霧島栖が目を覚ましたのは、鋭い痛みが走ったその瞬間だった。
目を開けると、そこは病院の病室。
ほんの少し首を傾けると、久瀬隼人がベッドのそばに座っているのが見えた。
目の下には薄く青い影が浮かんでいた。
「栖ちゃん、目が覚めたんだね」
彼はすぐに身を乗り出し、ほっとしたように微笑む。
「どこか、痛むところはない?」
霧島栖は口を開こうとしたが、喉は焼けつくように渇いていて、声が出なかった。
最後に見た光景が、脳裏によみがえる。
久瀬隼人が白鳥瑶を抱えて走り去る後ろ姿。そして、自分に向かって突進してくる馬。
「瑶が……ちょっと転んで怪我しちゃって」
久瀬隼人が急に話し出した。
その声には焦りがにじんでいた。
「彼女、血液凝固障害があって……今、出血が止まらないんだ。でも病院の血液バンクが足りなくて……」
霧島栖の胸の奥に、冷たい塊が落ちていく。
「適合する血液型が……君だけなんだ」
久瀬隼人は、そっと彼女の手を握った。
「栖ちゃん、お願いだ。少しでいいから、血を分けてやってくれないか?」
馬鹿げてる。あまりにも、馬鹿げてる。
霧島栖は勢いよく手を引いた。
その拍子に肋骨の痛みが走り、思わず息を呑む。
馬に踏まれ、命の危険すらあったのに、彼は一言も謝らなかった。
そして、彼の口から出た最初の言葉が……瑶のために血をくれ?
「……断る」
声はかすれていても、そのひとことひとことが、まるで刃物のようだった。
久瀬隼人は苦しげに眉をひそめた。
「彼女のお腹には……子どもがいるんだ。その子が生まれたら、全部終わる。だから今だけ、少し我慢してくれないか?」
その言葉に、霧島栖の身体がじわりと冷えていく。
彼の瞳を、じっと見つめた。
そこには、20年愛してきたあの優しい眼差しはなかった。
あるのは、ただ焦りだけ。
「久瀬様……白鳥さんの容態が、あまりよくなくて……」
看護師が小声で声をかけてくる。
久瀬隼人はすぐさま立ち上がり、霧島栖を半ば無理やりベッドから起こした。
「栖ちゃん、頼む。俺からのお願いだ」
――彼女は、採血室へと連れて行かれた。
針が血管に刺さった瞬間、あまりの痛みに、息が止まりそうになる。
「痛みますか?」
看護師が不思議そうに首をかしげる。
「針、そんなに強く刺してないはずですけど……」
霧島栖は首を横に振った。
けれど、涙が次から次へとこぼれて止まらなかった。
昔から、彼女は注射が大の苦手だった。
それを知っている久瀬隼人は、毎回そっと彼女の目を隠して、優しく囁いてくれた。
「栖ちゃん、いい子いい子。すぐ終わるから」
でも今、彼は採血室の外で時計を何度も見て、一度も、彼女の方を振り返ることはなかった。
400ccの血が抜かれたあと、霧島栖の視界は、波のように揺れて。
やがて、真っ暗になっていった。
看護師が霧島栖を採血室の外へ連れ出し、「少しここで休んでくださいね」と言って椅子に座らせた。
彼女はふらふらと座ったまま、視線の先に、久瀬隼人が一度もこちらを振り返ることなく、白鳥瑶の病室へ走っていく姿を見た。
思わず立ち上がり、足元をふらつかせながら、そのあとを追った。
病室の扉は開いていた。
霧島栖は、その隙間から中を覗き込む。
病室のベッドには、顔色の悪い白鳥瑶が横たわっていた。
手首には厚く巻かれた包帯が見える。
そのすぐそばで、久瀬隼人がベッドに腰掛け、
彼女の手をしっかりと握り、まるでガラス細工を扱うように優しく語りかけていた。
「もう大丈夫。怖くないよ」
「赤ちゃんも元気だってさ」
――その声は限りなく優しくて、まるで恋人同士だった。
霧島栖の目は、自然と白鳥瑶の手首に止まる。
そこに巻かれていたのは、彼女が三年前、神社で祈りを込めて授かったお守りだった。
久瀬隼人はそれを受け取ったとき、深々と頭を下げてこう言ったのだ。
「この先ずっと、外さないから」
――けれど今、それは別の女性の腕に巻かれていた。
あのときの誓いも、祈りも、全部……
この人にとっては、こんなにも簡単に裏切れるものだったの?
胸が裂けるように痛んだ。
霧島栖はこれ以上見ていられず、踵を返して病室を後にした。
自分の病室へ戻ったあと、ベッドに身を投げるようにうずくまり、
枕に顔を埋めて、ただただ泣いた。
――心が本当に壊れたとき、人は呼吸さえ苦しくなるのだと、初めて知った。
翌朝。
看護師が回診にやってきた。
「久瀬様の奥様ですね、こちらにご記入をお願いします」
差し出されたのは、病歴チェックシートだった。
霧島栖はぼんやりとしたまま記入を始める。
だが、「婚姻状況」の欄に差し掛かったとき、ペンの動きが止まった。
そして、ためらいのない筆致で――「未婚」と書き込んだ。
「……あの、久瀬様の奥様ですよね?」
看護師が怪訝そうにのぞき込む。
「既婚ではなく、未婚と記入されてますけど……久瀬様って、ご主人じゃないんですか?」
霧島栖は顔を上げることなく、静かに言った。
「違います。……もうすぐ、赤の他人になりますから」
その瞬間、病室のドアが急に開いた。
「……栖ちゃん、今、なんて言った……?」
そこには、驚愕の表情を浮かべた久瀬隼人が立っていた。