誰もが言っていた。
久瀬隼人は、霧島栖を命よりも大切にしていると。
十年かけて彼女を追い続け、十年かけて甘やかし続けた。
彼女がほんの少し眉をひそめただけで、心を痛めるような男だった。
けれど、そんな久瀬隼人は、霧島栖を三度も裏切った。
最初は、あるパーティーだった。
ライバル企業の策略で、薬を盛られ、女子大生と一夜を共にしてしまった。
霧島栖が離婚を切り出したその日、久瀬隼人はその女子大生を夜のうちに海外へと送り出し、彼女のマンションの下で雨に打たれ続けた。
「栖ちゃん……俺が悪かった。今回だけは、許してくれないか」
彼の顔は蒼白で、目には涙が浮かんでいた。
それを見た霧島栖の心は、ふと揺らいでしまった。
――そして、二度目の裏切り。
彼女が病院を訪れたときのことだった。
偶然にも、久瀬隼人があの女子大生に付き添い、妊婦健診を受けさせているところを目撃してしまったのだ。
彼は赤くなった目で言い訳をした。
「栖ちゃん、あれは半月前のことだ。俺が海外で商談してた時、事故に巻き込まれて……彼女が爆発寸前の車から俺を引きずり出してくれたんだ。命の恩人なんだよ」
「それで……彼女が妊娠してるってわかった時、祖母が命を絶つなんて言い出して……どうしても子どもを産ませなきゃいけなくなったんだ」
久瀬隼人は霧島栖をきつく抱きしめ、震える声で懇願した。
「お願いだ、俺のそばにいてくれ。彼女が子どもを産んだら、すぐに遠ざける。子どもは本邸に預けて、一生、お前の前には出さないと誓う」
彼女は、信じてしまった。
だが、三度目。
彼はオークション会場で、霧島栖と競り合った。
彼女の母が生前、大切にしていたサファイアのネックレス。
母との唯一の形見であり、栖にとっては何にも代えがたい宝物。
しかし久瀬隼人は、札を上げ続けた。
一度ごとにその額は跳ね上がり、最後には「天井価格」で落札。
そして、そのネックレスをあの女子大生に贈ったのだった。
栖は控室に駆け込み、彼を問い詰めた。
「どうして……どうしてあの人に!?」
だが久瀬隼人は、ただ疲れたように眉間を押さえながら言った。
「最近、彼女がマタニティブルーでさ……どうしてもあのネックレスが欲しいって」
「栖ちゃん、少しだけ……彼女に譲ってやってくれないか?」
その瞬間、霧島栖はふと笑った。
笑いながら、ぽろぽろと涙をこぼした。
「……もし、譲らなかったら?」
久瀬隼人は不快そうに眉をひそめた。
「栖ちゃん、もうやめてくれよ。瑶はもうすぐ出産だ……子どもが生まれたら、全部元通りになるからさ」
「……元通り?」
霧島栖はその言葉を繰り返し、彼をじっと見つめた。
心の奥で、斧で一閃に裂かれたような痛みが走る。
――元通りって、どんな日々のこと?
彼の目に、自分しか映っていなかった頃?
それとも、嵐の夜に車を飛ばし、三時間かけて、たった一つの苺ショートケーキを買いに来てくれたあの夜のこと?
彼は今も、本当に覚えているのだろうか。
「久瀬様……」
背後から聞こえたのは、白鳥瑶の掠れた声だった。
彼女は大きなお腹を抱え、顔面蒼白で壁にもたれかかっていた。
「足をくじいてしまって……痛い……」
その瞬間、久瀬隼人の表情が変わった。
次の瞬間には霧島栖を強く突き飛ばし、駆け寄って白鳥瑶を抱き上げていた。
その勢いで、彼の肩が栖の身体にぶつかり、彼女はよろめいて後ろに下がり、腰をテーブルの角に激しく打ちつけた。
ズキン、と鋭い痛みが走り、冷たい汗が背中を濡らす。
「久瀬隼人!」
彼女は震える声で名を呼んだ。
――けれど、彼は一度も振り返らなかった。
白鳥瑶を腕に抱えたまま、大股で病室を後にする。
その背中は、まるで逃げるように遠ざかっていった。
栖はその場に立ち尽くし、そして笑った。
笑えば笑うほど、涙が止まらなくなった。
命の恩人、そして彼との子ども。
久瀬隼人、お前はもう彼女から逃れられない。
……そんなあなただと、私たちが元通りになんて、なれるわけないじゃない。
彼女はふらつきながら立ち上がり、額ににじむ血を拭い取ると、無言で車へと乗り込んだ。
運転手が恐る恐る問いかける。
「奥様……別邸にお戻りになりますか?」
「……いいえ」
目を閉じたまま、栖はぽつりと言った。
「法律事務所へ」
二時間後。
霧島栖は、印刷されたばかりの離婚届を手に、病院へ向かった。
最上階のVIPフロア。
廊下の先に立つボディーガードは、彼女を見るなりバツが悪そうに視線をそらした。
廊下の影に身をひそめ、彼女は見つめた。
久瀬隼人は、フロアを丸ごと貸し切り、
医者も看護師もすぐ呼べるように手配し、
そして何より、白鳥瑶のそばを一瞬たりとも離れなかった。
彼女が眉をひそめただけで、まるで空が落ちてくるかのように、慌てふためく彼。
「ねぇ……西エリアのスイーツショップのティラミスが食べたいなぁ……」
白鳥瑶が甘えた声でつぶやくと、
「待ってて、すぐ戻る」
久瀬隼人は、一秒のためらいもなく車のキーを取り、病室を飛び出していった。
その姿を、廊下の隅から見ていた霧島栖の心臓は、まるで生きたまま、胸を裂かれるような痛みを覚えた。
久瀬隼人が病室を出て行ったのを見届けてから、霧島栖はゆっくりとドアを押し開けた。
ベッドの上、白鳥瑶が彼女を見るなり、目にみるみる涙をためて声を震わせた。
「霧島さん……怒って来られたんですよね?本当に、ごめんなさい……。あのネックレスが、どうしても欲しかっただけで……」
今にも泣き出しそうな声で、続ける。
「久瀬様は、確かにあなたから奪ってまで私にくれたけど、それは……無事に出産して、またあなたとやり直すためなんです。さっきまで私の世話をしてくれたけど、心の中はずっとあなたのことでいっぱいなんです。……私、分かってます」
「ここにいるのは、私たち二人だけよ。もう芝居はやめて」
霧島栖は、彼女の見事な芝居に付き合う気など微塵もなかった。
「三年前、久瀬隼人があなたに五億円渡して“消えてくれ”って言ったの、覚えてるでしょ?でもあなたは戻ってきた。しかも妊娠までして。あなたが何を求めてるか……私はもう、よく分かってる」
白鳥瑶の顔から、さっきまでの涙がすっと消えた。
「私は、もうその茶番に付き合う気はないわ」
霧島栖は一枚の書類を差し出した。
「この離婚届、私から渡したら、きっと彼は絶対にサインしない。だから……あなたの手で、彼に気づかれないように署名させて」
白鳥瑶は唇を噛みしめ、小さく首を振った。
「誤解です……私、二人の間を壊すつもりなんて……!」
「チャンスは一度きりよ」
霧島栖はぴしゃりと遮った。
「よく考えて」
白鳥瑶はしばらくのあいだ離婚届をじっと見つめていたが――やがて、静かにそれを受け取った。
「……ありがとうございます。私たち“三人家族”を、認めてくださって」
――三人家族。
その言葉が、鈍い刃のように霧島栖の胸を深く突き刺す。
息を吸うたびに、痛みが心臓を締めつけた。
「……それなら、どうかお幸せに。三人家族で、ずっと」
別邸に戻った霧島栖は、大きな紙箱を取り出し、
久瀬隼人にまつわるものを一つひとつ、詰めていった。
彼とは幼なじみで、積み重ねた思い出は数え切れない。
箱に最初に入れたのは、一冊のアルバムだった。
開いた最初のページには、二人が五歳のときに撮った写真が貼られていた。
彼は小さなスーツを着て、仏頂面で彼女の隣に立っている。けれど、その手はそっと彼女のスカートのすそを掴んでいた。
久瀬の母親が言っていた。
あの日、彼はどうしても一人で写真を撮ろうとせず、「栖ちゃんと一緒じゃなきゃヤダ」って、泣きわめいたのよ。
あれが、彼が初めて見せた“独占欲”だった。
次に箱へ入れたのは、高校時代の制服のボタンだった。
卒業式の日、女子たちが男子の第二ボタンを奪い合っている中、彼女はずっと席に座ったまま、何もしなかった。
けれど放課後、彼女の机の中に、ひっそりと彼のボタンと一枚のメモが入っていた。
「俺のだけ、受け取れ」
その頃の彼はもう、「久瀬家の跡取り」という立場を巧みに使い、
他の男子が彼女に近づかないよう仕向けていた。
そして三つ目は、ダイヤの指輪。
結婚できる年齢になったその日、彼は興奮気味に六本木ヒルズの巨大スクリーンを貸し切り、プロポーズをした。
ヘリコプターがばら撒いたバラの花びらの中、彼はそのダイヤの指輪を差し出し、愛を込めて言った。
「栖ちゃん、これからの人生、俺はずっとあなただけのものだ」
もし白鳥瑶がいなければ、彼と、白髪になるまで添い遂げられると、本気で信じていた。
霧島栖は自嘲気味に笑い、箱に詰め込んだ思い出の品を、そのままゴミ箱へと捨てた。
翌朝、彼女は階下の騒がしい音で目を覚ました。
寝巻のまま廊下に出てみると、使用人たちが次々と高級ブランドの紙袋をリビングに運び込んでいるところだった。
エルメスのバッグ、カルティエのジュエリー、シャネルのオートクチュール……
白鳥瑶はその場で、か弱く首を振っていた。
「久瀬様、こんなにお金を使わなくても……私、別に欲しくて言ったわけじゃ……」
久瀬隼人は彼女を見つめ、優しい声で言う。
「いい子だから、ちゃんと受け取って。気持ちが穏やかだと、赤ちゃんも元気に生まれるんだから」
ちょうどそのとき――
彼の視線が、階段の上からこちらを見ていた霧島栖とぶつかった。
一瞬で顔がこわばる。
そして、気まずそうに口を開いた。
「栖ちゃん……悪い、今回は瑶にだけプレゼント買ったんだ。君には次、何か欲しいものを聞いて買ってくるから」
彼女が何も言う前に、白鳥瑶がふんわりと微笑みながら割って入った。
「久瀬様、奥様にはもう……一番欲しいものを用意しましたよ」
そう言って、白鳥瑶は霧島栖のもとへ歩み寄り、封筒を手渡した。
霧島栖がそれを開くと、中には一通の書類が入っていた。
すでに署名済みの、離婚届。
久瀬隼人のサインは、勢いよく書かれ。まるで昔、彼が彼女に送っていたラブレターの筆跡と、寸分違わぬものであった。