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第6話

再び目を覚ましたとき、霧島栖は病室のベッドにいた。


そして、久瀬隼人がベッドの脇に座って、彼の目は真っ赤に腫れていた。


手を握りしめてきた彼の手のひらは汗で湿りきり、指先は氷のように冷たかった。


「栖ちゃん……本当に、本当に知らなかったんだ。雪崩が起きるなんて……ごめん、ごめん……」


彼の声は震え、かすれていた。


「君が怒るのも、責めるのも、殴るのだっていい……だから……」


――ドンッ。


突然、病室の扉が開いた。


泣き腫らした顔の白鳥瑶が飛び込んできた。


「霧島さん……全部、私のせいなんです……!久瀬様を責めないでください……」


涙をボロボロこぼしながら、彼女は悲痛な声をあげた。


「久瀬様、栖さんのこと……本当に心配していました。雪崩のこと聞いたとき、取り乱して、自分も怪我してるのに助けに行って……まだ体が傷だらけなんです!」


「もういい」


久瀬隼人が低く遮ると、彼女をそっと抱きしめた。


「君のせいじゃない。泣いちゃダメだ、先生も言ってただろ?赤ちゃんに良くないって」


その光景を見ながら、霧島栖はふと笑った。


皮肉だった。

地獄からようやく戻ってきたばかりの自分を前に、彼が一番気にかけたのは他の女の涙だった。


「出てって」


霧島栖のかすれた声が病室に響く。


「二人とも出てって」


久瀬隼人が驚いた顔で言葉を詰まらせた。


「……栖ちゃん?」


「出ていけって言ってるの、聞こえない!?」


彼女はベッド脇の水差しをつかみ、そのまま床へ叩きつけた。


ガラスが砕け、音が病室中に響き渡る。


ようやく、久瀬隼人は白鳥瑶を連れて病室を後にした。去り際も、何度も彼女を振り返っていた。


それから何日間、久瀬隼人はあらゆる手を尽くして彼女の機嫌を取ろうとした。


空輸された極上のバラ、限定版のパールバッグ、温かい声掛け……


けれど、霧島栖は何も言わなかった。


怒ることもなく、笑うこともなかった。


彼女の目に映る久瀬隼人は、ただの他人でしかなかった。


退院の日。


久瀬隼人は朝から病院の前で待っていた。


けれど、霧島栖は彼の車には目もくれず、キャリーケースを引いてそのままタクシー乗り場へ向かった。


彼は慌てて彼女のあとを追い、車から何かを取り出した。


それは乗馬用のムチだった。

彼はそれを彼女の前に差し出しながら、低い声で言った。


「……栖ちゃん。俺を打ってくれていい」


霧島栖は驚いて立ち止まった。


「もし、それで君の気が済むなら、許してもらえるなら……どう打たれても構わない」


少しの間をおいて、久瀬隼人は語調をやわらげた。


「今日は実家の食事会なんだ。頼むから……もう怒らないで、来てくれないか」


そのとき、霧島栖は心の奥底で何かがすっと冷めていくのを感じた。


まだ、彼はこう思ってるんだ。


自分たちの関係は、彼が少しだけ反省すれば、彼女が少し怒ってみせれば、そして、いつも通り彼がごめんと言えば、すべて元通りになると。


違う。

もう、何も戻らない。


彼女は鞭を取らなかった。代わりに、無言のまま彼の車に乗り込んだ。


許したわけじゃない。ただ、もうどうでもよくなっただけだった。


車の中で、久瀬隼人はひたすら話しかけてきた。

会社の近況から、子どもの頃の思い出、初めてのデートで霧島栖が噴水に落ちたときの話まで。


昔なら、顔を真っ赤にして彼の口を塞いでいただろう。


けれど今の彼女は、ただ窓の外を見つめたまま、一言も言わなかった。


久瀬家のレストランに着くと、中はまばゆいほど明るく、華やかだった。


霧島栖が玄関をくぐった瞬間、目に飛び込んできたのは、ソファに座る白鳥瑶と、彼女の手を取りながら微笑む久瀬家の祖母の姿だった。


久瀬隼人は慌てて霧島栖の手首を掴んだ。


「……お祖母様がどうしても会いたいって言うから。君が怒ると思って、言い出せなかったんだ」


霧島栖は、そっと手を引いて外した。


「大丈夫、気にしてないから」


本当にもうどうでもいい。


久瀬家の祖母は、白鳥瑶の手を優しく包みながら、実に穏やかに笑っていた。

だが、霧島栖へ視線を向けた瞬間、その笑顔はすっと消える。


「嫁に来てどれだけ経つと思ってるの?子ども産めないなんて……まったく」


そして、隣の白鳥瑶に視線を戻し、手を握る。


「でもね、瑶は違うのよ。ほんとに可愛らしくて、明るくて、礼儀正しい子。これからもお祖母様に、たくさん会いに来てね」


その言葉に、霧島栖の指がぴくりと動いた。


昔は、祖母も自分のことを実の孫娘のように可愛がってくれたのに。変わり始めたのは、いつからだっただろう。たぶん、子どもは要らないと口にしたあの日から。


でも、それは自分だけの意志ではなかった。


思い出すのは、プロポーズのあと。

結婚前の不安で、親友の家に逃げ込んだあの夜。


雨の中、久瀬隼人は街じゅうを探し回り、夜中の三時、びしょ濡れのまま玄関の扉を叩き、彼女の前に跪いた。


「栖ちゃん……俺、何か悪いことした?」


彼女は泣きながら訴えた。


「……怖いの。痛いのも、結婚するのも、出産も全部……怖い」


そのとき、彼はどう言った?


濡れた手で彼女の頬を包み、ひとつひとつ、はっきりと誓った。


「じゃあ、子どもを産まなくていい。家族に何か言われたら、俺に原因があるって、俺が全部かばうから」


あの夜、あんなに強く言い切ったのに。


その産めないはずの男は今、白鳥瑶のために、そっとミルクを作っている。

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