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第4話

霧島栖が目を覚ましたのは、鋭い痛みが走ったその瞬間だった。


目を開けると、そこは病院の病室。

ほんの少し首を傾けると、久瀬隼人がベッドのそばに座っているのが見えた。

目の下には薄く青い影が浮かんでいた。


「栖ちゃん、目が覚めたんだね」


彼はすぐに身を乗り出し、ほっとしたように微笑む。


「どこか、痛むところはない?」


霧島栖は口を開こうとしたが、喉は焼けつくように渇いていて、声が出なかった。


最後に見た光景が、脳裏によみがえる。

久瀬隼人が白鳥瑶を抱えて走り去る後ろ姿。そして、自分に向かって突進してくる馬。


「瑶が……ちょっと転んで怪我しちゃって」

久瀬隼人が急に話し出した。

その声には焦りがにじんでいた。


「彼女、血液凝固障害があって……今、出血が止まらないんだ。でも病院の血液バンクが足りなくて……」


霧島栖の胸の奥に、冷たい塊が落ちていく。


「適合する血液型が……君だけなんだ」


久瀬隼人は、そっと彼女の手を握った。


「栖ちゃん、お願いだ。少しでいいから、血を分けてやってくれないか?」


馬鹿げてる。あまりにも、馬鹿げてる。


霧島栖は勢いよく手を引いた。

その拍子に肋骨の痛みが走り、思わず息を呑む。


馬に踏まれ、命の危険すらあったのに、彼は一言も謝らなかった。

そして、彼の口から出た最初の言葉が……瑶のために血をくれ?


「……断る」


声はかすれていても、そのひとことひとことが、まるで刃物のようだった。


久瀬隼人は苦しげに眉をひそめた。


「彼女のお腹には……子どもがいるんだ。その子が生まれたら、全部終わる。だから今だけ、少し我慢してくれないか?」


その言葉に、霧島栖の身体がじわりと冷えていく。


彼の瞳を、じっと見つめた。


そこには、20年愛してきたあの優しい眼差しはなかった。

あるのは、ただ焦りだけ。


「久瀬様……白鳥さんの容態が、あまりよくなくて……」


看護師が小声で声をかけてくる。


久瀬隼人はすぐさま立ち上がり、霧島栖を半ば無理やりベッドから起こした。


「栖ちゃん、頼む。俺からのお願いだ」


――彼女は、採血室へと連れて行かれた。


針が血管に刺さった瞬間、あまりの痛みに、息が止まりそうになる。


「痛みますか?」

看護師が不思議そうに首をかしげる。


「針、そんなに強く刺してないはずですけど……」


霧島栖は首を横に振った。

けれど、涙が次から次へとこぼれて止まらなかった。


昔から、彼女は注射が大の苦手だった。


それを知っている久瀬隼人は、毎回そっと彼女の目を隠して、優しく囁いてくれた。


「栖ちゃん、いい子いい子。すぐ終わるから」


でも今、彼は採血室の外で時計を何度も見て、一度も、彼女の方を振り返ることはなかった。


400ccの血が抜かれたあと、霧島栖の視界は、波のように揺れて。

やがて、真っ暗になっていった。




看護師が霧島栖を採血室の外へ連れ出し、「少しここで休んでくださいね」と言って椅子に座らせた。


彼女はふらふらと座ったまま、視線の先に、久瀬隼人が一度もこちらを振り返ることなく、白鳥瑶の病室へ走っていく姿を見た。


思わず立ち上がり、足元をふらつかせながら、そのあとを追った。

病室の扉は開いていた。


霧島栖は、その隙間から中を覗き込む。


病室のベッドには、顔色の悪い白鳥瑶が横たわっていた。

手首には厚く巻かれた包帯が見える。


そのすぐそばで、久瀬隼人がベッドに腰掛け、

彼女の手をしっかりと握り、まるでガラス細工を扱うように優しく語りかけていた。


「もう大丈夫。怖くないよ」

「赤ちゃんも元気だってさ」


――その声は限りなく優しくて、まるで恋人同士だった。


霧島栖の目は、自然と白鳥瑶の手首に止まる。


そこに巻かれていたのは、彼女が三年前、神社で祈りを込めて授かったお守りだった。


久瀬隼人はそれを受け取ったとき、深々と頭を下げてこう言ったのだ。


「この先ずっと、外さないから」


――けれど今、それは別の女性の腕に巻かれていた。


あのときの誓いも、祈りも、全部……

この人にとっては、こんなにも簡単に裏切れるものだったの?


胸が裂けるように痛んだ。

霧島栖はこれ以上見ていられず、踵を返して病室を後にした。


自分の病室へ戻ったあと、ベッドに身を投げるようにうずくまり、

枕に顔を埋めて、ただただ泣いた。


――心が本当に壊れたとき、人は呼吸さえ苦しくなるのだと、初めて知った。





翌朝。


看護師が回診にやってきた。


「久瀬様の奥様ですね、こちらにご記入をお願いします」


差し出されたのは、病歴チェックシートだった。


霧島栖はぼんやりとしたまま記入を始める。

だが、「婚姻状況」の欄に差し掛かったとき、ペンの動きが止まった。


そして、ためらいのない筆致で――「未婚」と書き込んだ。


「……あの、久瀬様の奥様ですよね?」

看護師が怪訝そうにのぞき込む。


「既婚ではなく、未婚と記入されてますけど……久瀬様って、ご主人じゃないんですか?」


霧島栖は顔を上げることなく、静かに言った。


「違います。……もうすぐ、赤の他人になりますから」


その瞬間、病室のドアが急に開いた。


「……栖ちゃん、今、なんて言った……?」


そこには、驚愕の表情を浮かべた久瀬隼人が立っていた。

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