病室の空気が、一瞬で凍りついた。
看護師は気まずそうにカルテを抱えたまま、そそくさと病室を後にする。
残されたのは、ベッドに横たわる霧島栖と、ドアの前に立ち尽くす久瀬隼人。
「……まだ、あの献血の件で怒ってるのか?」
久瀬隼人が気まずそうに言いながら、そっと手を伸ばして彼女の頬に触れようとする。
「命がかかってたんだ、栖ちゃん……あの時は、どうしようもなかった」
霧島栖は顔をそむけ、その手を受け入れなかった。
彼の指先は空中で止まり、ぎこちなく引っ込められた。
「……この騒ぎが落ち着いたら、富士山のふもとにでも行こうか。久しぶりに、ゆっくり休もう」
彼はそう言って、手を引っ込めたまま優しい声を出す。
霧島栖は疲れたように目を閉じ、何も答えなかった。
しばらく沈黙が流れ、彼は再び口を開いた。
「……退院は、いつになりそう?」
その瞬間、霧島栖の中に違和感が走る。
彼の目的が、まったく別のところにある気がして、ゆっくりと目を開けた。
「……何かあったの?」
久瀬隼人は少しだけ逡巡したあと、ようやく答えた。
「瑶さんが……山芋と豚スペアリブのスープが飲みたいって。君の煮るスープがいちばん美味しいし、安心なんだ。頼めないかな」
霧島栖は、その場で固まった。
悲しみ、怒り、虚しさ――
ありとあらゆる感情が一気に押し寄せてきた。
私は、あなたにとって何なの?妻?それとも、白鳥瑶専属の料理人?
そう問いただしたい衝動を押し殺し、彼女はただ静かに言った。
「……わかった。退院したら、作って届けてもらうようにするわ」
彼の顔がぱっと明るくなり、身をかがめて彼女の額にそっとキスを落とす。
「栖ちゃん、ほんとに……君は、いちばん優しい」
彼女はそのキスを無表情で受け入れ、心の中で呟いた。
そうね、私は優しすぎたのかもしれない。
愛人に肋骨を折られても、ベッドから這い出して、その人のためにスープを作るなんて。
「私はただ……あの子が、無事に生まれてきてくれたらそれでいいの」
小さく、そう呟いた。
久瀬隼人はようやく異変に気づいたのか、眉をひそめて彼女を見つめる。
「……君、前はあの子のこと、あんなに嫌がってたよね?」
霧島栖は唇をかすかに歪めた。
「今は、もう平気」
――三人家族。
そう、あなたたちの家族は、誰一人欠けちゃいけない。
だから私は、静かに身を引く。
久瀬隼人は彼女をじっと見つめていたが、やがて腕時計に視線を落とす。
「……薬の時間だ。瑶さんのところ、行ってくる。あとで、また来るから」
彼が病室を出て行き、ドアが音を立てて閉まったその瞬間、
霧島栖はゆっくりとベッドに横たわり、天井を見つめながらふっと笑った。
――久瀬隼人、そのまま戻ってこなかった。
気づけば、五日が経っていた。
霧島栖は退院し、自宅へと戻った。
約束どおりスープを煮込み、ドライバーに病院まで届けさせた。
そのあと、彼女は黙々と荷造りを始める。
パスポート、必要な書類、よく着る服を数枚――
ベッドのとなりには、彼と一緒に写っている写真立てが置かれていた。
霧島栖は静かに見つめたあと、そっと手に取り、静かに裏返した。
六日目の夜、久瀬隼人が突然帰ってきた。
だが、白鳥瑶の姿はどこにもなかった。
「……白鳥さん、一緒じゃないの?」
霧島栖が思わず問いかけると、久瀬隼人はじっと彼女を見つめたまま答えた。
「病院で、まだ療養中だ」
「……そんなに長引くの?まだ退院してないの?」
霧島栖が眉をひそめると、彼は小さく「うん」と頷き、そしてゆっくり彼女の前に歩み寄ってきた。
「ちょうど良かった。栖ちゃん、前に言ってた富士山麓の温泉旅行、もう手配した。
今から出発しよう」
彼女が返事をする間もなく、久瀬隼人は彼女の手首を強く引いた。
その勢いに、霧島栖は思わずよろめく。
どこか、胸に不安がよぎる。
久瀬隼人の表情があまりに冷たかった。その目は、氷のように凍りついていた。
道中、車の中は恐ろしいほど静かだった。
彼はハンドルを固く握りしめ、白い指の節が浮き出ていた。
霧島栖は窓の外に目を向けた。流れていく街の灯が、胸の奥をざわつかせる。
やがて、車は富士山麓のリゾートに到着した。
辺りはすでに夕暮れの帳が降りていた。
彼女が外へ出ようとしたとき、久瀬隼人が突然言った。
「栖ちゃん、忘れ物した。車に取りに行ってくる。ここで少し待ってて」
霧島栖は頷いた。
寒風が吹きすさび、大きめのコートをぎゅっと抱きしめる。
けれど、待っても待っても……彼は戻ってこなかった。
気づけば、三時間が過ぎていた。
空は完全に暗くなり、辺りは雪に包まれていた。
彼女はようやく震える指でスマホを取り出し、久瀬隼人に電話をかけた。
「……いつ戻ってくるの?」
雪の中で、彼女の声はかすかに震えていた。
けれど、返ってきたのは、深い沈黙。長い間、何も聞こえなかった。
やがて、その向こうから心を凍えるような声が届いた。
「もう戻らない、車で離れた」
「……え?」
「自分で帰れ。方法も自分で考えろ」
「……どういう意味?」
「これはお前への罰だ」
久瀬隼人の声は、雪より冷たかった。
「俺は言ったよな、子どもが生まれるまで我慢してくれって。なのに何故瑶さんのスープに中絶薬を混ぜた!君のせいで彼女危うく流産しかけた」
その言葉を聞いた瞬間、霧島栖の全身から血の気が引いた。
中絶薬? 流産させた?
「私はそんなことしてない!」
「まだ言い逃れたいのか?」
久瀬隼人がついに声を荒げた。
「他に誰がいる?スープは君が作ったんだ。まさか瑶さんが自分で仕込んだって言うのか?彼女はあの子を命より大切にしてるんだぞ!」
風はますます強くなり、霧島栖のまゆ毛には小さな氷ができた。
「……つまり、あなたは、私のこと……信じてくれないのね」
「どうやって信じろって言うんだ?」
彼は冷たく吐き捨てるように言った。
「……自分で歩いて帰れ。その間によく考えるんだ」
ぷつり、と通話が切れた。
静まり返った雪の中、霧島栖は携帯を握りしめたまま動けなかった。
彼女の指先はすでに、紫に染まるほど冷えきっていた。
久瀬隼人の声が、耳の奥でいつまでも響いていた。
それは、鋭い刃のように、霧島栖の心と身体を深く切り裂いていく。
ふいに思い出したのは婚姻届を出したあの日、役所の壁に彼女を押しつけて言った、あの言葉。
「霧島栖。もし逃げたら、一生そばに閉じ込めてやる」
――そんなふうに言ったあなたが、今、私を雪山にひとり置き去りにしたのね。
風雪が一層激しさを増す中、霧島栖はコートをで自分を包み込み、ゆっくり歩き出そうとした。
そのときだった。
遠くの山から、鈍重な音が轟きてきた。
電話の切断音と風の音が重なり――
……雪崩だ。
彼女はとっさに身を翻し、逃げようとしたが、間に合わなかった。
轟音とともに、白く渦巻く雪がすべてを呑み込む。
身体は宙に舞い、重たい雪が一気に覆いかぶさってきた。
右足に激しい痛みが走る。骨の中まで砕けるような激しい痛み。
震える手でポケットからスマホを取り出し、必死に、何度も久瀬隼人に電話をかけた。
――七回目でようやくつながった。
「久瀬隼人……! 雪崩が……私、今――!」
「もしもし?」
返ってきたのは、白鳥瑶の甘ったるい声だった。
「なに? ごめんなさい、雪の音でよく聞こえないの」
風と雪の音に混じって、電話の向こうから久瀬隼人の優しい声が聞こえる。
「誰から?」
「間違い電話みたい」
白鳥瑶がくすくすと笑った。
「久瀬様の作ったお粥、とても美味しいです。前にあんなことがあったから……久瀬様が作ってくれると、すごく安心です」
ドスッ。
雪の塊が背中に落ちてきて、霧島栖は地面に崩れ落ちた。手からスマホが滑り落ち、視界がにじみ、遠ざかっていく。
意識が薄れていくその最後の瞬間に、彼女は思い出した。
結婚式のあの日。
久瀬隼人は、神父の前で彼女に跪きいて、こう言った。
「霧島栖。もし俺が君を裏切ったら、そのときは……」
雪が、降り続ける。
誓いの続きを、すべて覆い隠すように。