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第5話

病室の空気が、一瞬で凍りついた。


看護師は気まずそうにカルテを抱えたまま、そそくさと病室を後にする。

残されたのは、ベッドに横たわる霧島栖と、ドアの前に立ち尽くす久瀬隼人。


「……まだ、あの献血の件で怒ってるのか?」


久瀬隼人が気まずそうに言いながら、そっと手を伸ばして彼女の頬に触れようとする。


「命がかかってたんだ、栖ちゃん……あの時は、どうしようもなかった」


霧島栖は顔をそむけ、その手を受け入れなかった。

彼の指先は空中で止まり、ぎこちなく引っ込められた。


「……この騒ぎが落ち着いたら、富士山のふもとにでも行こうか。久しぶりに、ゆっくり休もう」


彼はそう言って、手を引っ込めたまま優しい声を出す。


霧島栖は疲れたように目を閉じ、何も答えなかった。


しばらく沈黙が流れ、彼は再び口を開いた。


「……退院は、いつになりそう?」


その瞬間、霧島栖の中に違和感が走る。

彼の目的が、まったく別のところにある気がして、ゆっくりと目を開けた。


「……何かあったの?」


久瀬隼人は少しだけ逡巡したあと、ようやく答えた。


「瑶さんが……山芋と豚スペアリブのスープが飲みたいって。君の煮るスープがいちばん美味しいし、安心なんだ。頼めないかな」


霧島栖は、その場で固まった。


悲しみ、怒り、虚しさ――

ありとあらゆる感情が一気に押し寄せてきた。


私は、あなたにとって何なの?妻?それとも、白鳥瑶専属の料理人?


そう問いただしたい衝動を押し殺し、彼女はただ静かに言った。


「……わかった。退院したら、作って届けてもらうようにするわ」


彼の顔がぱっと明るくなり、身をかがめて彼女の額にそっとキスを落とす。


「栖ちゃん、ほんとに……君は、いちばん優しい」


彼女はそのキスを無表情で受け入れ、心の中で呟いた。


そうね、私は優しすぎたのかもしれない。


愛人に肋骨を折られても、ベッドから這い出して、その人のためにスープを作るなんて。


「私はただ……あの子が、無事に生まれてきてくれたらそれでいいの」


小さく、そう呟いた。


久瀬隼人はようやく異変に気づいたのか、眉をひそめて彼女を見つめる。


「……君、前はあの子のこと、あんなに嫌がってたよね?」


霧島栖は唇をかすかに歪めた。


「今は、もう平気」


――三人家族。

そう、あなたたちの家族は、誰一人欠けちゃいけない。

だから私は、静かに身を引く。


久瀬隼人は彼女をじっと見つめていたが、やがて腕時計に視線を落とす。


「……薬の時間だ。瑶さんのところ、行ってくる。あとで、また来るから」


彼が病室を出て行き、ドアが音を立てて閉まったその瞬間、

霧島栖はゆっくりとベッドに横たわり、天井を見つめながらふっと笑った。


――久瀬隼人、そのまま戻ってこなかった。


気づけば、五日が経っていた。


霧島栖は退院し、自宅へと戻った。


約束どおりスープを煮込み、ドライバーに病院まで届けさせた。


そのあと、彼女は黙々と荷造りを始める。


パスポート、必要な書類、よく着る服を数枚――


ベッドのとなりには、彼と一緒に写っている写真立てが置かれていた。


霧島栖は静かに見つめたあと、そっと手に取り、静かに裏返した。




六日目の夜、久瀬隼人が突然帰ってきた。

だが、白鳥瑶の姿はどこにもなかった。


「……白鳥さん、一緒じゃないの?」


霧島栖が思わず問いかけると、久瀬隼人はじっと彼女を見つめたまま答えた。


「病院で、まだ療養中だ」


「……そんなに長引くの?まだ退院してないの?」


霧島栖が眉をひそめると、彼は小さく「うん」と頷き、そしてゆっくり彼女の前に歩み寄ってきた。


「ちょうど良かった。栖ちゃん、前に言ってた富士山麓の温泉旅行、もう手配した。

今から出発しよう」


彼女が返事をする間もなく、久瀬隼人は彼女の手首を強く引いた。


その勢いに、霧島栖は思わずよろめく。

どこか、胸に不安がよぎる。


久瀬隼人の表情があまりに冷たかった。その目は、氷のように凍りついていた。


道中、車の中は恐ろしいほど静かだった。


彼はハンドルを固く握りしめ、白い指の節が浮き出ていた。


霧島栖は窓の外に目を向けた。流れていく街の灯が、胸の奥をざわつかせる。


やがて、車は富士山麓のリゾートに到着した。

辺りはすでに夕暮れの帳が降りていた。


彼女が外へ出ようとしたとき、久瀬隼人が突然言った。


「栖ちゃん、忘れ物した。車に取りに行ってくる。ここで少し待ってて」


霧島栖は頷いた。


寒風が吹きすさび、大きめのコートをぎゅっと抱きしめる。

けれど、待っても待っても……彼は戻ってこなかった。


気づけば、三時間が過ぎていた。


空は完全に暗くなり、辺りは雪に包まれていた。


彼女はようやく震える指でスマホを取り出し、久瀬隼人に電話をかけた。


「……いつ戻ってくるの?」

雪の中で、彼女の声はかすかに震えていた。


けれど、返ってきたのは、深い沈黙。長い間、何も聞こえなかった。


やがて、その向こうから心を凍えるような声が届いた。


「もう戻らない、車で離れた」


「……え?」


「自分で帰れ。方法も自分で考えろ」


「……どういう意味?」


「これはお前への罰だ」


久瀬隼人の声は、雪より冷たかった。


「俺は言ったよな、子どもが生まれるまで我慢してくれって。なのに何故瑶さんのスープに中絶薬を混ぜた!君のせいで彼女危うく流産しかけた」


その言葉を聞いた瞬間、霧島栖の全身から血の気が引いた。


中絶薬? 流産させた?


「私はそんなことしてない!」


「まだ言い逃れたいのか?」


久瀬隼人がついに声を荒げた。


「他に誰がいる?スープは君が作ったんだ。まさか瑶さんが自分で仕込んだって言うのか?彼女はあの子を命より大切にしてるんだぞ!」


風はますます強くなり、霧島栖のまゆ毛には小さな氷ができた。


「……つまり、あなたは、私のこと……信じてくれないのね」


「どうやって信じろって言うんだ?」


彼は冷たく吐き捨てるように言った。


「……自分で歩いて帰れ。その間によく考えるんだ」


ぷつり、と通話が切れた。


静まり返った雪の中、霧島栖は携帯を握りしめたまま動けなかった。

彼女の指先はすでに、紫に染まるほど冷えきっていた。


久瀬隼人の声が、耳の奥でいつまでも響いていた。


それは、鋭い刃のように、霧島栖の心と身体を深く切り裂いていく。


ふいに思い出したのは婚姻届を出したあの日、役所の壁に彼女を押しつけて言った、あの言葉。


「霧島栖。もし逃げたら、一生そばに閉じ込めてやる」


――そんなふうに言ったあなたが、今、私を雪山にひとり置き去りにしたのね。


風雪が一層激しさを増す中、霧島栖はコートをで自分を包み込み、ゆっくり歩き出そうとした。


そのときだった。


遠くの山から、鈍重な音が轟きてきた。


電話の切断音と風の音が重なり――


……雪崩だ。


彼女はとっさに身を翻し、逃げようとしたが、間に合わなかった。


轟音とともに、白く渦巻く雪がすべてを呑み込む。

身体は宙に舞い、重たい雪が一気に覆いかぶさってきた。


右足に激しい痛みが走る。骨の中まで砕けるような激しい痛み。


震える手でポケットからスマホを取り出し、必死に、何度も久瀬隼人に電話をかけた。


――七回目でようやくつながった。


「久瀬隼人……! 雪崩が……私、今――!」


「もしもし?」


返ってきたのは、白鳥瑶の甘ったるい声だった。


「なに? ごめんなさい、雪の音でよく聞こえないの」


風と雪の音に混じって、電話の向こうから久瀬隼人の優しい声が聞こえる。


「誰から?」


「間違い電話みたい」

白鳥瑶がくすくすと笑った。


「久瀬様の作ったお粥、とても美味しいです。前にあんなことがあったから……久瀬様が作ってくれると、すごく安心です」


ドスッ。


雪の塊が背中に落ちてきて、霧島栖は地面に崩れ落ちた。手からスマホが滑り落ち、視界がにじみ、遠ざかっていく。


意識が薄れていくその最後の瞬間に、彼女は思い出した。


結婚式のあの日。


久瀬隼人は、神父の前で彼女に跪きいて、こう言った。


「霧島栖。もし俺が君を裏切ったら、そのときは……」


雪が、降り続ける。

誓いの続きを、すべて覆い隠すように。

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