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一奏


◆◇◆◇


 ステッキを片手に携え、紫檀色したんいろ燕尾服フラックの裾を春風になびかせ、ロレンツォは星明かりが照らす石畳の道を、肩で風を切るように歩いてゆく。



 ふと、眩惑的な響きを有する旋律せんりつが、耳朶じだを打ち、彼の意識を捕らえた――。



 【青薔薇公の庭園Il giardino del Duca della Rosa Blu


 瑠璃紺色の薔薇バラが一面に咲き誇る、広大な夜の庭園は、〝青薔薇公〟とも名高い、故エンリコ・ロンバルディ公爵へと敬意を捧げて造られた。


 月光が照らす庭園の中心には、グランドピアノが置かれていた。



 それを演奏する女性は、あまりにも呆気なく、ロレンツォのすべてを奪い去った――。



 彼女が鍵盤けんばんを弾くたび、つややかな濡羽色の髪が空を踊り、それは月光の祝福を受けて、瑠璃色のドレスへと着地する。


 はかなげな長い睫毛まつげの下には、んだ紫水晶アメジストのような紫色の瞳が、月の光をらう悪魔のように妖艶に輝く。


 悪魔――いや、もっと高潔こうけつで、おかがたい存在。


 彼女の演奏は、ここに聴衆が居るのならば、彼らすべての賛美さんびを、羨望せんぼうを、嫉妬しっとを、そして劣情れつじょうさえも呼び起こすほどに優美で蠱惑的こわくてきだった。


 彼女は、それらすべてを自身の糧としてらう、貪欲どんよくにして、清廉せいれんな月の〝女王〟――。


 聴衆が抱くあらゆる感情はすべて、彼らが率先して、彼女への供物くもつとして捧げる〝愛〟に他ならない。


 その一瞬は永遠のように、永遠はこの一瞬のために。

 二人だけの夜会の幕は突如上がり、雲が月を隠すように静かに下りた。



すばらしいブラーヴァ! と言うところでしょうか」



 ロレンツォの賛辞と拍手を受けた女性が、ゆっくりと振り返った。


 儚げな瞳には、わずかな驚きの色が浮かんでいるようにも見える。


 ロレンツォがステッキを一振りして、逆手を軽く叩けば、そこに一輪の青薔薇が、淡い光とともに出現した。


 彼は口元に悪戯っぽい微笑を浮かべると、その薔薇を彼女へと、うやうやしく差し出す。


ありがとうグラッツェ


いえいえプレーゴ


 女性は優美な微笑みを口元にたたえて、花を受け取ると、静かに立ち上がった。


「こんばんは、月夜の妖精エリアーデ。僕の名はロレンツォと申します」


「こんばんは、夢の世界の恋人サヴォイアコニョーメは?」


「あぁ、スミスです」


「ふふふ、あはたはどう見ても、この国の人に見えますが。いいわ、ロレンツォ・スミスさんね。私はアンジェリカ・ヴィヴァルディです」


 女性は瑠璃色のドレスを摘んで、綺麗なお辞儀をしてみせる。


「素敵な花を感謝します」


「あなたの演奏への対価としてはあまりにも、ささやかですが。それにしても、ルカトーニの音楽が似合う見事な月夜です。このような特別な夜は、二人の音楽好きが親交を深めるのに申し分ないと思いませんか?」


「ふふ、そうですね。私も、いくつか訪れたいと思っていたところがあるのですが、何分にもこの街にはまだ不慣れなものでして。ご案内してくださる新しい友人が居るのならば、心強いですわ」



◆◇◆◇


 月明かりと街灯が照らす、おごそかで静謐せいひつな王都の街並みは、積み重ねられた歴史が香り立つかのような趣きがある。


 肉料理や甘味から装飾品まで、ありとあらゆる露店が立ち並ぶ通りは、一日の最後の活気に満ちていた。


 まだ、少年少女と呼べる年代の恋人コッピアが手を繋ぎ、天真爛漫な笑い声をあげて、踊るように通りを駆け抜けてゆく。


 パシャリ、という音が響き、二人は同時に振り返る。


 若い恋人達が走り去る様子を、二十歳はたちを超えたほどの女性が、熱心にカメラに収めているのが視界に入った。


 顔を見合わせた三人は自然と口角を上げると、ともに会釈を交わした。

 そこには同じ思い出を共有した者たちだけが持ち得る、確かな繋がりがあった。


 日常の一瞬に生まれた奇跡のような、魔法のような時間――。


 これだけは、奇術ウソでは作り出せないのものだ。

 ロレンツォは苦笑を浮かべると、少年達が走り去った方へと視線を向ける。


 その姿は、既にそこにはなかった。


素敵な夜をヴォーナ・セラータ


あなた達もアンケ・ア・ヴォイ


 女性に別れを告げると、二人は再び通りを歩いてゆく。


「先ほど演奏されていた曲は、ルカトーニのピアノソナタ第十一番ですね」


「えぇ、今では愛称で呼ばれる方が多いですが」


「あぁ、――〝月夜の悪魔La demonia del chiaro di luna〟。確かに、あなたの演奏には悪魔が宿っていると言う人も居るでしょう」


「買い被り過ぎです」


「そうでしょうか。最も、僕は悪魔というよりは、〝女王〟という方が相応しいと思いますけどね」


「なぜでしょうか?」


 彼女はロレンツォが、露店にて購入したソフトクリームを受け取ると、一言、感謝を伝えた。

 ロレンツォはチョコ、彼女は木苺ラズベリー味だった。


「多くの演奏家は、この曲を弾く時に相手の心を自分の世界へと引き込み奪おうとする。まさに〝悪魔〟のようにね。そして、その弾き手の気持ちは、演奏に大なり小なり現れるものです」


「私は違うと?」


「えぇ、あなたの演奏は、あくまで相手に捧げさせるものです。心をね」


「ですが、それは悪魔よりも、もっとタチの悪いものかもしれませんよ?」


 彼女はロレンツォの顔を紫水晶アメジストのように煌めく瞳で挑戦的に見つめ、顔にかかる髪を手で夜空へと払った。


「なぜです?」


「相手に選ばせるということは、ともなう責任もなにもかも背負わせるということですから」


 溶けかけた木苺のソフト。

 その最後の一口を食べた終えた彼女に、ロレンツォはシルクのハンカチを差し出した。


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