御所から北条信堅のもとへ、月見の宴への招待が届いた。
「ぜひ奥方もご一緒に」と、わざわざ“家族同伴”を条件にして。
「紅葉、同行を頼めるか」
それは初めてではなかった。
彼はいつも、ささやかなことを理由に、私の借りを少しずつ帳消しにしようとする。
その夜——
彼は庭先で刀の稽古に励んでいた。
私は、ふと音に惹かれて縁側に立ち、そっと眺めていた。
雾島清次よりもずっと背が高く、逞しい体躯。
鍛え上げられた筋肉が、まるで張り詰めた弓のように皮膚の下で蠢いている。
彼が刀を振るたび、風が鳴り、梨の花がひらひらと落ちた。
一閃。
彼の視線が、刀の先を追って、私へと至る。
私はにっこりと微笑んだ。
その瞬間、風にあおられて羽織っていた薄絹が滑り落ち、片肩があらわになる。
彼の手がピクリと震えた。
次の瞬間、急いで背を向け、足早に立ち去ろうとする。
私は呼び止めた。
「……ねぇ、私のこと、嫌い?」
彼はぴたりと動きを止め、背中越しに答えた。
「……まさか、そんなことはない」
私は彼の正面にまわり、視線を合わせるよう顔を上げさせた。
「じゃあ……好きなの?」
彼は一瞬、呆けたような顔をしたが、すぐに真っ赤になり、視線を逸らす。
しばし沈黙のあと、彼は静かに口を開いた。
「二年前の冬……覚えているか?
上杉家が夜陰に乗じて川を越えて襲ってきた……あの戦いだ」
もちろん覚えている。
地獄のような戦だった。
医者も薬も足りず、雾島清次をはじめとした武将たちは、重傷者を次々と見捨てるしかなかった。
夜には、あちこちから呻き声が聞こえ、
朝になると白布に覆われた死体がさらに増えていた。
私も少しばかり薬理に心得があったため、山で薬草を探しては干していた。
ある日——
干した薬草を取りに行った時、積み上げられた死体の山が突然ガサッと動いた。
驚いて転んだ私の足首を、傷だらけの手が掴んだ。
血に塗れた男。
目を閉じ、息絶えたように横たわっていたが、その手だけは決して離そうとしなかった。
私は、彼がまだ生きていることに気づき、あわてて引きずり出した。
だが、随行の医師は言った。
「傷が深すぎる。どうせ助からぬ。元の場所に戻せ」
けれど、私はどうしても見捨てられなかった。
その男を雨よけの軒下に寝かせ、山中でかき集めた薬草を、無知なりにすり潰しては傷に当てた。
私には、人を救えるような力も、地位もなかった。
それでも——
あの頃の私は、すべてを失い、絶望の淵にいた。
戦の行く末も、雾島清次の安否も、何もかもが不確かで……
未来にすがるものが、ひとつもなかった。
——だから、あの人だけは、生きていてほしかった。
もし救えるなら、私の存在にも意味があると思えた。
その頃の私は、一日に一つ、清次様からの配給で小さなパンをもらえていた。
その半分を彼に、水と一緒に口に運んだ。
焼け爛れた傷口には、灰を塗るしか手立てがなかった。
それでも、彼は命の灯を消さなかった。
何日が経った頃だろうか。
目覚めたときには、遺体の山が焼かれており、彼の姿も消えていた。
——てっきり、死んでしまったものと思っていた。
「傷が癒えてから、何度も君の様子を見に行った。けど……あの時、君は霧島と一緒にいて、すごく幸せそうに笑っていた。
だから、俺は……自分の想いを胸にしまってきた。今も、君の心がどこにあるのか確信が持てない。だから、ずっと待っていた」
——私は、しばらく何も言えなかった。
彼の口から語られた真心。
そこには、遊女への蔑みなど一片もなかった。
私の触れようとする手を退けたのも、私が雾島清次を愛していると誤解していたから——
そんな相手に、節度を守り、誠実でいようとしたから。
……なんて、まっすぐで、優しい人なんだろう。
彼はそっと、私の落ちかけた衣を引き上げてくれた。
その手が私の肌から離れる。
「……夜風に当たると冷える。やめておこう」
——けれど、次の瞬間。
私は彼の手を取って、自分の胸元へと導いた。
皮膚越しに感じる心臓の鼓動。
「聞こえるでしょう? この鼓動……
もう戻ってきたの。いまは、あなたのために、こうして動いてるのよ」
彼は、私を見つめ返す。
深く、まっすぐに。
私はそっと彼に寄り添い、熱を帯びた彼の胸に頬をあてる。
「せっかく私を娶ってくれたのに……
ずっと手をつけずに放っておくなんて…」
耳元でそっと囁く。
「ねえ、旦那様」
彼の顔が赤く染まり、刀が手から滑り落ちた。
次の瞬間——
私はそのまま抱き上げられ、彼の腕の中で寝所へと運ばれていった。
……私は、甘く見ていた。
稽古のあとで体力が尽きていると思ったのに、
彼は人一倍……いや、人の域を超えていた。
机から布団へ。
夕暮れから、夜が明けるまで——
その全てで、彼はひとときも緩めなかった。
汗ばむ肌と、耳元をかすめる吐息。
私は、ふと頭をよぎる。
——ああ、彼の刀捌きがなぜあれほど鋭く、正確だったのか。
雨に濡れ、梨花が舞う中、見上げたあの一閃。
あの瞬間を、私は一生忘れられそうにない。