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第3話

「栖ちゃん!やっと目が覚めた!」


翌朝、目を開けた霧島栖の視界に飛び込んできたのは、隣で横になっていた久瀬隼人の顔だった。


彼はすぐさま手を伸ばして彼女の額に触れ、焦りを隠せない表情で言った。


「熱出してたのに、どうして俺を呼ばなかったんだ?帰ってきて君が倒れてるのを見たとき、どれだけ焦ったか分かってる?」


――呼んで、意味あるの?

その時あなたは、白鳥瑶と“あなたたちの子ども”のそばにいたじゃない。


「もう……平気よ」


栖はかすれた声で言い、彼の手をそっと払いのけた。


久瀬隼人は眉をひそめた。


「……怒ってる?」


「別に」


「君の気持ちは顔に出るから、すぐ分かるよ」


彼はそう言って、優しく彼女の額にキスを落とした。


「前から乗馬クラブに行きたいって言ってたよね?今日は連れて行ってあげるよ」


そう言いながら、まるで昔に戻ったかのように、彼女の身支度を手伝い始めた。

動作はとても穏やかで、優しかった。


栖は妙に突っぱねるのも不自然だと思い、流されるまま身を任せた。


ちょうど服に着替えて出かけようとしたその時――


「久瀬様……霧島さん……乗馬に行くんですか?」


白鳥瑶が遠慮がちに寝室のドアから顔をのぞかせた。

その腕はふっくらと膨らんだお腹をさすり、瞳には期待の色がにじんでいた。


「いいなあ……私、馬に乗ったことなくて。……一緒に行ってもいいですか?」


「ダメだ。妊娠してるんだぞ」


久瀬隼人は即座にきっぱりと断り、眉をしかめた。


だが白鳥瑶は唇をかみしめて、しおらしい声で訴える。


「でも……ずっと家にこもってるのも、赤ちゃんにはよくないって聞いて……」


その声はだんだんか細くなり、どこか甘えを含んでいた。


――もう、聞きたくない。


霧島栖はそう思い、黙って部屋を出た。


彼女は知っていた。

久瀬隼人がああいう“儚げなお願い”に弱いことを。


案の定、玄関まで来たところで、彼のため息混じりの妥協の声が聞こえた。


「……分かった。ただし、俺の言うことを全部聞くんだよ」


車に乗り込んでから、霧島栖は白鳥瑶も一緒に来ていることに気づいた。


久瀬隼人は、彼女を乗せる際にも丁寧に手を添え、

その手は彼女の腰を守るように優しく支えていた。


まるで、壊れ物を扱うように。


到着後も、その気遣いは途切れることがなかった。


「段差、気をつけて」


「日差しが強いから、帽子をかぶって」


「ゆっくり歩いて、無理はしないで」


そのひとつひとつが、霧島栖の胸を鈍く、鋭く、切り裂いていく。


彼女は無言で厩舎へ向かい、おとなしい牝馬を選んだ。

手慣れた様子で鞍をつけ、鐙を調整する。


この一連の動作は、すべて久瀬隼人が、彼女に教えてくれたことだった。


彼女の二十歳の誕生日。

彼はプライベートの乗馬クラブを貸し切り、一日中馬と風の中を駆け抜けた。


あの頃の久瀬隼人は、彼女のためにいた。

笑い、寄り添い、すべてを捧げてくれた。


でも今、その男の目に映っているのは、他の人だった。


プロテクターを着けてやり、鐙の長さを調整し、

細やかに気を配りながら、白鳥瑶を大切に守っていた。


まるで、彼女がそこにいないかのように。


久瀬隼人は、白鳥瑶の手綱をずっと握ったままだった。

一瞬たりとも手を放さず、まるで壊れやすいものを守るように。


――そのとき、彼のポケットでスマホが鳴った。


画面を確認した彼は、眉をひそめる。


すぐに白鳥瑶が、気遣うような笑顔で言った。


「久瀬様、お仕事ですか?……大丈夫です。もうちゃんと覚えましたから、一人でも乗れます」


久瀬隼人はなおも心配そうに、彼女の姿勢を何度も確認したのち、

ようやくその場を離れて電話を取りに行った。


霧島栖は馬をゆっくりと進め、練習場の端で手綱を引き止め、

静かにその様子を見つめていた。


光が久瀬隼人の背を長く伸ばしている。

電話をかけながら、彼はいつもの癖、人差し指でスマホの背面をトントンと叩いていた。


それは、彼女にとってはあまりにも馴染んだ仕草だった。


そのとき、不意に馬を操って近づいてきたのは白鳥瑶だった。

笑顔を浮かべたまま、明るい声で話しかけてくる。


「ねえ、霧島さん……馬がぶつかったら、どんなふうになると思います?私、まだ見たことなくて」


返事を待つ間もなく、彼女は馬腹をかかとで勢いよく蹴った。


瞬間、二頭の馬が激しくぶつかり合い、驚いた牝馬は同時に前脚を高く上げて嘶いた!


霧島栖は手綱を必死に握りしめたが、

白鳥瑶の馬が暴れ出した勢いに巻き込まれ、自分の馬も完全に制御不能となる。


耳元で、白鳥瑶が「あっ」と小さく声を上げ、手綱を「うっかり」手放し、体が馬から投げ出された。


「瑶っ!」


久瀬隼人が叫びながら駆け寄る。

地面に落ちる寸前の白鳥瑶を、彼は身を投げるようにしてその腕に受け止めた。


次の瞬間――


柵を突き破った数頭の馬たちが、混乱のまま霧島栖の方へと突進してきた。


「久瀬隼人っ……助けて!」


彼女は揺れる鞍の上で叫んだ。

けれどその声は、蹄の轟音にかき消された。


視界の端で、久瀬隼人が白鳥瑶を抱き上げて立ち上がるのが見えた。

彼は、一度も振り返らず、そのまま場外へと駆け出した。


馬蹄に巻き上げられた砂埃が目に入る。

手綱は滑り落ち、彼女の体は宙へと投げ出された。


――そうだ。


あの年、二十歳の誕生日。

同じこの乗馬施設で、彼が笑いながら言っていた。


「栖ちゃん、君が助けてって呼べば、俺は必ず振り返るよ」


風が唸りをあげる。


霧島栖の体は、勢いよく砂地に叩きつけられた。


滲んだ視界のなかで、最後に見たのは、

白鳥瑶を抱えて車に乗り込む久瀬隼人の背中。


あまりに急いでいて、あまりに、切実だった。


肋骨のあたりに、鋭い痛みが走る。

けれどそれ以上に、心が、裂けるように痛かった。


霧島栖は砂地に丸くなりながら、

どこまでも迫ってくる馬蹄の音を聞き、ゆっくりと、目を閉じた。

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