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【2】

「佳純ちゃん、用意できたの!? もうすぐ時間よ」

「はいはい、もーバッチリよ!」

 母の急き立てるような声に答えて、佳純は改めて机に立てた鏡を覗き込んだ。

 髪も服もメイクもなかなか決まっている、と内心で自画自賛する。


 今日は博己が、夏季休暇を利用して結婚相手を家族に紹介するために連れて来るのだという。

 義兄が独立してもう二年以上が経った。両親は少し前からそれとなく聞かされていたらしいが、佳純にはまさしく寝耳に水だ。

 それでも特に混乱することもなく、むしろ彼の相手に会えるのを楽しみにしていたのだ。意識の上では確かに。


「はじめまして。荻野おぎの かおりです」

「大学のサークルで一緒だったんだ。学部は別だけど同学年で、僕もかおりちゃんも現役だから年も同じ」

 義兄の恋人、──近い将来には妻になるその人は、綺麗で知性的でいて優しそうな非の打ちどころのない女性だった。

 ……佳純には、最初から文句をつける気などない、筈なのだけれど。


 両親と挨拶を交わしたかおりと、佳純も加えた五人でしばしの和やかな時間を過ごす。

 午後からの約束だったため、博己とかおりは最初は夕食を一緒に、というつもりだったようだ。

 しかし、母が「いきなり知らない家でご飯も気を遣うだろうし、あまり遅くならない方がいいから」と、お茶になったという。

 父がこっそり教えてくれたところでは、両親の結婚の挨拶時に、まさしく母が気疲れしてしまった過去からの反省らしかった。

 祖父母にも決して悪気があったわけではなく、母も歓迎の意を理解してはいてもやはり「大変だった」と零していたそうだ。

 ましてや自分たちは博己の実親ではない。

 互いのためにも、彼や結婚相手とは適度な距離感を保ちたい、という想いが特に母にはあったのだろう。


 初めは皆がどことなく緊張していた対面も無事に済み、これから正式に結婚に向けて動くことになる。

 準備に携わるのは当事者の二人とせいぜい双方の両親で、妹の出番はまずない。

 次は両家の顔合わせというところか。



 かおりが家を辞する際に、博己に誘われて佳純も二人とともに出掛けることになった。

 駅への道すがら聞くと、彼女が以前から『恋人の』と話したがっていたと聞かされる。

 佳純も、彼女についてもう少し知りたかったのでちょうどよかった。


 とりあえず入った駅前のカフェ。

 昔は二人で、あるいは家族揃って何度も訪れた馴染みの店だ。

 義兄が家族に加わったとき、佳純は二歳だった。それ以前にも、伯母に連れられて家を訪ねて来ることはよくあったらしいが。

 正直、そのあたりの記憶などまったく残っていなかった。気が付いたら、博己は佳純の『兄』だったのだから。

 しかし彼には、その頃の印象が一番強いのかもしれない。


 二人で楽しそうに会話しながらも、かおりは合間に佳純に目線や声を向けるのを怠らなかった。

 佳純が疎外感を覚えないようにとの気配りなのはもちろんわかっている。

 ずっと年下の佳純にも、彼女は義兄や両親に対するのと同じ柔らかな笑みを向けてくれていた。

 心温かい人。

 家での会話の中で、かおりは博己の置かれていた状況、──実母を亡くして叔父夫婦に引き取られ、従妹である佳純と『兄妹』として育ったのもすべて承知だと知らされた。

 その上で博己の妹として佳純に接してくれている。


「わたし兄と弟がいて、ずっと妹が欲しいと思ってたの。仲良くしてくれると嬉しいわ」

「……はい。あたしもお姉さん欲しかったんで嬉しいです」

 義兄が愛したのが、こんな素敵な女性でよかった。

 そう感じているのも間違いないのに、何故か心に靄が掛かっているような気がする。


「大学のときヒロが、……博己くんが『シスコン』て揶揄われるたびに『うちの妹は可愛いからな!』って返してた意味がよくわかった。佳純ちゃんくらい可愛かったらそりゃあそうなるわよねぇ」

「いや、だって年離れてるからさぁ。どうしてもよちよち歩きの頃がチラついて……」

 その瞬間、博己が佳純の髪を無造作に撫でた。

 普段なら嬉しくなるその仕草が、今は佳純の心を切り裂いた。

「お、お兄ちゃん、髪乱れるから! すごい頑張ってセットしたんだよ!」

 咄嗟に手を振り払うと、かおりが「博己くん、佳純ちゃんのこと本当に大事にしてるよね。ちょっと妬けちゃうな」と冗談めかして口にした。表情からも本気ではないのはすぐわかる。

 けれどかおりが佳純に「博己くん、佳純ちゃんのこと本当に大事にしてるよね。ちょっと妬けちゃうな」と冗談めかして口にした。表情からも本気でないのはすぐにわかる。けれど佳純はその冗談に笑顔を凍らせる。かおりの目は、佳純の心を見透かしているようだった。


 とりとめない会話の中、かおりが博己の腕に軽く触れながら笑うのを見て佳純の胸に鋭い痛みが走る。彼女に見せつけるつもりなどないのは明白だ。たとえ佳純の想いを見抜いていたとしても、同じステージにさえ立てない相手だとかおりはわかっている。

 その笑顔は、佳純が博己に贈りたかったものだ。

 彼女は博己の織姫になれる人。佳純には決して手に入らない、光そのものだった。


「あら、おかえり。ご飯は?」

「……要らない。カフェでちょっと食べたし」

 二人と別れて帰宅した佳純を迎えてくれた母に、緩慢に首を振る。

「どうしたの、元気ないね」

 母が声を掛けて来た。

 佳純は「疲れただけ」と誤魔化したかったが、母の視線には何かを見透かすような鋭さがあった。

「博己くんの結婚は佳純には大きいことよね。でも、彼には彼の人生があるのよ」  

 その言葉に、佳純の心臓が凍りつく。

 母は佳純のこの想いに気づいているのではないか。もし疑惑を超えて公になったら、家族の絆すら壊れてしまう。

 そんな恐怖が、佳純を苛んだ。


 そのまま自分の部屋に向かい、佳純はベッドに身体を投げ出した。

 とっておきのお洒落なワンピースが皺になる。

 まずは着替えて、普段より念入りなメイクも落とさなければ。

 頭では冷静に考えているのに、どうしても動くことができなかった。


「ズルいよ、お兄ちゃん」

 知らず声が漏れてしまう。

 佳純の『男』の基準は、ずっと博己だった。

 レベルを上げるだけ上げてあっさり梯子を外されたような、というのは、いくらなんでも被害妄想だとわかってはいるのだが。

 中高は共に公立の共学校だったし、大学に入ってからも当然ながら周りに同年代の男子は多い。

 友人として喋ったり遊んだりする分には何も問題はなかった。そこに性別は必要以上には介在しないからだ。

 しかし、少しでも恋愛感情を混ぜられると一気に冷めてしまうのだ。

 無意識に博己と比べて不合格の烙印を押してしまう自分に、佳純は逆に戸惑っていた。

 中学生の頃に友人が「告白された」というのを聴いたあの頃から、自分は何も変わっていないのかもしれない。


 博己は共に生きる伴侶を見つけた。

 結婚したら、義兄の家族は妻であるかおりだけになる。子どもが生まれたらその子も加わる。

 ……佳純は単なる『親族』でしかなくなるのだ。これは仮に実妹だったとしても変わらない、のだが。


 かおりがもっと嫌な女ならよかった。それなら心置きなく憎めるのに。

 けれど佳純の頭を過った醜い感情は、ほんの一瞬で泡のように消えた。

 敢えて言葉にするまでもなく、佳純は博己の不幸を望んでいるわけではない。大好きな「お兄ちゃん」には、誰よりも幸せになって欲しいというのが掛け値なしの本音だった。

 そのために己が苦しい思いをするとしても。


 だから、これをいい機会チャンスだと捉えなければ。

 白馬の王子さまは、ただぼんやりと待っていても向こうから来てはくれない。義兄とは違って。

 二十歳になった佳純は、それぐらいとうに気づいている。




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