霧島栖はサイン済みの離婚届をじっと見つめた。
心臓が、目に見えない誰かの手にぎゅっと握られたように痛む。
――白鳥瑶、本当にやってのけたのね。
……いいわ。
これで、彼らは三人家族として幸せに暮らせばいい。
私は、霧島栖は――
今日この瞬間から、自分のためだけに生きていく。
「栖ちゃん、君が一番欲しかったプレゼントって……何?」
久瀬隼人が急に顔を近づけてきて、眉をひそめながら尋ねてくる。
「俺、そんなの聞いてないけど?」
そう言って、彼は封筒を取ろうと手を伸ばしてきたが、
霧島栖は素早くそれを引き寄せて隠した。
彼は片眉を上げて、少しだけ笑った。
「……俺にまで秘密か?」
霧島栖は、皮肉っぽく唇を引き上げた。
「そっちこそ、三ヶ月も妊娠のこと黙ってて、私が偶然見なかったら、ずっと隠すつもりだったんでしょ?」
彼の顔色がサッと変わる。
そして思わず白鳥瑶の方を一瞥してから、低く押し殺した声で言った。
「……あの話は、もうしないって決めただろ。子どもを産ませる理由も、ちゃんと説明した」
そう言いながら、彼の声色は急に柔らかくなる。
「君に黙ってたのは、怖かったからなんだ。……君が、俺のもとからいなくなるのが」
――怖いだって?
久瀬隼人。人は一番怖いことを、いちばん簡単に手放してしまうのよ。
そのとき――白鳥瑶が、潤んだ目でぽつりと呟いた。
「全部……私が悪いんです……あの夜、久瀬様の薬を解こうと身体を差し出した私が悪い……それを、お祖母様に知られて妊娠がバレたのも、私の責任で……本当は、お二人の邪魔をするつもりなんて、一切なかったんです……」
涙が今にもこぼれそうで、ひどく哀れな演技。
それを見た久瀬隼人は、すぐさま彼女の元へ向かい、まるで壊れ物に触れるように優しくなだめた。
「何言ってるんだ、全部君のせいじゃない」
その声の温かさは――かつて、霧島栖に向けられていたものと、何も変わらなかった。
彼女はもう見ていられず、踵を返して玄関へと向かう。
その時になって、ようやく久瀬隼人が気づき、慌てて後ろを追ってきた。
「栖ちゃん、どこ行くんだ?」
「ちょっと用事」
「外は大雨だ。送っていくよ」
そう言うと、彼はすぐに使用人に向かって指示を出し始めた。
「瑶には冷たい水を触れさせるな。部屋の温度はあと二度上げて。最近は食欲が落ちてるから、薬膳スープにトウキは入れないでくれ……」
妊婦の体調管理について、細かいことまで延々と話し続けた。
完璧を期すように、漏らすことがないように。
玄関に立つ霧島栖は、無言でその姿を見つめていた。
――そして、ようやく彼の指示が終わり、
久瀬隼人は彼女の後を追って車へと乗り込んだ。
霧島栖は彼を見つめて、ふっと笑った。
「久瀬隼人、あなた……きっと、いいお父さんになるわ」
久瀬隼人は、一瞬きょとんとした。
まさか彼女がそんな言葉を口にするとは、思ってもみなかったのだろう。
彼は霧島栖の手首を掴み、押し殺したような苦しげな声で言った。
「栖ちゃん……俺が父親として認めたいのは、君のお腹から生まれる子だけなんだ。俺が自分の意思で選べなかったこと、君だって分かってるだろ?……そんなふうに言わないでくれよ」
彼の掌は、昔と変わらず温かかった。
でも、その温もりは、もう霧島栖の心には届かなかった。
彼女は何も言わず、ただ黙って窓の外を見つめていた。
車内には、瞬く間に重苦しい沈黙が降りた。
やがて車がゆっくりと走り出し、
空気を和らげようとしたのか、久瀬隼人がわざと明るい声で話しかけた。
「栖ちゃん、こんな大雨の中……目黒通りまで何しに行くの?」
彼女が口を開こうとしたそのとき――彼のスマホが鳴った。
「久瀬様……お腹、急に痛くなって……」
白鳥瑶のか細く震える声が、スピーカー越しに漏れてきた。
その瞬間、久瀬隼人の顔色がさっと変わる。
「大丈夫、すぐ戻るから!」
通話を切ると、彼はすぐに霧島栖の方を向いた。
「栖ちゃん、ここから目黒通りはすぐだし……ごめん、君ひとりでタクシー拾って行ける?」
「うん」
彼女は淡々と答え、ドアを開けて車を降りた。
途端に、激しい雨が全身を濡らした。
彼女は道端に立ち、久瀬隼人の車が音を立てて走り去るのを見送った。
そして、ぽつりと笑った。
――あとほんの少しで、あなたは私がどこに行くのか、気づけたのにね。久瀬隼人。
風雨は激しく、タクシーなどつかまるはずもなかった。
霧島栖はひとり、折れた傘を手にずぶ濡れのまま歩いた。
雨と涙が混ざって、視界はぼやけた。
ようやく市区町村役場にたどり着いたとき、彼女の姿はすっかり濡れて、見るも無惨だった。
「すみません、離婚の手続きに来ました」
彼女は大切に包んでいた離婚届を差し出した。紙は一滴も濡れていなかった。
役所を出たとき、雨はもう止んでいた。
霧島栖は顔を上げて、突然晴れ渡った空を見つめた。
胸の痛みが、少しだけ、和らいでいく。
――どうやら、離婚後の人生も。
今日の空のように、少しずつ晴れていくのだろう。
別邸に戻ったとき、リビングは静まり返っていて、誰の姿もなかった。
そのとき、階上から優しい声が聞こえてきた。
「星の王子さまは、一匹の狐に出会いました……」
久瀬隼人が、白鳥瑶に絵本を読み聞かせているのだ。
霧島栖は頭がぼんやりとしていて、そのままベッドに潜り込んだ。
どれくらい眠ったのかも分からない。
気がつくと喉が焼けるように渇いていた。
「……水」
何度もそう声に出して呼んだが、返ってくるのは隣の部屋からの語りかけだけだった。
「久瀬様……生まれてくる子どもが、あなたみたいにカッコよくて、賢かったらいいなぁ……」
白鳥瑶の甘ったるい声。
「そんなこと言うもんじゃない」
久瀬隼人が、くすっと笑う。
「君に似たら、それはそれで素晴らしい。優しくて、純粋で……とてもきれいな心を持ってる」
見えなくても、今の白鳥瑶が頬を赤らめている様子は容易に想像できた。
まるで本物の夫婦のように、もうすぐ生まれてくる命に夢を語り合っていた。
霧島栖はふらふらと身体を起こし、水を取ろうと手を伸ばした。
けれど、力が入らず、コップを落としてしまった。
ガシャン――!
床に砕け散る音。
しゃがみ込んで拾おうとした瞬間、視界がぐらりと揺れて、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
掌にはガラスの破片が深く刺さり、血がじわじわとにじんでくる。
それでも霧島栖は、唇をきつく噛みしめながら、ひとつひとつ、痛みに耐えて破片を取り除いた。
薬箱から解熱剤を探し出して、ようやくそれを飲み込む。
――その間ずっと、隣の部屋からは楽しそうな笑い声が途切れることなく続いていた。
ベッドに戻って横になったとき、ふと大学時代のことが蘇った。
あの年の冬、熱を出した彼女のもとに、久瀬隼人は駆けつけ、三日も彼女の傍を離れなかった。
あのとき、彼は涙ぐんでこう言ったのだ。
「栖ちゃん、君が苦しいと、俺の方がもっと辛い」
……今も、覚えてる?
久瀬隼人。君はその言葉を、まだ心に留めているだろうか。
涙が音もなく、枕に染みていく。
彼女はそっと目を閉じ、
やがて、静かに暗闇へと身を委ねた。