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第13話

御所から北条信堅のもとへ、月見の宴への招待が届いた。

「ぜひ奥方もご一緒に」と、わざわざ“家族同伴”を条件にして。

「紅葉、同行を頼めるか」

それは初めてではなかった。

彼はいつも、ささやかなことを理由に、私の借りを少しずつ帳消しにしようとする。


その夜——

彼は庭先で刀の稽古に励んでいた。

私は、ふと音に惹かれて縁側に立ち、そっと眺めていた。


雾島清次よりもずっと背が高く、逞しい体躯。

鍛え上げられた筋肉が、まるで張り詰めた弓のように皮膚の下で蠢いている。


彼が刀を振るたび、風が鳴り、梨の花がひらひらと落ちた。


一閃。

彼の視線が、刀の先を追って、私へと至る。


私はにっこりと微笑んだ。

その瞬間、風にあおられて羽織っていた薄絹が滑り落ち、片肩があらわになる。


彼の手がピクリと震えた。

次の瞬間、急いで背を向け、足早に立ち去ろうとする。


私は呼び止めた。

「……ねぇ、私のこと、嫌い?」


彼はぴたりと動きを止め、背中越しに答えた。

「……まさか、そんなことはない」


私は彼の正面にまわり、視線を合わせるよう顔を上げさせた。

「じゃあ……好きなの?」


彼は一瞬、呆けたような顔をしたが、すぐに真っ赤になり、視線を逸らす。


しばし沈黙のあと、彼は静かに口を開いた。

「二年前の冬……覚えているか?

 上杉家が夜陰に乗じて川を越えて襲ってきた……あの戦いだ」


もちろん覚えている。

地獄のような戦だった。

医者も薬も足りず、雾島清次をはじめとした武将たちは、重傷者を次々と見捨てるしかなかった。

夜には、あちこちから呻き声が聞こえ、

朝になると白布に覆われた死体がさらに増えていた。


私も少しばかり薬理に心得があったため、山で薬草を探しては干していた。


ある日——

干した薬草を取りに行った時、積み上げられた死体の山が突然ガサッと動いた。

驚いて転んだ私の足首を、傷だらけの手が掴んだ。


血に塗れた男。

目を閉じ、息絶えたように横たわっていたが、その手だけは決して離そうとしなかった。


私は、彼がまだ生きていることに気づき、あわてて引きずり出した。


だが、随行の医師は言った。

「傷が深すぎる。どうせ助からぬ。元の場所に戻せ」


けれど、私はどうしても見捨てられなかった。

その男を雨よけの軒下に寝かせ、山中でかき集めた薬草を、無知なりにすり潰しては傷に当てた。


私には、人を救えるような力も、地位もなかった。

それでも——


あの頃の私は、すべてを失い、絶望の淵にいた。

戦の行く末も、雾島清次の安否も、何もかもが不確かで……

未来にすがるものが、ひとつもなかった。


——だから、あの人だけは、生きていてほしかった。


もし救えるなら、私の存在にも意味があると思えた。


その頃の私は、一日に一つ、清次様からの配給で小さなパンをもらえていた。

その半分を彼に、水と一緒に口に運んだ。


焼け爛れた傷口には、灰を塗るしか手立てがなかった。


それでも、彼は命の灯を消さなかった。


何日が経った頃だろうか。

目覚めたときには、遺体の山が焼かれており、彼の姿も消えていた。


——てっきり、死んでしまったものと思っていた。


「傷が癒えてから、何度も君の様子を見に行った。けど……あの時、君は霧島と一緒にいて、すごく幸せそうに笑っていた。

だから、俺は……自分の想いを胸にしまってきた。今も、君の心がどこにあるのか確信が持てない。だから、ずっと待っていた」


——私は、しばらく何も言えなかった。


彼の口から語られた真心。

そこには、遊女への蔑みなど一片もなかった。

私の触れようとする手を退けたのも、私が雾島清次を愛していると誤解していたから——

そんな相手に、節度を守り、誠実でいようとしたから。


……なんて、まっすぐで、優しい人なんだろう。


彼はそっと、私の落ちかけた衣を引き上げてくれた。

その手が私の肌から離れる。

「……夜風に当たると冷える。やめておこう」


——けれど、次の瞬間。

私は彼の手を取って、自分の胸元へと導いた。

皮膚越しに感じる心臓の鼓動。


「聞こえるでしょう? この鼓動……

 もう戻ってきたの。いまは、あなたのために、こうして動いてるのよ」


彼は、私を見つめ返す。

深く、まっすぐに。

私はそっと彼に寄り添い、熱を帯びた彼の胸に頬をあてる。


「せっかく私を娶ってくれたのに……

ずっと手をつけずに放っておくなんて…」


耳元でそっと囁く。

「ねえ、旦那様」


彼の顔が赤く染まり、刀が手から滑り落ちた。

次の瞬間——

私はそのまま抱き上げられ、彼の腕の中で寝所へと運ばれていった。


……私は、甘く見ていた。


稽古のあとで体力が尽きていると思ったのに、

彼は人一倍……いや、人の域を超えていた。


机から布団へ。

夕暮れから、夜が明けるまで——


その全てで、彼はひとときも緩めなかった。


汗ばむ肌と、耳元をかすめる吐息。

私は、ふと頭をよぎる。

——ああ、彼の刀捌きがなぜあれほど鋭く、正確だったのか。

雨に濡れ、梨花が舞う中、見上げたあの一閃。

あの瞬間を、私は一生忘れられそうにない。



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