「今日はここまで。毎日暑いから体調崩さないように。もう遅いから気をつけて帰りなさいよ」
「はーい」
講師の言葉に、教室にガタガタと椅子の音が響く。
生徒たちが一斉に荷物をまとめ、ぞろぞろと出口へ向かう中、佳純は鞄に教科書を詰めながらふと窓の外を見やった。
夜の帳が下りた都会の空は、星一つ見えないほどに濁っている。つい先日、あの星空を博己と一緒に見上げたことを思い出した。
あの時、彼の指が示したベガの光が、今も佳純の胸の奥で疼いている。
塾は大きな駅のすぐ目の前で、遅い時間でも人通りが絶えることはない。
電車の中も、今まで休みの日に遊びに行くために乗ったときよりも、むしろ静かで落ち着いていると感じるくらいだ。
そもそも乗車時間は十数分なのだが。
ただ自宅は郊外の住宅街なので、駅で共に降りる人は意外に多いものの駅前通りを進んで曲がり角を経るごとに櫛の歯が欠けるように減って行く。
駅からそう遠くはないのに、自宅へ向かう角を曲がった先には同じ電車の乗客はもう誰もいないのが常だった。
佳純自身は子どもだったこともあり、まったく気にしたこともない。
しかし母は、娘が遅い時間に一人歩きする羽目になることを大袈裟なくらいに心配していた。
そのため、博己が毎回駅まで迎えに来てくれていたのだ。
母自身が担う予定でいたのを知った彼が、「お母さんだって女の人だろ、危ないって!」と説き伏せたという。
夏期講習の初日。
英語と数学が週に数回ずつ詰め込まれたスケジュールに、佳純は少し疲れながらも、どこか高揚していた。それは、勉強の忙しさとは別種の、胸を締め付けるような感覚だった。
「お兄ちゃん!」
改札を出た瞬間、佳純は彼の姿を見つけた。
長身の彼の、薄手のシャツが夏の夜風に揺れている。博己は右手を軽く上げ、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
その笑みが、佳純の心を一瞬で溶かす。だが、同時に、胸の奥に鋭い棘が刺さるような感覚もあった。それは、家族として愛すべき兄への想いを超えた、許されない何かだった。
「お兄ちゃん、いつもゴメンね。めんどくさいよね、こんな時間まで迎えに来てもらってさあ」
「いや、いいよ。バイト料もらってるしな、お母さんに。だから気にすんな」
博己はそう言って笑うが、佳純は知っていた。母が「バイト料」と称して渡す千円札が、週二回の迎えに対してあまりにも雀の涙であることを。
夏期講習で日数が増えてもその額は変わらない。博己が「お礼」を固辞したことも、母から聞いていた。
母としてはどうしても相応の報酬を受け取って欲しかったのだろうが、遠慮する博己の気持ちもわかるため無理強いできなかったのかもしれない。
彼はいつもそうだった。家族に対してどこか遠慮がちで、恩を返すことにこだわる。
博己は佳純の父の姉の息子、つまり血縁上は従兄だった。
彼がまだ小学二年生のときに伯母が亡くなり、博己は佳純の家に引き取られた。
彼は両親と養子縁組を結び、佳純とは戸籍上も「兄妹」として育てられた。
佳純にとって、博己は物心ついた時からそばにいた存在だ。兄というより、時には小さな親のように感じるほどにいつも佳純を気遣い守ってくれた。
だが、その優しさが、佳純の心に別の感情を芽生えさせていた。いつからか、彼の笑顔を見るたびに胸が締め付けられ、触れる指先に熱を感じるようになった。
それは「妹」として感じるべきではない、決して口に出せない感情だった。
そういえば、家に来た当初は呼び名も当然ながら「叔父さん、叔母さん」だったという。
しかし母が、「佳純が真似するから、博己くんが嫌じゃなければお父さん、お母さんって呼んで欲しい」と頼んだそうだ。
確かに本心でもあったのだろうが、半分以上口実でははないかと佳純は思っている。
博己が気兼ねなく、両親をそう呼べるように。
「学費も全部出してもらうのに、小遣いまでなんて……」
高校時代、アルバイトをしたいと切り出して「勉強に差し支えるから」と母に止められた際に、彼が口にした言葉。
「それくらい当たり前でしょ? 親なんだから」
あっさりそう告げる母に俯いていた義兄の姿を覚えている。
十歳になるかならないかだった当時は思い至らなかったが、彼は泣いていたのかもしれない。
おそらく二人は、佳純が開いたドアの外から見ていることには気づいていなかった筈だ。
博己はずっと、『家族』に申し訳ない気持ちを抱えて生きて来たのだろうか。
それは両親の実子である佳純には想像さえ及ばない重い現実だ。
塾の帰り道、佳純は博己の隣を歩きながら、彼のシャツの袖が風に揺れるのを見つめた。街灯の光が彼の横顔を照らし、佳純の胸はまたあの疼きに襲われる。
「お兄ちゃん、いつもこんな遅くまで待ってて、疲れない?」
尋ねる「妹」に、博己は「佳純が無事に帰る方が大事だろ」と笑った。
ふとした拍子に、彼の手が佳純の肩に触れる。ほんの一瞬の接触だったが、佳純の心臓は跳ね上がり、頬が熱を持った。
「だ、大丈夫だよ! あたし、もう中学生だし!」
慌てて言うと、博己は「そうか、立派になったな」とからかうように笑った。その無邪気な笑顔は、佳純にとっては残酷だった。彼には佳純のこの熱がまるで見えていないのだ。
家に帰り、ベッドに横たわると、佳純は自分の感情に苛まれた。
「お兄ちゃんは家族なのに、なんでこんな気持ちになるの?」
義兄妹という関係は、血縁としては遠くても、家族としての絆がそれを許さない。
そして佳純は知っていた。「従兄妹同士なら結婚できるが、自分たちは養子縁組で法的にも『兄妹』のため決して叶わない」ということを。
こんな想いは間違っているとわかっているのに、博己の声や笑顔を思い出すたび、胸が締め付けられた。
学校で友人が「クラスの男子に告白された」とはしゃぐ声を聞いたとき、佳純は笑顔で相槌を打ったが心の中では冷ややかに比較していた。
一般的には「爽やかなイケメン」に当たるのだろうあの男子の笑顔は、博己の足元にも及ばない。誰も博己には敵わないのだ。
「あー、暑い! 夜なのに全然涼しくならないね」
佳純は手で顔を扇ぎながら、隣を歩く博己に話し掛けた。声を明るく保つことで、胸のざわめきを隠そうとするかのように。
「アスファルトの輻射熱だろ。街に暮らすなら仕方ないさ。──ほら、佳純、空見て」
「空?」
博己の突然の言葉に、佳純は足を止めた。彼の指が夜空を指す。どこか不鮮明な光が薄く霞む空に、僅かに瞬く星が見えた。
「あの明るいのがベガ。で、右下のあっちのがアルタイル、左下のあれがデネブ。三つで夏の大三角だよ」
「へえ、夏の大三角! 有名だよね、こんな普通に見られるんだ! 『天体観測』にでも行かないと無理なのかと思ってたよ」
「まあ『とりあえず見える』程度だけどな」
佳純は目を輝かせて空を見上げた。
だが、心のどこかで、別の思いが渦巻いていた。織女と牽牛──ベガとアルタイルは、年に一度だけ天の川を渡って会える恋人同士だ。佳純の脳裏に、幼い頃の記憶がよみがえる。博己が「結婚するならお兄ちゃんがいい」と無邪気に言った自分を、笑って受け止めてくれたあの夏の日。
「佳純、ちょっと涼しくなっただろ? 気分だけでも」
博己の声は、幼い子に話すような優しさを含んでいた。佳純は笑顔で頷いたが、内心では叫びたかった。「お兄ちゃんには、あたしがもう子どもじゃないって気づいてほしい」と。
博己にとって自分は、いつまでも「小さな妹」のままなのだろうか。
佳純はもう中学生なのに。……本当の妹でもない、のに。
しかし、それだけは口に出せない。
まず間違いなく、博己は『妹』の真意を理解はしてくれないだろうから。その場合、彼を深く傷つけることになる。
都会とは言えなくとも、所詮は都市郊外だ。
大自然の澄みきった空気の中で見えるものとは、同じ星でもやはり違う。
それでも夏の夜空に、身体はともかく心が浄化されたような気はした。
おそらく、涼やかに光る星の効果だけではなく。
そう、きっと博己とふたりで見上げたからだ。
優しく、賢く、その上背が高くて格好もいい。佳純の自慢の『お兄ちゃん』。
その夜、佳純はベッドに横になりながら、胸の奥で疼く感情を抑えきれなかった。博己は義兄だ。家族だ。なのに、なぜこんなにも彼を想ってしまうのか。星空の下で彼と並んで歩いた時間が、こんなにも甘く、苦いのか。
──あたしは、
その事実に、佳純の心は静かに、だが確実にひび割れていくのだった。
高校時代の塾のない日の夕方、佳純はリビングで数学の宿題に頭を抱えていた。
参考書を広げたテーブルの向こうで、博己がコーヒーを飲みながら論文を読んでいる。
「どうした、詰まった?」
義兄に声を掛けられ、佳純は顔を上げた。
「うん、ここの方程式が……」と呟くと、博己は椅子を寄せてきて鉛筆を手に取った。
「ここ、こうやって解くんだよ」と言いながら、紙にスラスラと数式を書く彼の指先に、佳純の視線は釘付けになった。博己の声は穏やかで、近くで感じる彼の匂いが佳純の胸をざわつかせた。
「わ、わかった! ありがとう!」
慌てて目を逸らすと、博己は「焦んなよ、ゆっくりでいい」と笑った。その笑顔が佳純の心をさらに締め付ける。
だが彼は、佳純の動揺など気づくはずもない。
翌日、学校の休み時間に、仲の良い友人が「昨日、彼氏とデートしてきた!」と目を輝かせて話していた。
「めっちゃ楽しかった! 佳純も誰か好きな人いるでしょ?」
彼女に振られ、佳純は「うーん、いないかな」と誤魔化す。だが、心の中では博己の顔が浮かんでいた。
友人の彼氏の話は、普通の恋愛の甘さに満ちていた。それなのに、佳純にはそんな感情を抱く相手が博己以外に思い浮かばない。
「普通の恋がしたい」と願うのに、博己の存在がその可能性を全て塗り潰す。
その夜。部屋で一人、佳純は鏡を見つめた。
「こんな気持ち、間違ってる。家族なんだから」
呟くが、博己の笑顔を思い出すたび涙が滲んだ。義兄妹という絆が、佳純の心を縛り、解放してくれなかった。
佳純は高校合格後も同じ塾の大学受験コースに通ったのだが、塾帰りのお迎えは丸六年続いた。
彼は大学を卒業後も院に進んだため、就職して家を出るのと佳純の高校卒業が同時だったからだ。
ずっと一緒だった義兄がいなくなることに寂しい気持ちはあったが、引き止めるわけにも行かなかった。
佳純が我儘を振りかざしても、さすがに進路を簡単に諦めて曲げることはしないだろう。
それでも博己に余計な心労を掛けてしまう。
「お兄ちゃん、今まで本当にありがとう! あたしももう大学生になるし、これからは一人で頑張るよ」
「佳純なら大丈夫。俺は当然のことしかしてないよ。頑張ったのは全部佳純だろ。……なんかあったらいつでも連絡して。話し相手くらいはできるからさ」
だからなんとか笑って送り出した。今生の別れではあるまいし、と自分に言い聞かせながら。
他人とは違う。義理とはいえ兄妹だから、決して二人の関係は切れないのだ。
──遠く離れて暮らしてはいても。