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第6話 母

翔太は慌てて立ち上がった。


借りた部屋着のままだ。


「着替えが……」


「洗濯機の中よ。でも、まだ濡れてる」


茜も立ち上がり、玄関へ向かった。


亜希子を待たせるわけにはいかない。


「亜希子、ちょっと待って」


ドアを開けると、亜希子が傘を差して立っていた。


スーツ姿。


仕事帰りらしい。


「お母さん、翔太いるでしょう? 学校から連絡があって。また早退したって」


亜希子の目が鋭い。


母親の直感か、何かを察しているようだった。


「雨に濡れて来たから、今着替えてるの」


「着替え?」


亜希子は訝しげな顔をした。


その時、翔太が奥から出てきた。


祖父の部屋着姿。


髪はまだ少し濡れている。


「何してるの!」


亜希子の声が跳ね上がった。


「濡れただけだよ」


「学校は? なんで早退したの?」


「体調が……」


「嘘ばっかり!」


母子の言い争いが始まった。


茜は二人の間に立った。


「亜希子、落ち着いて。濡れて風邪でもひいたら大変でしょう」


「お母さんは甘すぎます!」


亜希子の矛先が茜に向いた。


「だから翔太が甘えるんです。もう高校生なのに」


「高校生だって、息抜きは必要よ」


「息抜き? 毎日入り浸って、それが息抜きですか?」


亜希子の言葉は正論だった。


茜は反論できなかった。


結局、翔太は濡れた制服を持って、亜希子の車で帰っていった。


去り際、翔太が振り返った。


その目が何かを訴えていた。


二人が去った後、茜はリビングに戻った。


テーブルの上には飲みかけのお茶が残っている。


翔太が座っていた椅子にはまだ温もりが残っているような気がした。


翔太の告白が頭の中でリフレインする。


『俺、おばあちゃんのこと好きだよ』


『そういう意味じゃない』


茜は頭を抱えた。


どうすればいいのか。


誰に相談すればいいのか。


夫?


亜希子?


誰にも言えない。


言えるはずがない。


窓の外では雨が強くなっていた。


────第八話 距離


翔太の告白以来、茜は意識的に距離を取ろうとした。


翔太が来ても二人きりにならないよう気をつけた。


夫がいる時間を見計らって用事を作った。


しかし、翔太はそれを察してか、より頻繁に、より長く滞在するようになった。


失われる時間を惜しむかのように。


「今日は早く帰りなさい」


「まだいいでしょ」


「お母さんが心配するわ」


「してないよ。どうせ塾だと思ってる」


翔太の言葉には投げやりな響きがあった。


その中に潜む寂しさを、茜は見逃せなかった。


十月に入り、秋が深まってきた。


庭の金木犀が香り始めた。


甘い香りが感傷を誘う。


ある午後、翔太は縁側で本を読んでいた。


最近買ったという文庫本。


表紙を見ると恋愛小説だった。


茜は少し離れた場所で編み物をしていた。


翔太の冬用のマフラー。


去年も編んだ。


孫への普通のプレゼント。


それ以上の意味はない、と自分に言い聞かせながら。


平和な時間。


このままなら何も起こらないかもしれない。


告白も、あの雨の日の出来事も、すべて夢だったかのように。


「おばあちゃん」


「何?」


編み針を動かしながら答えた。


顔は上げない。


「俺のこと、気持ち悪いと思う?」


編み針が止まった。


「そんなこと思わないわ」


「じゃあ、なんで避けるの?」


「避けてなんか……」


「嘘」


翔太は本を閉じ、茜の方を向いた。


秋の日差しが横顔を照らしている。


「俺、おばあちゃんに嫌われたくない。でも、この気持ちも消せない」


茜は編み物を膝に置いた。


翔太をまっすぐ見る。


「翔ちゃん、私はもう六十二よ。あなたは十七。この差が何を意味するか、分かるでしょう?」


「数字なんて関係ない」


「関係あるのよ。私はあなたのおばあちゃん。それ以上でも以下でもない」


嘘だった。


心の奥底で茜は気づいていた。


孫の感情に自分も影響されていることに。


それは恋愛感情ではない。


しかし、必要とされる喜び、若い命に求められる陶酔感は確かに存在した。


老いを実感し始めた自分にとって、若者からの純粋な想いは麻薬のような甘さを持っていた。


「でも、俺は」


翔太が何か言いかけた時、夫が庭に出てきた。


「おう、翔太も来てたか」


「こんにちは、おじいちゃん」


翔太は慌てて立ち上がり、挨拶した。


夫は庭いじりの道具を持っている。


「天気がいいから、少し草むしりでもしようと思ってな」


「手伝います」


翔太は積極的に申し出た。


夫は嬉しそうに笑った。


二人が庭に出て行くのを見送りながら、茜は安堵のため息をついた。


同時に物足りなさも感じた。


夕方、翔太が帰る時、小声で言った。


「また明日」


それは宣言のようだった。


茜は頷くしかなかった。

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