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二奏


◆◇◆◇


 バー&ダイニングBar e sala da pranzo【サルバトーレ】


 荘厳そうごんな音楽が、店内より流れ聴こえる白い大理石のテラス席にて、ロレンツォ達は向かい合うように座っていた。


 アンジェリカが訪れたいと望んだのは、いずれもルカトーニにゆかりのある場所だった。


 ここもまた、彼が構想を練る折によく足を運んでいた店として、当時の外観のままに残されている。


 ちらりと、視線だけを左手側の席へと遣れば、香りの強い葉巻を手にした老紳士が、こちらもまた身なりの良い青年へと自身の政治思想を説いているのが見えた。


 崇高にして道徳的なる自由主義的価値観と国際化が、我々にもたらしたものによって、まことに気高く、偉大な生まれながらに私たちの胸奥に刻み込まれているものが、今、失われつつあるという彼らのいつもの話だ。


 青年はまさに感銘を受けたというように、あなたこそは私の人生の師であると紳士を称賛してみせる。


 だが、この青年も明日になれば喜々として、街中で演説するジョルジュ・ヴァレンティーニ王国リベラル派の政治家と記念写真を撮るだろう。


 決して青年は、紳士を適当に扱っているのではない。


 ルーラの人間は若いころは渡り鳥のように移り気、年齢を重ねると、突如として思い出したかのように、愛国心や誇りといったものに関心を向け出すのだ。


 二人の会話に耳を傾けながら、ロレンツォとアンジェリカは顔を見合わせて苦笑する。


「最も年齢を重ねても、私たちに生来備わっている楽観的気質がなくなるわけではありません。ピッツァと一杯の葡萄酒ヴィーノ・ロッソ、そして音楽があればすぐに難しいことなど忘れるのです。ほら、ご覧なさい」


 ロレンツォの視線の先では店の給仕係が、料理と葡萄酒を運んできていた。

 それを同様に視界に収めた二人の紳士は、目を輝かせて今日見てきたばかりの舞台の話を始めた。


「これもまさしく、〝典型的なルーラらしい景色Una scena tipicamente Rulah〟というものです」


「私には、すべてのものが新鮮に映ります」


「それでは、この国には本当に最近来たばかりなのですね」


「えぇ、ルーツはこちらにあるのですが。この歳までヴォンで育ちました。それでも音楽をするならルーラ以上の国、レンハイム以上の街はありません」


 グラスに残った葡萄酒ヴィーノ・ロッソを飲み干した彼女は、どのような一瞬も見逃さないとでも言わんばかりに、まるで妖精を見つけた少女かのような、やわらかな微笑みを浮かべて周囲をゆっくりと見渡した。


「ルーラは今後数世紀に渡って恨まれそうです。ヴォンから千年に一度の天才を奪ってしまったわけですから」


「気をつけた方が良いですわ。ヴォンは女性でも鉄のドレスを着て戦う国ですもの」


 アンジェリカは色素の薄い、たおやかな指で自身の唇をなぞると、とっておきの秘密を打ち明ける子供のように、悪戯めいた微笑をロレンツォへと向けた。


「でしたら、ルーラの男性は手に花束を持って抵抗しましょう」


「ふふ、平和的解決が必要ですね」


「えぇ、ですがヴォンとルーラには大きな共通点がある」


「「どちらも、珈琲カフェー/カッフェの国であること」」


 二人の言葉が重なったのは、ちょうど食後の珈琲とデザートドルチェが運ばれてきた時だった。



◆◇◆◇


 川沿いに佇む、ルカトーニの生家である赤煉瓦あかれんがの屋敷は陽が沈むと同時にライトアップされる。


 既に閉館となっているが、今は生前に書かれた楽譜、愛用していたピアノなどが展示される博物館となっていた。


 外観だけでも見ようと立ち寄った二人は、近くのベンチへと腰を下ろした。


 夜の川沿いは、まだ微かに冷気を含んだ風が吹き、カモミールや虞美人草ヒナゲシの花をどこか淋しげに揺らす。


「私は、彼の後期や本当に初期の音楽が好きなのです」


「それは珍しい。ルーラでは、誰もが彼を国を代表する作曲家の一人として誇りに思っていますが、後期のような曲が国内で評価され出したのは晩年の話です」


「えぇ、ここでは今も昔も陽気で楽観的、そしてなによりも自由であることが求められますから。彼の悲哀に満ちた曲には、あまりにも水が合わないでしょう」


 街灯が、淡く、ほのかな温かさを持って照らしだす川面からは、冷たい苔と湿った土――自然の力強さを感じさせる香りが漂う。


 夜風が儚げな旋律を二人へと届け、視線を右へとやればロレンツォよりも、やや目上の男性がヴァイオリンを演奏しているのが見えた。


 ルカトーニ《|夜想曲《ノットゥルノ》》Op.5-2


 主旋律はヴァイオリンが担い、それをピアノがやわらかに支える。


 ヴァイオリンを主役とすることで、いっそうと甘美な哀愁が漂う初期の傑作だ。


 彼から恋人とも他人とも、とれるほどの距離に一人の若々しく、いかにも純粋無垢といった笑顔の素朴な少女が居た。


 川沿いに椅子を置いて腰を下ろし、時折り考え込む仕草を見せながら筆をキャンバスへと振るっていた。


 世慣れした雰囲気を漂わす男性とは対照的な可憐さ。


 しかし、そのなかに時折り垣間見える理知的で静謐な横顔は、通り過ぎてゆく人々の視線を自然と彼女と、その作品へと引き寄せる。


「確かに彼は未だに国外の方が評価が高い。ここで好まれるのは、中期の頃の軽快で陽気な曲です。ですが……このような光景を見ていると、彼の音楽は確かに、この地に根付いていると思いませんか?」


 彼の問いにアンジェリカは言葉を発することなく、ただ、慈愛を感じさせる切なげな眼差しを二人の男女にむけていた。


「本来、すべての芸術とは作り手のものであり、受け手は作られたものを、ありのままに享受きょうじゅするべきです。芸術家とは最も傲慢ごうまんで、タチの悪い人種なのですよ」


「中期のような曲は、ルカトーニらしくないと? 貴方は、あの賢人たち批評家のようなことを仰るのですね」


 冗談めかしたロレンツォの言葉を受けて彼女の表情には、わずかなかげりが見えた。


「ふふ、確かにそうかもしれません。……少し昔の話をしましょうか。当時の彼は恋をしていました。報われることのない恋を」


 二十代の頃、彼――ジュゼッペ・ディ・ルカトーニは、一人の女性へと熱を上げていた。


 だが、今以上に身分の壁が高かった当時、伯爵家の子息である彼が、中産階級出身で、家業も傾きかけていた女性と結ばれるのは茨の道だった。


 さらに、彼女は難病を患っていたのだ。


 なんとか彼女のことを支援したいとは思いながらも、婚約者でもない相手に家の金を費やすわけにもいかず、彼は自分の作った曲を売ることにする。


 とはいえ、彼の作る悲哀の漂う楽曲は、国内ではまったく受け入れられなかった。


 やがて彼が、当時から今に続くまで愛されている軽快で、聴いた瞬間に誰もが踊り出したくなるような曲を作るようになったのは、必然の成り行きだったのだろう。


「ですが……」


「えぇ、女性は彼の気持ちに応えませんでした。レンハイムを離れてヴォンに居る親戚を頼り、その数年後には亡くなったと言われています」


「なぜ、彼女はそのような選択をしたのでしょうか?」


「理由はいくつかあるでしょう。ですが、おそらくは――彼に自分の望まぬ曲を作らせていることが、彼女には何よりも辛かったのだと思います」


「彼女は彼を愛していたと思いますか?」


「えぇ、何よりも自分の気持ちをそのままに、音楽に書き出している彼を」


「あらゆる人の悲しみに心を向け、自分のもののように曲として仕上げる」


 ベンチより立ち上がったロレンツォの差し出す手を、彼女は会釈で感謝の意を示し取った。


「はい、それこそがルカトーニの音楽ですわ」

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