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第2話

霧島栖はサイン済みの離婚届をじっと見つめた。


心臓が、目に見えない誰かの手にぎゅっと握られたように痛む。


――白鳥瑶、本当にやってのけたのね。


……いいわ。


これで、彼らは三人家族として幸せに暮らせばいい。

私は、霧島栖は――

今日この瞬間から、自分のためだけに生きていく。


「栖ちゃん、君が一番欲しかったプレゼントって……何?」

久瀬隼人が急に顔を近づけてきて、眉をひそめながら尋ねてくる。


「俺、そんなの聞いてないけど?」


そう言って、彼は封筒を取ろうと手を伸ばしてきたが、

霧島栖は素早くそれを引き寄せて隠した。


彼は片眉を上げて、少しだけ笑った。


「……俺にまで秘密か?」


霧島栖は、皮肉っぽく唇を引き上げた。


「そっちこそ、三ヶ月も妊娠のこと黙ってて、私が偶然見なかったら、ずっと隠すつもりだったんでしょ?」


彼の顔色がサッと変わる。


そして思わず白鳥瑶の方を一瞥してから、低く押し殺した声で言った。


「……あの話は、もうしないって決めただろ。子どもを産ませる理由も、ちゃんと説明した」


そう言いながら、彼の声色は急に柔らかくなる。


「君に黙ってたのは、怖かったからなんだ。……君が、俺のもとからいなくなるのが」


――怖いだって?


久瀬隼人。人は一番怖いことを、いちばん簡単に手放してしまうのよ。


そのとき――白鳥瑶が、潤んだ目でぽつりと呟いた。


「全部……私が悪いんです……あの夜、久瀬様の薬を解こうと身体を差し出した私が悪い……それを、お祖母様に知られて妊娠がバレたのも、私の責任で……本当は、お二人の邪魔をするつもりなんて、一切なかったんです……」


涙が今にもこぼれそうで、ひどく哀れな演技。


それを見た久瀬隼人は、すぐさま彼女の元へ向かい、まるで壊れ物に触れるように優しくなだめた。


「何言ってるんだ、全部君のせいじゃない」


その声の温かさは――かつて、霧島栖に向けられていたものと、何も変わらなかった。


彼女はもう見ていられず、踵を返して玄関へと向かう。


その時になって、ようやく久瀬隼人が気づき、慌てて後ろを追ってきた。


「栖ちゃん、どこ行くんだ?」


「ちょっと用事」


「外は大雨だ。送っていくよ」


そう言うと、彼はすぐに使用人に向かって指示を出し始めた。


「瑶には冷たい水を触れさせるな。部屋の温度はあと二度上げて。最近は食欲が落ちてるから、薬膳スープにトウキは入れないでくれ……」


妊婦の体調管理について、細かいことまで延々と話し続けた。

完璧を期すように、漏らすことがないように。


玄関に立つ霧島栖は、無言でその姿を見つめていた。


――そして、ようやく彼の指示が終わり、

久瀬隼人は彼女の後を追って車へと乗り込んだ。


霧島栖は彼を見つめて、ふっと笑った。


「久瀬隼人、あなた……きっと、いいお父さんになるわ」


久瀬隼人は、一瞬きょとんとした。

まさか彼女がそんな言葉を口にするとは、思ってもみなかったのだろう。


彼は霧島栖の手首を掴み、押し殺したような苦しげな声で言った。


「栖ちゃん……俺が父親として認めたいのは、君のお腹から生まれる子だけなんだ。俺が自分の意思で選べなかったこと、君だって分かってるだろ?……そんなふうに言わないでくれよ」


彼の掌は、昔と変わらず温かかった。

でも、その温もりは、もう霧島栖の心には届かなかった。


彼女は何も言わず、ただ黙って窓の外を見つめていた。


車内には、瞬く間に重苦しい沈黙が降りた。


やがて車がゆっくりと走り出し、

空気を和らげようとしたのか、久瀬隼人がわざと明るい声で話しかけた。


「栖ちゃん、こんな大雨の中……目黒通りまで何しに行くの?」


彼女が口を開こうとしたそのとき――彼のスマホが鳴った。


「久瀬様……お腹、急に痛くなって……」


白鳥瑶のか細く震える声が、スピーカー越しに漏れてきた。


その瞬間、久瀬隼人の顔色がさっと変わる。


「大丈夫、すぐ戻るから!」


通話を切ると、彼はすぐに霧島栖の方を向いた。


「栖ちゃん、ここから目黒通りはすぐだし……ごめん、君ひとりでタクシー拾って行ける?」


「うん」


彼女は淡々と答え、ドアを開けて車を降りた。


途端に、激しい雨が全身を濡らした。

彼女は道端に立ち、久瀬隼人の車が音を立てて走り去るのを見送った。


そして、ぽつりと笑った。


――あとほんの少しで、あなたは私がどこに行くのか、気づけたのにね。久瀬隼人。


風雨は激しく、タクシーなどつかまるはずもなかった。

霧島栖はひとり、折れた傘を手にずぶ濡れのまま歩いた。


雨と涙が混ざって、視界はぼやけた。


ようやく市区町村役場にたどり着いたとき、彼女の姿はすっかり濡れて、見るも無惨だった。


「すみません、離婚の手続きに来ました」


彼女は大切に包んでいた離婚届を差し出した。紙は一滴も濡れていなかった。


役所を出たとき、雨はもう止んでいた。


霧島栖は顔を上げて、突然晴れ渡った空を見つめた。


胸の痛みが、少しだけ、和らいでいく。


――どうやら、離婚後の人生も。

今日の空のように、少しずつ晴れていくのだろう。





別邸に戻ったとき、リビングは静まり返っていて、誰の姿もなかった。


そのとき、階上から優しい声が聞こえてきた。


「星の王子さまは、一匹の狐に出会いました……」


久瀬隼人が、白鳥瑶に絵本を読み聞かせているのだ。


霧島栖は頭がぼんやりとしていて、そのままベッドに潜り込んだ。

どれくらい眠ったのかも分からない。

気がつくと喉が焼けるように渇いていた。


「……水」


何度もそう声に出して呼んだが、返ってくるのは隣の部屋からの語りかけだけだった。


「久瀬様……生まれてくる子どもが、あなたみたいにカッコよくて、賢かったらいいなぁ……」


白鳥瑶の甘ったるい声。


「そんなこと言うもんじゃない」

久瀬隼人が、くすっと笑う。


「君に似たら、それはそれで素晴らしい。優しくて、純粋で……とてもきれいな心を持ってる」


見えなくても、今の白鳥瑶が頬を赤らめている様子は容易に想像できた。

まるで本物の夫婦のように、もうすぐ生まれてくる命に夢を語り合っていた。


霧島栖はふらふらと身体を起こし、水を取ろうと手を伸ばした。

けれど、力が入らず、コップを落としてしまった。


ガシャン――!


床に砕け散る音。


しゃがみ込んで拾おうとした瞬間、視界がぐらりと揺れて、そのまま前のめりに倒れ込んだ。


掌にはガラスの破片が深く刺さり、血がじわじわとにじんでくる。


それでも霧島栖は、唇をきつく噛みしめながら、ひとつひとつ、痛みに耐えて破片を取り除いた。


薬箱から解熱剤を探し出して、ようやくそれを飲み込む。


――その間ずっと、隣の部屋からは楽しそうな笑い声が途切れることなく続いていた。


ベッドに戻って横になったとき、ふと大学時代のことが蘇った。


あの年の冬、熱を出した彼女のもとに、久瀬隼人は駆けつけ、三日も彼女の傍を離れなかった。


あのとき、彼は涙ぐんでこう言ったのだ。


「栖ちゃん、君が苦しいと、俺の方がもっと辛い」


……今も、覚えてる?


久瀬隼人。君はその言葉を、まだ心に留めているだろうか。


涙が音もなく、枕に染みていく。


彼女はそっと目を閉じ、

やがて、静かに暗闇へと身を委ねた。

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