いるんでしょう?」


亜希子の声だった。


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