九月に入った。
新学期が始まったが、翔太の訪問は続く。
学校帰りに寄るようになり、制服姿で現れることが多くなった。
九月の第二週、久しぶりの雨が降った。
残暑を和らげる恵みの雨だ。
その日、翔太はずぶ濡れで現れた。
「傘は?」
「忘れた」
明らかに嘘だった。
翔太の鞄には折りたたみ傘が入っているのを知っている。
しかし指摘しなかった。
「とにかく中に入って」
茜はタオルを取りに行った。
戻ると、翔太は玄関に立ったままだった。
水滴が床に落ちている。
制服が肌に張り付いて、体のラインが露わになっていた。
「とりあえず、お風呂に入りなさい」
「いいの?」
「風邪ひくわよ」
翔太は素直に従った。
脱衣所に向かう後ろ姿を見送りながら、茜は複雑な気持ちになる。
翔太が風呂に入っている間、制服を洗濯機に入れた。
ポケットを確認すると、やはり折りたたみ傘があった。
わざと濡れてきたのだ。
なぜ?
亜希子に連絡すべきか迷った。
結局しなかった。
何と説明すればいいのか分からない。
亡き舅の部屋着を用意して、脱衣所の前に置いた。
「着替え、ここに置いておくわね」
「ありがとう」
風呂場から若い声が返ってきた。
まだ変声期を完全に終えていない声。
少年と青年の間の声だ。
リビングでお茶の準備をしていると、翔太が現れた。
借りた部屋着は少し大きいが、違和感はない。
もう立派な青年の体格だ。
髪がまだ濡れていて、雫が垂れている。
「ドライヤー使う?」
「大丈夫」
翔太は茜の向かいに座った。
いつもは隣に座るのに、今日は違う。
距離を置いているように見えた。
二人で黙ってお茶を飲む。
雨音が窓を叩いている。
時折、遠くで雷が鳴った。
「おばあちゃん」
翔太が口を開いた。
真剣な表情だ。
茜は嫌な予感がした。
「なあに?」
「俺、おばあちゃんのこと好きだよ」
一瞬、安堵した。
普通の孫から祖母への愛情表現。
茜も微笑んで答えた。
「私も翔ちゃんのこと大好きよ」
「違う」
翔太の声が急に大人びて聞こえた。
「そういう意味じゃない」
茜の手が震えた。
湯呑みを置く。
カタンと音がした。
雨音が急に大きく聞こえる。
「翔ちゃん、それは……」
「分かってる。おかしいって。変だって。でも、どうしようもないんだ」
翔太の目に涙が浮かんでいた。
必死に堪えている。
茜は言葉を失った。
否定すべきだ。
叱るべきだ。
しかし、できなかった。
孫の苦しみが痛いほど伝わってきたから。
「いつから?」
聞いてはいけない質問だった。
しかし、聞いてしまった。
「分からない。気づいたら……夏休みくらいから、かな。おばあちゃんのことばかり考えてる」
翔太は続けた。
堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「母さんは俺を型にはめようとする。成績、進路、全部決められてる。父さんは仕事ばかりで、俺のことなんて見てない。学校も息苦しい。友達にも本音を言えない」
茜は黙って聞いていた。
「でも、ここは違う。おばあちゃんといると、俺は俺でいられる。素の自分でいられる。認めてもらえる」
「それと、その……気持ちは別でしょう」
茜がやっと口を開いた。
「別じゃない。全部繋がってる」
翔太は立ち上がった。
テーブルを回って茜に近づく。
茜は動けなかった。
金縛りにあったように椅子に座ったまま。
「おばあちゃん」
翔太の手が茜の頬に触れた。
若い手。
震えている手。
温かくて、少し湿っている。
「やめなさい」
やっとの思いで言葉を絞り出した。
声に力がない。
翔太は手を引いた。
しかし、その瞳は諦めていなかった。
むしろ決意を新たにしたような光を宿している。
「ごめん。でも、この気持ちは変わらない」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
二人とも飛び上がるように振り返った。
「翔太? いるんでしょう?」
亜希子の声だった。